父親が2人並ぶ収録は、なぜ「ガチガチ」になったのか
ゆる言語学ラジオのこの回は、エイプリルフール回の「明け」の雑談会です。エイプリルフール回では、堀元見さんが自分の父親に、水野太貴さんが自分の父親に入れ替わり、30年後の番組という体で1本収録したという設定になっています。
ただし堀元さんによると、実際の収録順は逆でした。本来はエイプリルフール回を先に撮る予定でしたが、父親たちがあまりに緊張していたため、息子2人も入って楽しく話す雑談回を先に撮ることにしたそうです。
すごい神妙な顔してるもん、うちの親父。めちゃくちゃ学会に来たみたいな。若い奴の発表暇じゃん顔してるもん。
堀元さんの父親は、30年後、2054年の番組という体でやるからには文脈に合ったことを言い続けなければ、とプレッシャーを感じていたといいます。前夜には両家の母親も含めた6人で3時間半ほど食事をしており、その席でも真面目さが際立っていたようです。
並んだ親子の顔がそっくりだという話になると、水野さんは「父親が僕に似てる」と言い張ります。堀元さんが「時系列変だろ」とツッコみ、冒頭から番組らしい掛け合いで本題に入っていきます。
園長先生のスピーチを丸暗記した子が、なぜランドセルを忘れるのか
最初のテーマは、息子2人の「天才エピソード」と「愚鈍エピソード」を父親に聞くというものです。まずは堀元さんの幼少期から始まります。
堀元さんの父親は、堀元さんが通った札幌保育園の成り立ちから話し始めます。かつて札幌の子どもたちは豊平川のそばで遊ぶしかなく、事故が多かったため、大石すく先生が保育園を開いたといいます。札幌で最初の保育園だったので、堂々と「札幌保育園」という名前になったそうです。
札幌保育園には父親自身も通っており、数十年後に堀元さんも同じ保育園に通いました。そこで幼い堀元さんは、園長先生の話を一言一句覚えて再現し、先生を驚かせたといいます。堀元さんの父親は、話を集中して聞かない子が多いなかで、珍しく人の話を聞いている子だったと振り返ります。
やっぱそう得意なんですよ。ラジオパーソナリティがね、その頃から得意なんでしょうね。話聞いて繰り返すみたいな。
一方の愚鈍エピソードとして、堀元さんの父親が挙げたのはランドセルの話です。小学生の堀元さんは、ランドセルを背負って登校したのに、何も背負わずに帰ってきたことがありました。後で先生が「ケン君が学校に忘れていったので」と家まで届けてくれたそうです。
堀元さんはランドセルだけではないと自ら話を付け足します。雨の日に差していった傘を、晴れた日に持ち帰ることをしなかったのです。
僕はそんな細かいことにこだわらないから持って帰らないんですよ。その結果ですね、堀本って書かれた傘が12本。
堀元家の傘12本は、半年ほどで学校に溜まったようです。堀元さんの父親は、家で傘がなくなるたびに100円ショップのような安い傘を買い足し、そのうち予備も兼ねて2本ずつ買うようになったと話します。なぜ足りないのかを考える余裕はなく、生活を回すことを優先していたといいます。
堀元さんのランドセルは真っ青な珍しいもので、売り場で本人が「これいい」と選んだそうです。堀元さんの父親も小学校入学時、みんなが黒のなか1つだけあった緑のランドセルを選んでいたことがわかり、堀元さんは「逆張りの系譜」だと笑います。
入退院を繰り返した水野少年は、どうやって本好きになったのか
続いて、水野さんの幼少期です。水野さんの父親によると、水野さんは0歳から入退院を繰り返し、喘息で季節の変わり目ごとに年4回ほど入院していたそうです。少し元気になって外を走るとまた入院、という繰り返しでした。
ベッドの上で1週間過ごすとなると、本を読むしかありません。車のおもちゃを与えると車が好きになり、週末の新聞広告を見ながら「これ何?」と聞き続けたといいます。
堀元さんは、似た例として伊藤計劃 ── 日本のSF作家。『虐殺器官』などで高く評価されたが、闘病の末に若くして亡くなったを挙げます。入退院を繰り返すなかでSFを読み書きし、職業を聞かれると「病人」と答えたという話です。
