音韻論、統語論ときて、なぜ今回は3人で意味論なのか?
ゆる言語学ラジオの「ちょいガチ言語学ラジオ」は、専門家に1分野をじっくり教わるシリーズです。音韻論、統語論に続く今回のテーマは意味論で、普段は水野さんが単独で話を聞く形式ですが、今回は堀元さんも同席しています。
僕、プログラミング言語を自作したいなってずっと思ってるんですけど、そうすると(意味論が)避けて通れないらしいっていう噂を聞いていて。
ゲストの和泉悠さんは、南山大学人文学部人類文化学科の准教授で、南山大学言語学センターのセンター長も務めています。大阪生まれで「京都府育ち」と自己紹介し、「京都出身」と言うと京都市内の人から「それって京都でしたっけ?」と言われてしまうという話で場を和ませました。
和泉さんの経歴の出発点は大阪大学の哲学科です。学部時代にUCLAへ交換留学して初めて意味論の授業を取り、その後アメリカのメリーランド大学の哲学博士課程に進んで、言語哲学と意味論の研究者になりました。
専門は言語哲学と形式意味論で、特に固有名や定冠詞を含む名詞表現の意味を研究しています。日本語や中国語には定冠詞がないのに、「女王」だけでどうやってザ・クイーンと同じことを伝えているのか、という問いが研究の中心にあります。
和泉さんはそこから派生して、悪口や誹謗中傷、ヘイトスピーチといった有害な言語活動も研究しています。一般向けの著書に『悪い言語哲学入門』と『悪口ってなんだろう』があり、後者は堀元さんが書評を書いた縁もあります。
言語学は認知科学の一部、とはどういうことか?
堀元さんが最初にぶつけたのは、「意味は会話できている時点でわかっているのに、研究する必要があるのか」という率直な疑問でした。
正直その、(意味論って)やる意味ある?っていう。やる必要ある?っていうのは。
和泉さんは、自身が専門とする意味論はノーム・チョムスキー ── アメリカの言語学者。人間には生まれつき言語を獲得する能力が備わっているとする生成文法を提唱し、現代言語学に大きな影響を与えましたの影響下にあると説明します。チョムスキーは言語を、人間の脳に備わった内在的な原理として捉えており、言語学を認知科学の一部と見なしています。
和泉さんが例に挙げたのは視覚です。網膜が受け取るのは2次元の光の刺激だけなのに、脳の処理を経て、私たちは距離や奥行きのある3次元の世界を見ています。
視覚科学者がその仕組みを解明しようとするのと同じように、言語学者は「話す」「理解する」という当たり前の活動の原理を解明しようとしている、というのが和泉さんの整理です。見ること、聞くこと、話すことは、広く見れば同じ仲間の研究対象だといいます。
ただし和泉さんは、現代の意味論には認知科学の伝統だけでなく、コンピュータープログラムや数理論理学の伝統も流れ込んでいると付け加えます。どちらの立場に立つかで「意味とは何か」の答えが変わってしまうため、意味論はややこしいのです。
女王、水野さん、赤信号。文の意味が「真理条件」だとは?
水野さんに「意味とは何か」を問われた堀元さんは、「女王」という語は、人々の頭に浮かぶ女王像の集まりに付けたラベルではないか、と答えました。心の中のイメージや概念を意味とみなす立場は実際に存在する、と和泉さんは認めます。
そのうえで和泉さんは、意味論で標準的なのは真理条件的意味論 ── 文の意味を「その文が真になるのはどんな条件のときか」として捉える意味論の立場。論理学の考え方を自然言語に応用したものですだと紹介しました。文や発言の意味は、真理条件だという考え方です。
和泉さんによれば、「女王陛下が来日するから警察官は気をつけて」とやりとりするとき、私たちが関心を持っているのは、実際に女王とされる人物が日本に来るという世界の出来事です。情報交換の中身は、世界がどうなっているかという事柄そのものだといいます。
例えば水野さんの体毛の数は偶数だ。(この文の)意味わかりますね。我々全員日本語話者として。でもそれって事実かどうか絶対わからない。
和泉さんは水野さんの体毛の例で、真理条件を知ることは、その文が実際に真か偽かを知ることではないと説明します。どんな状況なら真になるのかという条件を知っていれば、真偽がわからなくても意味はわかるのです。
語の意味は、この真理条件を組み立てる部品として扱われます。「水野」という名前の意味は、和泉さんが心に描く水野さんのイメージではなく、水野さんという人物そのものです。語と対象のこの対応を指示関係と呼びます。
その私の心の中のイメージが赤くなりましたとは言ってないですよね。
「赤信号だ、止まって」と言うとき、話題になっているのは本物の信号の色です。自分が「真理条件の部分」だったと知った水野さんと堀元さんは、「真理条件の部分として生きてきた」と驚いてみせました。
語
「水野」のような語は、世界にいる対象(水野さん本人)を指示する
文
語を組み合わせた「水野は人間である」のような文ができる
真理条件
世界がどうなっていれば、その文が真になるかという条件が決まる
意味
その真理条件を知っていることが、文の意味を知っていること
ラーメンやペガサスは、世界の何を指しているのか?
