『俺か、俺以外か。』はトートロジー?
この雑談会は、言語の意味に関わる身近な表現を和泉悠先生に分析してもらうところから始まります。最初の題材は、ホストのローランドさんの著書タイトル『俺か、俺以外か。』です。
和泉先生は、実はこの例を大学で論理学を教えるときに使っているといいます。Amazonでこのタイトルを見かけたとき、「トートロジー ── 論理学で、どんな状況でも必ず真になる式や文のこと。日常語では「同じことの繰り返し(同語反復)」の意味でも使われますだ」と感じたそうです。
日常語でトートロジーといえば、「勝ちは勝ち」「知ってる人は知っている」のような同語反復を指します。一方で和泉先生によれば、論理学では「どのような状況でも必ず真になるもの」がトートロジーで、「必ず偽になるもの」が矛盾(コントラディクション)です。
どんなものを入れても真理値が1になる形式はすべてトートロジーとして扱われると。
同じ言葉を繰り返しても、論理学的なトートロジーになるとは限りません。逆に同じ言葉を繰り返さなくても、「PかつPでない」のように必ず偽になる矛盾もあります。
和泉先生は、ローランドさんの場合を具体的に説明します。ローランドさん本人はローランドさんで、堀元さんも水野さんもグラスも携帯電話もローランドさんではありません。宇宙のあらゆるものは、必ず「ローランドさんか、ローランドさん以外か」のどちらかに入ります。
「私以外私じゃないの」は真、「私以外も私」は偽
ローランドさんの話から、堀元さんはゲスの極み乙女の楽曲を持ち出します。和泉先生は、「私以外私じゃないの」はローランドさんのタイトルと同じく、形而上学者がみな「その通り」と頷く典型例だと答えます。
和泉先生はこれをライプニッツ ── 17〜18世紀ドイツの哲学者・数学者。「区別できないものは同一である」という同一性に関する原理で知られますの同一性に関わる話として位置づけます。一方で、その後に出た曲「私以外も私」について尋ねられると、和泉先生の答えは「それは矛盾ですね」でした。
和泉先生の説明では、任意のXはX自身と同一で、Xでないものとは同一ではありません。そのため「私以外も私」は常に偽になります。
だからライブでみんなやった方がいいよね。次、「私以外も私です」って言ったら全員で「偽ー!」って。
「私以外私じゃないの」の場合は「真」って返せばいいってことですね。
論理学の判定を、ライブのコールアンドレスポンスに使うという冗談で、3人の話は盛り上がります。
| 表現 | 論理学での扱い | 理由 |
|---|---|---|
| 俺か、俺以外か | 常に真(トートロジー) | あらゆるものは俺か俺以外かのどちらか |
| 私以外私じゃないの | 常に真 | XはXとだけ同一である |
| 私以外も私 | 常に偽(矛盾) | Xでないものまでxと同一だと言っている |
命題論理と述語論理はどう違う?
和泉先生は続けて、「私以外私じゃないの」を正確に表すには、述語論理と量化子が必要だと話します。この説明に水野さんが「述語論理がわからない」と正直に反応し、堀元さんは知ったかぶりでごまかそうとします。
やばい、僕自慢じゃないですけど、プロログの単位はギリギリで取ったんですよ。Cで。
そこで和泉先生が、命題論理から順に説明します。命題論理では「現在東京では雨が降っている」のような1つの文をPやQで表し、文の中身は気にせず、「PならばQ」「PかつQ」といった命題同士の関係だけを考えます。
「PならばQ、PしたがってQ」はモーダス・ポネンス、「PならばQ、QではないならばPではない」はモーダス・トレンスと呼ばれ、どちらも命題論理の典型的な推論です。
一方で述語論理は、命題の中身までバラして扱います。和泉先生の例では、「全員のお客さんが喜んだ」が真なら「何人かのお客さんは喜んだ」も真になりますが、命題論理では「PしたがってQ」としか書けず、この関係を説明できません。
1つの文をPやQとして扱い、「かつ」「ならば」「または」「でない」による命題同士の関係だけを見る
文の中の述語や「すべての」「とある」まで分解して扱う。量化論理とも呼ばれる
述語論理では、「水野さんが人間だ」を「H(a)」のように表します。水野さんはこれを「人間だ関数に引数を渡す」ようなものだと理解しました。
水野さん自慢じゃないですけど、僕半年間プロローグ、述語論理とかの講義受けてたんですけど、今初めて知りました。
雰囲気で解きました。
「俺か、俺以外か」を真にするには何を補う?
