「暇」はよどむのか、遊べるのか
前回、時間切れで持ち越した「暇は平気か」というテーマから対話は始まります。おぐりんにとって暇は「よどむ」もの。何をするでもなく、盲目的に時間が過ぎていく感覚だといいます。
一方で、釣りに行く前後に釣果や天気予報を調べている時間は「暇を遊べている」のだそう。同じ空き時間でも、楽しめているかどうかで質がまったく変わってくるという発見です。
えばちゃんが「暇とは、やることも、やらなきゃいけないこともなく、何しようかなと考える時間」と定義すると、おぐりんは「やらなきゃいけないのにやってない時間」ならある、と返します。だから暇だと思えないのかもしれない、と。
やらなきゃいけないことがない時間ってあんまりないんだよね。やらなきゃいけないのにやってない時間なら存在するんだけど。
週末にミーティング資料を作るとき、48時間のうちいつやるかは決めていない。時間が差し迫ってくると、あるいは夜遅くなるとやり始める。二人とも「夏休みの宿題」型だと笑い合います。
仕事は楽しいか、無事に終わればいいのか
えばちゃんは「やることに楽しみはあるの?」と問いかけます。おぐりんの答えは「あまりない」。かつては複数の車輪を同時に回すようにマルチタスクをこなしていたのに、今は一つの車輪を回すのも大変だといいます。
私の名刺、仕事は楽しくって書いてあるからね。
おぐりんにとって仕事の楽しさは、山を登っている最中ではなく「山頂に着けたから嬉しかった」という結果側にあります。成果を出す自分にワクワクするというより、想定の範囲内に収めることを考えているのだと語ります。
結果(山頂)で嬉しくなる。想定の範囲内に収め、「無事に終わってよかった」がゴール。コントロールできないと落ち着かない。
「めんどくさいけど、ちょっと楽しみ」があれば車輪は回る。すごいものができるかもしれない、という期待がある。
ミーティングが終わると「無事に終わってよかった」という感情になり、「今日はこれが終わったから夜ビール飲みたいな」という気持ちになる。うまく着地できたかどうかにかかわらず、そう感じるのだそうです。
コントロールできないことは落ち着かない ── だから共同作業が苦手で、ファシリテーターの役割も手放しづらい。興味深いのは、金銭が発生しないゲームなら別の顔になる点です。「オーバークック」で米を投げたりフライパンを火事にしたりできるのは、対価への罪悪感やエゴが出てこないから、と分析します。
褒められた人しか、人を褒められない?
羊飼いの牧羊犬が生き生きと働いているという話から、えばちゃんが「褒められるしね」と一言。おぐりんは「俺、褒められないんだ」「褒められ足らないのか」とハッとします。
ここでえばちゃんが、知り合いのパーソナルトレーナーのジムでの話を紹介します。新人がお客さんを褒めることができない。その理由は「褒められてこなかったから」ではないか、というものでした。
おぐりんが子供の頃に褒められた記憶をたどると、「お行儀がいい」「元気に挨拶できる」「勉強で遅れている子に上手にアドバイスする」など。母親の料理コンテストに同行した際、言われなくても洗い物をこなし、借りたものと家のものを分けていたことを褒められ、帰りにハンバーグを食べた ── そんなエピソードも出てきます。
つまり、要領よく気を利かせて何かをこなすことに対して褒められてきた、というのがおぐりんの自己分析です。えばちゃんの「今片付けうるさいもんね」というツッコミも入りつつ、褒められ方の偏りが浮かび上がります。
自分のバイアス上クリアした長所しか、僕は多分長所として取り扱わないんだよね。
おぐりん自身、人を褒めるときも「長所」に強いバイアスがかかっていると認めます。本当は一人ひとりに長所があるのに、自分の物差しでクリアしたものだけを長所として扱ってしまう、と。
外の評価軸と、自分の中の物差し
