「価値なし」はいつ生まれたのか
社会人になる過程で「価値を出さなければ」という圧力に晒され、「価値なし」的な感覚が後天的にまとわりつくのではないか ―― おぐりんはそんな問いをポリさんに投げかけます。しかしポリさんの答えは明快でした。「中学生から明確にカチナシ感あった」というのです。
きっかけは中学一年生の最初のテスト。学年一位を取ったとき、ポリさんはこう感じたと言います。昨日の自分と今日の自分は何も変わっていないのに、周りの見方だけがガラリと変わる。その落差に衝撃を受けたのです。
あ、私には価値があったんですねみたいな、衝撃を受け。
そこから「いい成績を取る」ことが自分の優先順位の第一になっていきました。チヤホヤされるから ―― という理由で。もう一つ、ポリさんが思い出したのが少年野球のエピソードです。五年生までエースだったのに、六年生のとき隣の小学校からスーパーエースが転校してきて、その座を奪われた。それが強烈にショックで、今の言葉で言えば「アイデンティティを失う」感覚だったと振り返ります。
肩書きがあって認められていたのに、それを失って初めて価値に気づいた。序列が下がる感覚。
自分は変わっていないのに周りの見方が激変。「価値がある」ことの衝撃。
自分の物差しが芽生えるまで
いい成績という「外の物差し」を知ってしまうと、それを取り続けなければならない疲れるパラダイムに突入します。高校では推薦枠で入ったため受験勉強をしておらず、最初のテストで三百数十人中二百八十位。「頭のいい僕」というアイデンティティが一気に崩れ去り、また必死に勉強して学年十位前後まで戻したと言います。
興味深いのは、そのときの自己欺瞞です。トップ層はどうしても届かない。そこでポリさんは、勉強だけしている「根暗な層」と、自分の属する「根明かなバスケ部の集団」を切り分け、「この集団の中で学年十位ってすごくない?」という物差しに囚われていたと明かします。
では「自分の物差し」はいつ芽生えたのか。ポリさんの答えは「三十後半」。外の物差しは今もあるが、それと並んで自分の物差しもあるな、という感覚が出てきたのがその頃だと言います。きっかけははっきり覚えていないものの、「誰かに言われたわけでも、どう見られたいかでもなく、これがしたい」という感覚。千葉の古民家を買ってリフォームする活動などは、誰かに評価されるわけでもない、ただ好きだから根差した活動の典型です。
大きな転機の一つが、2016年頃の休職と復帰でした。新規事業で成果が出ず、二ヶ月休職。自分の価値がないという現実を突きつけられ続け、飲み込まざるを得ないほどになったと言います。復帰する気は一ミリもなく、転職カードを三枚携えて上司に「もう迷惑をかけられないので転職します」と伝えに行った。そのとき、上司から見た自分の価値の出し方を聞いて、自分が思っていた評価軸とは違う軸で貢献していたことに気づき、「まだやれるかも」と思えたと語ります。
時々発動する「価値なし」の自分
ポリさんはインターフェイス(対人的な物腰)はやわらかく丸いのに、内面では「価値なし」のレンズがまだ強く残っていると語ります。役割が固定されていないパーティーやイベントは「超苦手だった」。自分が何者かを証明されている場では動けるけれど、そうでない場では、まず自分の価値を説明しなければならない。それが大変だと言うのです。
いいんだよ、しなくて別に。
しなきゃいけないと思ってたのよ、その時は。
象徴的なのが、東京都のスタートアップイベントの記憶です。「俺はどれだけすごいか」を主張し合う人たちの波に巻き込まれ、自分がどんなにすごい人間かを説明した日。すごく疲れたうえに「なんだあいつ、大したことねえくせに」という負の感情が蓄積した ―― それを今でも覚えているほど嫌な一日だったと言います。
ただ、今は違います。「価値なし」が発動しそうなタイミングを認知できるようになり、「あ、俺じゃがいも脳で」といった感じでポンと手放せる。残ってはいるけれど、戦いに行っても得るものがない、相手は敵でもない ―― そう気づけるようになったのです。おぐりんは「昔は意味がわからなかった『逃げるが勝ち』『負けるが勝ち』が、なんとなくわかるようになってきた」と重ねます。
空っぽな器という感覚
コーチングで「自分の中身」について問われたとき、ポリさんがパッと思い浮かべたのは「空っぽ」という感覚でした。だからこそ、その空っぽをどんどん満たしていきたいという欲求が今も強くあると言います。積読を買うのが好きで、積読になるとわかっていても権威付けされた新しい情報を取り入れようとする ―― それはこの「空っぽを埋めたい」感覚とつながっています。
そこにすごい価値のあるものがいっぱい詰まって……価値のあるものを詰め込まなきゃって思っちゃう。
価値なんだ。よかった、入ってなくて。何にも入ってなくていいのに。
面白いのは、他の二人の「空っぽ」との違いです。おぐりんも空っぽに近い感覚を持っていますが、それは「器が欠けている」「不完全である」という感覚。一方ポリさんには不完全さはなく、ただ純粋に「空っぽ」なのだと言います。えばちゃんは、そもそも男の子の競争社会にいなかったため、「証明しなきゃ」「競争しなきゃ」という感覚があまりないと語ります。
| 人物 | 自分の内面の感覚 |
|---|---|
| ポリさん | 空っぽ。価値あるものを詰め込まなきゃ、と思う |
