集団の調和を重んじる価値観はどこから来たのか
話は前回のピザの話から続き、「集団の調和を重んじるべきだという価値観は、そもそも世の中に存在しているのか」という問いへと移っていきます。
おぐりんは「集団の調和を重んじるべきだ」という概念を自分が持っていると言います。そしてそれは、小さい頃に身につけたものだろうと振り返ります。周りに迷惑をかけてはいけない、普通であることは大事だ、という親の言葉や、学校での集団行動の教育を通じて、その価値観が自分の中に染み込んでしまったのではないか、という見立てです。
ただし、その価値観にはいい部分もある一方で、不自由さを感じたり、したくないことをしている場面が出てくると言います。
集団の調和を重んじるべきだっていう概念を持っているし、多分その概念を小さい頃に身につけているんだと思うんだよね。
これに対し、えばちゃんには「解せぬところ」がいくつかあると言います。まず投げかけられたのが「学校で集団行動って教わった?」という素朴な疑問でした。おぐりんは起立・着席・挨拶といった動作を集団行動の例に挙げますが、えばちゃんは「そもそも集団行動というものがよくわかっていなかったのかもしれない」と、そのズレを率直に口にします。
一対一にも「空気」はあるのか
えばちゃんは「一対一だと集団の調和という感じがしないのでは」「空気形成がされないよね」と指摘します。集団があってこそ「空気」が生まれるという発想です。
しかしおぐりんは、一対一の間にも空気はあると考えます。例えば帰り道、心を開いていない相手、自分が自分のままいられない相手とたまたま二人きりになったとき、途中下車したりルートを変えたりしようと一生懸命考えてしまうと言います。
えばちゃんが「イヤホンをつければいいのでは」と提案しても、おぐりんはそれができないと言います。一緒に帰っている以上、隣に座りながら一人の世界に入ることはできない。だから場所そのものを変えるという選択を取る。そこに「空気」が存在している証拠だ、というわけです。
「まいいか」と思ったら車両を変える。同じ電車に乗ったまま、隣の車両へ移る。
そのソリューションは持っていない。電車そのものを降りる、あるいは普段とは違うルートで帰る。
五人ほどのグループになると、えばちゃんは「みんなと一緒に電車に乗るのがめんどくさい」と感じて一駅歩くこともあると言います。おぐりんはそれを「集団の調和を邪魔しないようにすっと離れる行為」と捉えますが、えばちゃんの動機は調和ではなく、単純な「めんどくさい」に近いようです。
そしておぐりんは、集団の中では「したくもないのに会話の中心で喋っている人」になっているかもしれないと打ち明けます。陽キャではないのにそれをやってしまうから、その場から降りたくなってしまう。自分の感情に素直に生きられないと感じる場面がある、という告白でした。
嫌われたくないという根っこの感情
いい顔をしなくてもいい場面でも、いい顔をしようとしてしまう。おぐりんはその根幹に「嫌われたくない」という感情があるのではと自己分析します。
もっとも、いま面と向かって「本当に嫌われたくないの?」と問われると、「別にいい」と思えてしまう。ただ、かつては違ったと言います。何かを失うことが「この世の終わり」のように傷つき、「あいつはできない」と思われることへの恐れが根っこに強くあった、と。
その変化のきっかけとして挙げられたのが、えばちゃんから一度だけ言われたという問いでした。
おぐりんが変われたのは「みんなに好かれるために人生を生きているわけではない」と思えたからだと言います。ここでもう一つ引用されたのが、キングコングの西野亮廣さんの著書『革命のファンファーレ』にあったという一節です。百人いたら九十九人に嫌われても、一人が好きならいい。そう考えれば、世界には六千万人もの好きと言ってくれる人がいる――という発想が強く記憶に残っていると語ります。
一方のえばちゃんは、評価されることや嫌われること、罵声を浴びせられることはもちろん嫌だとしつつ、「ダメだと思われることが、自分と関係ない話をしているという感覚が強い」と言います。おぐりんが「自分のことじゃない話でも、自分のことを話されていると思ってしまう」タイプなのとは対照的です。誰かのヒソヒソ話や、自分が来た瞬間に会話が止まる場面に、ソワソワしてしまう。だからこそ、そういう場面に出会わないよう行動を選んでしまう、というわけです。
おぐりんは、この「嫌われたくないから行動する」という理解に至れたのは、物事を切り分けられるようになった後だと振り返ります。切り分けられる前は「みんなの何かに従わなければいけない」と捉えてしまい、異常なほど気にしていた。しかし切り分けてみると、単に「自分は嫌われたくないんだな」と理解できた。だから今は、集団の調和を重んじるべきだとはあまり思っていないと言います。それは、自分にとって大事なものは何かという物差しが少し見えたからだ、と。
物事が切り分けられておらず、「みんなの何かに従わなければいけない」と捉えて異常なほど気にしていた。
「自分は嫌われたくないんだ」と切り分けて理解できた。今は嫌われても何も思わないと言える。
三列に並ぶホーム、あなたはどうする?
