31歳、5人目の社員として大阪の会社に合流
番組の最終回では、園田さんが31歳で大学院を卒業し、ご縁があって大阪の会社に合流するまでが振り返られました。
その会社が、いまのハートビートプランです。園田さんが加わったとき、社員はまだ5人。園田さんが5人目でした。
それが今のハートビートプランなんですけど、当時は僕が5人目だったですね
会社は当時で創業11年から12年目ほど。創業代表の泉さんが1人で立ち上げ、2人、3人と増やし、10周年を終えた時期でした。
熱烈なラブコールと、断れなかった内見写真
園田さんは業界でも名の知れた泉さんを当初は知らなかったといいます。ただ食べていく必要もあり、直接「うちに来ないか」と声をかけられたことは素直に嬉しかったと語ります。
ネックだったのは、あまり良いイメージのなかった大阪でした。それでも泉さんは、かなり積極的に誘い続けたそうです。
正式に決める前、泉さんは「住むところを探して提案する」と言い、事務所近くの物件を送ってきました。園田さんが「考えます」と返す前に、事態は動きます。
返事する前に2、3日後ぐらいで「内見行ってきたから」って、社長室から自分で内見行って撮った写真とか送ってきてくれて
ここまでされると断れないと感じ、園田さんは入社と、その物件への居住を同時に決めました。
天才の直感を、会社の武器に体系化する役割
なぜ泉さんはそこまで園田さんを求めたのか。鍵は、公民連携で街を作るプロセスの設計にありました。
泉さんはそのプロセスデザインが大事だと直感で捉え、現場で実践していました。ただ、それを言語化・体系化して会社のメソッドにすることは、なかなかできずにいたといいます。
一方の園田さんは、アメリカ発の考え方であるプレイスメイキングを軸に、プロセスデザインを体系立てて整理した経験を持っていました。
うちのソノダ君来れば、うちがやってきたことを体系立てて言語化してやれば、会社としてもパッケージとして戦略で持てる、というところを期待されてた
つまり、個の集団だった会社に、システムとして提供できる仕組みを持ち込む役割が期待されていたのです。
もっとも、体系図を実際に作れたのはだいぶ後でした。定型業務のない仕事のため、自分で体験しないと勘所が分からず、把握に数年かかったといいます。
結局、手が回らない人が増えただけみたいな
平社員から取締役、そして共同代表への道
共同代表へのステップは、入社時のやり取りにさかのぼります。泉さんは、いずれ大学に戻る道もある園田さんに、自分でロードマップを持つよう説いていました。
どういう仕事を経験して、どういう人脈を作って、どういうことを達成したら次の道に行くっていうロードマップを、自分の中で全部持っとけって言われたんですよ
これを受けて園田さん自身が、社員のままでも独立でもなく、共同代表を目指したいと最初に伝えました。尊敬する泉さんと一緒にやる方が、良い提案ができると考えたからです。
その後、平社員から取締役へ、さらに2、3年を経て共同代表へと段階的に移っていきました。共同代表になったのは約7年目です。
泉さんには、40歳前後で30代にバトンタッチしたい思いがあり、園田さんが39歳になるタイミングが選ばれたといいます。
変化が大きかったのは取締役になったときだと園田さんは振り返ります。担当業務を回すだけでなく、採用計画やブランディングなど、現場以外の仕事が増えたからです。
共同代表になると、社内よりも外からの扱いが変わったといいます。園田さん自身の決済でやれることが増え、講演などの単発の仕事も年間20〜30本ほど来るようになりました。
大阪に本社、松本に移住という決断
共同代表になってすぐ、園田さんは松本へ移住します。社員は10人ほど、本社は大阪。代表がその場にいないことには、いまもジレンマがあるといいます。
移住は迷いもありましたが、泉さんはあっさり後押ししてくれました。
泉さんにも「それもあるけど、松本に移住したいんですけど」って言ったら、「いいんちゃう?」って