話は再び『俺か、俺以外か。』に戻ります。堀元さんは「Pまたは Pでない」なので命題論理で足りると考えますが、和泉先生は「俺か」だけでは文になっていない点を指摘します。
和泉先生の補い方は、「すべてのXについて、XはローランドさんであるかまたはXはローランドさんでない」という形です。何が俺で何が俺以外かを言ってもらわないと真偽が問えないため、任意のXを取る全称量化を入れ、述語論理で形式化したいといいます。
任意のXに対してXはローランドであるか、またはローランド以外であるかっていう言い方にしたら。
和泉先生が「ローランドさんもそれを想定されていたのかも」と応じると、堀元さんはすぐに悪ノリします。
歌舞伎町で働くためにはね、論理学のテスト突破しなきゃいけないって話ありますからね。
絶対嘘だと思います。
堀元さんはさらに、シャンパンの「モエ・エ・シャンドン」をもじった「モエ・ド・モルガン」で押し切ります。お酒が入った和泉先生もこの冗談に乗り、場はますます加速していきます。
「好きなスイーツは美味しいスイーツです」はなぜ引っかかる?
次に水野さんが持ち出したのは、プロフィール欄の好きな食べ物に「美味しいもの」と書く人が許せない、という堀元さんの持論です。堀元さんは、自分が美味しいと感じるものが美味しいものなのだから、何の情報量もないと主張します。
そこで水野さんが紹介したのが、叶姉妹のPodcast「叶姉妹のファビュラスワールド」です。水野さんによれば、叶美香さんは好きな食べ物を聞かれて「美味しいものです」、好きなスイーツを聞かれて「美味しいスイーツです」と答えていたそうです。
これは僕から見るとグライスの量の公理に違反してるんじゃないかと思ったんですね。
水野さんが挙げたのは、哲学者グライス ── イギリス出身の哲学者ポール・グライス。会話は「協調の原理」に基づくとし、量・質・関係・様態の4つの公理を提案しましたの会話の公理です。和泉先生も、質の公理は真偽に関わるものなので、今回は量の公理の違反でよいと答えます。
明らかに字が下手な人に「字が上手ですね」と言うように、明らかに間違ったことを言う
「好きな食べ物は美味しいもの」のように真ではあっても、範囲が広すぎて情報量が足りない
水野さんは、公理違反があるなら、そこから読み取れる含意があるはずだと考えました。その結果、タレントイメージを守るため、あえて普通の人がしないレベルの違反を2連続でしたのではないか、と解釈します。
この2連続は意思がないとできないから、やっぱり。
「好き」と「美味しい」は同じ意味?ジンギスカンで崩れた持論
和泉先生は、「好きな食べ物は美味しい食べ物」は論理的意味論としてはトートロジーではないと答えます。「美味しい」のような主観的述語の分析はここ2年ほど盛んで、「美味しい」や「楽しい」だけを扱った本が何冊も出ているそうです。
和泉先生によれば、美味しさは主観的に見えても、「この料理は美味しいよね」と同意を求めるやり取りもあります。どういうときに同意が成り立つのかは、哲学の相対主義に根源的に関わる、深いテーマだといいます。
水野さんは「好きならば美味しい」は真で、「美味しいならば好き」は真とは限らないと考えます。これに対して堀元さんは、食べ物に関しては美味しいと好きは同義語だと主張しました。