堀元さんは、この説明に納得しきれませんでした。「水野」のような固有名詞ならまだしも、「ラーメン食いに行こうぜ」のラーメンは、天下一品かもしれないしラーメン二郎かもしれない、と食い下がります。
和泉さんの答えは、標準的な考え方では「ラーメン」の意味はラーメンの集合だ、というものでした。それは心の中のイメージの集合ではなく、過去・現在・未来に存在するすべてのラーメンそのものの集まりです。集合は抽象的なものなので、大きさの制約もありません。
続いて水野さんが堀元さんを介して持ち出したのが、ペガサスのような架空の生き物です。現実に存在しないものについて話せるなら、やはりイメージを共有しているのではないか、という反論です。
例えばペガサスは羽が2枚生えていると。(これは)正しいと思いますよね。
和泉さんは、この文は「物語の中で描かれるペガサス」について、空想世界の状態を述べているだけかもしれないと説明します。「シャーロック・ホームズはO型です」が間違いだと言えるのも、物語にそう書かれていないからです。
堀元さんは、イベントで客に「本当にいたんですね」と言われる経験を重ねました。2人が生成AIで作られた存在である可能性もゼロではなく、それでも動画の中の水野さんについては同じように語れる、という喩えです。
「最大の素数は存在しない」はなぜ言えるのか?
和泉さんが次に紹介したのが、確定記述 ── 「最大の素数」「イギリスの女王」のように、ただ1つの対象を指す形で書かれた表現のこと。ラッセルの分析で有名になりましたをめぐるパズルです。数学では最大の素数は存在しないと証明できますが、そう言うとき、すでに「最大の素数」という言葉を使っています。
でも最大の素数ってもう言っちゃってるので、その最大の素数っていうものに対応するものがないと困るじゃないですか。
対応するものがないから無意味だとすると、「最大の素数」は意味不明な音にすぎず、証明そのものができなくなります。和泉さんは、「神は存在しない」という主張でも同じ問題が起きると指摘しました。
神という言葉に意味がないなら主張は意味不明になり、頭の中のイメージを指すならそのイメージは存在してしまいます。こうした問題のせいで、神の存在を否定する側がかえって分が悪くなるというのです。
和泉さんによれば、直感的にはわかる「最大の素数は存在しない」をきっちり数式で書くにはどうすればよいか、という問題に、19世紀の終わりごろ数学者や哲学者が強い関心を持ちました。今の論理学や数学基礎論は、この時代に作られたものだといいます。
その中心にいたのが、ドイツの哲学者・数学者ゴットロープ・フレーゲ ── ドイツの数学者・哲学者。現代の述語論理を生み出し、分析哲学の祖の一人とされますと、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルでした。彼らが生み出した人工言語が、後の論理学の土台になります。
堀元さんが「人工言語」を、エスペラントのような話される言語ではなく、数学用に特化した記法だと補足すると、和泉さんはその「記法」という言葉を評価しました。フレーゲが1879年に出版した述語論理の基礎は、まさに『概念記法』と題されているからです。
全称記号「∀」がAを逆さにした形なのは、活版印刷の時代に新しい活字を彫るのが大変だったからだ、という小話も出ました。さらに、ラッセルとホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ』が型理論の雛形になったこと、アロンゾ・チャーチがラムダ計算を発明したことにも話が及びます。
自然言語も形式言語の1つ?モンタギューの発想
和泉さんは、哲学者や数学者の論理学研究から生まれた形式言語が、その後デジタルコンピューターにつながったと説明します。そしてその形式言語を自然言語に当てはめたのが、リチャード・モンタギュー ── アメリカの論理学者・哲学者。英語の一部を形式論理で厳密に記述し、「モンタギュー文法」として現代の形式意味論の出発点を作りましたです。
モンタギューの発想は、自然言語そのものが、数学的に可能な無数の論理的言語の1つにすぎないというものでした。英語の一部について、構文と意味をそれぞれ代数で書き、両者の対応を証明してみせたのです。
堀元さんは、この話を西野カナさんの「トリセツ」を弁護士が法的に正しい取扱説明書に書き直した企画に喩えました。「永久保証」は現実味がないので年数にしたほうがよい、と直す作業です。
