ルー語の本質は英語ではなく漢文?
今回の話のきっかけは、大岡玲さんの著書『日本語はひとりでは生きていけない』です。集英社インターナショナルから出た400ページを超えるハードカバーで、日本語の変遷や歴史を豊富な文献とともにたどる本です。
水野さんは、この骨太な本を読んで一番得た知見は「ルー大柴の鑑賞方法」だったと切り出します。紹介される説がどの程度コンセンサスを得ているかはわからないので、素人の読書感想文として聞いてほしいとも前置きしています。
この本を読んだ一番の感想は「ルー大柴ってなんてすごいんだ」でした。
ルー語といえば、日本語と英語の混合体というのが一般的なイメージです。ところが水野さんは、ルー語の本質は漢文だったと言い出し、堀元さんを驚かせます。
いやいやいやいや、ボトムとかさ、トゥゲザーとかさ。
水野さんがまず取り上げるのは漢文訓読 ── 中国語で書かれた漢文に、返り点や送り仮名を付けて日本語の語順・文法で読み下す方法。平安時代以前から使われてきましたです。中国語はSVOの語順が多いため、日本語として自然なSOVに直して読むために訓読が生まれた、と堀元さんが補足します。
著者の大岡さんは、この訓読を「英語ではやらないのに、おかしいよね」と指摘しているそうです。水野さんは、This is a pen.のisに「に」、a penに「一」と小さく書いて「これはペンである」と読んでもよいはずなのに、誰もそうしないと例を挙げます。
堀元さんは、漢文の読み下しを「絵文字に読み仮名を振るようなもの」とたとえます。山という漢字を中国語ではシャンのように読むのに、日本では「やま」と当てているように、本来違う音の文字に日本語の音を勝手に当てているという説明です。
漢文訓読は「中国化」への抵抗だった?
水野さんが次に紹介するのは、言語学者の伊藤英人先生の説です。堀元さんは、訓読は江戸時代の教育のために開発された手法ではないかと予想しますが、本で紹介されていたのは「対抗中国化」という見方でした。
中国には論語のような優れた古典が多く、日本はそれを輸入して読み続けてきました。そのまま読み続けると日本人としてのアイデンティティが揺らぎかねないので、訓読によって「これは日本語だ」と思いながら読めるようにした、という仮説です。
堀元さんはこの説に、助詞が果たす役割を重ねます。言語の中でも外国語の影響を受けにくいのが機能語 ── 助詞・助動詞など、文法的な関係を示す語。語彙的な意味を持つ名詞・動詞などの内容語に比べ、借用されにくいとされますで、「学校に行く」の「に」がtoに置き換わることはまずありません。
犬・猫・走る・美しいなど意味を持つ語。「コンセンサスを得る」のように外来語が簡単に入る
「は」「を」「に」などの助詞・助動詞。「コンセンサスfor得る」とは言わないように、置き換わりにくい
堀元さんによれば、助詞さえ日本語に保っておけば、日本語はそれ以外の部分をかなり受け入れやすい言語だといえます。漢文訓読体に「を」や「に」があったことの効用も大きかったのではないか、と話しています。
水野さんはこれを受けて、訓読は矛盾する欲求を解決する仕組みだったのではないかとまとめます。漢字まみれの文は読みたいが、日本語を使って日本人としてのメンツは保ちたい、という2つの欲求です。
ルー大柴は「対抗英語化」をしていた
大岡さんの本のすごいところは、この漢文訓読の話をルー大柴に置き換えている点だと水野さんは言います。ルー大柴がどれだけ英語を借用しても、アイデンティティは英語話者になっていない、というのが本に書かれた内容です。
水野さんはそこから一歩膨らませ、ルー大柴は「対抗英語化」をしていたのだと解釈します。白人やアメリカへの憧れがあった世代として英語を取り入れつつ、日本人として生きていく気持ちは手放さなかった、という読み方です。
大岡先生が書いたのは、ルー大柴がどんなに英語を借用しても英語話者ではないっていうことまでですね。
水野さんは、どこまでが本の主張でどこからが自分の解釈かを何度も区別しており、堀元さんも「出典の明示」だと評価します。堀元さんは、ルー語も機能語まではいじっておらず、「藪からスティック」でも「に」は残して内容語だけを置き換えていると指摘します。
中国の古典を取り入れつつ、助詞を補って日本語として読むことで日本人としてのアイデンティティを保つ
英語の単語を取り入れつつ、助詞などの機能語は日本語のまま残し、英語話者にはならない
水野さんによると、この本は硬めの内容なのに、なぜかルー大柴が何度も出てきます。水野さんは、大岡さんのユーモアセンスとルー大柴のおかげで楽しく読めたと話し、ルー大柴を「共著と言っていい」とまで冗談めかしています。
イディオムを崩すからルー語は面白い
堀元さんは、以前番組に出演した鈴木利孝先生も、研究のアイデアをルー語から得ていたと紹介します。鈴木先生は、謝辞にルー大柴の名前を入れるべきかを真剣に検討していたそうです。
堀元さんの考えでは、ルー語の面白さはコードスイッチング ── 会話や文の途中で、使う言語を切り替える現象。二言語話者の会話でよく見られますを、イディオムの内側で起こしている点にあります。「この前タイガーに会った」ならあまり面白くないのに、「藪からスティック」は面白く感じます。
堀元さんはここで「パラディグマティックな関係」という言語学の概念を持ち出します。「私は○○が好きです」の○○には文法に合う名詞を自由に入れられますが、イディオムではそうはいかず、「立て板に水」を「立て板にお湯」とは言えません。
イディオムの中でコードスイッチングをするってのがルーさんの発明。
二人はさらに「トゥゲザーしようぜ」を分析します。副詞は名詞や形容詞に比べて外来語を受け入れにくく、堀元さんは、ルー大柴が副詞のtogetherを「〜する」という動詞のスロットに埋め込んで品詞をずらしたのではないかと考えます。
堀元さんは、品詞がずれた借用の例として「アバウト」も挙げます。英語では前置詞のaboutを、日本語では「アバウトな考え方」のように形容詞として使っており、「トゥゲザーしようぜ」はその系譜にあるのかもしれない、という見立てです。
ルー大柴さんの分析し続けるのやめません?