「褒められる」と「感謝される」の違いから、対話はさらに深まります。おぐりんにとって感謝は「取り組みや成果」に対するもの、褒めは「その人の存在や才能」に対するもの。えばちゃんは「あんまり変わんないな」と受け止めが違います。
粘土細工が独創的にできた、といった「その人が持っている才能」に向けられる他者のアクション。
粘土を分けてくれた相手への「ありがとう」のように、自分とは別に出てきた何かや取り組みに向けられるもの。
えばちゃんは、聞いていて自分の傾向に気づきます。「私、褒めてるのが私に届いてないんだな」。他者から賞賛されても、自分という存在をわかっていない相手の言葉として受け取ってしまう、というのです。「めちゃめちゃ褒められました。いや、こんなんじゃねえんだよなみたいな気持ちになる」。
一方おぐりんは「感情の人間なので、周りから褒められないと何も良いってならない」と正反対。他人軸の評価に乗って初めて自分にOKが出せるタイプだと語ります。子供の頃の書道で、選ばれて張り出されれば「上手だね、OK」となり、選ばれなければ落選、という世界です。
選ばれるとあなたは絵が上手なんですね。知ってる。選ばれなくても知ってる。
ここでおぐりんが「物差し」という概念を持ち出します。もともと自分の中に物差しがある人と、外的評価がOK/NGのラインになっている人がいる。後者も年を重ねると自分の物差しができる可能性があるのではないか、と。
例に挙がるのは、スポーツ選手や表現者の「引き際」。代表やスタメンをめぐる外的評価から始まっても、長く続ける人は途中で「そのスポーツが好き」という内的な物差しに変わっていくのではないか。宮里藍さんや安室奈美恵さんの引退の潔さを「辞められない、引きずる自分」と対比して、おぐりんは憧れを語ります。
ただし、おぐりん自身に今その物差しがあるかと問われれば「ありません」。だからよどむのだ、という話につながっていきます。
ホワイトエンジンと「全部手放す」という発想
唯一変わったのは、「外の何かを追いかけて疲弊することに意味はなさそうだ」と気づいたこと。えばちゃんはそれを「軽油じゃないとわかったけど、何のエネルギーで走るのかはわからない」と言い換えます。
ここで「ブラックエンジン/ホワイトエンジン」という言葉が出てきます。おぐりんいわく、ブラックエンジンはなくなった。でもホワイトエンジンへの切り替えがうまくいかず、今エンジンがない状態だといいます。
ではどうするか。おぐりんが挙げる方法のひとつが「今持っていると思っているものをすべて手放す」こと。仕事、収入、こなせてしまうスキル ── それらがなくなったとき、視界が開けるのかもしれない、と。
ブラックエンジンで走ってきたが、今はそのエンジンがなくなり、動き出せない。仕事・収入・スキルを握りしめたまま、よどんでいる。
持っていると思うものを手放したとき、もしかしたら視界が開け、ホワイトエンジンが見つかるかもしれない。ただし確信も予感もない。
えばちゃんが「それに踏み出せるのか」と問うと、おぐりんは夏の研修に参加したり、起業の話に反応したりする自分に触れます。今の延長線上やパラダイムからはホワイトエンジンは生まれてこない ── そのことを、頭では知っているのだろうと語ります。
おぐりんは、足裏のツボ押しの名人に「コンビニ弁当を食べないでしょう。体が反応しているのよ」と言い当てられた体験を持ち出します。人間の感覚は思考より深いところで選び、避けている。だから今やろうとしていることも、無自覚にホワイトエンジンの方へ向かっているのかもしれない、と。ただし本人は「わからないです」と正直です。
死ぬ間際になって気づくことの方が多いのかもしれないね。
圧倒的マイノリティになるという経験