水野さんは当初、形式化は理系寄りのアプローチだと思っていたものの、非論理的に見えた自然言語の内部構造がしっかりしていると示した点で、むしろ「言語の復権」だったのではないかと驚きを語りました。
堀元さんは「置き換え」なら復権ではないと疑問を返し、和泉さんは説明を補います。自然言語は不完全だから科学には人工言語を使おう、と考えたのはフレーゲやラッセルであり、モンタギューは自然言語も科学の言語と同じ種類だと考えた、という違いです。
自然言語は不完全でだらしがない。科学には厳密な人工言語を作って使うべきだと考えた
自然言語も、数学で表せる論理言語の1つにすぎない。英語の一部を実際に形式的に書き下して示した
とはいえ水野さんには、形式言語の一種として自然言語があるという感覚が馴染みませんでした。チョムスキアンである和泉さんも、モンタギューの言語観は自分にはそぐわないとしたうえで、DNAの喩えで説明します。
DNAはA、C、T、Gの4種類の組み合わせにすぎず、地球の生物が実現しているのは、論理的に可能な組み合わせのごく一部です。モンタギューがしていることは周期表を全部書いているようなもので、人間の自然言語はその一角にすぎない、というのが和泉さんの整理です。
堀元さんは、硫黄や鉄を主成分とする惑星の代謝を想像するようなSFっぽさを感じたと話し、水野さんは「アストロバイオロジーやん」と応じました。
モンタギューからハイム&クラッツァーへ。形式意味論はどう生まれた?
研究史の続きとして、和泉さんはコンピューターと分析哲学のつながりを追った本『知られざるコンピュータの思想史』を紹介しました。フレーゲ、ラッセル、モンタギューの流れは人間の心にはあまり関心がなく、あくまで数学として言語を扱っていたといいます。
一方、チョムスキーは言語をそのようなものとは考えていませんでした。和泉さんによれば、数理論理学から言語を形式化する流れと、チョムスキーの影響とが、70年代から90年代にかけてぶつかり、そこから今の標準的な形式意味論が生まれました。
その代表的な教科書が、イレーネ・ハイムとアンジェリカ・クラッツァーによる1998年の『Semantics in Generative Grammar』です。水野さんは、以前番組に出た形式意味論の研究者の先生でさえ「難しすぎてめっちゃイライラした」と話していたことを紹介しました。
悪名高いけれど、形式意味論は本当に難しいのか?
形式意味論は難しいと言われがちですが、和泉さんはまず、そんなことはないと答えます。ラムダ計算に慣れていないのでとっつきにくいだけで、使う数学は集合論とラムダ計算くらいだといいます。
もう1つの答えは、ラムダ計算は道具にすぎないというものです。「意味は関数だ」と言うと語弊があり、正確には、関数を使って意味をモデル化しているということです。台風を数値モデルでシミュレーションするのも、外で気圧を測るのも、どちらも台風への1つのアプローチだという喩えが使われました。
水野さんは入門書でラムダ計算を学んだとき、分析したい対象を持たずに読んだせいで頭に入らなかったと振り返ります。堀元さんはそれを「行かない国のガイドブック読んでるみたいな」と表現しました。
和泉さんが強調した形式意味論の利点は、再現性です。誰が計算しても同じ結果になるはずなので、構文を変えてうまくいかなければ反例になり、「ここがおかしいのでは」と議論できる共通言語になります。
ハイム&クラッツァーが目指したのは、合成的に文の意味が自動的に導かれる仕組みを作ることでした。意味は、レゴブロックのような部品を文法どおりに組み合わせて出来上がる、という考え方です。
堀元さんは、この作業はプログラミング言語のコンパイラ ── 人間が書いたソースコードを解釈し、コンピューターが実行できる命令に翻訳するソフトウェアを作るのとそっくりだと感じました。世界初期の電子計算機ENIACでは、配線やスイッチを人手で切り替えていたのが、やがて機械的な変換に移ったという話を重ねます。
水野さんは、組み合わせて意味を表せない初期ENIACの不便さを想像すると、合成性の原理のありがたさが直感的にわかると語りました。ちなみに合成性の原理を言い出したのはフレーゲだ、と水野さんが教えると、堀元さんは「一問一答だけで生きてきてんな」と返しています。
「てめえこの馬鹿野郎」も形式意味論で扱える?
