理系の建築学生と、ガストの深夜バイト
高校卒業後、園田さんが進んだのは工学部の建築学科でした。理系で課題も多く、真面目にやると遊ぶ時間はなかなか取れなかったといいます。
キャンパスは1、2年生が八王子、3、4年生と大学院は新宿。ただ大学時代は実家から通っていたため、バイトは地元の所沢でやっていました。
選んだのはガストです。すかいらーくグループガスト、ジョナサン、バーミヤンなどを展開する外食大手。従業員は給与明細とあわせて店舗で使える割引券をもらえた。
ジョナサンのタンドリーチキン&メキシカンピラフが一番好きだったので、それを食べました。
割引券は2割から3割引きと大きく、地元にある安牌なバイトとして5年間続けたそうです。途中からは先輩から引き継いだ建築事務所のバイトもやっていました。
根は真面目なんだよ。
根は真面目ですね。
自由な高校の反動と、過保護な私立大学
所沢高校の自由な校風とは対照的に、大学ではむしろ拍子抜けしたと園田さんは振り返ります。
高校では受験も自己責任。世界史の先生は1年かけて十字軍の話だけをし、化学の先生は梅干しがなぜ酸っぱいのにアルカリ性かをずっと語るような環境でした。受験するなら自分で勉強しておけ、という空気だったといいます。
ところが私立大学に入ると、学生は高い学費を払ってくれる「お客さん」です。教科書はここで買う、これとこれを買う、とガイダンスで全部教えてくれる過保護さに、逆に違和感を覚えたそうです。
とはいえ反発するでもなく、決められたカリキュラム通りにきちんと単位を取っていく。一周回ってちゃんとやる学生になっていました。
ガストのデシャップで図面を引いた夜
建築そのものは面白かったといいます。課題で図面を書き、別荘の設計をしてダメ出しを受ける。ものを作る感覚はプラモデル時代からの延長で、とても楽しかったそうです。
ただ、課題は2週間後に提出という忙しさ。そこで園田さんは、深夜のガストのバイト中に製図をこなすという方法を編み出します。
フロア担当で、料理を出すデシャップディッシュアップの略で、キッチンから出来上がった料理をフロアに渡す受け渡し口のこと。の端に課題の紙とトレーシングペーパーを貼り付けていました。
キッチンの人に「ちょっとこの辺はハンバーグとか油飛ぶやつは向こうに出してください」って言って。そこでずっと製図設計をやって。
呼ばれたらオーダーを取りに行き、料理ができるまでまた設計する。深夜のガストは混まないため、その時間を課題にあてていたのです。
遊べるだけ遊んでくるので、やるなら夜しかない。ゴールのない作業だからこそ、やればやっただけいいものができると熱中していました。
「スター建築家にはなれない」という早すぎる悟り
しかし、建築家になるという夢には早々に見切りをつけます。
大学には建築系の学科が3つあり、1学年で約200人。それが4学年、卒業生も含めると学校全体で800人が在籍していました。課題ごとに優秀な5人が代表で指導を受けるのですが、園田さんはそこに一度も入れなかったといいます。
八十人の中の五人に入れない。それが学校全体で八百人在籍している。自分がその中から建築家になれる確率って考えちゃうと、もう無理やんみたいになって。
この状況把握能力について、藤原さんはサッカーでキーパーを選んだ回を引き合いに出します。周囲を見て自分のポジションを決める姿勢が、自然と身についているのではないかと。
あ、でも人の顔色を見て生きてきたかも。
親が厳しかったわけではなく、家庭も円満だったといいます。ただ人の顔色が気になってしまう性格が、悪いことをしない理由にも、身の丈を測る癖にもなっていたようです。
血判を迫るじいちゃんと、憧れの「自分のスタイル」
そんな中で、母方のじいちゃんだけは破天荒でした。岩盤を削って水道を引く仕事をしたり、墨田の町工場で下請けの製品を作ったり。千葉の別荘も知り合いの大工と二人で建て、水道もろ過装置も自分で作ってしまう人だったそうです。
中学生の園田さんを日給500円で雇うとき、じいちゃんは雇用契約を結べと言いました。判子がないと答えると、こう続けます。
じゃあしょうがないつって、指出せつって言って、ナイフでピッて切って。血判。これでちゃんと契約だから、金払うからお前もちゃんと働けって言って。
それを見た母親はブチ切れたそうですが、じいちゃんの中では仕事をなめるなという教えだったのかもしれません。自分なりのポリシーを持つ人として、園田さんは憧れていました。
一方で藤原さんは、園田さん自身に「マイスタイル」があるかというと、ないのではないかと指摘します。
何かそれ(建築)があれば、自分を表現して自分の建築みたいなことができるかもと思ったけど、ちょっとスキルと才能の問題でそれができなさそうになり。
都市デザインとの出会い、ブラック企業、そして25歳ニート
建築家が無理だと悟った園田さんが出会ったのが、街全体をデザインする「都市デザイン」の世界でした。
恩師の倉田先生の授業で、真夏のみなとみらいを3、4時間かけて歩く。建物の高さがなぜ違うのか、海に向けてスカイラインが下がる理由、汽車道を遊歩道にした経緯。建築だけでなく都市もデザインできると具体的に知ったのです。
修士まで進んだ後、園田さんは商業施設の企画やインテリアデザインの会社に就職します。
