一般的な解説だけでは「え?」で止まってしまう純粋経験
冒頭でしながわは、前回話した純粋経験の説明が、西田幾多郎を学び始めた人が最初に受ける一般的な内容とほぼ重なると振り返ります。
芸術家や演奏家がゾーンに入る瞬間を典型例にしたあの説明で、純粋経験 ── 西田幾多郎の主著『善の研究』の中心概念。主観と客観に分かれる前の、経験そのものを指すがなんとなくわかった人もいます。
ただし、しながわはそこに落とし穴があると指摘します。
で、ただ実は、大体ここまでしか説明されないんですよ、純粋経験って。
これだけだと、なんかわかんないですよね。え、で、え?みたいな。何も解決してないけど、みたいな感じになるから、ここからが結構大事だと思っていて。
そこで第5話は、いろんな角度から純粋経験を説明し、その周辺まで理解して立体的に捉えることを目指します。
赤ちゃんも崖っぷちも純粋経験に入る理由
しながわは、前回とは違う角度からと断りつつ、純粋経験の具体例を広げていきます。
まず挙げたのが、0歳から1歳くらいの赤ちゃんの意識です。彼らは私と対象物の区別をあまり持たず、主客が身分のまま、わからないけれど生きているという感覚の中にいます。
さらに宗教家が悟りに至っている状態や、崖から落ちそうで必死に手をかけている瞬間なども、純粋経験に含まれると説明します。
ここでしながわは、純粋経験には「まだ分かれていない」と「もう分かれない」の両方があると整理します。
夕日を見て「私は夕日を見ている」と認識する前の刹那は、主客がまだ分かれていない状態です。
一方、演奏に熟達してゾーンに到達した瞬間は、もともとあった主客がもう分かれなくなった状態だといいます。
夕日を見た刹那や赤ちゃんの意識。もともと主体と客体が生じていない状態
演奏の熟達などで到達するゾーン。あった主客が消えていく状態
赤ちゃんとかもね、それこそあの主体客体を認識してない。世の中のありようをそのまま、そのままに感覚として受け止めてる。
毎秒毎秒が純粋経験?濃淡というとらえ方
しながわは、西田の言う純粋経験は実はもっと広いと続けます。結論としては、僕たちが体験している生活が毎秒毎秒すべて純粋経験だというのです。
そのうえで、純粋経験には濃淡があり、深さ浅さや強弱があるとイメージするとよいと話します。
前回タッシーが共感した純粋経験は、一番濃い「本丸」の純粋経験にあたります。
一方で、階段を無意識に一歩上がるとき、ペンを取るときに「右手を動かすぞ」と思わないとき。こうした日常の動作も、濃淡でいえば薄い純粋経験だといいます。
タッシーは、この整理を自分の朝の動作に当てはめて確認します。
じゃあ起きて、このベッドから移動して、洗面所のところまで行って、顔を洗うみたいな。何も意識せず、これ全部純粋経験みたいな。
それはもう低次元の純粋経験。あの輝いてる、タッシーさんの輝いている純粋経験じゃなくて、もう日々の純粋経験って感じで。
つまり、意識した瞬間に純粋ではなくなり、無意識でやっていることはすべて純粋経験になる、という理解です。
物でも心でもない「作用」としての実在
話は、純粋経験と実在の関係へ進みます。しながわは、実在という言葉自体が難しいと前置きします。
多くの人は物質こそ実在だと考えますが、それは唯物論であり、心はあるだろうという反論も成り立ちます。
ここでしながわは、カントのもの自体 ── カントの用語。人間が感覚で受け取る前の、それ自体としての事物。人間は現象しか認識できないとされるを持ち出し、西田はそれとも違うと説明します。
カント的な図式では、色も形もない「もの自体」の世界があり、そこから信号を受けて頭の中に表象を作ります。しかし純粋経験の立場では、そうではないというのです。
世界に存在するものは、この今私が経験している純粋経験、作用、こういう作用である、こういう経験してるぞっていう作用。そのものが実在しているっていうだけ。
つまり、色も形もない3次元的な物質の世界と、私たちの心の世界という2つが別々にあって、片方からもう片方に情報が入ってくる、という構図ではないということです。
あるのは、花を見て「きれいだ」と判断する前の、その花を見たという経験そのものだけだと、しながわは言います。
言い方を変えると、木の葉っぱに風が吹いてサラサラっと音がしてる。その音を私が聞いてるんじゃなくて、もはやもうその音が音を聞いてるんだ、みたいな。
音が音を聞いている。なるほど、急にポエム的な。
この表現は禅的でもあります。西田哲学が科学的な対象認識とは違い、論理的な言葉では言い尽くせないところに真理があるという立場に立つことが、ここで効いてきます。
純粋経験の奥にある「根源的統一力」という直感
後半でしながわは、一歩進んだ話に入ります。西田は、あらゆる哲学的な世界観を純粋経験という一つから導き出そうとしたといいます。
その鍵となるのが、個々の純粋経験の奥にあるものです。しながわは、これを「統一的あるもの」あるいは「根源的統一力」と呼ばれると紹介します。
この考えでは、タッシーという個人がいて、その人がタッシーの純粋経験をしている、という順番ではありません。
むしろ普遍的な根源的統一力が、タッシーとして現れればタッシーの純粋経験になり、しながわとして現れればしながわの純粋経験になる、という向きだといいます。
すべてはつながっていて、大元にある何かが具体的な人として現れ出る。しながわは、これが西田の一貫した直感だと説明します。
ただしタッシーは、抽象的な説明だけでは腹落ちしないと率直に反応します。
いや、その、ちょっと具体例をちょっと聞かないと、もうちょっと具体例聞いてから。ここまでだとまだちょっとまだわかんない。
クッキーの生地とホログラム、外れなかった2つのたとえ
