国語学と日本語学、何が違う?
この回のゲストは、北海道大学文学部の蔦清行先生です。専門は係り結びなどの昔の日本語で、昔の日本語を扱うための資料の研究も中心に論文を書いています。
水野さんが「係り結び」と紹介した瞬間、堀元さんは「お帰りいただいて」と返し、北海道から来た先生に帰りの航空券を渡そうとする冗談で幕が開きます。
蔦先生は自分の分野を「国語学 ── 日本語を対象とする学問のうち、江戸時代の国学の流れをくむ分野。日本の古典の言葉を中心に研究してきた伝統があります」または「文献学 ── 文献資料を読み解き、テキストの成り立ちや言語を研究する学問。19世紀ドイツで発達し、哲学者ニーチェも文献学者として出発しました」と呼ぶといいます。文献学はもともとドイツの学問で、近代の日本政府がドイツに学び、東京大学に「博言学」という学科ができた流れがあると説明されました。
水野さんが気になったのは、これまでの監修の先生は「言語学」や「日本語学」の肩書きで、「国語学」の専門家は初めてだという点です。蔦先生によると、両者は対象が似ていてもルーツがかなり違います。
江戸時代の国学がルーツ。古典研究のうち、文学は国文学、言葉は国語学として現代まで続く
言語学の一分野として、20世紀後半ぐらいから発達してきた分野
水野さんは、この区別は分野の中では重要でも、リスナーが理解すべきかというとそうでもないので、気軽に聞いてほしいと補足しています。
係り結びは「効率の悪いトランジスター」?
堀元さんの係り結びへの印象は、中学で習って「いる?」と思った気持ちだけだといいます。古文ははっきり嫌いで、物理学や化学は大好き。古文が嫌いな理由は「あんまり必要性がわからない」からでした。
堀元さんが習った係り結びの説明は「強調」です。係助詞「ぞ」のあとに連体形が来る形を作ることで強調している、と教わり、それなら「めっちゃ」を1つ付ければ済むのではと考えたそうです。
堀元さんはこの疑問を、コンピューターの部品にたとえます。昔は手のひら大だったトランジスターが今は数ナノメートルになったように、言葉も小さく集約したほうがいいという発想です。
なんとかぞ、なんとかけれみたいなやつって、もうめちゃくちゃでっかいトランジスターだから、ギュッとしてめっちゃとか超とかにした方がいいなって。
途中で堀元さんは、蔦先生が人生をかけて研究しているものに「要らなくないすか」と言っていることに気づき、撮り直しを求めますが、水野さんに「もう回っちゃってんで」と却下されます。それでも堀元さんの期待は前向きです。
じゃあもしかしたら俺の苦手意識なくなる回かもしれない。
強調が3つもあるのはおかしい?「こそ」に絞る理由
蔦先生は、堀元さんが「ぞ」を強調と習ったことを受けて、「こそ」や「なむ」は何と習ったかを尋ねます。堀元さんも水野さんも、係り結びは全部「強調」と習った記憶でした。
そこで蔦先生は「強調が3つはおかしいと思いませんか」と問いかけます。実は「ぞ」「なむ」「こそ」は、同じ強調といっても強調の種類がそれぞれ違い、一緒くたには話せないといいます。
この回は、その中で一番説明しやすい「こそ」に絞ることになりました。係り結びの中のさらに「こそ」だけという細分化に堀元さんは驚きますが、蔦先生は「こそ」だけで本が1冊ぐらい書けるだろうと答えています。
「こそ」は現代語でもまだ使われている係助詞です。堀元さん自身、「コンビニという解決策こそあれ、まだスーパーは必要だ」のような言い回しを普段から使っていて、3年ほど前に係り結びだと気づいたそうです。
あれ、係り結びって現代にもあるんだってテンション上がったことありました。
ただし「こそあれ」は日常の会話にはめったに出てきません。蔦先生は、コンビニの例は「こそあれ」で終わらず「スーパーは必要だ」につながっているから、この形になっていると説明します。水野さんが「堀元さんの家にはパソコンこそあれ」で止めてみせると、堀元さんは「続きは?」と気持ち悪がりました。
「明日こそ勉強しよう」は今日勉強していない?
水野さんは「感謝こそすれ」を例に、後ろの内容が言わなくても分かるなら省略してよいのでは、と堀元さんのトランジスター論をなぞって問いかけます。
そしたらさ、やっぱそのトランジスターはさ、ちっちゃくした方がいいんだからさ、後ろ言う必要なくない?
