麻酔中に死ぬのは「悪くない死に方」?
今回のテーマは、えばちゃんからのリクエストで「死ぬのって怖い?」。きっかけは年末に受けた大腸内視鏡検査でした。胃カメラも一緒に行い、その際に麻酔をかけたそうです。
えばちゃんは過去に麻酔で心臓が止まったことがあり、全身麻酔のリスクが高い体質だといいます。そのため検査にあたって「死ぬかもしれない」と考え、「死んだ時のためにここに連絡してください」という連絡先の一覧を自主的に書いて提出したそうです。
そんな体験を経て、えばちゃんは「麻酔中に病院で死ぬのは、そんなに悪い死に方じゃない」と語ります。理由は、死んだ後に放置されず処置も早いこと。そして病死やガンのように「自分は死ぬんだ」という葛藤や痛みを感じる期間が全くないことです。死にたいわけではないけれど、割といいのではないか、という発想でした。
死ぬ準備みたいな期間がないからいいって話をしてるんだけど。
一方おぐりんは「突っ込みどころが多すぎる」と反応。どんな死に方がいいかという話と、死が怖いかという問いがそもそもリンクしていないと指摘します。えばちゃんは、ラジオにするなら「死ぬのが怖いか」という一般的な問いのほうが喋りやすいと考え、あえてテーマにしたと明かしました。
死は怖いのか──言葉と本音のズレ
えばちゃんは「そこまで怖くはない」と言います。あと百年くらいこんな感じで暮らしたいとは思うけれど、明日死んだとしても大きな後悔があるわけではない、と。ただし、過去に心臓が止まった経験は麻酔中だったため「へーそうなんだ」くらいの実感しかなく、死の「縁」までは見ていないといいます。
対するおぐりんは、死に対して首尾一貫した考えを持ち合わせていないと自己分析します。かつて死の体験旅行お寺などで行われるワークショップ。もし自分が死に向かうとしたらという想定で、大切な人やものを一つずつ手放していく疑似体験を通じて、死や生を見つめ直す。に二度参加し、そこで「こんなに後悔するんだ」と気づき、自分は死への準備が全くできていないと感じたそうです。
おぐりんは、生活習慣も一貫していないと自嘲します。体に悪いものを摂取する一方で、電子レンジを避けたりビタミンCやルイボスティーをとったり、加工肉を食べないようにしたりと矛盾している、と。言葉では「怖くない」と言うものの、心の奥底では死に対する恐れを持っているのかもしれない、というのが今の見解です。
そこまで怖くない。あと百年生きたいが、明日死んでも後悔はない。死の「縁」は見ていない。
言葉では怖くないと言うが、体験旅行で強い後悔を感じた。心の奥に恐れがあるかもしれない。
二人が共通して語ったのは、痛みや苦しみは避けたいということ。ロウソクの火が少しずつ小さくなるような死のプロセスは歩みたくない、できるなら「ポックリいきたい」という点では一致しました。死が怖いかどうかと、死に至るプロセスの話は別だという整理が生まれます。
一人で逝きたいエバちゃん、誰かにいてほしいおぐりん
ポックリでいい、と語りつつも、おぐりんは「麻酔されて気づいたら死んでました」はあまり嬉しくないと言います。理由は「お別れの時間がない」から。しかもそれは自分のためではなく、残される他者に向けた気持ちです。日々伝えられていないことがあり、さよならの挨拶をしていない人に伝えたい、というのです。
さらにおぐりんは、死が近づいてこそ見える世界や気づけるものがあるはずで、そのプロセスを味わえずに死ぬのはもったいないと考えています。「気づきたいのか、伝えたいのか」と問われると、その両方だと答えました。
そこじゃないと多分気づけないものとか、そこになって初めて気づくものって日々の生活よりも多そうだなって思う。
私だから人に伝わると思ってないんだよね。
ここで二人の根本的な違いが表れます。えばちゃんは、そもそも他者に伝わると思っていないと言います。嫌なことがあった日は一人になりたいし、子どもの頃から人に話す習慣がなく、親にも話さなかったそうです。自分で消化するまでは「私のもの」だという感覚があります。
おぐりんはこれと正反対で、人と喋らないと思考が進まないタイプ。何でも喋ってしまうと自覚します。この違いの背景には、次回のテーマである「メンタルモデル」があるだろうと語られます。
おぐりんの死生観は年月とともに変化してきました。2017〜18年頃までは、自分が死ぬときにベッドサイドでたくさんの人が泣いている状況がいいと思っていたそうです。それは人生で残したものの姿だという考え方でした。しかし2018年以降はそう思わなくなり、「できれば笑って死ねればいい」くらいになったといいます。
それでもおぐりんの死ぬ瞬間のイメージには、いつも周りに人がいます。人数というよりスタンスの問題で、最後には誰かがベッドサイドにいる姿が浮かぶといいます。一方えばちゃんは、苦しい時・嫌なことがあった時こそ人に周りにいてほしくないと語り、対照的な姿勢がくっきりと表れました。
あと何年生きる? それは短い?長い?
