友達か、界隈の仲間か
話は、えばちゃんがラジオ外で語っていた「会社の飲み会があまり楽しくない」というエピソードから始まりました。ある会社の飲み会は仕事の話をしないから楽しめない、という話です。
おぐりんは、そこから一つの仮説を立てます。会社、部活、学校、ママ友など、人には「所属している共通言語になる界隈」があります。その界隈の話が中心じゃない会話が増えてくると、楽しめない人が出てくるのではないか、という見立てです。
友達か友達じゃないかは、その界隈じゃない話とかでも楽しめるのかどうか、そういうのが関係してるのかもしれない。
おぐりんの整理では、仕事の話しかしない同僚は「界隈の仲間」であり、仕事以外の話でも一緒に楽しめる、たとえば海外旅行に一緒に行けるような関係になった相手が「友達」だといいます。えばちゃんも、仕事の話をしない飲み会の人たちは友達ではなかったと同意しました。
一方で、前の会社で仕事の話をたくさんしていた人たちは、会社を離れても友達だと言います。つまり「仕事の話が中心だったかどうか」ではなく、界隈から離れても接点が残るかどうかが分かれ目になる、という結論に近づいていきました。
共通言語(仕事・部活など)の話でつながる。界隈から離れると接点がなくなる。
界隈じゃない話でも楽しめる。会社を辞めても関係が続く。
LINEの未読、溜める派? ゼロ派?
会社を辞めるとき、LINEグループを作ろうという話になったえばちゃんは「LINEやってないんです」と伝えたそうです。おぐりんは「交換すればいいのに」と思うタイプですが、えばちゃんにとっては交換した後の煩わしさこそがネックでした。
とくに引っかかるのは、自分抜きでも続くグループに「未読のメッセージが大量に溜まること」だといいます。ここで二人の性質がくっきり分かれました。
私ね、未読のLINEゼロなの。
僕、未読のLINEいっぱいあるから。
えばちゃんにとってLINEは「プライベートな環境」で、パブリックスペースではありません。だから未読が溜まることが許せない。メルマガや買い物の通知が溜まる別のメールアドレスとは、はっきり位置づけを分けています。仕事のメールに未読を残さないのと同じ感覚で、LINEを扱っているわけです。
対しておぐりんは、以前はLINEもゼロだったといいます。前日には翌日の資料を仕上げ、週の始めには準備を終える、そんな時代は未読もなかった。それが徐々に「いい意味で緩さが出てきた」結果、LINEがパブリック化していったと振り返りました。
おぐりんは反対に、情報が入ってくるようにするタイプ。SlackやチャンネルなどあらゆるチャンネルからE情報を組み立て、事前に予想を立てて準備する「ストック型」なので、何かを遮断することがあまりないと語ります。えばちゃんはさらに、気のない「お誕生日おめでとうございます」のやりとりが面倒で、10年ほど前にあらゆるインターネットから自分の誕生日を消したそうです。誕生日メッセージが少ないと少し寂しいというおぐりんとは、ここでも真反対でした。
群れたくないのに遮断できない矛盾
話題は「人との旅行」に移ります。おぐりんは、新卒で大阪配属だった頃、関西配属の数人と車で旅行に行き、一人だけ新幹線で早く帰ってきたことがあるそうです。理由は「リズム」や「ノリ」が合わなかったから。群れて騒ぐノリがどうも苦手なのだといいます。
群れたくないのに情報は遮断しないとか、コミュニティに結構言われるがままに入るとか。首尾一貫してないんだよね、そこら辺。
えばちゃんは、不要な通知を消すという行動に一貫性がありますが、おぐりんは「群れたくないのに情報は遮断しない」「コミュニティに言われるがままに入る」と、矛盾を抱えていると自己分析します。断ることで嫌われたくないのかもしれない、と本人も推測していました。
さらに話は「一緒に住めるか」へ。えばちゃんは高校三年間を寮で過ごした寮生で、同じ部屋にも隣の部屋にも人がいる「ずっと修学旅行」のような生活を経験しています。ただしそれは旅行のような「晴れの状態」ではなく、日常だったといいます。基本的に一緒に住めるけれど、自分の時間はめちゃくちゃ欲しい、というのがえばちゃんの立場でした。
お人形遊びが「わからなかった」子ども
ここから子ども時代の遊びの話に入り、二人の違いがより鮮明になります。えばちゃんは、あやとりは家で一人でやるもので、お人形遊び(ごっこ遊び)がよくわからなかったといいます。では一人で何をして遊んでいたのか。
いかに短く声を出すかとかで遊んでた。
「あ」と声を出すと、喉の破裂音が20個ほど入っている。それを1個だけ出せるかどうかを、自分と競争するように遊んでいたそうです。これは歌のレッスンでいう「エッジボイス」につながる感覚で、共感されたことは一度もないといいます。おぐりんは「自分の声帯を他人とのコミュニケーションに使ってきたから、その1個の音が見えない」と、なるほどと膝を打ちました。
リカちゃん人形についても、えばちゃんは家具のレイアウトで遊んでいて、まるで「どうぶつの森」のように扱っていました。だから友達が来て人形を「喋らせる」遊びを始めたとき、あまりに遊び方が違ってよくわからなかったそうです。えばちゃんにとって人形は「物」で、設定があるとは思っていなかったのです。
