14歳から始まる流転。チフスで退学、そして進路の迷い
前回は西田幾多郎の生い立ちと家族構成が語られました。教育熱心で気性が荒い父、そして愛情深い母のもとで育った西田です。
今回はその後、14歳ごろから始まる「流転の旅」がテーマになります。
1883年、14歳のときに石川県師範学校に入学します。ただし翌年、チフスにかかって退学することになりました。
退学後は1年ほど家で静養します。ただ、この間も石川県師範学校の先生を家に呼んで勉強を続けていたそうです。
あ、それをお父さんがそれこそ教育熱心だから。
あと体弱いんですよね。もうずっと。ずっと調子悪い。
その後、石川県専門学校附属初等中学科に入ります。今でいう中高くらいの感覚で、ほとんどの授業が外国語で行われるエリート校でした。
西洋に追いつこうとしていた時代を背景に、西田は西洋式の教育を受けていきます。
ここで彼は生涯の友や恩師と出会います。禅の思想家として海外でも有名になる鈴木大拙、そして才能を見込んでくれた恩師・北條時敬先生です。
北條先生は西田の才能を見込み、自分の家に招いて勉強させ、面倒まで見ていたそうです。ただ、先生は東京の大学へ進むため金沢を去ってしまいます。
やがて西田にも進路選択の時期が訪れます。得意だったのは数学でした。
特に数学に入るか哲学に入るか、私には決しがたい問題で。
尊敬する北條先生からは数学を勧められます。哲学には論理的能力だけでなく、詩人的想像力が必要で、それが君にあるかはわからない、と言われたのです。
それにも関わらず、私はなんとなく感傷無味な数学に一生を託す気にもなれなかった。
結局、西田は先生の忠告にもかかわらず、自分の能力を疑いつつも哲学の道を選びます。
そんだけ尊敬する先生から数学しなさいと言いつつも、最後はやっぱり自分の信念、感覚、興味を優先したっていうのも、なんか西田らしい。
この「自分の信念を信じる」姿勢は、後の彼の哲学にもつながっていくと語られています。
四高でのはつらつとした日々と、二度目の退学
1888年、西田は第四高等中学校の第一部、つまり文系に進みます。文理選択で迷った末の選択でした。
この四高時代を、西田は「すごく愉快な時期だった」と振り返っています。青年の活気に任せ、わが物顔で楽しく過ごしていたようです。
ただ、時代は江戸から明治へと大きく移り変わる最中でした。1886年、学校は維新政府の教育行政のもとに組み込まれます。
文部大臣・森有礼が校長をよこしたことで、それまで師弟の親しみがあった温かい学校は、規則ずくめの武断的な学校へと変わってしまいます。
学問、文芸に憧れて進歩的な思想を抱いていたが、学校ではそういうことは喜ばれなかった。
親会社が変わり、文脈を知らない上司が急に来て、カルチャーごと変わってしまう。タッシーは、今の会社でも起こる現象と同じだと重ねます。
この状況に、西田たちは「我尊会」というサークルを作ります。「我を尊ぶ会」という意味で、そこには誇りと進歩的な思想が込められていたと考えられます。
明らか俺の方が賢いやろとか、なんであいつが威張ってるんだよっていう状況。
しかし、はつらつとした学生生活は、またしても退学で終わります。
西田は体が弱い一方で、信念に合わないものには従わない性格でした。武断的な校風に嫌気が差し、生活態度の点は100点中8点だったといいます。
もういや、なんでお前の頭、俺より頭の悪いお前の言うこと聞かなきゃいけないんだみたいな。
体操や行軍のような集団行動の授業には出ず、まず落第します。学科を変えても成績は振るわず、化学30点、測量45点。結局21歳でこのエリート学校を自主退学しました。
独学の挫折と、東大専科への進学
退学後、西田は独学でやっていこうと考えます。当時の彼らの意気は盛んなものでした。
このような不満な学校を辞めても、独学でやっていける。何事も独立、独行で道を開いていくという考えである。
「頂点立志自由人」といった文字を掲げて写真を撮ったこともあったそうです。タッシーは、体制に反抗するその姿を「やってることはヤンキーと一緒」と評します。
しかし、現実はそう甘くありませんでした。家にこもって読書に励んだ結果、1年も経たないうちに目を病み、医者から読書を禁じられてしまいます。
今でいうとゲームやりすぎて目悪くなってもうダメみたいな状態ですよね。
独学もうまくいかず、挫折を経験します。その後、これではだめだと考え、上京して帝国大学の哲学科の入学試験を受け、22歳で合格しました。
ただし、ここに重要なポイントがあります。西田は高等中学校を中退していたため、正規のコースではなく「専科」という扱いになったのです。
正規にちゃんと学位が取れるルートじゃなくて、おまけみたいなところに入るんですね。