ここでえばちゃんが具体的な問いを投げかけます。「三列並ぶところにみんなが二列で並んでいて、三列目の一番目に並んだら怒らない?」というものです。
三列並ぶところにみんなが二列で並んでいて、三列目の一番目に並んでも怒らない?
おぐりんの答えは「指摘すると思う」。ただし、割り込んだ人を責めるのではなく、前に並んでいる人たちに「後ろが詰まってきているので、順番に三列に並んでください」と伝え、調和を整え直す方向に動くと言います。つまり、後から三列目に立った人には「後ろに行ってください」と促し、二列で並んでいた人たちを前から三列に並び替える、というやり方です。
調和を整え直すのね。集団の調和の方を調整するんだね。
えばちゃんはここで鋭い指摘をします。「それはルール優先ではなく、空気を優先したということだよね」と。三列に並ぶ場所に二列で並んでいたなら、一列は空いている。ルール上はそこに立ってもいいはずなのに、おぐりんは「二列で並んでいる空気」の方を整えにいったからです。
おぐりんは、朝の超ラッシュ時の品川駅や渋谷駅なら三列びっしり並ぶこともあるが、それ以外の時間帯は肩がぶつかりそうな距離では並ばないと感じている、と言います。だから「二列で並ぶ距離感」が自然なのだ、というのが彼の感覚です。
一方えばちゃんは、二列でルーズに並んでいる状態を「そんなに几帳面になる必要がないよね、という感じで並んでいる」と解釈します。扉が開いたとき、誰から入っても目くじらを立てる時間帯でもないし、個々の事情もある。そういう「ゆるさ」を含んだ状態だと捉えているのです。
ルールより空気が優先される日本
おぐりんは、品川駅のほぼ最終の新幹線で、三列目に入ってきた人に対しておじ様が怒っていた場面を見たことがあると話します。お酒も入っていたかもしれないが、自分も少しモヤっとした、と。
それに対してえばちゃんは「大変日本的だ」と評します。ルールより空気が優先される、という日本社会の特徴が表れている、というのです。
おぐりんも「もしこれが海外でされたら、そういうルールなんだと思うかもしれない」と応じます。えばちゃんは、ルールを優先して国づくりをしている国家の例として中国を挙げ、道徳よりルールの方が強い社会もあると指摘します。おぐりんが「儒教の国なのに」と返すと、えばちゃんは「でも法を作って政治をしていた」と、秦の始皇帝の時代からの法治の流れに触れます。
話は横入りへと展開します。おぐりんは、新幹線などで並ぶ列にカバンを置き、自分はベンチに座り、電車が来そうになったらカバンのところに立って「並んでいました」という顔をする人が苦手だと言います。えばちゃんが「その人がカバンを置いていても生身で立っていても、自分の順番は変わらないのでは」と冷静に返しても、おぐりんは「カバンを並べていた人の後ろには並びたくない。後から来て自分の前に立つのが嫌なんだ」と言います。
おぐりんはこの違和感を、サンデルの著書に出てくる「公聴会のチケットを取るために、ホームレスの人にお金を払って並んでもらう」という事例と重ねます。えばちゃんもこの事例には違和感があると言いますが、その理由は少し違います。えばちゃんは「あまりに経済合理性で行動しすぎて、それが当たり前になる人類は嫌だ」という視点から違和感を覚えると語ります。おぐりんはそこに、ホセ・ムヒカ元大統領のスピーチ――人間は経済をコントロールできておらず、何が幸福かもわかっていない――を思い出すと応じます。
ただ、おぐりん自身も「横入りがなぜこんなに嫌なのかはわからない」と正直に認めます。理屈ではなく感情として強く反応してしまう。そこにこそ、この回の「モヤモヤ」が凝縮されているようです。
空気は読めますか?暗黙の了解というモヤモヤ
軌道修正して次の問いへ。「空気は読めますか?」。おぐりんは「読める」と即答しますが、えばちゃんは「わからない」と答えます。みんなが喋っているのを見て「今こういう空気だよね」はわかるが、暗黙の了解がいまいちよくわかっていない、と言うのです。