和泉先生が出した反例は、母親が作った思い出の料理です。見るだけで涙が出るほど大好きだが、決して美味しくはない料理はありえるのではないか、という問いかけです。堀元さんは一度は否定しますが、すぐに思い直します。
泉先生に今言われて、そんな料理ないですって否定したけど、違うわ、あるわ。実家を出されると確かにあるわ。
堀元さんが思い当たったのは、北海道のソウルフードであるジンギスカンでした。堀元さんは、北海道以外の人は臭みのない肉のほうが美味しいと思っていて、その結果、東京のジンギスカン屋は全店美味しいのが許せないと語ります。
くせぇジンギスカンがいいんすよ。
僕は地元で食ってたくせえ肉に比べて明らかにうまいんで、うまいなと思いつつ、いや俺が好きなのはもっとくせえ肉なんだって思ってるから、好きと上手いは必ずしも一致しないですわ。
食べ物に関しては「美味しい」と「好き」は同義語で、「好きな食べ物は美味しいもの」はトートロジー
東京の臭みのないジンギスカンは美味しいが、好きなのは地元の臭い肉。両者は必ずしも一致しない
水野さんに矛盾を指摘されると、堀元さんは「完全に問答法で引き出された」と論破を認めます。さらに堀元さんは、「好きならば美味しい」も「美味しいならば好き」もどちらも偽だという立場に移りました。
だからわけわかんないよね。過去の自分の言うことって意味わかんない。あいつバカなんじゃないか。
「美味しい」と答えるメタメッセージと、狭いカテゴリーの違和感
和泉先生は、叶美香さんの「美味しいスイーツです」は、先に「美味しいものです」と答えたことと一貫させたのではないかと考えます。そして、情報量がほとんどないことは認めつつ、細かいことを言わない演出そのものに感心したと話します。
和泉先生の解釈では、この受け答えには「私はそんなごちゃごちゃ言いませんよ」というメタメッセージが強く出ていて、それが主なメッセージになっているといいます。
堀元さんはこれを聞いて、取材で最初に「教養とは何か」と聞かれ、「教養人に聞いた方がいいですよ」と答えて場を凍らせた経験を思い出します。
あれもやっぱ本心はメタメッセージを言いたかったんですよね。なんかその、僕に聞くならもっとチョケたこと聞いてくれよっていう。
水野さんは別の角度から、質問のカテゴリーの広さに注目します。「好きな食べ物は?」に「美味しい食べ物」と返すのはまだしも、「好きなエビは?」に「美味しいエビです」は変に感じる、という指摘です。
狭くなればなるほど、好きなAは?っていう質問にはぐらかすの難しくなるわ。
和泉先生によれば、一番はぐらかしにくいのは「モンブランは好きですか?」のようなイエス・ノー疑問文です。意味論的には、疑問文は可能性の世界をどう区切るかの問題で、イエス・ノー疑問文は可能性を2つに区切ります。
堀元さんはここで『美味しんぼ』の海原雄山のように、栗の原体験を語り出してはぐらかそうとします。はいかいいえで答えるよう水野さんと和泉先生に迫られる一幕です。
好きな食べ物は?
「美味しい食べ物」でもまだ成り立つ
好きなスイーツは?
「美味しいスイーツ」は違和感が強まる
好きなエビは?
「美味しいエビ」はかなり変に聞こえる
モンブランは好き?