1998年の教科書以降、形式意味論はさまざまな言語現象に手を伸ばしてきた、と和泉さんは説明します。量化表現だけでなく、時制、「〜すべき」といった表現、英語の助動詞、命令文や疑問文まで扱えるようになっています。
和泉さん自身が取り組む罵倒表現も、そうした特殊な対象の1つです。英語では2人称代名詞に名詞をつけ、be動詞や冠詞を落とした「You fool」が罵りになり、言語によってはyouの部分の格が決まっているといいます。
日本語で「あなたバカ」は片言のように聞こえますが、映画『アウトレイジ』の「てめえこの馬鹿野郎」のように「この」が挟まると成立します。堀元さんが『エヴァンゲリオン』のアスカの「あんたバカ?」を挙げると、それは疑問文で、言語行為論 ── 発話によって約束・依頼・非難などの「行為」が行われる仕組みを分析する理論。オースティンやサールが代表的ですが関わる話だと和泉さんは答えました。
和泉さんが形式意味論で問題にするのは、「You fool」をどう合成するかです。「You are a fool」なら真理条件が導けても、be動詞と冠詞が落ちると合成できないのに、言っていることはわかります。例外扱いするにしても、なぜ例外になるのかを説明したいのだといいます。
さらに、「Oops」のような間投詞には、ちょっとした失敗のときにしか使えないという使用条件があります。こうした表現は使用条件的意味論として理論化が進められている最中で、罵倒や悪口の分析もその試みの1つだと和泉さんは位置づけました。
真理条件的意味論と形式意味論は、何が違うのか?
話題が広がったところで、堀元さんは「最初の真理条件の話と、形式意味論の歴史の話は関係あるのか」と整理を求めました。水野さんは、真理条件的意味論は意味論の立場であり、形式意味論は意味論の手法だと答えます。
ハイム&クラッツァーの冒頭にも、文の意味を知ることは真理条件を知ることだ、と書かれています。形式意味論はこの前提の上に積み上げられた手法です。
和泉さんは、論理学は推論の学問なので、前提が真なら結論も真かという真偽が不可欠になると説明します。論理学の意味論を利用している以上、形式意味論は真偽ありきになるのです。
和泉さんが示したのは真理表の例です。「かつ」と「または」の意味の違いは口で説明しにくいものの、真理表を見れば、どんなときに真になりどんなときに偽になるかが一目でわかります。これがまさに真理条件だといいます。
堀元さんはこれで納得し、論理演算の考え方を自然言語にも持ち込んだ結果が「文の意味は真理条件だ」というアイデアなのだと整理しました。
一方で水野さんは、世界との対応をチェックする道具立てでは、意味の狭い部分しか扱えないのではと疑問を投げました。メタファーやイメージスキーマで説明する認知言語学 ── 言語を人間の一般的な認知能力から説明しようとする言語学の分野。意味と形式を切り離さず、比喩や身体経験を重視しますのほうが直感的にわかりやすい、というのです。
和泉さんの答えは、反証のしやすさでした。形式意味論なら反例を形式化できるので、間違いがすぐわかり、どこを直せばよいか議論できます。スキーマのような説明では、何が反例になるのかがわかりにくいといいます。
堀元さんはここで、ENIAC開発に関わったハーマン・ゴールドスタインと若い女性のプログラム技師、フォン・ノイマンの逸話を紹介しました。技師が「それはできません」と指摘すると、ノイマンはすぐ「本当だ」と誤りを認めたという話です。
形式意味論は、脳で実現されていなければ意味がない?
和泉さんは、形式意味論の良さとして、もう1つの側面を挙げます。最終的には、その理論が脳で実装されているところまで持っていきたいというのです。
枠組みとしてあるだけでも価値があると考えていた堀元さんと水野さんは、この答えに驚きました。和泉さんによれば、数学をしているだけでよいというのはモンタギューの立場で、形式意味論を分析の道具として使う研究者のほうがむしろ主流かもしれないといいます。
和泉さんはこの違いを、計算とアルゴリズムの違いで説明しました。999×500は、筆算でも、1000×500から500を引いても同じ答えになります。論理学で書いた意味の理論も、数学的に同等なものがいくつも作れるため、そのうち人間がどれを実現しているのかを知りたいのです。
堀元さんは、『ファスト&スロー』で知られるシステム1とシステム2の話を類似例に挙げました。和泉さんは関係があるとし、チョムスキー的には言語は進化の産物として偶然できた特殊なモジュールなので、数学的にエレガントである必要はまったくないと付け加えます。
