産業主義を「精神錯乱」と呼んだフーリエの立ち位置
労働の思想史も第10回、残り2話という終盤戦に入ります。前回は空想的社会主義者としてサン=シモンやオーウェンが紹介されました。
今回はその3人目、シャルル・フーリエから始まります。フーリエはフランス革命のときに17歳で、監獄が襲われるような暴動を実際に目にした世代です。
同じ「空想的社会主義」に括られるフーリエですが、立場はオーウェンと大きく違います。オーウェンは工場をつくり、その中で教育水準や効率を改善していく立場で、資本主義や産業を使って世界を良くすることには肯定的だったと考えられます。
一方でフーリエは、産業を何より大切にする産業主義そのものが危ういと考えました。彼の言葉では、それは世界の精神錯乱のようなものだとされます。
フーリエは、産業によって社会を豊かにすれば良くなるという考え自体が社会的な妄想であり、産業革命以降のごく最近生まれたものにすぎないと指摘しました。
サン=シモンが産業者の地位を向上させろと訴えたのと対比すると分かりやすい立場です。フーリエは、そうやって工場やお金稼ぎを前提にする限り、労働者や苦しんでいる人はいつまでも豊かになれないと見ていました。
資本家と労働者を一緒くたにカテゴライズしていたので、それだと根本的な問題は解決しないよねと、まさにフーリエはそこを突っ込んでいるということですね。
「産業は幸福の基礎は作るが、幸福そのものは作らない」
しながわさんは、フーリエをサン=シモンやオーウェンよりも少し時代が下り、マルクスやエンゲルスの思想に一歩近づいていると位置づけます。資本主義や産業を大切にすること自体が誤っていると見抜いていた点です。
フーリエは、資本主義的な産業では貧困をなくすことはできず、むしろ増大していくと言い切りました。
当時はアダム・スミス以降の空気があり、各人が欲望に従って頑張れば社会全体が豊かになるという発展のイメージが支配的でした。その中でこれを言い切った点が鋭い、としながわさんは評価します。
つまり、生産性を上げろ、利益を上げろという姿勢で資本主義を続ける限りみんな不幸になる、というのがフーリエの見立てです。だからこそ、違う人間の在り方や働き方をつくらなければならないと考えました。
フーリエ自身も理想の共同体ファランジュを構想します。ただしマルクスやエンゲルスと違い、革命によって資本家を転覆させるとは言っていません。
社会全体が豊かになれば底辺の人にもしずくが落ちるという、いわゆるトリクルダウン的な発想がありますが、フーリエはそんなことはないと否定します。
むしろこの形の資本主義では貧富の格差が増大するばかりだから、別のものを提示しなければならない。ここはマルクスとの共通点だとされます。
1日に何度も仕事を変える「ファランジュ」の労働スケジュール
では、フーリエはどんな共同体を目指したのでしょうか。しながわさんは、マルクスが理想とした社会とも似ていると言います。
人間は移り気で、ずっと同じことをすると退屈する。だからファランジュでは、数時間おきに仕事を変えるという発想がとられます。
紹介された理想的な労働スケジュールは、こうしたものです。
- 早朝に庭師の仕事を数時間する
- 朝食後に草刈りの仕事をする
- 牛小屋での仕事をしてから昼食をとる
- 午後は森の中で仕事をする
- かんがいの仕事を数時間して夕食
いろいろな作業を、自然と関わりながら少しずつ変えていく。それによって飽きずに多様性のある魅力的な仕事にしよう、という構想です。
フーリエは、人間はこういう性質があると多くの観察を積み重ねたと、しながわさんは見ます。テンションが上がる、飽きずにやれる、没頭できる、といった条件です。
この人間の心を、悪くハックするんじゃなくて、いい意味で行動経済学的な観点でハックして、それでちゃんと社会としても成り立たせる工夫をしようとしたんじゃないか。
タッシーは、この発想が産業革命前の暮らしに近いのではないかと応じます。住職が分離する前は、洗濯を含めた生活の作業として、自然にいろいろな労働をバランスよくやっていたのではないか、という見立てです。
分業は生産性を上げるが、人間性を奪っていないか
なぜ古代や産業革命前のような働き方が話題になるのか。しながわさんはアダム・スミスの回を引き、近代以降の資本主義では分業が生産性を高めるという前提を確認します。
その分業を究極まで進めたのが、工場でネジを1本入れる作業を8時間続けるような働き方です。
それってやっぱり人間性を剥奪するよねっていう着想も、確かにあるかもしれないですね。
タッシーは、これを現代の営業職に重ねます。かつては電話でアポを取り、商談し、受注し、その後のフォローまで一人でやっていた仕事が、いまは分業されていると言います。
アポを取る人、商談して受注する人、受注後にフォローする人、と分けたほうが生産性は高い。ただ、それで仕事は楽しくなっているのか、人間性は失われていないか、と問いが投げかけられます。
アポイントを取るだけの仕事を最初の半年やっていましたけど、1日100件ひたすら電話するんですよ。それが楽しかったかと言われると、疎外感の方がなんか……。
しながわさんは、これは客観的には労働の疎外だとしつつ、資本主義はそれを疎外と感じさせず、やりがいがある、楽しいことだと思わせる魔法もかける、と付け加えます。
分業は本当に悪か。疎外と喜びの両方を持つという構え
もっとも、二人はここで一方に振り切ることを戒めます。タッシーは、分業だけが絶対悪ではないと言います。
インサイドセールスも、どんなトークをするか、どうアタックするかを工夫すればやりがいを感じる一方で、何も考えず機械的に100件架電するときは疎外感を覚える。仕事そのものではなく、そこで何を見出すかの問題だ、という整理です。