松本との縁は泉さんとは関係なく、園田さん自身が仕事で始めた場所でした。山も街も好きで、2人目の子どもが生まれる時期に、育つ環境を考えて移住したといいます。
会社の方向性として掲げるのは、泉さんの言う「プランニングの民主化」です。都市計画はトップダウンになりがちですが、地域が自らリスクを取ってアクションする形にしたいと語ります。
もっと個人が旗を振って、この指とまれで集まった人たちで街を変えられるっていうシチュエーションを作りたい
その伴走は効率化しにくく、いまの悩みはマンパワー不足です。15人ほどの規模にしたい一方、ノウハウはマニュアルでは教えられないため、現場で一緒に動く人材育成が直近の目標だといいます。
大阪の会社に頼り続けない、松本での新しい会社
藤原さんは、代表になるまで約10年というスピードに驚きつつ、園田さんが手がけた地域の数を尋ねました。
期間の長さの割に案件数は多くありません。1つの地域に3〜5年しっかり関わるため、自身が担当したものは十数件ほどだといいます。
入社時から関わる豊田市や、大阪の西梅田はいまも続いており、10年以上のつき合いになっています。
一方で、松本のような地方では市の委託が多く、それを大阪の会社に委託し続けるのはお金の循環としてもったいないと園田さんは考えます。
地元でやれば、その会社にノウハウが溜まっていくし、地元の人が採用される。お金も彼らの給料になれば、地元のお店で使って全部循環して、また税金で戻ってくる
そこで松本では、三の丸のプラットフォームから「マツグ」というまちづくり会社を設立しました。来年以降、園田さんもハートビートではなくこちらのメンバーとして関わっていく予定です。
なぜ松本だったのか
藤原さんの「いろんな街をやったけど、松本は良かったか」という問いに、園田さんは即答します。
松本は良かったですね、もう断トツ
専門家として、仕事の関係が終わっても街に関われると思える場所に住みたい。その視点から、松本の条件が挙げられました。
豊田市や姫路のように40万、50万を超える街だと全体感がつかみにくく、自分の起こしたアクションが街を変える波紋になりにくいといいます。
山や自然もありつつ、匿名性のある都市的な感覚がある。ただ本人は、松本で飲んで道端に寝るのはできるだけ避けているようです。
酒は必要か。素面だと面白くない男の自己認識
百瀬さんが「酔っ払うのは必要か」と尋ねると、園田さんは必要だと答えます。20歳以降は、素面より酔っ払っている時間の方が長いのではと語ります。
多分その吐き出しきれない鬱屈としたものの吐き出し口の一個であるというのと、20歳以降はなんか酔っ払ってる時間の方が長いんじゃないかと
知らない街で初対面の人と話し、信用してもらう仕事は、本来一人が好きで斜に構えた自分には向いていないと園田さんは言います。
知らん街に行って、初対面の人と散々話をしなきゃいけないし、信用してもらうためには。基本ストレスでしかないことを昼間やってるから、それを吐き出すためにはお酒の力を借りて
さらに掘り下げると、酒そのものより「面白い自分でありたい」という思いが根にあることが見えてきます。素面だと真面目に考えすぎてしまうというのです。
酔っ払ったテンションぐらいで、それでもいいじゃんぐらいの方が、町のこともいろいろ物事決めた方がもっとクリエイティブだし、いいんじゃないっていう
百瀬さんの「酒を飲みたいんじゃなく、面白い自分でありたいんだ」という言葉に、園田さんもうなずきます。昼間の建前ではなく、本音で話せば物事は早いという実感があるのです。
一方で、飲みを誘うだけでハラスメントと言われ、自分だけ酔っていれば社会不適合者と見られる時代のやりづらさも、園田さんは率直に語りました。
最終目標は「金髪・タトゥーのタコス屋の親父」
話は園田さんの最終目標に向かいます。研究者に戻る道もあると考えていたものの、10年やってみての結論は逆でした。もっと近い現場で、自分でアクションしたいというのです。
研究では世の中変わらない分野だと思ってるんで、この分野は。だから現場に立ちたい