話題は「いつ死ぬか」へ。えばちゃんは長生きするらしいといいます。祖父が55歳で亡くなり、家系の男性は早いそうですが、父は71歳、祖母は91〜92歳。えばちゃん自身はその「間くらい」だろうというイメージを持っています。つまり人生の半分以上がまだ残っている計算です。
それを短いと感じるか長いと感じるかについて、えばちゃんは「元気だったら短い」と即答。理由は「もっと遊んでたい」から。生きる時間が足りない、という感覚です。
元気だったら短いんじゃない? もっと遊んでたい。
対するおぐりんの想定は62歳。そこからプラスマイナスがあると考えているそうです。現在39歳(今年40歳)なので、残りは22〜23年。えばちゃんは「短いね」と反応します。おぐりんは「長く太く」を経験したことがなく、「細く長く」か「太く短く」の選択しか持っていないといい、どちらかといえば太く短いほうがいいかもしれないと語ります。
| 項目 | えばちゃん | おぐりん |
|---|---|---|
| 寿命のイメージ | 父(71)と祖母(91〜92)の間くらい | 62歳前後(プラスマイナスあり) |
| 残り時間の感覚 | 元気なら短い/足りない | 短い(残り22〜23年) |
| 理由・スタンス | もっと遊んでいたい | 太く短い方がいいかも |
暇と死の関係
おぐりんは、残りの人生で何をするかと問われ「暇を持て余す」と答えます。ここで出てくるのが「暇と死」の関係です。他者との接点を多く持たず、あまり人と約束せず、創作活動もしない――そうすると時間を持て余してしまう、というのです。
おぐりんは、創作活動=作る・生み出す活動をしていないから時間を持て余すのだと分析します。逆に創作の時間が増えれば人生を短いと感じるようになるかもしれない、と。えばちゃんが遊びを生み出しているのは、ある種の創作かもしれないという指摘もありました。
暇な時は「暇に耐えている」というおぐりん。スマホを見たりテレビをつけたり、パソコン2台を行き来したりしているそうです。遠方の知り合いから離れた土地に住み、仕事をコントロールできるようになったことで、以前より暇が増えたといいます。そして「暇だとドーパミンが欲しくなる」と語ります。
えばちゃんはリクルート時代の年間誌の仕事が「ドーパミン系の職種」だったと振り返ります。新卒事業の大きなお祭りに向けて半年かけて準備し、オープン5時間前に一気に仕上げる――全員が「ドーパミン中毒」と言われていたそうです。お祭りのような高揚感がドーパミンだと二人は納得します。
ゲームの桃鉄でのおぐりんの戦い方も話題に。ゴールに入ると次の目的地次第でボンビーになるリスクが高まる場合は、あえて駅に入らないという判断をするそうです。えばちゃんは「トレーダーみたいな戦い方」と表現します。おぐりんはこれをドーパミンというより「負けず嫌い」で、キングボンビーがついて地獄のような数年を味わいたくない気持ちが先にあると説明しました。
味わった方がいいよ。
いやいや、勝てないじゃん、味わっちゃうと。
おぐりんは、ポーカーや麻雀などゼロサムの勝ち負けが出る遊びを好む一方、負けが込むと機嫌が悪くなる自覚もあります。年末年始の麻雀では、勝っても負けても一定でいられる後輩を見て「見習わなきゃ」と感じたそうです。そこで2026年の目標は「一喜一憂しない」「仏になる」に決定。ドーパミン的にならず、オキシトシンとセロトニン中心の生き方へのシフトに挑戦したいと語ります。
死の準備と「残したいもの」
