ゲスト回の感想と「おもてなしモード」
冒頭は、ゲスト回を終えた2人の率直な感想からスタートします。ポリさんの声の聞き取りやすさが話題になり、えばちゃんは「リラックスして喋るのが上手」と評価しました。一方で、3人で話すと自分の登場回数が減り、思わずリスナーになってしまう、という発見もあったようです。
おぐりんは逆に、3人だと自分が「頑張って喋っている」と感じるといいます。相槌の入れ方や声のトーンが、2人のときよりも外行きになり、ゲストへの「お迎えモード」になっているというのです。無意識のうちに、来客へのおもてなしが働いているのかもしれません。
来ていただいたからにはみたいなのが。すごい働いているような。
ゲストであるミツさん・ポリさんの話について、おぐりんは「共感できるポイントが多かった」と振り返ります。一方えばちゃんは「私は『そうなんだ』って思った」と、まったく違う受け取り方をしていました。この温度差こそが、この回の入り口になります。
「空っぽ」と「寂しさ」をめぐる議論
話題は、ゲストが語っていた「壺の中には何が入っているのか」「空っぽとは何か」という問いに移ります。えばちゃんは、空っぽと言うけれど、空っぽということは逆に何かが詰まっているのではないか、と考えを巡らせました。
おぐりんは「何かが足りないと感じることはある?」と問いかけます。えばちゃんは即座に「あるから一人ぼっちなんじゃない?」と返し、自分のメンタルモデルが「あるはずのものがない」であることに触れます。ポリさんの「空っぽ」という表現も、根っこは同じではないか、という見立てです。
えばちゃんにとっての「足りなさ」は、人とのつながりだといいます。ただしそれは、他者と分かり合える世界を信じているからではありません。むしろ「つながりはなくならないでほしいが、なくなるものである」という諦めが大前提にあるのです。
ボールを投げても返ってこない=自分の価値がわからない。他者がいないと困りそう。
自分がこの場からいなくなったらどうなるか。周りに人がいないと寂しくて死んでしまう。
興味深いのは、ポリさんに「周りに人がいなかったら寂しくて死んじゃう」と言われたえばちゃんの反応です。「死なない死なない、そういうものだから」と返し、「寂しい」という表現になることそのものに驚いたといいます。えばちゃん自身は、深夜の音のない雪の世界にいても「私が私であるハッピー」を感じる側なのです。
一方おぐりんは、自分が寂しいのかどうか「ぐるぐる回ってわからない」といいます。もともと他人への依存が高く、他人がいないと存在しえないところからスタートした自覚はある。しかし今、他人がいない日を1週間や1ヶ月と経験したことがないため、即答できない、と正直に語りました。
精神と時の部屋で暮らすえばちゃん
「他人がいないと寂しい」ではなく「他人がいないと暇」ならわかる、というえばちゃんの言葉に、おぐりんも強く共感します。そして相手は人である必要すらないのか、という問いへ発展していきます。えばちゃんは「生きてればいいのかも。魚はちょっとやだな」と答え、おぐりんは「僕、下手したらぬいぐるみでもいい説がある」と応じました。
夕方まで外に出なくて、出ると空気があって、人がいて、喧騒があってびっくりするんだよね。世界があるんだって毎回新鮮にびっくりする。
えばちゃんは、静かな集合住宅の10階に一人で暮らしています。休みの日は夕方まで外に出ず、外へ出ると「世界がある」ことに毎回驚くというのです。おぐりんはこれを「家の中は精神と時の部屋なんだ」と言い当てました。家には植物やメダカも含め、有機物が一切いないといいます。
おぐりんは「サボテンでも置いてみたら?」と提案します。有機物を置くことで「人である必要があるかどうかがわかるかもしれない」というわけです。えばちゃんは「ちょっと検討します」と応じつつ、「これやらないな」とおぐりんに見透かされていました。
人に期待せず「信じる」とは何か