| おぐりん | 空っぽ、もしくは器が欠けている・不完全 |
| えばちゃん | 何が入っているかをあまり考えたことがない |
ポリさんにとっては「みんなの中にいる自分」が世界の前提です。集団の中で存在価値をどう出していくか。だから「外側にいたら寂しくて死んじゃわない?」とすら思うと言います。えばちゃんの「生きてる生きてる」というツッコミが、二人のメンタルモデルの違いを鮮やかに浮かび上がらせました。
ゲームルール外の生き物に出会うということ
話は、ポリさんと子どもの関係へと移ります。えばちゃんは、ポリさんが子どもだけを「ちゃんと生命体として見ている」と指摘します。他人には優しいけれど深い興味はなさそう。でも自分の子どもだけは、価値があるとかないとか関係なく、一人の生き物として見ている ―― ポリさんもそれを「すごくその通り」と認めます。
ゲームルール外の生き物が。
ゲームルールの外側で関係を築いていった結果、価値とか云々の世界線じゃない関係が築ける、っていうことなのかもね。
ポリさんは、他人の喜ばしい出来事を「心から喜ぶ」ことができない自分を悩みとして語ります。理解はするし、感謝すべきと思考は回る。でも心からの感謝かと問われると難しい。喜ぶような振る舞いは基本動作としてできるけれど、周囲にはそれが「バレている」と後から知って驚いた、という話も出てきました。しかし、子どもだけは別。一日一日の成長を「すごいな」と思って見ている ―― ここだけは例外なのです。
注目すべきは、その関係が「対等」であることです。ポリさんは自分を「パパ」「お父さん」と呼ばせず、「慎さん」と呼ばせている。赤堀慎と赤堀ほのかという、固有の人間同士として関係を築きたいからです。おぐりんは、自分にはこの対等さが難しいと打ち明けます。空っぽ・欠けているがゆえに、相手を「守るべき存在」「してあげなきゃいけない存在」として捉えてしまい、対等な一人の人間として見るのが難しいのだと。
価値評価のゲーム
成績・順位・肩書きで自分と他人を測る世界
ゲームルール外の存在との出会い
Day1から蓄積した関わりを通じて、価値の有無と無関係な「固有の存在」として子どもに出会う
不登校の娘にどう接するか
最後に、おぐりんが別のポッドキャストで聞いた相談をポリさんに投げかけます。小学六年生の娘が不登校になった。家では音楽やダンスを楽しみ居心地良さそうにしているが、何があったのか語ることもない ―― そんな娘にどう接するのがいいか、という相談です。
娘が学校に行かなくなりました。家では楽しそうに過ごしていますが、何があったのか話してくれません。どう接するのがいいでしょうか。
会社のメンバーがもし会社に行かなくなった場合なら、ポリさんは「もう興味ないから、好きにすれば」で終わると言います。しかし娘のケースは違う。そこには「社会のルールに沿った行動をした方が幸せになる」という考えと、「彼女の好きなまま生きたらいい」という考えが激しく衝突するからです。
究極的には興味がない。「好きにすれば」で完結する。
「社会のルールに沿う方が幸せ」と「好きなまま生きていい」が激しく衝突する。
それでもポリさんは、娘には率直に「本当にあなたの力になりたい」と伝えると言います。何があったか教えてくれれば力になれる可能性が増す、と思うから。おぐりんは「なんで行かないの?と聞いちゃう」と自分を振り返り、えばちゃんは、聞くか聞かないかはその時の関係性次第で正解はないとしたうえで、大切なのは行動より「伝わるもの」だと語ります。
学校に戻ろうが戻るまいが、あなただから私は大丈夫だと思ってるよ、っていうことだけ、なんか伝わったらいいかな。
すぐに結果が出なくても、三十、四十歳になったとき、その「信じてもらっていた」記憶は残る ―― えばちゃんのこの言葉に、ポリさんも「それはその通りだ」と深くうなずきます。一方おぐりんは、「自分は根本的に人を存在として信じることがあまりないのかもしれない」と、自身のメンタルモデルに触れる気づきを得ました。性善説採用主義者を自認するポリさんとの、静かで鮮やかな対比で会話は締めくくられます。
まとめ
「価値なし」のメンタルモデルを持つポリさんの話は、成績や肩書きという外の物差しに縛られてきた過去と、そこから少しずつ「自分の物差し」を取り戻していく道のりでした。そして最も印象的だったのは、価値評価のゲームの外側で、子どもという「ゲームルール外の生き物」と対等な関係を築けたという発見です。
同じ「空っぽ」でも、その中身の感じ方は人によって違う。同じ相談に対しても、聞く・聞かないの反応が変わる。異なるメンタルモデルを持つ三人だからこそ、世界の見え方の違いが立体的に浮かび上がった回でした。
- ポリさんの「価値なし」感覚は中学一年の学年一位や少年野球のエースの座を失った体験に根がある
- 「自分の物差し」が芽生えたのは三十後半。休職・復帰で「違う軸でも貢献していた」と知った経験が転機になった
- 「価値なし」は今も時々発動するが、そのタイミングを認知して手放せるようになった
- ポリさんの内面は「空っぽ」。価値あるものを詰め込みたい欲求がある一方、おぐりんは「欠けている」感覚
- 子どもだけは価値の有無と無関係な「ゲームルール外の存在」として、対等な固有の人間同士の関係を築いている
- 不登校の相談では、行動の正解より「あなただから大丈夫と信じている」ことが伝わるかが大切だと語られた