おぐりんは、えばちゃんの「短い声で遊ぶ」行為を、相手のいない自分VS自分の競争=アゴンの一部かもしれないと解釈しました。一方おぐりんにとって人形は「物」ではなく「人」でした。小さい頃、パペットマペットのうしくんのような人形が「大事なお友達」で、人と人形の区別があまりついていなかったといいます。大人になってからもハワイにくまのプーさんを連れて行くほどです。
おぐりんの母は家政科出身で、料理や編み物、お花、洋服作りまでこなす人でした。リカちゃん人形の服も子どもの服も手作りで、その境目があまりなかったことが、人形を「人」として扱う感覚につながっているのかもしれません。えばちゃんはそもそも家に人形がいなかったため、母親への愛着すら、小学一年生で友達の話を聞いて初めて知ったといいます。
自我はいつ降りてきたのか
えばちゃんは、一人の時間が多いと「考える」のだといいます。だから子どもの頃から、「自分が自分だっていう意識のまま、この先80年も生きなきゃいけないのは大変だな」と思っていたそうです。自我が早くから発達していたわけです。
自分が自分だっていう意識のまま、この先もう80年ぐらい生きなきゃいけないのってめっちゃ大変だなって思ってた。
対しておぐりんは、そうした感覚を持つようになったのは「ここ数年」だといいます。自分は集団とちょっと違うのかもしれない、自分がやることはうまくいかないことがある——そう知るようになったのが最近だと語ります。えばちゃんはそれを「自我が発達している」と評しました。
おぐりんによれば、うまくいかない出来事が「点」でしか起きないうちは、ただのケースとして流れていきます。それが毎年、あるいは3ヶ月ごとに繰り返し来るようになって初めて、「あれ、俺おかしいのかもしれない」という自己認識が始まったといいます。興味深いのは、それが始まってからの方が「自分のことを好きになっている気もする」と語った点です。
うまくいかないことは「点」でしか起きず、一つのケースとして流れていった。
繰り返し起きるようになり「自分は違うのかもしれない」と気づく。むしろ自分を好きになった。
この違いを、二人は「教室」に例えて話します。おぐりんは、えばちゃんのような一人遊びが得意な子に、当時は気づけなかったといいます。ただ自分自身については、二人組に入れない側の自分もいれば、そういう子に気づかない側の自分もいて、「両方の世界を行き来している気がする」と表現しました。
捨てられないから増やさない
おぐりんが3人での旅行で「二人組に入れない自分」を見るという話から、会話のボールの話に発展します。AさんとBさんの間でずっとやりとりが起きていると、「Cさん(=自分)はいらなくないか」と感じてしまうというのです。
えばちゃんの受け取り方は正反対でした。気心が知れた相手であれば、二人が仲良く話していて自分は自由にしていていい状態は「なんて楽で楽しいポジションなんだろう」と感じるといいます。ただしこれは関係性次第で、おぐりんの場合は「まだ3、4回しか会っていない人」との旅行だったため、「次からは二人で行けばいいのでは」という気持ちになったのだと分かりました。界隈が一緒であることと、旅行に行けるかどうかは別の話だ、という発見です。
そしてこのエピソードの原点である「物が捨てられるか」の話に戻ります。おぐりんは、物が捨てられないのと、LINEを交換すること、通知を切らないこと、フォローを外さないことが、すべてつながっていると認めました。
捨てるとかやめるとか終わらせるとかすごく苦手。だから増やさない。でもだから淀むのかもしれない。流れてない川みたいな感じ。
お堀だよ、お堀。住んでるよ、生物が。
捨てるのが苦手だから、そもそも増える機会に行かないようにする。Facebookの友達も、家の物が増える買い物の場所も避ける。新しい人との出会いも年に数人程度だといいます。溜め込んで安心したい、という性質が、人にも物にも共通していると本人が整理しました。
物に対する態度と人に対する態度は実は一緒かもしれない——そんな仮説で、二人の対照的な性格が一本の線でつながっていきました。「入れ替えてみたら?」とえばちゃんが軽く投げかけたところで、本編は幕を閉じます。
まとめ
LINEの未読を溜める派・ゼロ派の違いから始まった雑談は、子ども時代の遊び方、自我の発達、そして「物や人を捨てられない性格」まで、一本の糸でつながっていきました。おぐりんの「増やさないから淀む」という自己分析と、えばちゃんの「淀んだお堀」というツッコミが、二人の対照的なあり方をよく表しています。
友達か、界隈の仲間か。人形は物か人か。同じ教室にいても、見えている世界はこれほど違うのかもしれません。自分と相手の「捨て方」の違いを覗いてみると、案外自分自身のことが見えてくる回でした。
- 「友達」と「界隈の仲間」の違いは、その界隈じゃない話でも一緒に楽しめるかどうかにある。
- えばちゃんはLINEをプライベートな環境と捉え未読ゼロ、おぐりんはパブリック化して未読が溜まるタイプ。
- 子どもの頃、えばちゃんは人形を「物」として家具のレイアウトで遊び、おぐりんは人形を「大事なお友達」として扱っていた。
- えばちゃんは自我が早くから発達し、おぐりんは「うまくいかないことが繰り返し起きて」ここ数年で自己認識が深まった。
- 物を捨てられない性格と、LINEを交換し通知を切らない態度はつながっており、だからこそ増やさないようにしている。
