産業革命が変えた「労働の風景」
この回は、労働の思想史シリーズの8話目です。前回は近代哲学の完成者ヘーゲルを扱い、労働の中にこそ人間らしさがあると論じられました。
道具を作ること、欲望を抑えて先送りすること。ヘーゲルはこうした営みを人間と動物を区別するものとし、労働をポジティブにとらえていました。
ところが、しながわさんは前回のタッシーさんの疑問から話を始めます。ヘーゲルの主奴論では、労働者が知恵を身につけても主人と逆転するとされたのに、資本主義では全然逆転していないのではないか、という指摘です。
これに対し、しながわさんはまず主体の整理を補足します。今回扱うマルクスとエンゲルスの場合、主と奴の関係になるのは経営者と労働者というより、資本家と労働者の関係だといいます。
これから話をするマルクスエンゲルスにおいては、資本家と労働者の関係ですね。これが主と奴の関係になります。株主ですね、資本家って。
マルクスとエンゲルスが生きたのは19世紀。しながわさんは、この時代を人類史でも群を抜いて労働者の生活が劣悪だった時代と位置づけます。
象徴的なのが1833年の工場法 ── イギリスで制定された、工場労働の労働時間や児童労働などを規制した初期の労働法。産業革命下の過酷な労働環境を受けて作られた。です。ようやくルールができたにもかかわらず、通常の工場労働は朝5時半に始まり、夜8時半に終わるとされていました。
しかもこれは、20歳を過ぎた男性だけの話ではありません。子供も女性も含めての労働環境でした。ルールができる前がどれほど過酷だったか、想像に難くありません。
エンゲルスは『イギリスにおける労働者階級の状態』でこうした状況を描いています。宗教的にも経済的にも哲学的にも意味あるものとされてきた労働が、現実には非人間的な状態に陥っていたのが、この時代の前提です。
そもそも「労働の疎外」とは何か
マルクスの思想は資本家による搾取など壮大に語ることもできますが、この回は一貫して「一人一人が働く労働」という観点に絞っています。そこで焦点になるのが「労働の疎外」です。
疎外はない。資本家に搾取されているとか、労働者の地位がものすごい低いみたいなのはもちろん理解しますけど、疎外はちょっと。
大前提として、マルクスも労働そのものは本来すばらしいものだと考えていました。ここはヘーゲルの影響で、労働によって人間はより良い人間になれるという発想です。
しかし手放しで肯定できるわけではありません。19世紀イギリスの工場における賃金労働は、産業革命を推し進めた一方で、本来の労働の意味を失わせていました。
ここでしながわさんは、産業革命による大きな転換点を説明します。それまでヨーロッパでも、労働は自分の家の中や近くで行うのが普通でした。農業を家族総出でやったり、家で靴を作ったりです。
つまり、父も母も子供も使用人も同じ家に住み、そこで働き、そこで生活していました。ところが産業革命を機に、家族が工場に行き、そこで賃金をもらって働く形へと変わっていきます。
その過程で、職場と住む場所が分かれる職住分離 ── 労働の場と生活の場が空間的に切り離されること。産業革命以降、工場労働の広がりとともに進んだ働き方の変化を指す。が進みます。当初は子供も女性も働いていましたが、やがて父親だけが働きに行く形へと移っていきました。
今まで家だったり、地域というコミュニティの中に生活と労働が両方入ってたんだけども、完全にそこは分断されて、自分のコミュニティ外の工場や会社で働くみたいな。
この工場労働を典型として、人間は労働の中で疎外を経験してしまう。本来すばらしかった労働の意味が失われてしまう。これがマルクスの言う疎外です。
そしてマルクスは、この疎外を4つの観点から具体的に指摘しました。しながわさんいわく、どれも現代を生きる私たちが「わかる」と感じてしまう内容だといいます。
1つ目・2つ目の疎外――作っても自分のものにならず、命令されるだけ
1つ目は、労働者は生産物から疎外されているという指摘です。
ヘーゲルやロックの発想では、道具を使って自然に働きかけ、その成果が自分のものになるのが労働の本来の姿でした。働きかけるからこそ所有できる、というわけです。
考えてみてくださいと。工場に行って一生懸命働きます。働いたものって自分のものになってますかって話ですよね。
工場労働では、労働力を提供した代わりに賃金を得ます。賃金という形の所有はできても、働いた分だけの成果が自分のものになるわけではありません。
なぜなら、働いた分すべてを賃金でもらえたら資本家は儲からないからです。労働者は賃金以上の働きをしながら賃金しか受け取れず、成果は自分のものにならない。だから愛着も喜びも湧きません。