おぐりんは、二列で並ぶところの三列目が空いていても立たない、という感覚も「暗黙の了解がわかっていない話だ」と結びつけます。えばちゃんは「それが暗黙の了解だとは認めません」ときっぱり返します。
暗闇に向かってボールを投げ続けてます。返ってこないし、探しにも行ってない。
おぐりんは「髪切ったね」やアイラインの変化に気づいて言ってしまう例を挙げ、これも暗黙の了解の話に近いと言います。「この人に言ったら危ないな」と思う相手には言わない。その線引きが自分にはわかっている、というのです。ところがえばちゃんは、それは相手が押し返していないだけで、女性だけの会話の場では実はアウト判定が出ていることもよく見かける、と指摘します。おぐりんは「実はアウトの可能性が多分にあるってことだね」と受け止めます。
えばちゃんが挙げたもう一つの例は、そこまで親しくない相手が「敵ではありませんよ」というパフォーマンスとして質問をしてきたとき、それにまっすぐ答えるだけで質問を返さない、というものです。「どういう本を読むんですか?」に対し「新書ですね」と答えて終わってしまい、数日後に「間違ってたな」と気づく。相手は聞かれたいから聞いてきている可能性があるのに、それに気づくのが遅い、と自省します。
おぐりんは、えばちゃんが「何の話をしてるんだ」という空気を出している場面を見たことがあるから、自分は自然とゆっくり話すよう調整している、と説明します。これもミラーリングだ、と。えばちゃんは「基本的にみんなが何の話をしているかわからない」と言い、コミュニケーションを「暗闇に向かってボールを投げ続けている」と表現します。返ってこないし、探しにも行かない。でも「みんなもそうなんだと思っている」のが自分の世界だ、と。
対しておぐりんは「まずライトを探しに行く」「投げると壁から返ってくるし、向こうに受け手がいて投げ返してくることもある」と言います。同じ会話でも、二人の「向こうに何かがある」という前提の有無が、まったく違う世界観をつくっていることが浮かび上がります。ここで時間切れとなり、話はまた次回へ持ち越されました。
暗闇に向かってボールを投げ続ける。返ってくると思っておらず、探しにも行かない。みんなもそうだと思っている。
まずライトを探す。「ここだ」と思う場所に投げると、壁から返ってくるし、受け手から投げ返されることもある。
まとめ
この回は「集団の調和を重んじるべきか」という大きな問いを、駅のホームの並び方という身近な場面に落とし込みながら掘り下げていきました。おぐりんにとっての調和は、突き詰めると「嫌われたくない」という感情に根ざしていました。それを切り分けて理解できたことで、いまは調和にそこまで縛られなくなったと言います。
一方えばちゃんは、そもそも集団の調和や暗黙の了解という枠組み自体がしっくりこず、コミュニケーションを「暗闇にボールを投げ続ける」ものとして捉えていました。三列に並ぶホームで「ルールより空気を優先する」おぐりんの反応を、えばちゃんが「大変日本的だ」と見抜く場面は、この番組のモヤモヤの核心をよく表しています。答えは出ないまま、話は次回へと続いていきます。
- おぐりんは集団の調和を重んじる価値観を小さい頃に身につけたと考えるが、えばちゃんは「学校で集団行動を教わった」感覚自体があまりない。
- おぐりんの調和志向の根っこには「嫌われたくない」という感情があり、それを切り分けて理解したことで、いまは縛られなくなったという。
- 三列に並ぶホームで二列になっていたとき、おぐりんは「空気」を優先して調和を整え直そうとする。えばちゃんはそれを「大変日本的だ=ルールより空気が優先される」と評した。
- 横入りへの強い違和感、経済合理性への違和感など、二人の引っかかりの理由は微妙に異なる。
- コミュニケーションについて、おぐりんは「投げれば返ってくる」、えばちゃんは「暗闇に投げ続けている」と、前提となる世界観が大きく異なる。