おぐりんは「死ぬのは怖くない」と表層的には思っているが、本当に近づいた時には準備ができていないだろうと語ります。苦しんで死にたくない、スンとなれる選択があるならその方がいい――しかし準備ができていない状態で死ぬのは後悔が出そうだ、というのが結論でした。
では準備とは何か。えばちゃんは「物を捨てる」と即答します。いろんなものを解約したり、物を捨てたり――死ぬ準備は結局「一人作業」だといいます。手紙を書いたりはしないのかと問われても「しない。重い」ときっぱり。
物を捨て、解約する。手紙は書かない。何かを人に残したくない。悲しむ人がいても早く日常に戻ってほしい。
物は捨てない。手紙は書きたい。何かを残したい傾向がある。
この対比を通じて、おぐりんは「俺って重いんだな」と自覚します。えばちゃんは「何かをそんなに人に残したくないのかもしれない」と自分を語り、一時的に悲しむ人がいてもいいけれど早く日常に戻ってほしいし、戻るだろうと思っているといいます。だからこそ悲しみの期間は短い方がいい、という考えです。
おぐりんの心に残っているのは、ネイティブアメリカンの言葉。「あなたが生まれた時、あなたは泣き、周りの人は笑っていたでしょう。あなたが死ぬ時、あなたは笑い、周りの人が泣く。そんな生き方をしなさい」というものです。一方えばちゃんは正反対の感覚を持っています。
それでもえばちゃんは「エゴイスト」ではなく「透明」だと自称します。おぐりんはその不思議さに触れつつ、この違いの根っこにあるものとして、えばちゃんの「一人ぼっち」、おぐりんの「欠陥・欠損」というメンタルモデル番組で繰り返し語られる、各人の心の根っこにある型のこと。えばちゃんは「一人ぼっち」、おぐりんは表面的に合いなし・勝ちなしが出やすい「欠陥・欠損」を挙げている。の話へとつながっていきます。次回はいよいよメンタルモデルの話を本格的に扱う予定です。
僕、欠陥欠損の人見つけたらもう握手しに行ってハグしに行きたくなっちゃうもんな。「仲間だ」つって。
五百メートルぐらい離れたとこから、「あ、あいつ一人ぼっちだな、ふん」っていう感じ。
まとめ
「死ぬのって怖い?」という問いから始まった今回は、死そのものへの恐れよりも、二人の生き方や他者との関わり方の違いが浮かび上がる回になりました。えばちゃんは死も悲しみも「私のもの」として一人で完結させたいタイプ。おぐりんは死の瞬間にも誰かにいてほしく、伝えたいものや残したいものがあるタイプ。同じ「死」を語っても、その向きは正反対でした。
また、死の話は「暇と死」「創作と時間の感覚」「ドーパミンからセロトニンへ」といった生き方のテーマへと自然に広がっていきました。そしてこの二人の違いの根っこには「一人ぼっち」と「欠陥・欠損」というメンタルモデルがあり、次回そのテーマが本格的に語られます。
- えばちゃんは麻酔検査をきっかけに「死ぬ準備の期間がない死に方は悪くない」と考えた。二人とも死のプロセスで苦しむことは避けたいという点で一致
- えばちゃんは死も悲しみも「私のもの」で一人がいい。おぐりんは死の瞬間にも誰かにいてほしく、伝えたい・気づきたい思いがある
- 寿命のイメージはえばちゃんが「父と祖母の間くらい・元気なら短い」、おぐりんは「62歳前後・太く短くでいい」
- おぐりんは創作をしないと時間を持て余すと分析。2026年の目標は「一喜一憂しない・仏になる」で、ドーパミンからオキシトシン・セロトニン中心の生き方へ
- 二人の違いの根っこにある「一人ぼっち」と「欠陥・欠損」というメンタルモデルは、次回に詳しく語られる