コンサルは自分を主語にできない。だから投資してリスクを取り、事業をやる側に行きたい。その先にあるのが「タコス屋さんになりたい」という目標です。
しかもただのタコス屋ではありません。タトゥーを入れ、ピアスを開け、やんちゃな子たちにビビられながら店に立つ。それでいて博士号を持つ、というギャップを園田さんは思い描きます。
あんな身なりで博士号持ってるらしいよ、みたいなテンションで。ちょっと次生きていきたいな
この構想には、園田さんならではの計算もあります。まちづくりの「インサイダー取引」と本人が呼ぶ考え方です。
行政の委託で都市デザインを手がけると、公共投資がどこに起こるかをデザインすることになります。街がどう変わるかが見える立場だからこそ、次に価値が出る場所も把握できるというのです。
そこが動いた時に、どこが価値が出てくるのか、どこが次に民間側で扱う土地のポイントになるかが全部把握できる。そこを先に買うなり、そこで事業をやる想定をしておいて
公共事業が形になるのは早くて5年後、10年後。園田さんがタコス屋を開いて食べていける頃と、提案した事業が形になる時期がちょうど重なる、という時間の設計まで語られました。
都市計画から入る順番こそ「園田さんらしさ」
百瀬さんは、この順番こそ園田さんらしいと指摘します。タコス屋から都市計画には進めませんが、都市計画からタコス屋へは進めるからです。
いきなりタコス屋を始める人もいる中で、園田さんはアカデミアから入り、現実的に土台を作ってから場に立とうとしている。だから、家賃に追われるのではなく、余裕をもって楽しめるはずだと語られました。
もう趣味の延長ぐらいで、本気の趣味としてやるぐらいのノリでやりたいですね
話の底には、園田さんの二面性があります。洗練された都市デザイナーの顔と、飲むと別人になり後輩から「ポンコツ」と呼ばれる素顔。そのどちらも本人だといいます。
藤原さんは、片側だけのシンクタンク的な人が多い中で、素をちゃんと出せることの価値を語ります。園田さんは、その姿勢の原点を高校時代に見出します。
一側面で捉えても、その人のことを語れないなっていうのは、高校のあまりにも多様な周りの人たちで、ベースにある気がします
多様な仲間に囲まれた高校時代に、飾ってもしょうがないという諦めがついた。それが、素を出す今の姿勢につながっているのです。
31歳まで学んでもいい。苦労とご縁の10年
最後に北爪さんが、園田さんのA面、つまり苦労の側面に触れます。社会に出て一度挫折し、31歳まで下積みを重ねた末にプレイスメイキングと出会った巡り合わせに、共感を寄せました。
藤原さんは「31歳まで学生で学んでもいい」というメッセージ性を評価します。早く卒業し就職するスピードに駆られがちな中で、ゆっくり学ぶ道もあるという視点です。
園田さん自身も当時はソワソワしていたと明かします。周りが車を買い家を建て結婚する中、自分はバイトのような働き方をしていたからです。
車買って家建てて結婚してってやってるけど、俺、未だにバイトみたいなことやってるし、筋トレとかしてていいのかな、みたいなのはあった
それでも「どうせ人生幸せになる」と楽観できたのは、へこまない性格ゆえだといいます。悩みを聞くのは苦手で、やめて忘れて飲めばいいと思ってしまうとも語りました。
まとめ
都市デザイナー園田さんの完結編は、天才の直感を体系化して共同代表を背負うまでの道のりと、その先に見据える「タコス屋の親父」という野望が語られた回でした。洗練された顔と泥臭い素顔、そのどちらも本人だからこそ、全国の街から愛されるのかもしれません。
- 31歳・5人目でハートビートプランに合流し、泉さんの直感を言語化・体系化する役割を担った
- 自ら共同代表を目指すと宣言し、平から取締役、共同代表へと段階的に歩んだ
- 大阪本社のまま松本へ移住し、地元にお金とノウハウが循環する「マツグ」設立に関わる
- コンサルから事業主体へ進み、最終目標は60歳で金髪・タトゥーのタコス屋の親父になること
- 都市計画から入る順番と、素を出せる二面性こそが園田さんらしさとして語られた
