所沢の団地で生まれ育った公務員一家の少年
ゲストは、有限会社ハートビートプランの代表取締役で都市デザイナーの園田聡さんです。
1984年、埼玉県所沢市生まれ。専門は都市デザインやプレイスメイキングで、現在は大阪、東京、松本を拠点に活動しています。
藤原さんは、園田さんを「盛り場の人」というイメージでも紹介します。冒頭のプロフィールは、いわば公式用の顔だと二人は話します。
だって僕らで言ったら園田さんやっぱ盛り場の人っていう。
A面のやつです。オフィシャル用の。
生まれ育ちは所沢市の団地です。園田さんは、駅で言うと池袋まで約20分、新宿まで約40分の距離だと説明します。
所沢に住みながら職場は都内という、いわゆる埼玉都民が多いベッドタウンだったと話します。
親戚一同が東京都職員という家系
園田さんの父は熊本、母は長野県の野辺山の出身です。母方の実家はレタス農家で、祖父は緑のアメ車と4トントラックの2台持ちだったといいます。
めちゃくちゃ。冬になるともうハワイ行っちゃう。
両親はともに東京都の職員で、職場結婚でした。都庁が新宿にあったため、所沢に住みながら通っていたそうです。
驚くのは、その公務員の系譜です。妹も、その夫も、母方の叔父二人も、すべて東京都の職員だといいます。
どんなファミリー。そのだけの東京都職員具合は。
そんな家系の中で、園田さんただ一人が民間へ進み、いまは松本に暮らしています。
僕だけ民間でぷらぷらしてる。
鍵っ子として育った共働き家庭
家庭は共働きで、園田さんは小学校の頃から鍵っ子でした。両親は朝早く出て、夜は終電になることも多かったといいます。
高学年になると学童から自分で帰り、冷蔵庫のご飯を妹と二人で食べる生活でした。平日の家族団らんはほとんどなく、代わりに年に2回の家族旅行が楽しみだったと振り返ります。
親の影響として印象的なのが、両親がお互いを名前で呼び合っていたことです。父を「かず君」、母を「とし君」と呼び合い、パパやママとは呼ばなかったといいます。
その影響で、園田さんも妻と互いを名前で呼び合っているそうです。
母は自立を重んじる人で、妹が結婚したときも仕事を辞めるなと伝えたといいます。
いざという時にもし離婚とかってなっても、自分でちゃんと生きていけるように仕事は続けた方がいいみたいなことを言う人。
一方の父は、園田さんの記憶では穏やかな人です。ただ、思春期に園田さんと母が喧嘩を始めると、関係がないのに割って入ってきたといいます。
「いや、俺が悪かったからもうやめよう」みたいな。会話に何の関係もないのに入ってきて。
むしろ火に油を注ぐような格好になり、園田さんはそれにも苛立ったと話します。
NHKと少女漫画で育った優等生の日々
小学生時代の園田さんは、自身で「優等生でした」と言い切ります。年間皆勤で、成績もクラスで一、二番だったといいます。
僕、優等生でした。
団地の周りは米軍の通信基地や航空公園に囲まれ、そもそも寄り道する店もありませんでした。非行に走る理由も場所もなかったと語ります。
家庭のルールも独特でした。漫画はよかったものの、テレビは基本的にNHKだけだったといいます。
ノーバラエティですね。民放はくだらないから見る価値がないっていう教えのもとに。
そのため、友達とのアニメや漫画の話にはついていけても、バラエティの話には入れなかったそうです。夜9時前まで見ていたのは、NHKの『生きもの地球紀行』でした。
妹の影響で少女漫画『ママレード・ボーイ』を見ていたり、ファーブル昆虫記やシートン動物記を読破していたりと、園田さんは「出来すぎ君キャラ」だったと笑います。
ミニ四駆とプラモデルに熱中した少年
