死んだら泣いてほしい、という願い
話は「死ぬのは怖いか」という問いから始まります。みつさんの怖さは、自分がいなくなる世界が想像できないというもの。しかも「自分がいなくなった途端、この世界はなくなりそう」という感覚を持っています。
おぐりんはここで、世界の捉え方を二つに分けて整理します。輪廻転生をする物心二元論心(意識・魂)と物質を別々のものと考える立場。ここでは、肉体が死んでも意識が続くという世界観の例として使われています。か、死んだ瞬間に世界が真っ暗になる物心一元論心と物質を一つの原理で捉える立場。ここでは、自分が死ねば世界そのものが消えるという世界観の例として使われています。か。みつさんは「一元論だと思う」と答えます。世界は自分を中心に回っていて、自分がいなくなればなくなる。他人の世界は続くのかもしれないが、それは別のパラレルワールドの話だ、という感覚です。
そして飛び出したのが「泣いてほしい」という一言でした。無に帰すなら泣かないよ、というえばちゃんのツッコミに、みつさんは矛盾を認めつつも「泣いてくれる人が多ければ多いほど、自分は存在してよかったと思える」と語ります。自分の葬式も見てみたい、悲しんでくれているとホッとする、と。
死んだ時にどれだけの人が泣いてくれてるのかを見てみたい気持ちもある。
一方でえばちゃんは、死後に連絡が行くようにしているのは「事務連絡のため」で、泣いてほしいからではないと明言します。予約や株式の処理といった実務が目的で、みつさんの「泣いてほしくて連絡してほしい」とは動機がまるで違うのです。同じ「連絡が行くようにする」でも、根っこの願いが正反対に分かれた場面でした。
他者がいて初めて自分がわかる
話は「与えても返ってこないと悲しい」という点に移ります。みつさんはI'm OK, You're OK交流分析で使われる考え方。自分も相手も肯定的に捉える健全な心の構え。みつさんは「You're OK(相手を肯定する)」から始まってしまい、自分を後回しにして疲れると語っています。がなかなかできず、いつも「You're OK」から始まって疲れてしまうと言います。返ってこないと、いわゆるヒーロー症候群他人を助けることで自分の存在価値を確認しようとする心理傾向。助けが返ってこないと消耗し、承認欲求が満たされないまま疲弊しやすいとされます。のようになりそうだ、と。返してくれないとは言えず、その場を離れることで自分を守るそうです。
ここで核心的なやりとりが起こります。おぐりんの「周りがいて初めて自分が存在するの?」という問いに、みつさんは「はい」と答えます。自分は自分だけでは規定できず、他者との比較の中で自分を規定している。だから仏教の縁起すべての物事は独立して存在せず、他との関係性の中で成り立つという仏教の考え方。みつさんはこの発想に「誰かとの関係性の中で自分がいる」という自身の感覚が重なると語っています。の話がしっくりきた、というのです。
他者との関係
Aさん・Bさん・Cさんとの接点があり、その関係性の中に自分がいる
自分の輪郭が生まれる
相手ごとに違う自分でいい、と縁起の話で腑に落ちた
おぐりんは、以前えばちゃんが「深夜に一人で徘徊するのが楽しい」「音も何もない世界で自分が最も確立される」と語っていたことを思い出します。おぐりん自身はその状況を「自分の輪郭が見えず不安」と感じるタイプ。この点でみつさんの感覚に共感できる、と語ります。
「自分とは何か」という問いは、みつさんにとってとても怖いものです。見つけられなさそうだ、と。えばちゃんが「口の中の唾は自分か」「抜けた髪は自分か」と問うと、みつさんは自分の意思がないものは自分ではなさそうだと答え、しかし皮膚は「外を感じさせてくれるインターフェース」だから自分かもしれない、と応じます。暇なときも「人と喋るために」インプットをする。すべてが他者との接点に向かっている姿が浮かび上がりました。
価値なしから愛なしへ、競争社会で育った記憶
おぐりんは「みつさんから愛なしの感じが全然しない」と率直な疑問をぶつけます。愛なしの人は「配って配って、返ってこないことに不満そう」なイメージがあるが、みつさんからはそれを感じないというのです。ところがみつさんは「疲れてます」ときっぱり。別のコミュニティの人から見れば、自分は配っているように見えるはずだと言います。
みつさんが自分の役割を語る言葉は象徴的です。コミュニティが何をしようとしているかを見て、「自分はどう役立てるか」「組織の隙間をどう埋められるか」というモードが働く。おぐりんは、この「間を埋める・つなぐ」「ちゃんとできて嬉しかった」という言葉づかいこそが愛なしの思考だと気づきます。
みつさんは「昔はめちゃめちゃ価値なしだった」と振り返ります。価値を出さないと認めてもらえないという思いが強かったが、「ちゃんとやれば価値を届けられる」と思えるようになってから、愛なしへ移ってきた感覚があるといいます。この自覚は独立後に強まったもの。組織の外でも役立てるとわかり、「価値を考えなくてもちゃんとやればいい」と思えるようになったそうです。
価値を出さないと認めてもらえない。組織の中でしか役立てているか確認できなかった。
独立して外でも役立てると実感。価値を考えなくても、ちゃんとやればいいと思えるように。
ここでえばちゃんが指摘したのは、二人の学生時代です。おぐりんもみつさんも進学校・中高一貫の男子校出身。「上か下か」「強いか弱いか」のパラダイム、運動も含めた見えないヒエラルキーの中で育ったといいます。いい大学に行かねば、親に認めてもらわねば、いい会社に、評価されねば──というプログラムの中でずっと生きてきた、とみつさんは語ります。おぐりんは、社会人になってお金をもらう仕組みの中に入ると、根源的な痛みとは関係なく「価値なし」が上に乗ってくるのかもしれない、と分析しました。
