メンタルモデルという自己理解の入り口
二人はまず、前回話題にしたメンタルモデル人が世界や自分自身をどう捉えているかを形づくる、無意識の思い込みや前提のパターンのこと。行動や感情の根っこにある「心の型」を指す。の話に戻ります。参照されているのは、由佐美加子『ザ・メンタルモデル』の著者。人が抱える無自覚な痛みや思い込みのパターンを4つに整理し、自己理解や対人関係の探求に用いる考え方を提唱している。さんの『ザ・メンタルモデル』という本です。
おぐりんは自身を「欠陥・欠損」タイプだと説明します。これは「自分はこの世の中にいてはいけないものだ」と感じてしまう心の型です。一方でえばちゃんは、人間の欠けているところこそが一番美しい、という価値観もあるよねと返します。米津玄師日本のシンガーソングライター。孤独や欠落、生きづらさを繊細に描く歌詞で幅広い世代に支持されている。の歌詞を見ているとそう感じる、と。
自分が思っているよりも、周りの人は自分のこと結構好きでいてくれてるっていうのがあるかもしれない。
おぐりんは「勝ちなし(価値なし)かなと思っちゃう」と揺れますが、負けると居場所がなくなるという感覚は「欠陥・欠損」側だと整理します。自分には決して埋まらない欠損がある。「だっているだけで毒なんだよ」と、自らを毒まんじゅうにたとえます。それでも「毒が好きな人もいるらしい」と、欠陥・欠損の人同士はどこか惹かれ合うのかもしれない、という話に落ち着きます。
えばちゃんは自分を「ひとりぼっち」タイプだと言います。どうせ人は分かり合えないし、人は一人なんだから、みんな好きにすればいい。最初から世界なんてない、という感覚です。その根っこには、以前語られたおばあちゃんの死という痛みがあり、「こんなに痛いものが待っているのであれば、最初から世界なんかない方がいい」という思いにつながっているようです。
同調圧力は感じる側か、出す側か
話題は「同調圧力を感じたことがあるか」という問いへ。えばちゃんは自分自身が同調圧力を感じたことはあまりない、けれど他人が感じているのは見たことがある、と言います。「みんながやってるならやらなきゃ」という空気です。
対しておぐりんは、自分は圧力を感じる側ではなく、むしろ出す側だったのかもしれないと気づきます。コミュニティの真ん中で大きな声で楽しく喋っていると、その輪の外にいる人が勝手に圧力を感じてしまう。本人にはそのつもりはないのです。
集団の真ん中にいなかった。同調圧力を自分では感じない。他人が感じているのを外から見ている。
コミュニティの真ん中〜輪の中にいた。無自覚に圧力を「出す側」だった可能性が高い。
おぐりんは、自分が見た目より「調和型」であるエピソードも語ります。小学生の頃、塾で先進的に勉強していた自分は、クラスで「ミニ先生」として答えではなくヒントを伝えて回っていたと通信簿に書かれていたそうです。えばちゃんは「もっとおらついてると思ってた」と意外がりますが、おぐりんは「ベース調和型なんだけど、末っ子の超わがままも同時に持ち合わせている」タイプだと自己分析します。
働かざる者食うべからずって思ってたもんだずっと。だからそれ、出してるんだ。
おぐりんは、権利と義務では義務を果たしてから権利を主張すべきという、封建社会の御恩と奉公鎌倉時代の武士社会を支えた主従関係の原理。主君が家臣に土地などの恩恵(御恩)を与え、家臣は軍役などの奉仕(奉公)で応える双務的な関係を指す。のような感覚が強いと語ります。「野武士みたい」と表現されて腹に落ちた、と。こうした価値観が、無意識のうちに他者への同調圧力として滲み出ていたのかもしれません。
村の外れに家が建つ人と、安全な場所が息苦しい人
えばちゃんは、いつも「村の外れに住んでいるコミュニティ外の人」のような扱いを受けると言います。しかも意識してそうしているわけではありません。気がついたら、自分が家を建てた場所とは違うところに集落ができていた、という感覚です。
気がついたら、そこがキャンプだったんだ、あ、地だったんだってなる。
意地悪をされるわけでも、積極的に仲良くされるわけでもない。ただ時々、誰かがそのコミュニティではしない話を持ちかけてくれる。そんな距離感です。ここから二人は、同調圧力や空気を読むかどうかは「みんなが集まる場所に家を建てた人たちのパラダイム(前提)から始まるのではないか」と考えます。生存戦略から見れば、みんなが集まる安全な場所に家を建てるのは正しいのです。