イエス・ノー疑問文で、はいかいいえしかない
好みを語らないこと、「いい人だよ」で終わること
和泉先生はさらに、「お魚が好き」と答えると、お肉が好きな人の可能性を消してしまうと指摘します。いかなる可能性にもオープンだというメタメッセージとして、「美味しいもの」と答えることもありえるという解釈です。
堀元さんは関連して、どんぐりFMというPodcastのエピソードを紹介します。リスナーから「好きな女性のタイプは?」と聞かれた男性パーソナリティ2人が、アラフォーが好きな女性のタイプを語るのはまずいと答えたくなかった、という話です。
なんか好きなものを語るって若者の特権なのかもしれないって、僕それ聞いて思ったんですよね。
水野さんが「好きな女性のタイプは?」に「いいと思う女性です」と返すのはどうかと尋ねると、和泉先生はいわゆる「いい人ですよ」の例を挙げます。「あの人どう思う?」に「いい人だよ」とだけ答えると、「やめておいたほうがいい」という語用論 ── 発話の文字どおりの意味ではなく、文脈の中で話し手が何を伝えているかを扱う言語学・言語哲学の分野的なメッセージになるという話です。
和泉先生が挙げたのは、グライスの典型例である推薦状です。教授の推薦状に「水野氏は大変時間に正確です。」とだけ書かれていたら、それは推薦していないのと同じです。
なんかこいつ能力なさそうっていう。遅刻だけしない能力ないやつっぽいなっていう感じで。
堀元さんは身近な例として、恋人の写真を見せられて言うことがないときの「優しそうな人だね」を挙げます。和泉先生は、何かを言わなかったことが意味を持ってしまうのが語用論の典型的な推論だとまとめます。
ローランド、そして叶姉妹っていうセレブリティの方々は、やっぱり語用論とか論理学的な非常に面白い発話をしているよという帰結が導き出されますよね。
人の悪口を有料で売るのはモラル違反?
後半のテーマは悪口です。和泉先生には著書『悪口ってなんだろう』があり、堀元さんは5、6年にわたり悪口を書いて生計を立ててきたと自己紹介します。
悪口をやってらっしゃる言語哲学者と悪口で食っている、悪口のプロ。
一応先生にもアドバイスなんですけど、あんま関わらないことが先生にとってはいいかなとは思いますね。
堀元さんは、人の悪口を書く有料マガジンに対して「人の悪口を売るな」という批判がよく来ると話します。これまでは聞き流していましたが、なぜダメなのかを自分も批判する側もうまく説明できないのではないか、と考えるようになったそうです。
「人を殺してはいけない」とかはなんとなくそうだろうなっていう、なんかそれはルールブックに書いてありそうな気がするんですよ。
でもその「人の悪口を有料で売ってはいけない」は習ってないから。
和泉先生は、これまでのどの質問よりも難しいと前置きします。そのうえで、お金の話はいったん脇に置き、著書で論じている悪口の考え方から話を始めます。
悪口は序列をつくり、ときにイコライザーになる
和泉先生の考えでは、悪口は人間のランキングに関わるものです。人間は理念として同じ立場にあり、政治家も学校の先生も学生も、役割が違うだけで偉さに差はありません。
その同じ立場の人間を言葉で下げることは、下げられた人の利害にも関わるので良くない、と和泉先生は話します。悪口は、序列をつける方法の1つだという位置づけです。
悪口って人間の序列をつけるための手段なんだっていうことをあんまり僕考えたことなかったので、なるほど、そういうものだったのかと思いましたね。
和泉先生が例に挙げたのは「キモい」という言葉です。グラスの冷たさには分子運動という実質がありますが、キモさを測る指標は世界に存在しません。
スカウターで「キモさ指数80超え」と測れるわけではないため、「キモい」と言って回る人が序列を勝手に作っていることになります。和泉先生は、序列があってそれを記述するのではなく、言葉を使って序列を作っていく機能が悪口にあると考えています。
堀元さんが著書で最も感動したというのが、和泉先生の「イコライザー」という表現です。思い上がって上の立場にいる政治家などを、悪口で引き下げて平等にする作用があるという考え方です。
同じ立場の仲間を「キモい」などで引きずり下ろし、いじめのような序列を作る