怒れない自分と「真実を明かしてほしい」欲求
えばちゃんの「いつ怒りますか?」という問いに、みつさんは「怒れないかも」と答えます。嫌だなと思っても「こら」とはならない。溜めて溜めて、最後は逃げ出してしまう。感情的に相手に伝えることがないのです。
理由が独特です。利己的な人・他人をうまく使おうとする人には怒りを感じやすいが、「怒るよ」と伝えるとその人が救われる可能性がある。だからフィードバックしたくない、というのです。仲良くしたくない相手だからこそ、あえて何も与えない。人の見極めが早いのかもしれない、と語ります。
伝えたらその人のためになっちゃうから。だからフィードバックしたくない。
電車の並び方の例も出ました。三列で並ぶルールなのに、列に並んでいなかった人がひょいと前に立つと「利己的でモラルに反する」と感じるみつさん。えばちゃんが「ルールには三列と書いてある」と返すと、みつさんは「大事なのはルールじゃない」と言い切ります。えばちゃんは「好きにすればいい」という立場で、ここでも感覚が分かれます。
利己的な人・モラルに反する行動に嫌悪。ただし本人には伝えず、その場を離れる。
自分の境界を侵害してくる人に怒る。「いる・いらないは私が決める」と越境に反応。
後半のテーマは「真実を明かしてほしい」。みつさんは、外では頑張っている人の弱っている姿を見に行くのが好きだと言います。それを出してもらうと「この人を守らなきゃ」と思い、距離が近くなる。自分だけに本当の姿を見せてくれた、という状態がいいのです。学生時代はメンヘラだったと振り返り、彼女に隠し事があると感じた瞬間「私には全てを見せなさい」と思っていた、と明かします。
えばちゃんは「人間なんだから全てを見せるのは無理」と一貫して距離を取ります。おぐりんは、みつさんは自分がメンヘラを引き寄せていたのではなく「メンヘラに寄っていっていた」あるいは「メンヘラを生み出していた」のではないかと指摘。「自分だけに特別な真実を見せて」というコミュニケーションはメンヘラを作る、というのです。みつさんは「自分がメンヘラなのかもと気づかされている」とこぼしました。
愛することがわからない、迷える子羊たち
終盤、みつさんが自ら投げかけたのが「愛なしは人の愛し方を逆に知らないのではないか」という問いです。愛し方がわからないから愛され方もわからず、愛されることに敏感になる。人を愛すということがわからない、と。
これにえばちゃんは「ありのままの存在を祝福するのが人を愛すること」だと答えます。二人がニヤニヤするのは、それが「えばちゃんから言ってもらう言葉だ」と感じたから。おぐりんはさらに、ある人から教わったという区別を紹介します。
他者を知ろうとすること。ありのままを受け取り受け取られる。自分と相手が一緒にある。
自分と相手が別にあり、愛を境界の中で取り扱うスキル。これが長けている人ほど「愛する」が苦手になりうる。
おぐりんの仮説はさらに踏み込みます。愛なしの人はある意味「テイカー」なのではないか、と。愛するとは他者を知ろうとすることなのに、「愛されよう」というパラダイムが強く働くため、相手を知りに行けず、愛することが下手になるのではないか、というのです。みつさん自身も、以前「表面上はギバーだが根っこはテイカーではないか」と言われて受け取れなかった経験を明かします。おぐりんは、電車のモラルへの不満は「テイカーが持つ感情」で、みつさんは自分のシャドーを見ているのかもしれない、と重ねました。
愛されている記憶を問われると、みつさんもおぐりんも「何々ができたから」という褒められ方をずっとされてきたと口を揃えます。ありのままでは許されなかったから、「私はこの場所にいていいのかな」と聞きたくなる。「いていいよ」と返されても、聞きたいのはそこではない──そんな微妙な感覚を、二人は分かち合いました。
みつさんは「愛するということと距離を置いてきたが、そこに自分の怖さや苦手がありそうだ」「ちょっとそこに手を突っ込もうと思っている」と語ります。おぐりんは、この回全体を「バツイチ同士の迷える子羊の相談会」と評しました。愛って何だろう、もっと安心してありのままでいられる世界に入れたらいいのに──そんな子羊たちの姿で、番外編は締めくくられます。
まとめ
「愛なし」というひとつのメンタルモデルを入り口に、三人はそれぞれの世界の見え方をさらけ出しました。「死んだら泣いてほしい」「他者がいて初めて自分がわかる」というみつさんの言葉は、彼女/彼らが他者との関係性の中でしか自分を確認できない構造をくっきり映し出します。
一方でえばちゃんは「境界の侵害」に反応し、「ありのままの存在を祝福するのが愛」と語る対照的な立場でした。愛することと愛を持って接することの違い、テイカーとしての自分、そして「何々ができたから」でしか褒められてこなかった記憶。答えの出ない問いを抱えながらも、みつさんが「愛に手を突っ込んでみる」と宣言したところに、この回の希望があります。
- みつさんは「死んだら泣いてほしい」と願う一方、えばちゃんの死後連絡は「事務目的」で、根っこの動機が正反対だった
- みつさんは他者との関係性の中でしか自分を規定できず、仏教の「縁起」の考え方に強く共感している
- 競争社会の進学校で育った経験が「価値なし」を強め、独立を経て「愛なし」の自覚へ移ってきた
- 怒りを溜めて逃げる、相手には伝えない。「真実を明かしてほしい」という欲求がメンヘラ的関係を生む可能性も語られた
- 「愛する」と「愛を持って接する」は違う。愛なしはテイカー的で「愛し方がわからない」という課題に、みつさんは向き合おうとしている