話題は、ポリさんが語った娘への思いへと移ります。「どんなことがあっても私はあなたの味方だよ」「あなたを信じているよ」という存在がいることのすごさを、おぐりんは繰り返し口にします。えばちゃんは「あの収録1本は、何歳になっても聞いて元気が出る」と評しました。
ここで問題になるのが「信じる」と「期待する」の違いです。えばちゃんは、信じるとは期待とは違うものだといいます。「あなたの力を信じています。私の中には特に何もないけれども」という、自分を差し引いた信頼のかたちです。
相手が自分の望むように動くことを求める。応えてほしいという願い。
あなたの力を信じている。見返りを求めず、相手そのものを信頼する。
おぐりんは「信じている世界線が思いつくものが存在しない」といいます。かつては間違えた形で他人に期待していたものの、それをしなくなった今、信じることや期待することをうまく扱えず「ゼロか百か」になってしまう。結果として「他人は他人、私は私」へとどんどん寄っていく、というのです。
おぐりんは、他者とのつながりが「みんなから見えているのに自分には見えない」状態にあるといいます。えばちゃんは「エンジンが見つからないね」と表現しました。あるはずなのに、うまく接続されない。その感覚が、次のアジの話へとつながっていきます。
45枚のアジを開いてわかったこと
おぐりんは、日曜日と月曜日で合わせて45枚ほどの小アジを手開きでさばいた経験を語ります。内臓を取り、フライ用にはぜいご(尻尾側のトゲトゲした突起)を落としていく。刺身用なら皮を剥ぐときに一緒に取れるが、揚げ物は取らないと上あごが痛くなってしまう、と手順を丁寧に説明しました。
おぐりんが得た発見は「やればやるほど上手くなる」という体感覚でした。さばくスピードが上がり、中骨の取り方も上達して身が残るようになる。これはお遍路で歩いて得た体感覚と同じだといいます。
つかめない時期
1匹ずつ苦戦し、夕飯の準備に1時間半かかる。泣きたくなるほどの苦行。
繰り返し続ける
数をこなすうちに手が慣れ、スピードと精度が上がっていく。
「ここだ」とわかる瞬間
体感覚をつかむと、やっていること自体が楽しくなる。
おぐりんは、この体感覚を人との接続にも重ねます。他人とのつながりが「見えているのに自分には見えない」状態も、それを望んでちゃんと続けていけば、いつか「ああ、ここだ」とわかるのではないか、と。まだ見つかっておらず「浮遊しています」と語りつつも、続けた先に楽しい交流があるはずだ、という希望が込められていました。
えばちゃんは、おぐりん(欠陥欠損)のメンタルモデルにも触れます。「凸凹のままでも人は完全で、誰もがどこにいても、内側に何があっても、ありのままで安心して存在していられる世界」を作りたい、という理想です。えばちゃんは、おぐりんが他人の欠けや妬みを聞いて「素敵だね」と言えることこそが、その人らしさだと指摘しました。
おぐりんは、人が自身の存在を承認してほしいと願う中で滲む妬みや僻みを、隠さずに言える人を「美しい」と感じるといいます。それを言える安全な場所は、日々の生活の中ではむしろ少ない。だからこそ、そういう瞬間により惹かれるのかもしれない、と自己分析しました。
寿司を取らずに握ってくれ
後半、おぐりんは「前よりも考えていない」という最近の変化を語ります。コンビニへ歩く道すがら、桜が綺麗だ、あたたかくなって気持ちいい、と「考えながら」ではなく「感じながら」歩いている自分に気づいたというのです。思考に支配されていないぶん、質問されてもすぐに答えが出てこないことも増えたといいます。
これに対してえばちゃんが出した比喩が秀逸でした。かつて四六時中思考していた頃のおぐりんは、話題を投げると連想ゲームの引き出しから答えを取り出してくる。ずれてはいないけれど「今のおぐりんから出てきたもの」ではない感じがした、というのです。
寿司頼んだら回転してる台から「これですね」って出してきた感じがするの。いや私、今サーモン握ってほしかったんだけどみたいな。
今はね、サーモン握ってくれる。だから別に握る時間がかかるのは当たり前。