背景には、街づくり研究への違和感がありました。「商店街は応援すべきで、悪者は郊外の大型ショッピングセンターだ」という論調に納得できなかったのです。
正論かもしれないけど、じゃああなた現場でやって世の中変えた方がいいじゃないですかみたいなことをゼミで言って、先生にぶち切れられたことありますけど。
理屈より現実を変えられる方へ。そう考えて商業系コンサルに入ったものの、そこは死ぬほどブラックな会社でした。
圧と虚無感の日々、逃げ込むように博士課程へ
代々木の会社に朝7時に出社し、終電で帰る日々。徹夜もありました。しかし、一番しんどかったのは労働時間ではなく、やることがないのに帰れない空気だったといいます。
上司が帰ってないのに帰れないよねっていう空気。物件資料の矢印の色と向きを変えろとか、無理やり仕事作らされて、なぜか終電みたいな。
関西発祥のオーナー企業で、デスクの横には社長の肖像画。社長がフロアに降りてくると、営業は客との電話をガチャ切りして立ち上がり挨拶する。入社前研修では「大学でやったことは役に立たない」と心を折られ、社訓を暗唱させられたそうです。
就職時、園田さんはお金・時間・やりがいの3軸のうち2つ満たせればいいと考えていました。しかし、この会社ではその全てがなかったのです。
意味なく行きの電車で途中下車してホームで吐いたりしてました。飛び込んだら会社に行かなくていいっていう感覚になったんですよね。
社長が見せしめに灰皿を投げ、避けると「避けるな」と言う。尊敬していた上司がボロクソに言われる。その環境に限界を感じ、園田さんはわずか1年で退社します。25歳、実質的なニートでした。
次に何をやるかより、まず辞める。そう決めて逃げ込んだのが博士課程でした。転職のイメージも湧かず、博士号を取れば一応その道の専門家になれると考えたのです。
血判ならぬ江の島。日焼けと迷走のモラトリアム
ただ、会社はなかなか辞めさせてくれませんでした。博士課程の入学式が4月1日にあるにもかかわらず、3月31日の深夜1時まで会社に残らされたといいます。園田さんはそこを人生のどん底だったと振り返ります。
その反動は激しいものでした。金曜は終電まで働いた後に歌舞伎町で朝まで飲み、始発で家に帰って海パンを取り、毎週江の島へ向かったそうです。
朝八時からしこたまビールをスーパーで日没までずっと一回も海に入らず。
地元の友達や、サッカー部のイケメンの後輩を誘い、彼にナンパしてもらった女の子たちと海の家で飲む。それを毎週繰り返していました。
あまりに日焼けしすぎて、部長に怒られたこともあります。ライトグレーのスーツにピンクのネクタイ、そして真っ黒な肌。胡散臭さしかない営業マンだったといいます。
博士課程には結局5年在籍しました。学会論文を数本通さないと博士論文が通らず、手こずったのです。奨学金とバイトで切り詰め、同棲していた彼女と暮らしながら、高円寺の安いタイ料理で空心菜炒めを食べて寝る。園田さんは初めてだらしなくも楽しい生活を送っていました。
日本で3人目の「プレイスメイキング」研究者へ
5年の博士課程で取り組んだのが、プレイスメイキング人が居心地よく過ごせる場をつくる考え方で、都市デザインの一分野。番組内で説明された範囲では、当時の日本ではほとんど研究者がいなかった。というテーマでした。
これも恩師の倉田先生が「このテーマでやったら」と勧めてくれたものです。当時の日本では、筑波大の先生とその弟子ほどしか研究しておらず、園田さんは日本で3人目ほどの研究者になりました。
転機が訪れます。2014年、国土交通省が初めて「プレイスメイキング」の名が入った調査業務を発注し、その受託者が園田さんの大学の同期がいるコンサルだったのです。研究者がほぼいないことから、園田さんは個人事業主として仕事を手伝うことになりました。
博士課程に在籍しつつ研究テーマを提供していくと、つながりが広がっていきます。世話になっていた山下さんという女性の紹介で出会ったのが、現在のハートビートプランでした。
現場でやってる仕事の概念と、そのプレイスメイキングっていうのがほぼ一緒だから、うちでやらないかって声かけてもらって。
学位が取れたのは31歳になる年。一回就職し、勉強し直して、そこからの社会人デビューでした。
一回就職して、そっからもう一回勉強し直して、で、三十一でしょ?
最初の1年は先生の事務所に雇用されつつ、大阪の代表とは個人の委託契約を結ぶ変則的な働き方。1週目と3週目は新宿、2週目と4週目は大阪という生活を続けていました。
まとめ
スター建築家を早々に諦めた園田さんは、ブラック企業での挫折と博士課程での迷走を経て、日本ではまだ誰も研究していなかった「プレイスメイキング」という自分の戦う場所を見つけました。エリート街道とは無縁の、人間味あふれる軌跡が語られた回でした。
- 理系の建築学生として、深夜のガストのデシャップで製図しながら課題をこなしていた
- 800人が在籍する学校で代表の5人に入れず、「スター建築家にはなれない」と早々に悟った
- 都市デザインは作家がいない匿名性の高い世界であり、そこにエースになれなくてもいい価値を見出した
- 就職した商業系コンサルは圧と虚無感のドブラック企業で、25歳にして1年で退社しニートに
- 博士課程で日本3人目のプレイスメイキング研究者となり、31歳での社会人デビューを果たした