蔦先生の答えは、まさにこの点が「こそ」の係り結びが已然形 ── 古典語の活用形の1つ。平安時代以降は「ば」「ども」などを後ろに付けて、確定条件や逆接を表す形として使われますを取る理由につながる、というものでした。ただ堀元さんは「何にもわからなくてびっくりしちゃった」と正直に反応します。
そこで已然形の整理から始まります。中学・高校で習う已然形は、「已然形+ば」で「〜したので」、「已然形+ども」で逆接というように、後ろに何かをくっつけて使う形です。一方、奈良時代まで遡ると、已然形は何もくっつけずに後ろへ接続する形として使われていたといいます。
堀元さんはここで、学校で習う古文の多くが平安時代以降のものだと気づきます。30年前の小説でも古く感じるのだから、奈良から江戸まで800年ほどもあれば文法が違うのは当たり前だ、と「カルチャーショック1位」に挙げました。
次に「こそ」の意味です。教科書では強意、現代語では限定や卓立などと記述されることが多いものの、蔦先生は「こそ」は対比的な強調だと考えていて、これは奈良時代からずっと変わらないといいます。
蔦先生の例は「明日こそ勉強しよう」です。水野さんも堀元さんも即座に「今日は勉強していない」と受け取りました。言葉には出ていない「今日」や「昨日」が意味の中に含まれていて、これが「こそ」の機能だと蔦先生は説明します。
そのため「こそ」を使った文は、「感謝こそすれ、恨んでなんかいない」のように、必然的に2つの部分が出てくる二項対立になりやすいといいます。
「これこそ家宝」と富士谷成章、古いほど強まる対比
蔦先生によると、現代には「これこそ我が家の家宝だ」のように、対比が見えにくい「こそ」もあります。これに対して堀元さんは、周りに雑多なものがあって、その中で「これこそが」と言っている感じがすると答えました。
すると蔦先生は「前世は富士谷成章ですか」と返します。富士谷成章 ── 江戸時代の国学者。品詞分類を体系的に行った先駆者として知られ、著書『あゆひ抄』で助詞などを論じましたは、玉(宝石)を手に取り、いろいろなものがある中で1つを指さして「これこそ玉よ」と言うのが「こそ」の意味だと説明していて、堀元さんの説明とほぼ同じだというのです。
こうした対比は、時代を遡るほど顕著になることが明らかにされています。1930年代に石田春昭が、古事記・万葉集・古今和歌集を比べ、新しくなるほど対比の意味が少なくなっていることを示しました。
蔦先生は、この話が高校の参考書にも載っていると高田先生から教わったといいます。水野さんと堀元さんは、「学校で教えてくれない」と言われる話の多くは、実は教科書のコラムや便覧に載っていると盛り上がりました。
土佐日記のラストシーンに見る「中垣こそあれ」
蔦先生が古典の例文として1つだけ出したのは、紀貫之の土佐日記 ── 平安時代中期、紀貫之が土佐国から京へ戻る旅を、女性に仮託して仮名で書いた日記文学です。
紀貫之の一行は土佐に赴任し、5年ぶりぐらいに京の自宅へ帰ってきます。ところが門をくぐると家はひどく荒れ果てていました。留守中の管理を隣の人に頼み、季節ごとに贈り物までしていたのに、です。
そこで出てくる感想が「中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、望みて預かれるなり」という原文です。堀元さんが「垣根で隣と分かれているけれど、1つの家のようなものだから、望んで預かってくれたのに」と訳すと、蔦先生は「百点です」と答えました。
あれ、俺古文好きになってきたかも。褒められると嬉しいですね。
蔦先生によれば、「中垣こそあれ」は「垣根はあるが、それ以外はつながっている」という意味です。先ほどのコンビニの例と同じ使い方で、土佐日記の時代から現代まで続く用法だといいます。
已然形で結ぶ理由は「後ろのBが消えた」から
この例文の狙いは、「こそ」の中心的な使い方が2つのものの対比だったことを示すことです。2つのものを対比するには、接続を表す形で2つをつなげたい。そこで「Aこそ〜だけど、B」という形の中に已然形がはまっていった、というのが今の通説だと蔦先生は説明します。
堀元さんは、昔は「AこそあれB」という使われ方だったのが、だんだんBを言わなくなったのかと確認します。蔦先生は、対比があまりにも当たり前だったので、続きは言わなくてもよくなった、と答えました。
対比の構文
「AこそあれB」のように、2つのものを対比して並べる
已然形で接続
前半を後ろへつなげるため、接続する形の已然形がはまる
Bの省略
対比が当たり前なので、後ろのBを言わなくなる
対比的強調
「こそ〜已然形」の形だけで、他と比べて強く言う意味になる
ここで堀元さんの中で、丸覚えしていた文法と理由がつながります。
古文の授業で習ったのは、なんとかこそけれみたいな感じで使うよと。こそが出てきたら已然形につなぐよって言って形丸覚えしたけど、
元々は別にそういう形じゃなくて、AこそあれBっていう形だったのが省略された結果、その定型になったってことか。
水野さんはさらに、本来あった「だけどB」の要素を「こそ」に全部集めているなら、「こそ」の集積密度はものすごいのではと指摘します。堀元さんのトランジスターのたとえが、ここで逆向きに効いてきます。
堀元さんは「ムーアもびっくり」と、ムーアの法則 ── 半導体の集積度が一定期間ごとに約2倍になるという経験則。インテル共同創業者ゴードン・ムーアが提唱しましたになぞらえて盛り上がります。蔦先生は、冒頭の「めっちゃでよくない?」に対して、「こそ」を1語の副詞で置き換えるのは難しいと指摘しました。
明日頑張る気持ちに加え、今日は頑張れなかったという対比が含まれる
強さは表せるが、今日との対比のニュアンスはなくなる
いらないとか言っちゃってすいませんでした。反省しています。
「こそけれ」は言いさし文と同じなのか?