志賀直哉が推した「フランス語」の根拠とは?
水野さんが本から感じたもう1つのテーマは、日本語の歴史が愛憎にまみれているということです。誰もが日本語を愛しながら、同時に日本語を憎んでいる両義性が面白いと話します。
堀元さんは、英語史の堀田龍一先生の話を引きます。英語がフランス語から大量の語彙を借用したように、島国の人々は土着の言葉を愛しつつ、大陸に比べて劣っていると感じていたのかもしれない、という見方で、日本でも大和言葉の上に中国語の権威があった時代が長かったと堀元さんは考えます。
明治時代には、黒船来航を機に欧米が優れているという意識が強まり、日本語は読み書きが難しすぎると批判されました。前島密 ── 明治期の官僚で、近代郵便制度を築き「郵便の父」と呼ばれる人物。漢字廃止を建議したことでも知られます、森有礼、志賀直哉らが、日本語や漢字の廃止を唱えています。
よりによってスペルと発音があんなに合ってない言語をありがたがって、日本語は読み書きが難しいとか言ってんの笑止千万ですよね。
水野さんが特に笑ってしまったのは、志賀直哉が日本語の代わりにフランス語を推した理由です。フランス語は整理されたと聞いたことがある、文化も進んでいる、フランスの小説を読んだら感覚が日本人と通じる、という根拠だったそうです。
大ボケじゃねえか。
しかも志賀直哉は「外国についてはよくわからないけれど」とまで付け加えていたといいます。本の中でもこの主張は「世迷言」と書かれていたそうで、二人は、よく知らない問題に過激なことだけ言うインターネット上の人物のようだと笑います。
日本語がダメな理由も、志賀直哉は「長年の文筆生活で実感した」と述べるだけだったそうです。水野さんは、森有礼はもう少し客観的なことを書いていたが、志賀直哉は極端だったと振り返っています。
漢字廃止論者の文章が漢字まみれ
前島密が熱心な漢字廃止論者だったことは、うんちくとしてよく知られています。この本では、その一次資料の引用が載っていました。
漢字廃止を説いた文章のタイトルは「漢字御廃止之議」のような漢字のみの表記で、本文も「その心粋高尚なる百家の学におけるも」と始まるような漢字だらけの文体だったそうです。著者の大岡さんも、漢字廃止を唱える文章が漢字まみれで頭が痛くなってくる、といじっていたといいます。
堀元さんは、漢字の習得が難しいことは疑いないとしつつ、漢字には「パッと見て何が書いてあるかわかる」強みがあると話します。英語論文を読むときは各パラグラフの1文目だけ拾っても苦労するのに、日本語なら漢字やカタカナが目に飛び込んでくるという実感です。
その実感を最も強く持ったのが、映画『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』のエンドロールでした。すごい速さで流れる英語の名前を追いきれず、英語話者なら「こんな人がやってるんだ」と気づけるのかと思ったそうです。
英語の文書で目当ての箇所を探す話にもなり、「abstraction」で文字検索したら52箇所ほど出てきて頭を抱えた、というエピソードも語られます。漢字を書くのは面倒でも、英語を読んでいると漢字があってほしいと思う、という愛憎が当時の知識人にもあったのではないか、と話は戻ります。
西周・福沢諭吉はなぜ漢語で訳したのか
漢字を嫌いながら漢字に頼った知識人として、西周 ── 幕末から明治にかけての思想家・啓蒙家。西洋の学問を日本に紹介し、多くの翻訳語を作りましたと福沢諭吉の名前が挙がります。西周は理性・科学・芸術・技術・主観・客観などの言葉を訳出しながら、全部ローマ字にしようと言い続けていたそうです。
福沢諭吉も、漢字は難しすぎるからあまり使わないようにしようと言いつつ、大量の訳語を作っています。二人は、明治期の訳語は最初からひとつに決まったのではなく、いくつもの訳が揺れた中から残ったものだと話しています。
| 原語 | 訳した人 | 訳語 |
|---|---|---|
| society | 福沢諭吉 | 人間交際 |
| economy | 福沢諭吉 | 経世済民(略して経済) |