小学校高学年で唯一ハマったのがミニ四駆でした。改造もし、埼玉県大会に出るために大宮の会場まで行ったといいます。
埼玉県大会みたいなのにミニ四駆で出て、大宮のそごうの会場とかに行きました。
プラモデルは、ガンダムではなくリアルな戦闘機に向かいました。F14トムキャットなどが好きだったといい、飛行場のあった地元の影響もあったと考えられます。
作り方には性格がにじみます。触り出したら一気に完成させたいタイプで、終わるとパーツが余ることもあったそうです。
今日はここまでってやるのができないんで。わーっと熱中して。でも早く仕上げたいから、結果いくつかパーツが残ってて、なんでろうみたいな。
中学に入るとミニ四駆は下火になり、飛行機のプラモデルを部屋の天井から釣り糸で吊るして、戦闘シーンを再現していたといいます。
尾崎豊で目覚めた「社会への疑問」
マイルドヤンキー文化のある土地柄で、園田さんも中学から少しずつ気質がそちらに近づいていきます。他校の生徒が金属バットを持って校門まで来ることもあったといいます。
そんな中で出会ったのが尾崎豊でした。世代ではなかったものの、家で一人で聴くようになり、ここから小さな反抗期が始まります。
そこであれですね、尾崎豊を知り。そこからちょっと反抗期が。
学校では優等生を続けたまま、家では尾崎を聴き込む。ただ、窓ガラスを割る勇気はなく、夜に自転車で基地の周りを一周するのが精一杯の冒険でした。
なんとなく夜チャリで基地の周り一周してみるみたいな。夜出歩くこと自体がちょっと背徳感。
優等生だったからこそ、尾崎の歌詞がまっすぐ刺さったと園田さんは分析します。
保守的な性格と、人生初の挫折
サッカー部ではキーパーを選びました。理由は、後発でオフサイドのルールも分からず、動きの少ないポジションが手薄そうだったからです。
しかも、園田さんはあまり試合に出たくなかったといいます。ミスをしたときに責められるのが怖かったからです。
キーパーでいてミスした時の責められ具合がえぐいっすよね。出ろよ、お前出ろよとかって。それが怖くて。
この慎重さは幼い頃からで、バスに乗るときもプランBやCまで教えてもらわないと不安で乗れなかったといいます。
もしその時間にバスが来なかったらどうしたらいいかっていうのを、プランB、プランCぐらいまで教えてくれないと怖くて乗れない。
そんな園田さんに初めての挫折が訪れます。高校受験です。中学まで優等生で、私立の中央大学附属杉並高校を志望しますが、数学が振るわず不合格になります。
自己採点では100点満点で14点ほど。合格発表では自分の番号だけがぽっかり抜けていたといいます。
自分の受験番号の前後が4番ぐらいずつ連番でずっとあって、僕だけポンって抜けてるみたいな落ち方だったんですよ。
この惨めな経験がトラウマとなり、園田さんはこれ以降ペーパー試験を受けなくなります。センター試験も大学入試も、すべて推薦で進んだといいます。
結局、共学で自由な校風の所沢高校に進学します。皮肉にも、通常入試で入った中では成績トップで、入学式では新入生代表を務めたそうです。
まとめ
公務員一家の中でただ一人異端となった園田さん。第1話では、優等生でありながら尾崎豊で社会への疑問を抱き、保守的な性格と初めての挫折を経て所沢高校に進むまでが語られました。
- 親戚一同が東京都職員という家系で、園田さんだけが民間へ進んだ
- NHK中心のテレビ環境と少女漫画『ママレード・ボーイ』で育った鍵っ子だった
- 中学で出会った尾崎豊が、優等生に社会への疑問という最初のひび割れを生んだ
- 石橋を叩くほど保守的な性格で、部活のキーパーも「責められたくない」から選んだ
- 高校受験の失敗が人生初の挫折となり、以後ペーパー試験を避けるようになった