水野さんの父親は、こうした時間が本を読むことや、興味の持ち方に大きく影響したと話します。車への興味は、エンブレムの取れた車を見ても車種を言い当てるほどだったそうです。ただし今の水野さんは車に全く興味がなく、堀元さんは「一回全部記憶してすぐ全部忘れる」と評します。
本についての苦い思い出もあります。小学4年生ごろ、点滴で入院した水野さんに、父親が『ビルマの竪琴』を勧めました。
これは絶対に感動するから読めって言われて読んで、何にも面白くない。
堀元さんも、12歳ごろに父親から『ローマの休日』などの名画を見せられた経験を語ります。30歳を過ぎて見ればいい映画だと思えるものの、当時はピンと来なかったそうです。家ではクラシックやジャズも流れていましたが、堀元さんは「ベートーヴェン5番しかわからない」と言います。
それでも堀元さんの父親は、面白くないと思いながら見せられることも大事だと話します。水野さんの父親も、欲しいと言った本は基本的に買い与え、小学生の水野さんが漢語林 ── 大修館書店の漢和辞典。漢字の字源や熟語を詳しく収録し、学習用として広く使われているをねだったこともあったそうです。
堀元家も本については寛容でした。札幌の大型書店コーチャンフォーで18冊ほどカゴに入れても、減らせとは言われずに買ってもらえたと堀元さんは振り返ります。
水野さんにとって忘れられないのは、ことわざ辞典の思い出です。小2か小3の頃、近くのイオンの書店でことわざ辞典を読みふけり、いったん「いいや」と断ったものの、駐車場まで来て「やっぱ欲しい」と言い、親が戻って買ってくれたといいます。水野さんはその辞典を通読し、ことわざをだいぶ覚えたそうです。
新宿から名古屋の親に「迎えに来て」と頼んだ理由は?
水野さんの愚かなエピソードとして出てきたのは、大学時代の話です。寝過ごしたりお金を使い切ったりして、夜中に「今どこどこにいるから迎えに来て」と平気で電話してきたと、水野さんの父親は語ります。
一番困ったのは、新宿でバスに乗り過ごしたから迎えに来て、という電話でした。名古屋の実家に、新宿まで迎えを頼んだことになります。父親は迎えに行かず、水野さんは最終的に漫画喫茶で夜を明かしたそうです。母親に振り込みを頼んだ際には、振り込め詐欺だと疑われたといいます。
もう1つは、大学時代のイギリス留学です。水野さんは祖母などからもらったお小遣いを盗難を心配して机にしまい、最小限の現金とクレジットカードで出発しました。ところが現地でカードの暗証番号を3回間違えてしまいます。
水野さんによると、暗証番号を出せなかったのはロンドンで、交通系ICカードを作るときでした。手持ちは3週間で7万円ほどで、カップラーメン中心の生活になりました。父親が送金しようかと言っても、水野さんは頑なに断ったそうです。
水野さんは、お金がないと言うと周りが助けてくれたと話します。広場で踊るとドイツ人がお酒をおごってくれ、授業の先生のモノマネをすると友人がパスタを作ってくれました。日本人留学生たちが帰国時に1枚500円のデポジット付きカードを譲ってくれ、最後には3万円ほど集まったといいます。堀元さんはこれを「旅芸人」と評します。
水野さんの父親は、このとき一緒にロンドンへ行った東京の大学生たちとの縁が、水野さんの東京での就職につながったと話します。水野さん本人は覚えていないと言いますが、お金が豊富にあって観光ばかりしていたら、こうしたつながりはできなかったかもしれないと応じます。
水野さんは、周りがミュージカルや買い物に出かける間も、部屋に籠もって本を読んでいたそうです。そこには水野さんならではのお金の物差しがあります。
留学には本を15冊ほどスーツケースに詰めて行ったといいます。水野さんの父親は「愚かなようで勇気を持った」経験だと肯定しつつ、母親はとても心配していたと明かします。
父親の選書は、何割くらい当たるのか
話題は、親が子に勧める本の当たり外れに移ります。水野さんは親のおすすめは外れると言いますが、堀元さんは自分の父親の選書は2〜3割は当たっていたと話します。
当たりの代表は、湯川秀樹 ── 日本の理論物理学者。中間子の存在を予言し、1949年に日本人として初めてノーベル賞を受賞したの自叙伝『旅人』です。中学1年生ごろに「賢い人の素朴な文章が楽しい」と勧められ、読んでみると面白かったといいます。