具体例として和泉さんが紹介したのが、英語の「most」の意味を調べる研究です。「Most pianos are black.」の真理条件は、黒いピアノが過半数であることですが、それを判定する手続きは少なくとも2通り考えられます。
黒いピアノの数と、黒くないピアノの数をそのまま比べる
ピアノ全体から黒いピアノを引いて黒くないピアノの数を出し、それと黒いピアノの数を比べる
コンピューターにとってはどちらでも同じですが、人間はどちらを使っているのか。画面に青と黄のドットを見せ、判定の速さや間違い方を調べることで、視覚研究の知見を使って確かめる、という研究です。
和泉さんによれば、結果は「most」では全体から引く手続き、「more」では2つを直接比べる手続きを使っているらしい、というものでした。和泉さん自身の研究ではなく、メリーランド大学の大学院生の研究で、和泉さんは間違っていたら訂正したいと留保しています。
水野さんは、3人が30ドル払ったのに1ドル足りなくなる宿代のクイズを持ち出し、人間の処理のくせが間違い方に現れる点で似ていると話しました。和泉さんは、行動経済学の合理的なホモ・エコノミクスが実在しないように、モンタギュー的な数学的自然言語も実際の人間の心とは別物だ、と応じています。
和泉さんは、日本の哲学者の中では比較的実験をしているほうだといいます。実験哲学という分野もあり、文系・理系という区別は日本で偶然できたものにすぎず、ロックは医者、アリストテレスは今でいう自然科学者だった、というのがその背景です。
言語の理論化を許さないウィトゲンシュタイン
堀元さんは、名詞の意味を突き詰める言語哲学者が脳での処理にこだわるのが意外だったと話します。和泉さんは、脳はどうでもよいと考える言語哲学者も少なからずいると補足し、その代表としてウィトゲンシュタイン ── オーストリア出身の哲学者。前期の『論理哲学論考』と、言語ゲーム論を展開した後期とで大きく立場を変えたことで知られますの名前が挙がりました。
和泉さんによれば、ウィトゲンシュタインは、言語をこうした理論にすること自体に嫌悪感を抱いたかもしれない人物です。言語の理論化などできない、という「アンチセオリーのセオリー」だといいます。
高校の倫理で習った「言語ゲーム」で特攻した水野さんに、和泉さんは説明を加えます。ゲームを定義しようとしても、「2人以上で遊ぶもの」ならソリティアが外れ、「競争するもの」なら競争しないゲームが外れる、というように必要十分条件で定義できないのです。
ただしウィトゲンシュタインも、前期の『論理哲学論考』ではまさに真理条件的意味論に近い理論的な立場でした。和泉さん自身が最も影響を受けたのは、ウィトゲンシュタインではなくチョムスキーや自身の指導教官だといいます。
堀元さんが改めて尋ねた言語哲学と言語学の違いについて、和泉さんは、言語と思考はどちらが先かのような、言語をはみ出るメタ的な問いに取り組むのが言語哲学者だと答えました。
さらに哲学は倫理学の仲間なので、善悪という規範的な話も扱います。ヘイトスピーチ、デマ、誹謗中傷、プロパガンダといった言語の政治的・道徳的側面が守備範囲に入るのに対し、言語学は基本的に価値判断をしない、という違いです。
言語を教えずに子どもを育てる実験の話では、和泉さんがヘロドトスの『歴史』にある、エジプト第26王朝プサンメティコス1世の逸話を紹介しました。2年後に子どもが口にした「ベコス」が、パンを意味するプリュギア語だったというものです。
言語哲学、言語学、認知意味論。各意味論はどう違う?
言語哲学の意味論と言語学の意味論について、和泉さんは同じと言ってよいと答えます。和泉さんの世代は両方のトレーニングを受けた人が多く、言語学のほうが具体的な現象に、哲学のほうが原理的な話に向かいがち、という程度の違いだといいます。
水野さんは、形式意味論と認知意味論の関係がわからないと尋ねました。和泉さんは、認知意味論を代表して話すことはできないと断ったうえで、キャンプが分かれて交流が少ないのは、物理学などどの科学でもあることだと答えます。
和泉さんによれば、2つの分野は得意分野が違います。この違いを整理すると、次のようになります。
| 観点 | 形式意味論 | 認知意味論 |
|---|---|---|
| 得意な対象 | 量化表現、「だけ」、「そうだ」「ようだ」などの論理的な語彙 | 形容詞や名詞、前置詞の意味 |
| 比喩の扱い | 教科書では扱わず、後回しにしがち | メタファーやメトニミーを積極的に説明する |
| 説明の仕方 | 振る舞いを機械的に導くメカを作る | 図やイメージスキーマで説明する |
「あなたは太陽だ」は偽?形式意味論は比喩をどう扱う?