そこでしながわは、1、2ヶ月考えてきたという具体例を順に出していきます。
最初はクッキーのたとえです。中世哲学の普遍論争 ── 個々の事物とは別に「イルカそのもの」のような普遍が実在するかを問う、中世の論争で使った、クッキーの型の話を思い出させます。
イルカや扇風機の形をしたクッキーがあるとき、西洋哲学は「イルカそのもの」というイデア的な型があるかを議論してきました。
これに対し根源的統一力は、型ではなく、何にでもなれるクッキーの「生地」のようなものだといいます。タンポポも自動車も森も太陽も、一番奥の同じ生地からできているイメージです。
その個物そのものでもなく、その型、イデア的な型でもなく、それを全部形成する個物全部を形成する生地。共通の生地、素材って感じなんですね。
ただしながわは、このたとえは不正確だと補足します。共通の素材だと、西洋哲学の質量のような「材料」の話になってしまうからです。
作用だし力なんで、材料ではない。まあでもちょっとイメージしやすいように今言っただけってことですね。
次にしながわは、1〜2ヶ月考え尽くした末という3Dホログラムのたとえを出します。
目の前のパソコンも山も水も、すべてホログラムとして映っているとき、それは物質的な実在でもなければ、心の中だけの幻でもありません。スイッチを入れて電気が通ると現れる作用だといいます。
この構図なら、実在はすべて物だとする唯物論も、すべて心の中だとする唯心論も、両方否定できます。そしてホログラムを生む工場が、根源的統一力にあたるという説明です。
元気玉とフォースで一気に腹落ちした瞬間
ホログラムのたとえに、タッシーが別の切り口を差し込みます。物でも材料でもなく「パワー」「作用」なら、エンタメ作品のほうがわかりやすいのではないか、というのです。
つまりはこれはスター・ウォーズでいうところのフォースであったり、ドラゴンボールでいうところの元気玉みたいなもんじゃないですか。
タッシーは、元気玉を人類共通のエネルギーの源として説明します。どんな形にもなり、悟空のもとに集まれば巨大な元気玉になり、普段は人々それぞれの中にもあるといいます。
フォースについても、解説文を引きながら整理します。
フォースは銀河系のあらゆる物体に満ちるエネルギーである。使う人によっていろんな形に変える。とにかくこの世の中に全部、その中に統一されている、そのエネルギーの源みたいな。
しながわはこのたとえを「ホログラムよりいい」と歓迎し、さらに元気玉の「元気」に注目します。
元気の「気」は道教 ── 老子や荘子の思想を源流とする中国の思想。「道」を万物の根源とし、そこから気が生じて世界が生成すると考えるにつながる概念で、道から元気が生じ、すべてが生成してこの世界が作られるという感覚だといいます。
さらにしながわは、この感覚が道教にとどまらず、東洋思想に広く共通していると広げます。
- 道教の道や元気、気という根源
- 太極のような、万物を生成する宇宙の運動
- ウパニシャッド哲学の梵我一如、宇宙全体と自分の一体
- 陽明学の万物一体の仁、万物同根の発想
これらはいずれも、根源にある一つのものから作用として世界が現れる、という発想を共有します。西田の直感も、この東洋的な世界観と響き合っています。
物質→私→イメージ、という常識をひっくり返す
たとえが定まったところで、しながわは西田哲学が否定する構図を明確にします。
物質的なものの世界があり、私という個物がそれを見て、頭の中にイメージが湧く。この一見当たり前の順番が、西田の立場では間違いになるといいます。
物質の世界が実在し、私がそれを見て、頭の中にイメージ(表象)を作る
根源的統一力から作用として現れる純粋経験そのものが実在で、物と心は分かれていない
しながわは、元気玉のたとえで押し切ります。元気玉の元気が悟空を作り、戦っている岩肌も作っているのだから、物質だけが土台なのではない、というわけです。
さらに、ドラゴンボールの戦っている瞬間そのものも、意識していないという意味で純粋経験に近いと二人は面白がります。
だからそうですね、その気が元で全部いろいろ、悟空のかめはめ波だとか、それぞれの必殺技でも全部形を変える。全部いろんな攻撃があるんだけど、それ全部一体なんだと。
同じ根源から、私とあなた、悟空とクリリンといった別々の現れが生まれる。だからこそ我々はお互いを理解し、意見を交換できる、というところにも話は及びます。
しながわは、満潮では2つに見える岩が、干潮では下でつながっていたとわかる、という西田の説明も紹介します。2つと言っても一つと言っても、どちらも間違いでどちらも正しいという感覚です。
本来、西田はこれを個物と一般者というヘーゲル的な西洋哲学の枠組みで説明します。ただ今回は、あえて東洋的な感覚で説明しきったほうがわかりやすい、というのが二人の判断でした。
ちょっとね、あの大丈夫かな、難解な思想理解できるかなと思ったけど、意外といけましたね。
まとめ
第5話は、純粋経験を「一番濃い体験」から「毎秒の日常」まで濃淡のあるものとしてとらえ直し、その奥にある根源的統一力を、元気玉やフォースという身近なたとえで立体的に描いた回でした。次回の第6話では、禅や宗教の話へと進む予定です。
- 純粋経験は主客が「まだ分かれていない」か「もう分かれない」状態を指し、日常のすべてに濃淡として広がっている
- 実在は物でも心でもなく、経験そのものという「作用」であり、物質の世界と心の世界が別々にある構図を西田は否定する
- 個々の純粋経験の奥には根源的統一力があり、それが各人として現れると、その人の純粋経験になる
- この発想は元気玉やフォース、そして道教の気や梵我一如など、東洋思想に広く通じる世界観と響き合う