既製品を回転台から取り出すのではなく、その場で握ってくれる。だから時間がかかるのは当然だ、という比喩です。おぐりんは、感情や感覚が思考よりも優位に働く時間が増え、ネガティブな時間が減ったと語ります。「考えるからネガティブになるんだな」という気づきは、この回の静かなハイライトのひとつでした。
四六時中思考している。質問には連想の引き出しから即答するが「今の自分から出たもの」ではない。ネガティブな時間が多い。
感じながら歩く時間が増える。答えは遅くなるが、その場で「握った」言葉が出る。ネガティブな時間が減った。
4人で何を喋ろうか
回の後半では、次にゲスト2人を交えた4人回で何を話すかが議論されます。世界の見え方がこんなにも違う、という発見を共有できる問いを探す中で、おぐりんが喋りながらたどり着いたのが、物語や映画・小説・漫画などで「自分の感情が動くシーンはどこで、それはなぜか」という問いでした。
この問いは、おぐりん自身の体験から生まれています。話題のドラマの最終回で泣いたとき、自分はなぜ泣いているのかを考えたというのです。「ないものをそこに見て泣いているのか、あるものを見て泣いているのか」。テーマは家族でしたが、おぐりんは「家族以上に大事なものはない」という感覚を認知的には持っていないため、少し違和感が残ったといいます。
心が動かされるって、自分の価値観や思い出と照らし合わせてるんだと思う。匂いを嗅いで「あの匂いだ」って記憶が出てくるのと同じ。
えばちゃんは、感情が動くのは自分の経験や価値観と「照合するもの」があるからだと考えます。経験や概念の少ない子供が泣くシーンが少ないのも、そのためだといいます。老夫婦が桜の木を1〜2時間眺め続けるのは、重ねてきた桜の季節の分だけ思い返すものがあるから、という話も引かれました。あるものに触れているからこそ、涙もろくなっていくのかもしれません。
最後は、性格が周囲の人によって変わる、という話題で締めくくられます。おぐりんは入社プロセスの性格診断で「聞かれないと言わない人」という結果が出て驚いたといいます。本来は聞かれなくても喋る人なのに、です。えばちゃんも「あんまり喋らない」と言われることがあるものの、互いに「自分が素っ気ないとは思っていない」と語ります。誰と一緒にいるかで、自分の性格すら変わる──4人回への期待が高まるところで、この回は幕を閉じました。
まとめ
この回は、ゲスト回の余韻を借りて、2人それぞれのメンタルモデルと世界の見え方をあらためて掘り下げる対話でした。「一人ぼっち」のえばちゃんは、つながりがなくなるものだと諦めつつ、それでもつながっていてほしいと願う。「欠陥欠損」のおぐりんは、信じることをうまく扱えず浮遊しながらも、アジをさばく体感覚のように、続ければいつかつかめると希望を語りました。
感情が動くのは「あるもの」に触れているからか、それとも「ないもの」を見ているからか。この問いは、次の4人回への大きな入り口になりそうです。考えることから感じることへ──おぐりんの静かな変化も含め、それぞれの内面の地図を丁寧に見比べる回でした。
- ゲストの「空っぽ」もえばちゃんの「一人ぼっち」も、根っこは「あるはずのものがない」という感覚でつながっている。
- えばちゃんにとって寂しさは「暇」に近く、つながりは「なくなるものだが、あってほしい」という諦めと願いの両方を含む。
- 「信じる」は「期待」とは違い、見返りを求めず相手の力を信頼すること。おぐりんはそれをまだうまく扱えず「ゼロか百か」になりがち。
- 45枚のアジをさばいた体感覚から、他者とのつながりも「続ければいつかつかめる」という希望が語られた。
- おぐりんは思考優位から感覚優位へ変化し、ネガティブな時間が減少。えばちゃんは「回転寿司ではなくその場で握る」比喩でその変化を表現した。
- 4人回のテーマ候補は「物語で感情が動くシーンはどこで、それはなぜか」。感情は「あるもの」との照合で動くという視点が示された。