比喩について和泉さんは、ハイム&クラッツァーのような教科書ではメタファーは扱われず、後回しにされがちだと認めました。1つの考え方は、語用論で処理することです。
「あなたは太陽だ」は、意味論的には偽です。そこから、この人が本気で自分を太陽だと思うはずがないので、何か別のことを伝えようとしている、つまり褒めているのだと推論する、というのがグライス ── イギリスの哲学者。会話の参加者が協調するという前提から、言外の意味を推論する仕組みを理論化しました的な考え方だといいます。
堀元さんは、それなら「あなたは太陽のようだ」と「あなたは太陽だ」を並行に扱いにくいと食い下がりました。一方、水野さんは、偽という結論を出したあと別の処理に送られるだけだと考えれば納得がいく、という立場です。
和泉さんは同じ方向の反論として、「あなたは太陽だ」と「あなたはペガサスだ」がどちらも偽になり、意味がほぼ同じになってしまう問題を挙げます。しかし、太陽とペガサスでは含意がまったく違い、片方は褒め言葉、片方はいじりかもしれません。
ただし和泉さんは、ペガサスと聞いて何を想起するかは「言語」ではなく「概念」の話だと考えています。非常に狭い意味での言語と、概念を区別しているのです。
和泉さんの指導教官は、言語的意味とは概念を操作する指令だという仮説を持っています。「紫色のペガサス」と聞くと、紫色とペガサスという別々の概念を組み合わせる指令が働き、頭に像が浮かぶ、という考え方です。
この立場だと、チョムスキーの有名な無意味文「Colorless green ideas sleep furiously」や「四角い三角形」にも意味があることになります。組み合わせる指令としての意味は存在し、概念としてはつながらずに破綻している、という説明です。
水野さんが認知言語学のシミュレーション理論について尋ねると、和泉さんは、意味を概念そのものとみなす立場で、基本的にはデイヴィッド・ヒュームの考え方に近いと答えました。知覚のコピーを組み合わせて概念ができる、という発想です。
意味は頭の内にある?外にある?日によって揺れる研究者
水野さんは、そもそも和泉さん自身は意味をどう捉えているのかを聞けていないと気づきます。和泉さんの答えは、「正直に言うとよくわからない」というものでした。
和泉さんは、言語観次第で答えが変わると説明します。チョムスキーは、日本語や英語のような外に現れたものをE言語 ── 外在化された言語。実際の発話や文章など、個別の作品として外に現れた言語を指すチョムスキーの用語、脳に備わった原理そのものをI言語と呼び、言語学の対象はI言語だと考えます。
I言語を言語とみなすなら、言語的意味は概念に出す指令のような内在的なものになります。絵描きの頭の中の活動と、描かれた作品が別物であるのと同じだ、というのが和泉さんの喩えです。
ただ和泉さんは、それだけでよいのかと揺れる日もあると語りました。水野さんはそれを「メンヘラみたいな」と表現し、堀元さんは、研究者が確固たる立場にいるのではなく揺れていることに驚いています。
水野さんは、超心理学を長年研究した末に超能力はないと気づいて懐疑派に転向したブラックモアさんを挙げ、研究者のキャリアの在り方として重ねました。
固有名詞は一般名詞と同じ?和泉悠さんの博士論文
揺れる和泉さんですが、博士論文をもとにした著書『名前と対象』の主張には自信があるといいます。その主張は、固有名詞は一般名詞と同じ種類の言葉だ、というものです。
伝統的な論理学では、個体を指す固有名詞には小文字の個体定項を、たくさんのものに当てはまる述語には大文字を当て、まったく違う扱いをしてきました。英語でも「an apple」とは言っても「an Izumi」とは言いません。
しかし和泉さんは、日本語を見ると「女王が来た」と「エリザベスが来た」は同じ形だと指摘します。根本的に違う理論を当ててきたのは、英語中心主義ではないかという問いです。
さらに現代ギリシャ語では、主語や目的語になる名前にも必ず定冠詞がつき、「ザ・ソクラテス」のように言います。
| 言語 | 一般名詞 | 固有名詞 |
|---|---|---|
| 英語 | 冠詞がつく | 冠詞がつかない |
| 日本語 | 冠詞がない | 冠詞がない |
| 現代ギリシャ語 | 冠詞がつく | 主語や目的語では定冠詞がつく |
英語だけが変わっていると考えれば、名前もアップルと同じ種類の言葉だとするのが最も素直だ、と和泉さんは言います。日本語でも「勝俣さんは静岡にしか住んでいない」と言うとき、特定の1人ではなく勝俣という名字を持つ人々について話しています。
「勝俣太郎は葛飾区に3人も住んでいる」も同様で、勝俣っていう言葉は「勝俣という名前を持つ人」という一般名詞だと考えられます。これを特殊な例外とみなすのが標準的な立場で、和泉さんはそれが間違っていると延々議論しているのだといいます。
固有名詞は1つの個体を指す特別な表現で、一般名詞とは根本的に違うものとして扱われてきた
「勝俣さんは静岡にしか住んでいない」のような用法から、名前も「その名前を持つ人」という一般名詞として扱える
自然言語に型理論は強すぎた
アメリカで博士論文を通すのは大変だったのでは、という問いに、和泉さんは、指導教官の考えと相性のよい発想だったと答えます。その背景にあるのが、型理論への懐疑です。
ハイム&クラッツァーで標準的に使われる型理論 ── 表現に「個体(e)」「真理値(t)」などの型を割り当て、それらの組み合わせで意味の計算を整理する枠組みでは、一般名詞は個体をとって真理値を返す関数です。「全ての」は2つの集合をとって真理値を返す型で、これはフレーゲが示したエレガントな分析だといいます。
しかし和泉さんによれば、型理論は自然言語には強すぎます。2項の「褒める」、3項の「between」、4項の「売る」はあっても、理論上は5項、6項と無限に作れる関数が、人間の言語にはほとんど見当たらないのです。
可能なのに使われていないなら、そもそも人間が実装しているのはそれではないのではないか。和泉さんと指導教官は、人間の脳がしているのは、集合どうしの共通部分をとるような単純な操作ではないかと考えています。
固有名を単なる集合として扱えば、別扱いしていた分の複雑さが取り除かれます。和泉さんの博士論文の方向は、すべてを述語にして共通部分をとる、という指導教官の大きな目標に合致していたのです。
堀元さんは、プログラミング言語の専門家から聞いた、C++の複雑すぎる型の仕様への京都風の皮肉を紹介しました。型をシンプルにすべきという工学の話と今回の話がリンクした、と興奮気味です。
言語のおかげで、異なる感覚を統合できる?