権力を持ちすぎた人を引き下げ、頭を冷やさせる。王様への風刺など
水野さんはロシアのアネクドート ── ロシアや旧ソ連で語られてきた小話・ジョーク。権力者や体制を皮肉るものが多いことで知られますを例に挙げ、堀元さんは有名な小話を紹介します。
レーニンはバカだと言った男が逮捕された。なぜか。それは国家元首を侮辱したから。侮辱罪だろう。違います。事実陳列罪です。
水野さんは、姉妹番組のゆるコンピュータ科学ラジオで江崎孝洋先生を迎えたとき、運動や料理が下手ではないかと聞いて引き下げようとした経験を思い出します。
僕がその卑俗な人間だとかではなく、イコライザーとしてやりました。
話の流れの中で、芸人の「いじられ役」のように、自分は相手を脅かす強者ではないと示すのも1つの方法だという話も出ます。悪口はやはり権力者に向けたい、という締めに対して、水野さんは堀元さんに「できてますか?」と突っ込みます。
「品性下劣」とはどういうことか
悪口の本懐は権力者に向けることだという点に堀元さんも納得しつつ、有料で売ることの是非にはまだ答えが出ていません。批判する人は「品性下劣だ」と言いますが、なぜ品性下劣なのかが堀元さんにはわからないといいます。
話は「品性とは何か」の分析から始めないといけない、それはもう1冊本を書かないと難しい、という方向に進み、この問いは今日ここで結論を出せないほど難しいという確認に落ち着きます。
それってお前が下賤な人間だっていう怒りの人の方が多くて、週刊文春とかとはちょっと違う怒られ方なんだろうなっていう気はしますね。
ゴシップ誌への批判とは違い、書き手個人の人間性に向けられた怒りだという指摘です。有料で政治家を批判していたなら、品性ではなく論の正しさが問われただろう、という見立ても出ます。
一個俺解決する方法あって、その有料でその悪口を言うっていうのをやめたらどうでしょう。
インターネットは殺伐としていたほうがいい?
堀元さんは次に、インターネットが殺伐とした場所になりがちな問題について和泉先生に尋ねます。和泉先生は、インターネットはインフラなので、大気汚染がひどければきれいにしたいと思うのと同じだ、という趣旨で答えます。
インターネットなんて殺伐としてればしてるほどいいですけどね。殺伐してる空間なんであそこは。
和泉先生は、2024年のいまと昔では当たり前が違うと話します。昔は体罰や、小学校の先生がタバコを吸うこと、シートベルトをしないことも普通でしたが、それが良かったとはとても思えない、今のインターネットも変わっていくかもしれない、という見方です。
2分前の自分って愚かなんでやっぱダメですよ。
水野さんは、殺伐としたほうがいいという意見は、議論は白熱するほどいいと考えて、思っていないことをふっかける姿勢に近いのではないかと指摘します。すると堀元さんは「俺じゃん」と認めます。
展開しないと意味ないんだから、会話なんて。
僕みたいな人間は優しけりゃ優しいほどいいじゃんって思っちゃうし、その観点も多分その悪口文化に関してあるのかなとは思いましたよね。
ネットに「善玉菌」を増やすホープスピーチ研究
和泉先生が最近始めているのが、ホープスピーチの研究です。憎悪のヘイトスピーチ ── 人種・民族・性別などの属性を理由に、特定の集団や個人を攻撃・排除する言動の逆方向にあるものとして、英語圏を中心に先行研究があるといいます。
ホープスピーチといっても複雑なものではありません。和泉先生の例は「2人ともお疲れ様でした。また次回も楽しい放送を待っています」のような、当たり障りのない前向きなコメントです。
背景にあるのは、ニュースのコメント欄などの治安の悪さです。和泉先生によれば、表現の自由があるため、違法でない発言を止めたり削除したり、表示順位を下げたりするのはハードルが高いといいます。
そこで和泉先生は、腸内の善玉菌を増やすように、前向きなコメントを人工的に増やせないかと考えています。AIに生成させたコメントを加え、善玉菌が多そうに見せるという発想です。
そのためにはまず、どういうコメントがホープスピーチなのかを調べる必要があります。和泉先生はニュース番組に付いたコメント約1万件を手作業でチェックし、ホープスピーチはそのうち2点何パーセントしかなかったそうです。
それ全然言語哲学じゃなくないですか?