水野さんは、現代語の「言いさし文」との共通点に注目します。「来週までに原稿をいただければ」「申し上げるのは申し訳ないんですけれども」のように、後ろに続くものがあるのにあえて言わない文です。
水野さんは、メールで文末が同じになるのを避けて「〜していただければと」で終える感覚は、奈良・平安時代の係り結びとメンタリティーがあまり変わらないのでは、と仮説を立てました。
蔦先生の答えは、言いさし文は現代語では研究されているものの、古典語の言いさし文はあまり研究されていないので「わかりません」というものでした。「こそけれ」の係り結び自体は言いさし文だと思うが、現代語とつなげた研究を少なくとも自分は知らない、という立場です。
水野さんによれば、係り結びの起源、つまり「なぜ連体形で結ぶのか」「なぜ已然形で結ぶのか」を研究している人は、国内で多分10人いないといいます。堀元さんは、言いさし文だとは思っても、比べた研究がないから判断を保留する姿勢を研究者らしいと受け止めていました。
現代人は「900年頃の感覚」に先祖返り?
水野さんは回のおさらいとして、「こそけれ」は「Aこそ〜けれB」のBが消えたと考えると、対比的強調を表す理由が説明でき、その用法が現代語にも連続的に残っている、とまとめます。
そのうえで堀元さんは、遅れて気づいた面白さを語ります。時代が下るにつれてBを省略してよくなったのに、現代の自分は「コンビニこそあれ」で止まると気持ち悪いと感じたという点です。
コンビニこそあれで止まったら気持ち悪くて、あースーパーは必要だって続いてほしいなってなったのって、ちょっと先祖返りしません?
蔦先生は、言われてみればと応じつつ、係り結びを見すぎて自分の「気持ち悪い」という感覚がバグっているのかもしれないと笑います。
話は「ぞ」や「なむ」にも向かいます。ただ、これらは連体形で結ぶため、已然形のような説明は難しいといいます。蔦先生は論文を書いてはいるものの、今回のレベルの話に落とすのはまだ無理だと答えました。堀元さんは、量子物理学の研究者に話を聞いたときとそっくりだと振り返っています。
エレガントな「倒置起源説」に要注意
最後に蔦先生は、「ぞ」と「か」について注意しておきたいことがあると切り出します。それが、割と広く知られている「倒置起源説」です。
蔦先生が例に使うのは、「か」の係り結び「虎か吠ゆる」です。倒置起源説では、これがもとは「吠ゆるは虎か」(吠えているのは虎ですか)という疑問文だったと考えます。
元の疑問文
吠ゆるは虎か
倒置
虎か吠ゆるは
「は」の脱落
虎か吠ゆる
堀元さんは「エレガントなものは正しいと相場が決まってる」とおどけ、水野さんに「科学を一回もやったことない人」と突っ込まれます。
蔦先生によれば、この説は影響が大きく、言語学でもこれに基づいて論を立てる人がいます。水野さんも、生成文法 ── チョムスキーが提唱した言語理論。文の構造を、要素の「移動」などの操作によって説明するアプローチをとりますの「移動」で係り結びを説明する研究を見たことがあるといいます。
しかし、今現役で係り結びの起源を研究している人たちは、少なくともそのままの形では成立しないという点で概ね一致しているそうです。蔦先生は間違いとは断定しにくいとしつつ、その説では説明できない現象が結構あり、成立するにしても修正や別の説明を足す必要があるだろうと話しています。
堀元さんは倒置起源説自体を初めて聞いたと言いながらも、「命からがら生還しました」というコメントを待っていると締めくくりました。
まとめ
係り結びの「こそ」は、単なる強調ではなく、他のものと比べて強く言う対比的な強調だと蔦先生は説明しています。「AこそあれB」のBが当たり前すぎて省略されたと考えると、已然形で結ぶ理由も、現代語の「明日こそ」のニュアンスもつながって見えてきます。
- 「ぞ」「なむ」「こそ」は、どれも強調と習いがちだが、強調の種類がそれぞれ違う
- 「こそ」は奈良時代から一貫して対比的な強調で、古い文献ほど対比がはっきりしている
- 対比を接続する形として已然形がはまり、後ろのBが省略されて「こそ〜已然形」の係り結びになった、というのが通説
- 「明日こそ頑張ろう」は「めっちゃ」では置き換えられず、「こそ」には今日との対比まで詰め込まれている
- 「ぞ」「か」の倒置起源説はエレガントだが、現役の研究者の間ではそのままの形では成立しないと考えられている