湯川秀樹未就学児の頃から漢文の素読をさせられ続けてたらしいよ。そんな拷問みたいなことある?と思って。
湯川秀樹が意味もわからず漢文を音読し続けた経験を、後年の自分の土台だと書いていることに、堀元さんは衝撃を受けたそうです。堀元さんは、今も偉人のルーツを探るのが好きな原体験は父親の選書にあった気がすると振り返ります。
一方の大外しは『君たちはどう生きるか』でした。中学生で反抗期だった堀元さんは、書名だけ見て1ページも読まずに岩波文庫を投げ捨てたそうです。大人になってから読み、面白いと感じたといいます。
この本をきっかけに、堀元さんは祖父が食卓でいつも「どう生きるかを考えねばならん」と話していたことを思い出します。祖父は同じ話を何度もするので家族は聞き流しており、本人も「前にも言ったと思いますが」と前置きしていたそうです。
水野家では、父親から本を勧めることはあまりなかったといいます。むしろ今は水野さんが父親に高野秀行さんの『イラク水滸伝』などを勧めていて、父親は半分ほど面白いと話します。ただし水野さんは小学生の頃、父親に北方謙三の全18巻の『水滸伝』を勧められた記憶があります。
小学生だから頭一つ出ていたが何を指してんのか全然わかんない。
両家の父親の選書を並べると、当たり外れが見えてきます。
| 家 | 当たり | 外れ |
|---|---|---|
| 堀元家 | 湯川秀樹『旅人』(中1ごろ) | 『ビルマの竪琴』ではなく『君たちはどう生きるか』(中学生) |
| 水野家 | 勧めずに置いてあった漫画 | 『ビルマの竪琴』(小4ごろ)、北方謙三『水滸伝』全18巻 |
水野さんは、司馬遼太郎や池波正太郎などの歴史小説を勧められても読まなかったそうです。ただ、勧めずに家に置いてあった漫画のセンスは良かったといいます。『美味しんぼ ── グルメ漫画。新聞記者の山岡士郎が「究極のメニュー」作りに挑む物語で、料理への辛辣な批評でも知られる』を早くから読み、給食の席で登場人物の口調をまねていたと笑います。
バリカンの失敗に「まあいいか」と「髪がないじょ」
水野さんが、堀元さんは子どもの頃に激しく怒ることはなかったのかと尋ねると、堀元さんの父親は「おおらかな人間だった」と答え、家庭でのバリカンの話を始めます。
堀元家では小学校高学年ごろまで、父親がゴミ袋を加工したケープを使い、家で髪を切っていました。その間、堀元さんはずっと本や漫画を読んで動くので、父親はその動きに合わせて刈るしかありません。
あるとき、堀元さんの父親は明らかなハゲを作ってしまいました。黙って全体を仕上げ、鏡を見た堀元さんの反応をうかがったところ、堀元さんは「まあいいか」と言い、すぐに次のことに取りかかったそうです。父親は、本質的でない失敗をうだうだ言わないところが良いと感じ、忘れられない出来事だと話します。
俺言語野だけが異常に発達していて、言葉だけ覚えるんだけど、そのものを持っておくっていう短期記憶とか、この図形的な認識とか全くなかったのかもしれないですね。
水野家で髪を切るのは母親の役目でしたが、水野さんの父親も一度だけ失敗しています。母親に頼まれ、風呂場でバリカンを使ったところ、アタッチメントを付け忘れ、お坊さんのような長さにしてしまいました。
母親に長さを確認しようと声をかけると、ひどく怒られたそうです。そのとき幼い水野さんが言ったのが、「あれ、おかしいじょ。髪がないじょ」という言葉でした。水野さんの父親は、母親の剣幕に驚いたか、場を和ませようとしたのかもしれないと推測します。
堀元さんは、バリカンの話より語尾が気になったと言い、ちびまる子ちゃんの登場人物のようだと笑います。2つの家のバリカン事件を並べると、失敗への反応の違いが見えてきます。
父親が誤ってハゲを作る。本人は鏡を見て「まあいいか」と言い、漫画に戻った
父親がアタッチメントを付け忘れて極端に短くする。母親が激怒し、本人は「髪がないじょ」と言った
水野家では、当時5〜6歳だった姉が母親の顔色を察し、「お母さんが怒ってる時は必ずお父さん謝って」と言っていたそうです。水野さんは家の序列を母親、姉、父親、自分のピラミッドだと話し、堀元さんはフィリップ・K・ディック ── アメリカのSF作家。犯罪を予知して事前に逮捕する社会を描いた短編「マイノリティ・リポート」などで知られるの作品にたとえます。