えばちゃんが「今から仕事を辞めて人間関係を全部絶ってドイツに住むとかは?」と投げかけると、おぐりんは20代の頃に2回ほど思ったことがある、と打ち明けます。仕事がつらく、「トラックに轢かれた方が楽だ」と思いながら帰る日々のなかで、誰も自分を知らない街へ行きたくなった、と。
そのとき高校時代の友人に言われたのが、「落ちるのは簡単だけど、戻ってくるのは大変だよ」。えばちゃんはこれを「なんてつまらないこと」「落ちるという表現自体」「評価だね」と一刀両断します。
ここでえばちゃんが、オーストラリアで羊飼いをした経験を語ります。英語が堪能になったわけでも、友達ができたわけでもない。それでも一番良かったのは「圧倒的マイノリティになったという経験」だといいます。
おぐりんは「自分なら立ち直れないかもしれない」「喋れないから道も聞けない」と怯みますが、えばちゃんは「野垂れ死ぬと思ったら聞けるから大丈夫」と笑います。バスは「たまたま人が乗っているだけ」の感覚で運行され、決して便利ではない ── そんな不便さの中で得たものだったのです。
なぜ行ったのかと問われ、えばちゃんは「何もなかったから、変わるかもしれないと思った。行って何も変わらなかったけど」と答えます。小学5年生の頃、目標がないことを先生に注意され、話を終わらせたくて「海外に住みたいです」と嘘をついた ── その記憶にもつながる話でした。
僕、内的にはなくても有用性が発揮されることで、先生から怒られることはなかったわ。
二人とも「内的にやりたいことがない」点は共通しています。ただ、おぐりんは有用性を発揮して評価を得るタイプ、えばちゃんは大人を「よくわからないから心配させる」タイプ。おじさんの先生には難しい問題を当てられて可愛がられた、という違いも面白いところです。
最後は再び冒頭のテーマへ。「貰ったものは捨てられるか」から始まり、ストック型で過去に生きているのか、今を生きているのか。「暇は楽しめるか」も、結局は「ストックの倉庫を捨てればいい話」なのかもしれない、と話は行き来します。ストックを貯めることが自身の解放と統合には向かっていない ── そう認識してはいる。でも「知ってると、できるは違う」と、おぐりんは締めくくります。
| 観点 | おぐりん | えばちゃん |
|---|---|---|
| 内的な目標 | もともとない | もともとない |
| 評価との関係 | 有用性で評価を得て安定 | 褒められても自分に届かない |
| 物差し | 外的評価が軸/内的な物差しはまだない | 自分の中に別の基準がある感覚 |
| 未知への態度 | 手放す発想はあるが踏み出せない | 実際に海外へ飛び込んだ |
まとめ
「暇は平気か」という素朴な問いから始まった対話は、仕事の楽しさ、褒められること、外の評価軸と自分の物差し、そして未知の環境へ飛び込む経験へと広がりました。
答えは出ません。おぐりんは自分の中にまだ物差しがなく、ホワイトエンジンも見つかっていない。えばちゃんは他人の賞賛が自分に届かない感覚を抱えている。それでも二人は、モヤモヤを言葉にしながら、その正体を少しずつ確かめようとしています。「知ってると、できるは違う」 ── その手前で立ち止まる時間そのものが、この回の味わいだといえそうです。
- 「暇」は、楽しめているかどうかで「よどむ時間」にも「遊べる時間」にもなる。
- おぐりんは結果や外的評価で満足するタイプ。「無事に終わってよかった」がゴールになりがち。
- 「褒められた人しか人は褒められない」── 褒められ方の偏りが、人を褒めるときのバイアスにもつながる。
- 外的評価が軸の人も、年を重ねると自分の中の物差しができる可能性がある。おぐりんは今その途上でエンジンを探している。
- えばちゃんが海外で得た一番の収穫は「圧倒的マイノリティになった経験」。持っているものを手放すことに、転換のヒントがあるかもしれない。
- 「知ってると、できるは違う」── モヤモヤを言葉にしながら、答えの手前に立ち止まる回。