堀元さんが、集合を扱う能力は動物にもあるのかと疑問を持つと、和泉さんは、チョムスキー的な発想では、異なる感覚の情報を統合させているのが言語だと説明しました。視覚や聴覚などのシステムは別々に進化したため、フォーマットがバラバラだからです。
和泉さんが紹介したのはラットの迷路実験です。ラットは空間の情報も匂いの情報も使えるものの、「臭い黒い壁の右に餌がある」のように組み合わせた情報はなかなか覚えられないといいます。
人間に似た課題をさせながら文章を復唱させて言語に負荷をかけると、成績がラット並みに落ちます。一方、同じくらい負荷のかかるリズムの復唱では落ちなかった、というのです。これは和泉さんが大学院で習った、哲学者ピーター・カラザースの考えだといいます。
言語に負荷がかかり、異なる感覚の情報を統合する成績がラット並みに落ちる
同程度の負荷でも言語ではないため、成績は落ちない
堀元さんは「言語の功績すごくね?」と感嘆し、ポッドキャストを聞きながらの料理は危ないのではと冗談を飛ばしました。和泉さんは、聞いているだけでなく復唱や会話をしていると、パフォーマンスが落ちるかもしれないと答えています。
この結果は、言語は思考のためにあるという立場を支えます。一方でNatureに最近出た論文は、思考は言語から独立しており、言語はコミュニケーションのためにあると主張しているといいます。和泉さん自身は思考派で、コミュニケーションは言語とは別物だと感じていると話しました。
単語ベクトルの時代に、意味論者はどう向き合うか?
水野さんは、意味を単語ベクトル ── 単語を多数の数値の並びで表したもの。意味の近い単語ほど近い位置に来るように学習されますで表す自然言語処理が勢いを増し、言語学は意味がなかったのではという論調すらあると問いかけました。
和泉さんは、それも1つのアプローチとして発展すればよいと答えます。「王」と「女性」を組み合わせると「女王」に近くなるような名詞や形容詞の説明には、集合よりしっくりくる面があるといいます。
形式意味論の研究者の中にも、敬語の微妙な差をベクトル空間で表す試みをしている秋田先生がいる、と和泉さんは紹介しました。単語ベクトルをそのまま使うというより、従来の二者択一の集合より複雑な数学を使う発想です。
和泉さんが気になるのは、「だから」「じゃない」のような論理的な語彙や否定語です。「あの人は女王じゃない」をベクトルでどう扱うのかは疑問だといいます。
堀元さんは、自分が読んだ範囲には何も書かれていなかったと正直に答え、LLMは周囲の単語の文脈をTransformerで行列演算して処理しているのではないか、と憶測として述べました。
赤ちゃんが聞くデータ量でも言語モデルは学べる?