しながわさんも同意します。客観的には分業で疎外されていく傾向がある。しかしそこに喜びや成長、工夫を見出すのも人間の知恵だ、というのです。
フーリエ自身が問いを投げたわけではないけれど、こうした思想を学ぶことで「本当にこの分業でいいのか」「この分業を受け入れて喜びを見出すのか」という問いが出てくる。そこに意味がある、としながわさんはまとめます。
労働の喜びを説いたマックス・シェーラー
ここから話は近代から現代へ進みます。ここまでは労働に積極的な意義を与える思想が続いてきましたが、これ以降はネガティブな側面も出てきます。
その前に、労働の喜びを指摘した哲学者マックス・シェーラーが補足されます。19世紀から20世紀にかけての人物です。
しながわさんは、カントのように労働はとにかく苦痛だとするのも、マルクスのように分業の労働は完全に人間性を否定すると決めつけるのも極端だと言います。問いを投げるのは大事だが、決めつけるのは行き過ぎだ、という立場です。
シェーラーは、労働にはさまざまな喜びがあると指摘しました。例えば農業では、心地よい疲労感があり、種をまくと美しい野菜ができ、それを収穫することは人間の喜びだ、という具合です。
資本主義社会の労働でも、自分の成長や、得意なことが活かせることは喜びになる。これは現代なら、お客さんの役に立つ、課題を解決できるという喜びに言い換えられる、としながわさんは補います。
「貢献の実感が持てない」現代の求職者たち
タッシーは、この点が現代ほど実感を得づらいと言います。第一次産業は実感が分かりやすいが、サービス業や無形のサービスになるほど手応えを得にくいからです。
キャリアに関わる仕事をするタッシーは、面談する求職者の声を紹介します。
今これを私が頑張っていることが、どう社会に還元されているのか、社会につながっているのか、その実感が持てないんですという方が多いんですよね。
だからこそ、そこに実感を持つことが人間にとっての労働の喜びなのだと、日々の面談を通して感じている、とタッシーは話します。
しながわさんは、どんな仕事にも程度の差はあれ分業的な意味合いがあるとしたうえで、二つの構えを勧めます。一方では分業によって疎外されていないかと疑い、他方ではその中で喜びや貢献の方法を探すことです。
労働賛美は誰のためか。ラファルグの「怠惰の権利」
ここからが後半の本題です。近代は労働を基本的にポジティブに捉えてきましたが、そもそも働く意味があるのか、怠けるほうが良いのではないか、という思想が19世紀から20世紀に出てきます。
資本主義社会では、真面目に働くことは道徳的で賛美されるものとされてきました。カントはその典型です。
しかし、労働を賛美しているのは労働の成果を享受する人たち、つまり資本家や、働いてほしい人たちではないか、という指摘があります。
紹介されるのはポール・ラファルグです。やりがいや成長を感じさせて、結果的にその人の労働の成果を取ろうとする側が、労働は素晴らしいと言っているだけではないか、という批判です。
タッシーは、これも極端ではあるがその側面はあると受け止めます。労働は人間にとって大事だという前提そのものを疑い、働かなくてもいいのではという観点も必要だ、という理解です。
しながわさんは、どちらか一方に振れると良い答えは出ないと重ねます。疎外を疑う観点、やりがいを持とうとする観点、そして頑張りが誰かに利用されていないかを疑う観点。これらを持ったうえで自分の働き方と向き合うことが大事だ、というまとめです。
怠惰の賛美から、フォードイズムが築いたアメリカの生活へ
労働賛美に対して怠惰を賛美する思想も生まれます。ラファルグに加え、ラッセルは1日3時間や4時間働けばいいという話をしていました。
しながわさんは、宇野常寛の『水曜日は働かない』にも触れます。毎週水曜を休みにすると、働く日がすべて休日と隣り合うという発想です。月火と金だけ働けば、明日か昨日が休日になる、という考え方につながっていきます。
一方で、こうした思想と関係なく資本主義は着々と進行します。20世紀に入ると、テーラー主義やフォードイズムのような科学的な管理方法が現れます。
自動車の組立工場が分かりやすい例で、無駄を排除し、分業や機械化、生産性の向上を究極まで押し進めたものが20世紀に登場します。ここで労働者の人間性の喪失が極まった、と位置づけられます。
フォードイズムの面白い点は、生産性の向上だけでなく、労働者の給与も高くしたことです。それによって労働者が自動車を買えるようになりました。
工場ではある種機械のように働き、それによって多くのお金を得て、快楽主義的な豊かさを享受する。これがザ・アメリカの生活スタイルとして始まっていく。
この豊かさがアメリカの富の象徴となり、世界中がアメリカに羨望の眼差しを向けます。軍事だけでなく文化的な意味でも覇権を握り、日本の高度経済成長にもつながる時代へと入っていく、という流れです。
まとめ
今回は空想的社会主義のフーリエから、労働の喜びを説いたシェーラー、労働賛美を疑うラファルグ、そしてフォードイズムまでを一気にたどりました。労働をどう捉えるかは、一方に振り切らず複数の観点を持つことが大事だと語られています。
- フーリエは産業主義そのものを「精神錯乱」と呼び、産業は幸福の基礎は作っても幸福そのものは作らないと批判した
- フーリエのファランジュは、数時間おきに仕事を変えることで飽きずに楽しく働く共同体を構想した
- 分業は生産性を高める一方で疎外を生むが、そこに喜びや工夫を見出すのも人間の知恵であり、両方の観点を持つことが問われる
- ラファルグは、労働を賛美するのはその成果を享受する側であり、労働賛美に騙されるなと訴えた
- 20世紀のフォードイズムは分業と生産性を極めつつ、高賃金によってアメリカ的な豊かな生活スタイルを生み出した