木を加工して箪笥や靴を作り、それを売って生計を立てる人には、そこに誇りや喜びがあります。しかし発展途上の資本主義では、一生懸命作っても生産物は自分のものにならない。ここに1つ目の疎外があります。
2つ目は、労働者は生産行為そのものからも疎外されているという指摘です。労働という行為自体が、よそよそしいものになっているのです。
労働者は賃金のために労働力を資本家に売ります。その売った時間の中では、資本家の命令に従って働くしかありません。
決められたルールから逸脱すれば懲戒の対象になり、最悪の場合はクビになります。労働しなければ生きていけないため、労働者はある種強制的に労働契約を結び、従順に体を動かすことになります。
何の工夫する必要もなく、あなたこの工程の中でこれをやってくれって指示された作業をひたすらやり続けるっていう。
その結果、労働は喜びから切り離されます。むしろ労働している時間は苦痛であり、労働をしていない時間にこそ幸福がある、という逆転が起きてしまうのです。
3つ目・4つ目の疎外――生きる手段に成り下がり、仲間は競争相手になる
3つ目は、1つ目と2つ目のまとめのような疎外です。労働者は、本来なら人間らしさを発揮できるはずの労働を、目的ではなく生存の手段としてせざるを得ない、とマルクスは指摘します。
かつて働くことは、生きることそのものであり、理性を現実化することでもあり、喜びも伴っていました。しかし今は、賃金を得なければ生きていけないため、賃金のために働く。労働はただの手段に成り下がったというわけです。
ヘーゲルが打ち出した人間らしさ、労働みたいな話から全然またかけ離れていってる。
4つ目は、疎外された労働では、労働者は仲間と労働の喜びを味わえない、という指摘です。
工場で働く労働者同士は、いつ誰が首を切られるかわからない状態にあります。組み立てが遅い人や時間通りに来られない人は解雇されたり給料を減らされたりする。だから、隣に座る同僚も潜在的には競争相手です。
本来、人間は手や口を使えるようになり、協力して獲物を取り、みんなで農業をするようになりました。労働は仲間と喜びや収穫を分かち合うものだったはずです。
ところが疎外された労働では、同僚は競争相手であり、常に解雇のリスク、つまり生存の危機につながっている。この観点でも労働者は疎外されている、というのです。
生産物からの疎外
一生懸命作っても、成果は自分のものにならない
生産行為からの疎外
資本家の命令に従い、指示された作業をこなすだけになる
目的からの疎外
労働が人間らしさの発揮ではなく、生きるための手段に成り下がる
仲間からの疎外
同僚が競争相手になり、喜びを分かち合えなくなる
結論として、マルクスは労働者、すなわちプロレタリアート ── 生産手段を持たず、労働力を売って賃金を得る労働者階級を指すマルクス主義の用語。生産手段を持つ資本家階級と対比される。は、この疎外によって人間性を喪失するよりほかない、と述べます。
共産主義や社会主義の思想に全面的に賛成する人は今では多くないかもしれません。それでも、この4つの疎外の指摘には「なるほど」と思う人が多いのではないか、としながわさんは話します。
なぜ今マルクスが見直されるのか
タッシーさんは、社会主義国家がうまくいかなかった影響で「マルクスってどうなの」と見られてきた時期があった、と振り返ります。それでも今マルクスが見直される理由の一つがここにある、といいます。
あの当時から指摘してた労働のこの本質が、構造が全く現代でも変わってないっていう。
しながわさんも同意します。だからこそ、この疎外の指摘を頭に入れて自分の働き方を見つめ直すことに意味がある、というのです。
今の労働がつらい理由の多くは、会社が悪い、自分の能力がない、会社と合っていない、などと語られがちです。しかしマルクスに言わせれば、それ以前に構造的に疎外が起こるしかない状態になっている、と考えられます。
これは絶望とも希望とも言えます。つらさは自分だけの問題ではなく、構造から生まれていると気づけることが大切だ、というのがこの回のひとつの着地点です。
革命が起こす「逆転」と、共産主義が描いた理想の働き方
マルクスは疎外を指摘して終わったわけではありません。ここから共産主義・社会主義の色が濃くなっていきます。
マルクスの考えでは、資本主義が発展していくと、必然的にプロレタリアートによる革命が起きるとされます。資本家と労働者の立場が逆転し、労働者の世界になるというのです。
その社会では、ロックが論じた私有財産制 ── 個人が財産を私的に所有し、処分できる権利を認める制度。ロックはこれを労働と結びつけて正当化したが、マルクスはこれを否定する方向に進んだ。が否定され、共産主義的な「みんなのもの」という社会になる。マルクスはこれを歴史の必然と考えました。