和泉さんは、チョムスキー的には人間の言語とLLMは別物だと考えています。ただ最近は、小さなTransformerに赤ちゃんが聞く程度のデータを与えて、うまく言語を産出できるかを確かめる研究も行われているといいます。
ハーバードの院生だったウィルコックスさんの論文ではそれがある程度うまくいき、チョムスキー系のジャーナル『Linguistic Inquiry』に載ると和泉さんは紹介しました。「全然感じないっす」とは言っていられない、という受け止めです。
水野さんは、刺激の貧困 ── 子どもが受け取る言語データは限られているのに、豊かな言語能力を獲得できるという議論。生得的な言語能力の根拠とされてきましたに対して、LLMは学習量が多すぎるという反論が有効だったが、絞ってもできたとなると話が変わると整理しました。
堀元さんは、人間もたくさん聞いてパラメータをいじっているだけという「大体一緒論者」だと語ります。水野さんは、子どもは視線や口の動きなど、もっとリッチな情報を得ているのではないかと考えています。
和泉さんは、2+2=5というデータを大量に与えればLLMはそう言い出すが、論理的に考える人間はそうはならないのではと反論します。フレーゲにとって数学は人間と無関係な宇宙の真理の一部であり、多くの人がそう言うからそうだとみなすLLMはJ・S・ミル的だ、というのが和泉さんの見立てです。
チョムスキアンはロマンチストなのか?
堀元さんは、大量のデータで喋れるようになると解き明かしても面白くないが、生得的な機能で言語を習得するという説にはロマンがある、と指摘しました。和泉さんは、これをとても深い指摘だと受け止めます。
和泉さんによれば、チョムスキーは本当の意味でのドイツ・ロマン主義的なロマンチストです。イギリス経験論を否定し、人間の精神の内から溢れ出る創造性が言語だと考えているのだといいます。
和泉さんが引いたのは、人間は種のようなもので、水と栄養を与えれば、最初の姿とはまったく違う大きな花を咲かせるという喩えでした。水野さんも、チョムスキーの著作から人間の理性へのロマンを感じると応じています。
研究者の「揺れ」と人間味に触れた3時間
感想を聞かれた堀元さんは、今日を一言で表すなら「メンヘラ」だと答えました。和泉さんが意味を外在的に見るか内在的に見るか、日によって揺れるという話が衝撃だったからです。
堀元さんは、意味を機械的に算出できる形式意味論に感動したあと、人間の脳と組み合わさらないと意味がないというロマン的な側面に引き戻され、自分の精神状態もグラグラしたと振り返ります。
水野さんは、機械的すぎる形式意味論の本を読んで「血の通った人が作った理論なのか」と感じていたと明かしました。和泉さんの揺れに人間味を感じられたこと、そしてチョムスキーの思想的な面に触れられたことが収穫だったといいます。
和泉さんは、2人が熱心に鋭い質問をしてくれたとして「花丸を差し上げます」と応じました。平均的な意味論学者の話ではなく、自分がどう考えているかを引き出してもらったので、議論の余地があることもたくさん言ったと付け加えています。
高校生に勧める言語哲学・意味論の文献は?
最後に、言語学や言語哲学に興味を持った高校生向けの文献を尋ねられた和泉さんは、まず自著の『悪い言語哲学入門』を挙げました。新書として誰でも読めるように書いており、アスカの「あんたバカ?」も登場するといいます。
フレーゲなどが好きな硬派な人には、飯田隆さんの『言語哲学大全』を勧めています。和泉さんは高校生の時にこの本を読んでおり、英語の文献と比べても引けを取らない質だと評価しました。
形式意味論については、高校生に勧められる入門書は「ない」と小さな声で答えました。使われる数学は大学初年度の数理論理学の初歩にすぎないので、論理学やコンピューターサイエンス、プログラミングに触れるほうがよいといいます。論理学では、昭和堂から出た大西さんの『論理学』が挙がりました。
高校生への助言として、和泉さんは最短ルートを探さず、政治やフェミニズムなど幅広く学んでほしいと話しました。文系だから理系のものは読まない、という態度はむしろ有害であり、苦手な分野にこそ積極的に触れることが生きてくるといいます。
堀元さんも、番組の台本で「文系だからできないでしょ」という区分にだけは口を出していると明かし、和泉さんの話に深く共感していました。
まとめ
今回のエピソードでは、「意味を研究する意味はあるのか」という素朴な疑問から出発し、真理条件的意味論、フレーゲからハイム&クラッツァーへの研究史、脳での実現、固有名詞論、LLMまでが語られました。和泉悠さんは、意味を厳密に扱える枠組みを評価しつつ、人間の脳が実際に何をしているのかを知りたいという、チョムスキアンとしての関心を示しています。
- 標準的な意味論では、文の意味は真理条件であり、語の意味は世界の対象や集合だと考えられている
- 形式意味論は論理学を自然言語に応用した手法で、反証可能な共通言語として分野を前に進めてきた
- 和泉さんは、理論が脳でどう実現されているかまで確かめたいと考え、「most」の処理の実験などに注目している
- 固有名詞も一般名詞と同じ種類の言葉だとする和泉さんの主張は、型理論は人間の言語には強すぎるという考えと結びついている
- 意味を外在的に見るか内在的に見るかについては、和泉さん自身も揺れており、研究者の人間味が見える回だった