ところがおぐりんは逆で、みんなの家が建ってくると「ここじゃないな」と別の場所に行きたくなると言います。みんながいる安全な場所が息苦しくなってくるのです。
生活的な安全が保証され、充足に近づいている場所。
「つまらなくなってきちゃう」。刺激が足りず、息苦しさを感じて別の場所へ向かいたくなる。
なぜ野武士になってしまったのか。刺激が足りないのでは、という仮説は立つものの、二人ともはっきりとは分かりません。ここでも会話は答えに向かうより、互いの違いをそのまま並べていきます。
上昇の幸福と充足の幸福
「暇は平気か」という問いから、話は幸福のかたちへ進みます。おぐりんはかつて、やればやるだけできるようになり、積み上がる感覚があったと言います。時間は「自分の何かを上昇させるために使えるリソース」でした。ところが四十近くで飲食のホールの仕事をして、若い人の機敏さにかなわないと痛感します。もう上昇しない、維持で精一杯となったとき、暇はむしろ充足的な大事な時間に変わったのです。
暇 = 埋めるべき時間。やれば上昇できるリソースだった。
暇 = 充足的で大事な時間。上昇しなくなったことで味わえるようになった。
おぐりんは、かつての自分をRPGにたとえます。スライムに勝てば次はゴーレム、と強い敵を探し、剣を磨き、混乱に陥りながらも戦い続ける。「その敵に勝つぞ」となっている時期は忙しかった、と。ところがえばちゃんは、「それをやったことがないかもしれない」と返します。
どんなに一生懸命やって周りから見えたとしても、自分の限界までやったぞみたいな感覚を一度も得たことがない。
おぐりんが「これまでの人生で欲しかったものは?」と尋ねると、えばちゃんは何度も「ない」と答えます。何かを欲して何かをする、ということがない、と。真面目でストイックに見えても、根っこに「欲しいもの」がないのです。一方でおぐりんは、自分が欲しかったのは「居場所」だったと振り返ります。自分という存在がいていいのだ、と自分自身が思えること。成果を出すのも、その居場所を作るためだったのだと言います。
ここで二人はエネルゲイアとキーネシスアリストテレスに由来する運動の区別。キーネシスは始点と終点があり、達成が目的の運動。エネルゲイアは「今なしつつあること」そのものに意味がある運動を指す。の概念を持ち出します。えばちゃんの説明によれば、キーネシスは始点と終点があり、移動や達成が目的で、効率的に速やかに成し遂げるのが好ましい運動。エネルゲイアは、今なしつつあるものがそのまま価値や意味を持つ、プロセス自体に意味がある運動です。
始点と終点がある。達成が目的。効率的に速やかにが好ましい。えばちゃんいわく、自分のエネルギーはこちら寄り。
今なしつつあることがそのまま価値を持つ。プロセス自体に意味がある。
面白いのは、えばちゃんが「計画を立てるのは好きだが、達成することに1ミリも興味がない」と語る点です。計画を立てるその瞬間が楽しい。完璧な計画を組み上げること自体に喜びを感じる、というのです。おぐりんはこれを、キーネシスは「ガソリンを燃やしている感じ」、エネルゲイアは「水素のように循環している感じ」とたとえます。さらに二人は、計画的で効率的な農耕(弥生的なもの)と、そうでない縄文的なものにも話を重ねていきます。
水が飲みたいなら水が欲しいと言え
ようやくテーマの中心へ。えばちゃんが本題として持ち出したのは、「集団の調和の正体とは何か」、そして「空気」と「水を差す」という話です。参照するのは山本七平『「空気」の研究』などで知られる評論家。日本社会における「空気」の支配や意思決定のあり方を鋭く分析したことで知られる。の『「空気」の研究』です。
物質でしかないものに「何かが宿っている」と感じてしまう捉え方。えばちゃんは、遺跡の遺骨を並べる作業で日本人スタッフだけが具合を悪くしたという逸話を紹介し、これが日本人の感じる「空気」の源だと語る。
「気がいい」「気が悪い」と言うように、言われていないことを感じ取る文化がある。えばちゃんはここで、自身の好悪をはっきり示します。言われていないことを感じさせようとする人が嫌いだ、と。象徴的なのが「水」の例です。
水が飲みたい人が、水をくださいって言わないで「喉乾いたな」っていう人いるじゃないですか。あれは何?