和泉先生は、これは自然言語処理の仕事で、LLMに入れるデータセットはこうした手作業で作るのだと答えます。堀元さんは、ゆる言語学ラジオのコメント欄は体感で8〜9割がホープスピーチだと話します。
ただし堀元さん自身は、当たり障りのないコメントより、からかいでも情報量のあるコメントのほうが嬉しいといいます。
今日はいい天気ですねはもうないのと一緒だから。そいついてもいなくても一緒なんですよ。
規制と「いいものを増やす」の両輪
水野さんは、荒れたコメントが多いと書き込んでいい場所のようになり、さらに治安が悪くなるのではと考えます。和泉先生は、みんないいことを言えと強制するのはディストピア小説の悪い組織のようでもあり、バランスが大事だと認めます。
そのうえで和泉先生は、日本で違法とされるヘイトスピーチなどは積極的に削除できるとし、規制論と両輪で、いいほうを増やす方法も考えたいと話します。
あそこにそれこそAIで生成されたポジティブなコメントが半分以上並ぶだけでも、ガラッと空気変わるような気はしますね。
堀元さんが念頭に置いていたのは、どんなニュースでも批判や文句ばかりが並ぶというヤフコメです。水野さんも、低評価率の高い動画ではコメントもネガティブ一色で、「頑張ってください」と書き込みづらくなっているのではないかと話します。
堀元さんは、自身が炎上したときだけ応援のDMが大量に届くことを思い出します。
だからこれ多分普段だったら普通にコメント欄に書けるんですよ。でもなんかこいつ炎上してるからここに書けないなって思ったからDMで送ってくるってことなんでしょうね、おそらく。
堀元さんの体験は、ネガティブなコメントが並ぶ場所では前向きな声が表に出にくくなる、という和泉先生の問題意識とも重なります。
言語哲学者の社会実装と、炎上防止コンサルという選択肢
水野さんは、言語哲学者がこれほど実践的なことをするイメージはなかったと驚きます。和泉先生は、基礎的な研究もしたいし、社会実装も考えていきたいと答えます。
なんか人間と接続してないと嫌だっていう、意味みたいなものを解決する回路も人間と接続しないとダメだし、社会ももっと良くするようなものじゃないとダメだっていうロマンチスト感がめっちゃありますね。
水野さんがこれをチョムスキー ── アメリカの言語学者。生成文法の提唱者として理論言語学に大きな業績を残す一方、反戦運動などの政治活動でも知られます的だと言うと、和泉先生も、チョムスキーは理論言語学と同じくらい政治活動をしてきた人で、それに憧れているところもあるかもしれないと話します。
今後の最大の関心事を聞かれた和泉先生は、逆に「これからどうしていったらいいですかね」と問い返します。堀元さんは若者のキャリア相談を約150件受けてきた経験から、いつもの答えを返します。
大企業に就職する。まずは3年頑張る。
准教授への助言としてはさすがに無理があり、話は水野さんの真面目な見立てに移ります。水野さんは、独学で分析哲学をしていた知り合いが、和泉先生のやり方を知って「こういう方向があるのか」と話していたことを紹介します。
院の頃はさ、めちゃくちゃ理論的なことやったわけじゃん。一般的にはそれって社会にどう役立つんそれ?って聞かれ続けてきたジャンルだと思うんだけど、それを、いや、役に立ちますよっていう一定のアンサーを与えたのが多分この『悪い言語哲学入門』になるのか、『悪口ってなんだろう』だと思うので。
水野さんは、グライスを研究する三木奈悠太先生のように、政治家の答弁や差別の問題に自分の専門から応答する若い言語哲学者が増えているとも話します。和泉先生は意識せずともそのロールモデルになっているのではないか、という見立てです。
一方で堀元さんが持ち出したのは、最近ニーズがあるという炎上防止コンサルタントです。怪しいインフルエンサーが手がけてコンサル自体が炎上する現象がしばしばあり、それはアカデミアの裏付けがないからだと堀元さんは語ります。
社会実装のルートを突き詰め、後進のロールモデルになる
株式会社ペダンティックに所属し、悪口を専門とする言語哲学者として炎上防止を請け負う
和泉先生は迷わず「水野さんでお願いします」と研究者の道を選びます。堀元さんは、コンサルになった和泉先生のクライアントになり、炎上したら「この人がいいと言ったから」と便乗して燃やす、と冗談で締めました。
テレビのタレントは「おしゃべりサイボーグ」?