| envy | 福沢諭吉 | 怨望 |
| 哲学・理性・科学など | 西周 | 現在も使われる漢語 |
envyの訳「怨望」について、水野さんは、福沢諭吉がenvyに近い音を当てようとしたのではないかと推測し、イケてる名翻訳だと評価します。ただし現代ではほとんど使われず、普及しなかったのが悲しい、と話しています。
平安から続く「難しいことは漢語で」の癖
漢字を嫌いながら漢字で訳してしまう理由について、本では平安時代の棲み分けに端を発すると説明されているそうです。源氏物語の時代に、ひらがなは叙情や感情を、漢字は抽象概念や論理を表すものとして使い分けられました。
平安時代
ひらがなは和歌など柔らかい表現、漢字は硬い文章という棲み分けが生まれる
明治まで継承
インテリたちに「難しいことを考えるときは漢語」という癖が根づく
明治の翻訳
漢字を嫌いと言いながら、難しい西洋の概念は条件反射で漢語に訳す
水野さんは、明治維新は欧米に追いつけ追い越せだったのに訳語が漢語ばかりなのはなぜか、と以前から疑問に思っていたそうです。この本で、平安時代からの癖が条件反射を生んでいたという見通しが立ち、昔からの疑問が解けたと話しています。
堀元さんは、現代の日本人も同じだと指摘します。新しい概念に名前を付けるとき、大和言葉ではなく英語っぽい名付けをしがちで、番組でも「視覚思考者」より「ビジュアルシンカー」のほうが定着した感覚があったといいます。
水野さんは「ソーシャルディスタンス」を例に挙げ、大和言葉で「移らぬ様離れ」のように言ってもしっくりこないと話します。堀元さんは、小池百合子さんが公約に掲げた「ワイズスペンディング」も、ケインズ由来の言葉ながら実質は「賢い支出」だと紹介します。
さらに堀元さんは言語の威信の問題にも触れます。大和言葉が下で漢語が上という社会では、進んだ西洋の概念には漢語がフィットしやすく、水野さんも、日本初の水族館が「魚覗き」から「水族館」に変わったのは威信の問題だろうと話しています。
サザンの歌詞から始まる日本語を旅する本
水野さんは、今回紹介したのは本の中の2トピックだけだと強調します。1つはルー大柴の対抗英語化で、これは本には書かれていない水野さんの読み方です。もう1つは、漢字を嫌いながら漢字を使うインテリたちの話です。
本の問題提起は、サザンオールスターズの歌詞から始まるそうです。耳では「アイクドゥネバー」と聞こえた部分が、実際の歌詞では「愛苦ねば世も知れず」と書かれていて、英語としても日本語としても成立しない自由な作詞だといいます。
水野さんによると、この本は「そんなことをしていいのか」という問いから日本語の歴史をたどる冒険の書です。ただし文献や古文からの引用が多く、読書初心者には厳しいかもしれないので、きついと感じたら流し読みでもよいと勧めています。
出版社からのコメントとして、著者の大岡玲さんは芥川賞・三島賞を受賞した小説家で、父の大岡昇さんも「折々のうた」で知られる詩人だと紹介されました。水野さんは最後まで、この本でルー大柴の魅力に目覚めたと語っています。
(ルー大柴は)英語を取り入れながら日本人としてのアイデンティティを保っているんだなって考えると、もうひたむきすぎて泣けて泣けて。
まとめ
今回のエピソードでは、『日本語はひとりでは生きていけない』を手がかりに、漢文訓読とルー語の共通点、そして明治の知識人が日本語と漢字に抱いた愛憎が語られました。外来の言葉を取り入れながら、どこで自分たちの言葉を保つのかという視点が、全体を貫いています。
- 漢文訓読には、中国の古典を読みつつ日本人としてのアイデンティティを保つ「対抗中国化」の意味合いがあるという説が紹介された
- ルー語も機能語は日本語のまま内容語だけを英語にしており、水野さんはそれを「対抗英語化」と読んだ
- 堀元さんは、ルー語の面白さはイディオムの内側でコードスイッチングを起こす点にあると分析した
- 明治の知識人は漢字廃止を唱えながら漢語で訳語を作り、その背景には平安時代からの「難しいことは漢語」という癖があるとされた
- 現代の日本人が新しい概念を英語っぽく名付けるのも、同じ構図だと二人は話した