堀元さんの父親は、なぜ何でも肯定するのか
水野さんは、堀元さんの父親が息子の行動をまず擁護し、今日ずっと全肯定していることに気づいて理由を尋ねます。堀元さんの父親は、特に理由はないとしたうえで、基準を考えてもそれが本当に良いかわからないし、変だと思っても良い場合もあると答えます。
堀元さんの父親は、自分の中に「こうであらねば」という強いこだわりはある一方で、人それぞれ生きていて考え方があるから「こんなもんだべ」と思う、とも話します。
これに対して堀元さんは、父親が人を責めないのはキャリアがめちゃくちゃだったからではないかと指摘します。堀元さんの父親は医者ですが、もとは漁業系の学科の出身で、旅が好きでした。父親自身も、自由でありたいと応じます。
浪人は人生でいちばん自由な時期なのか
堀元さんが覚えているのは、大学受験で国立医学部を目指し、滑り止めを受けるか迷ったときの父親の助言です。父親は、浪人時代は何ものにも縛られない一番楽しい時期だから、ぜひ経験したほうがいいと勧めたそうです。
堀元さんの父親は、最初の大学に入る前の浪人と、医学部での留年を経験しています。教養の授業を受けていた1年は前後期合わせて4単位ほどしか取らず、平日の朝10時にパチンコ店に並ぶのが「人生修行」だったと話します。水野さんの父親も、大学1年のときは2単位だったと続けます。
堀元さんは父親の言葉を信じて滑り止めを受けずに浪人しましたが、実際には毎月の模試で順位が貼り出され、必死に勉強することになりました。
結構勉強してる時に父の言うことがフラッシュバックしてくるわけですよ。いや、浪人なんてめちゃくちゃ楽しいんだから、何より自由で勉強なんてしなくていいんだからっていうんで、しなきゃダメだよな。
水野さんの父親も浪人中、他校の仲間と海や山に出かけ、知り合った中学校の体育教師の家で麻雀の基礎を覚えたそうです。そして、当時の浪人生活には長期的な計画があったと説明します。
最初の半年
3月の試験から逆算し、体力作りや気分転換、世界を広げる期間にあてる
残り半年
まだ早いと考え、残り3ヶ月集中すればよいと計画し直す
次の3ヶ月
その期間にやることを決めて取り組む
堀元さんはこれを、どんどん半分になっていく「ゼノンのパラドックス」のようだとツッコみます。堀元さん自身も、真面目に勉強する一方で、河合塾 ── 全国に校舎を持つ大手予備校札幌校のラウンジでトランプを2卓立てて遊んでおり、その年からラウンジでのトランプが禁止されたと明かします。
堀元さんの父親は、1本道ってのは怪しいと回り道の価値を強調します。受験で挫折せずに来たという水野さんに対しても、旅行の経験などいろいろなものが絡まって足腰ができているので、一直線であることの弱さとは違うと話します。
堀元さんの父親によれば、世間一般の一直線は、何かあったときに落ちて上がれなくなるといいます。回り道をしていれば、別の道もあると思いながら戻れるのだそうです。
番組の最後、堀元さんは、普段のゲスト回では知見のある人を呼ぶのに、パチンコの朝一の話を聞いたのは初めてだと笑います。水野さんが「学びが1個もなかった」と言うと、父親たちは「学びに溢れていた」と返し、親子4人の雑談は終わります。
まとめ
父親2人の証言からは、堀元さんの言葉への強さと物への無頓着さ、水野さんの病床で育った本への没頭と大胆さが浮かび上がりました。2人の父親は息子の失敗をおおむね肯定的に受け止めており、その姿勢は、回り道にこそ価値があるという考え方につながっていました。
- 堀元さんは園長先生の話を丸暗記する一方、ランドセルや傘を忘れ、学校に自分の傘を12本溜めていた
- 水野さんは喘息による入院生活で本に没頭し、留学先では一文無しに近い状態でも人とのつながりで乗り切った
- 父親の選書は当たり外れがあり、湯川秀樹『旅人』は堀元さんの偉人のルーツへの関心につながった
- バリカンの失敗に対する反応や家庭の空気に、両家の違いが表れた
- 堀元さんの父親は、浪人や回り道の経験を、何かあったときに戻れる強さだと考えている