マルクスは、そうなるべきだから革命が必然だと考えたのか、それとも自然にそうなると考えたのか。
しながわさんの解釈では、資本主義が発展すれば革命は必然的に起きる。歴史は決まっている。だからこそ、今がその時代だとして、プロレタリアートは結束し、革命を起こして資本家を倒さねばならない、と考えたとされます。実際、20世紀後半には日本の安保闘争など、社会主義的な運動が世界中で起きました。
ここでタッシーさんは、革命による立場の逆転を、トランプゲームの大富豪にたとえます。革命が起きると2が一番弱くなり、それまでゴミのようだったハートの3が強くなる、あの逆転です。
人間のものの見方とか尺度がいとも簡単に変わっていくみたいな。
ただし、マルクスの言う革命は暴力革命です。フランス革命のように、お願いして実現するものではなく、暴力的に成し遂げるものと考えられていました。
その先に描かれたのが共産主義社会です。労働者は働くものの、それまでのように資本家の富を増やすためではなく、みんなが富を共有し、一人一人がみんなのために働く社会を目指す、という理念です。
しながわさんは、革命後のゲマインシャフト ── 地縁や血縁など、感情的なつながりで結ばれた共同社会を指す社会学の概念。ここでは、人々が協力し合う共同的な社会という意味で使われている。における働き方の具体例を紹介します。それは、朝には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営む、といった働き方です。
一つの職業に縛られず、好きなように働く。自発的で臨機応変な精神と喜びに満ちた心で仕事をこなし、みんなで協力して労働する。これが共産主義が世界に投げかけた理想でした。
理念はいいけれど――共産主義の限界と「空想的社会主義」への橋渡し
タッシーさんは、この理念そのものは魅力的だと評価します。疎外をなくし、労働における人間らしさを取り戻す方向に向かっているからです。
もう一回、もともと労働における人間らしさを取り戻すというか、人間らしさを高めていくような行為に労働していこうぜっていう。
しかし「理念はいいけどね」というのが、しながわさんとタッシーさんの共通の実感です。歴史的には共産主義国家はうまくいきませんでした。
タッシーさんは、ドイツ統一時の東西の車の品質差を例に挙げます。旧東ドイツでは数十年前の作りのまま、ボロボロの車を作り続けていた、という話です。
その背景には、怠けても頑張っても給料が同じだとモチベーションが湧かない、という問題があります。これは、人間は自分の欲求を叶えるために働くというホッブズやロックの見方とも重なります。
ここで話は次回への橋渡しに移ります。しながわさんが取り上げるのは「空想的社会主義者」と呼ばれる人たちです。
彼らは、革命がなければ本当に労働者は幸せになれないのか、と考えました。革命という形をとらずに資本主義の弊害を除き、みんなで協力する社会を作れないか、と模索した人たちです。
ここでタッシーさんは、「空想的」という呼び名に鋭く切り込みます。
革命起こさなくても他の手段で社会主義生まれるんじゃないかっていう人たちの方が、よっぽど現実的社会主義者のような気がするんですけどね。
しながわさんによれば、「空想的」という呼称は後からエンゲルスらが与えたものです。革命なしに社会を変えるなど空想だ、という批判の意味が込められていました。
一方でしながわさんは、この空想的と呼ばれる思想こそがポスト資本主義を考えるうえで大きなヒントになる、と自身の見解を語ります。
実際、マルクスやエンゲルスも、彼らの思想の中身は高く評価していました。革命という手段を置いていない点だけを「甘い」と批判した、という整理です。
資本主義の課題は19世紀より深刻になっているかもしれません。だからこそ、次回・次々回で扱う空想的社会主義者の考え方は、これからの働き方や社会を考える素材になる、と締めくくられます。
まとめ
マルクスが指摘した労働の4つの疎外は、19世紀イギリスの過酷な現実から生まれたものですが、その構造は現代にもそのまま当てはまります。つらさが自分だけの問題ではなく構造から来ていると気づくことが、働き方を考える出発点になります。
- マルクスも労働そのものは本来すばらしいものと考えたが、資本主義の工場労働では意味が失われると指摘した
- 4つの疎外とは、生産物・生産行為・目的(生存の手段化)・仲間からの疎外を指す
- マルクスは資本主義の発展の先に必然的な暴力革命と、みんなで協力する共産主義社会を構想した
- 共産主義国家は歴史的にうまくいかず、「理念はいいけれど」という限界も語られた
- 革命を前提としない「空想的社会主義」が、次回以降、ポスト資本主義を考えるヒントとして取り上げられる