専科への進学にも西田は迷い、北條先生に相談します。先生は強く反対しました。
とうとうお前は方向を誤った。専科などは学業の遅れた者の入るところだ。今から大学の入学試験を受けろ。
もう一度やり直せという忠告でしたが、焦りもあったのか、西田はそれでも専科に入ることを選びます。
専科生としての惨めな三年間と、悲哀からの哲学
晩年の1942年、亡くなる3年前に、西田はわざわざ専科時代を振り返るエッセイを書いています。それほど思うところがあったのだと考えられます。
当時の専科生というものは誠に惨めなものであった。少し前まで高校で一緒にいた同窓生とはかけ離れた待遇の下に置かれ、少なからず感傷的な私の心を傷つけられた。
もともとエリート校にいた西田にとって、同級生が本科生としてバリバリやっている姿は、劣等感を刺激するものでした。
タッシーは、実力主義のミュージシャンの世界でも同じような経験があると重ねます。かつて先輩だった相手といつの間にか立ち位置が入れ替わっていた、という感覚です。
なんかこう、なんかいつの間にか全然違う立ち位置にみたいな。
それでも西田は勉強をしっかり続けます。数学、英語、倫理学、ドイツ語、ラテン語、比較宗教学、東洋哲学、インド哲学など、幅広い科目を履修していました。
夏目漱石とも机を並べ、交流があっただろうといいます。1894年、25歳で課程を修了しますが、その振り返りは悲しいものでした。
大学時代には先生にも親しまれず、友達というものもできなかった。一人で書を読み、一人で考えていた。
タッシーは、なぜ晩年にこの時期をわざわざ書き残したのか、その心境を問います。しながわは、西田の哲学観にヒントがあると答えます。
家族の悲しみや鬱屈した感情が、西田の哲学につながっているという文脈があるのかもしれません。
卒業後の失職、離婚、そして流転の中盤へ
卒業後も、専科生への評価は低く、すぐに職は見つかりませんでした。当時は強い学歴社会で、本科と専科の格差は大きかったと語られています。
就職なんていうものはなかったが、専科といえばあまり顧みられなかったので、学校を出るや否や故郷に帰った。
故郷に戻ってからようやく、石川県尋常中学校で英語と歴史を教える職を得ます。友人たちが国の行政などで出世していく中での、地元の中学校教員でした。
そんな中、25歳から26歳にかけて、西田は幼なじみでもある従姉妹の琴美さんと結婚します。翌年には長女・やよいさんが生まれました。
しかし、その翌年の1897年、琴美さんは家を出ることになります。詳細は書き残されていませんが、父が激怒して追い出したようだと語られます。
琴美が故なく家を出た。我らすべて眠れない。悲しい。
西田はこの心境を、勉強してきたドイツ語で日記に書いていました。その後、西田は入院することにもなります。
ところが翌年には長男が生まれ、数か月後には復縁します。形式的には離婚させられたものの、二人の仲は実際には良かったのではないか、と考えられています。
その後、西田は第四高等学校の講師となり、金沢に戻ります。少し出世したかに見えましたが、荒れていた学校の改革案を提案したところ、クーデターと疑われて職を解かれてしまいます。
これは離婚の1週間後のことであった。細かいな、みたいな。
この頃、西田は禅に興味を持ち、参禅に打ち込むようになります。明真寺の大蔵院に滞在して修行し、キリスト教なども学んで心の癒やしとしていました。
そこへ再び手を差し伸べたのが、恩師の北條先生でした。山口高等学校の校長となっていた先生が、西田を招いたのです。
30歳で山口に移り、禅やキリスト教を学びながら講師を務めます。ここまでが、流転の前半生の中盤にあたります。
立身出世が大きな価値を持つ時代に、退学、落第、失職、離婚を重ねてきた西田。まだ哲学者としての片りんは見えていません。
エリートなのに、ようやく恩師に誘われて、山口の地方の講師として俺の人生終わっていくのかなみたいな。
次回、いよいよ流転の時期が終わり、西田が頭角を現していきます。
まとめ
西田幾多郎の前半生は、退学・落第・独学の挫折・失職・離婚と、空回りの連続でした。しかしその悲哀こそが、後の哲学の出発点になっていきます。
- 14歳での入学からチフス退学、四高での二度目の退学と、西田は流転を重ねた。
- 信念に合わないものには従わない性格が、退学や職の喪失にもつながった。
- 東大では専科生という立場で劣等感を抱え、惨めな三年間を過ごした。
- 卒業後も失職や離婚が続き、恩師・北條先生に山口へ招かれて30歳を迎える。
- 西田は「哲学は悲哀から始まる」と語り、この鬱屈した日々が彼の思想につながっていく。