最後に感想を求められた和泉先生は、2人が常にオーディエンスを意識し、編集しやすいように話しているプロだと感じたと話します。
和泉先生は最近、民放のバラエティ番組に出演した際、タレントたちに同じようなプロ意識を感じたといいます。5人が同時に話し、VTRにリアクションしつつ、芸人はボケる隙があればボケて突っ込む、という光景を「おしゃべりサイボーグ」と表現しました。
俺だって話の流れ上存在しないエピソードを喋った方がいいなと思って、存在しないエピソードを喋ってる時あるもん。
和泉先生はその現場で、ゆうちゃみさんがカンペの指示をまるで自分の言葉のように流れるように話していたことに感心したそうです。自分はついていけず、ゆうちゃみさんに勉強を教えてもらう側のようだったといいます。
2人は「半分ゆうちゃみ」になった自分たちの日常生活を心配し始めます。水野さんは、熟慮するタイプの人と話したとき、相手の沈黙中に自分ばかり話し続けてしまった経験を振り返ります。
会話すると僕がずっとスピード違反をし続けるというか、その人が沈黙してる間に、じゃあ例えばここ、こういう状況だったらどう?とか、色々なことを言いすぎて。
水野さんは、和泉先生も聞かれると1秒ほど考えてから話すと指摘し、堀元さんも学識のある人は少し考えてから話し出すと同意します。言語哲学を初めて知る人にとって、和泉先生は「初めて見た言語哲学者」になるという責任があるからだ、という話です。
対照的に堀元さんは、実験哲学について「トロッコ問題を実験している」と適当に話してみせ、水野さんに即座に否定されます。そこから、ペラペラ話しすぎる人を信用してはいけないという教訓に至ります。
エンディングでは、感想コメントはもちろんホープスピーチ限定で、という冗談も飛び出します。堀元さんが理想とするのは、「何分何秒の発言は根本的に間違っている、こういうデータがある」というような、情報量のあるコメントでした。
まとめ
この回は、ローランドさんや叶姉妹の発言を論理学と語用論で読み解く軽い話題から始まり、悪口が序列を作る働き、ネットの治安とホープスピーチ、言語哲学者の社会実装へと話が広がりました。言わなかったことが意味を持つという語用論の視点が、有名人の受け答えからコメント欄のあり方まで、一本の線でつながっていく回です。
- 『俺か、俺以外か。』は述語論理で形式化すると常に真、「私以外も私」は矛盾になる
- 「好きなスイーツは美味しいスイーツです」は、グライスの量の公理違反として読むと、メタメッセージが見えてくる
- 悪口は序列を言葉で作る手段であり、権力者を引き下げるイコライザーとしても働く
- 和泉先生は、規制と並行してAIで前向きなコメントを増やすホープスピーチ研究に取り組んでいる
- 学識のある人ほど考えてから話すという話から、ペラペラ話す人を信用しすぎないという教訓が出た