気に留めて欲しいんじゃない? ……僕でもやるかもな。
えばちゃんはさらに踏み込みます。家の中で「ここ全然片付いてないな」と言うのではなく、片付けてほしいなら「片付けてほしい」と言えばいい、と。おぐりんは「相手に指示を与えることへの恐れがある」と打ち明けますが、えばちゃんはこう切り返します。それは指示ではなく「お願い」であって、片付けるかどうかを決めるのは自分だ、と。
とはいえ、お願いが続きすぎると「またお願いしてきたよ」とうるさがられないか、とおぐりんは心配します。えばちゃんは「自分が至らないんだなと思う」と受け止めつつ、要求水準が高いほどコストも高くなるのは確かだと認めます。結局、基準の違う人と人が一緒に生活するのは難しい、という毎回おなじみの結論に戻っていきます。
察することの光と影
「喉乾いた」で水を求める癖は、発達の過程に関係するのかもしれない、とおぐりんは考えます。子供は最初、泣くことでしか表現できません。やがて言葉を覚えても「嫌だ」しか言えない時期がある。そこで「あなたはどうしたいの?」と聞いてもらえれば、自分の望みを言葉にする練習ができます。逆に叱責を受け続けたり、聞かれずに来てしまうと、望みを言葉にするプロセスを踏まずに育つのかもしれません。
えばちゃんはもう一つの側面を指摘します。「喉乾いたよね、水だよね、麦茶だよね」と過剰に察されてしまう子もいる、と。二人はここで、大切な気づきにたどり着きます。
自分で考える機会を奪ってるんだよね、両方ね。
おぐりんは、自分もチームマネジメントで察して先回りしてしまうと打ち明けます。その結果、自分がいなくなると問題が起きる、という状況が生まれる。察することには光と影の両方があるのだと、二人は確認し合います。
どこから見るかで意味は変わる
終盤、おぐりんは今回の対話を通じた気づきをまとめます。「集団の調和を重んじるべきだ」という価値観を強く感じるのは、帰属先や参加先が限定的なときではないか。逆に、界隈や参加先が増えていくと、その規範に従うか従わないかが自律的な選択に置き換わる。だから帰属先を増やしていくのは一つの良いことなのだろう、と。
おぐりんは、自分は「ないけどあるものにして察することで生存戦略を高めてきた人間」だと振り返ります。しかし何かを先に閉じて閉じていくことで、失われつつあるものもたくさんあるのだろう、と。
一方えばちゃんは、集団の真ん中にいたわけでも同調圧力を感じたわけでもなく、規範を重んじる場所から外れて生きてきました。それでも、集団の規範がなければ集団は維持されず、平和でなくなり「常に戦国時代」になってしまう。だからガチガチにルールで縛るのではなく、お互いに何かを察して曖昧な中で読み合って進む、そんな日本人的なものは割と好きだ、と語ります。ただし「自分がそれを実践できているかは別」で、何を大事にすればいいのかよく分からないまま、このテーマを話そうとしていたのだと認めます。
集団の調和は、どこから見るか、どの長さで見るかによって意味が変わります。掟によって結ばれた集団は秩序と安心を生む一方、村八分のような排除も生む。だから問いは、良い悪いではなく「自分が今そこにいて、いいなと思えているかどうか」に落ち着くのかもしれません。角度が合っていないと感じたら、角度を変えればいい。二人はいつものように幸福の話に寄っていきながら、まとまらないままこの回を閉じます。
まとめ
この回は、集団の調和というテーマを掲げながら、あえて結論を出さずにモヤモヤを味わう対話でした。同調圧力を「出す側」だったおぐりんと、村の外れに家が建つえばちゃん。上昇の幸福を生きてきた人と、欲しいものが「ない」人。二人の対照的なあり方が、「察する文化」の光と影を浮かび上がらせます。
「水が飲みたいなら水が欲しいと言え」という一言は、日本的な察しの美徳への問いかけであると同時に、自分の望みを自分の言葉にする大切さを示しています。過剰に察することは、相手が自分で考える機会を奪ってしまう。それでも、曖昧な中で読み合って進む文化を愛する気持ちも消えません。答えは出ないけれど、どこから見るかで意味は変わると気づけること自体が、少し楽になるヒントなのかもしれません。
- おぐりんは「欠陥・欠損」、えばちゃんは「ひとりぼっち」というメンタルモデルから自己理解を試みる
- 同調圧力は「感じる側」と、無自覚に「出す側」がいる。おぐりんは後者だった可能性が高い
- 上昇の幸福(キーネシス)と充足の幸福(エネルゲイア)という対比で、二人の生き方の違いが見えてくる
- 「水が飲みたいなら水が欲しいと言え」──日本的な察しの文化への問いかけ
- 過剰に察することは、相手が自分で望みを言葉にする機会を奪ってしまう
- 集団の調和はどこから・どの長さで見るかで意味が変わる。良し悪しより「今いいと思えているか」
