昔の発音を復元するとき、一番のハードルは何か
水野さんはまず、昔の日本語の全体像を描こうとしたときに一番のハードルは何かと問いかけます。堀元さんは「文字がない時代は言葉がわからない」と答えます。
水野さんによれば、資料そのものがないと研究は進みません。しかも平安時代の日記などは数多く残っているものの、書かれた場所が京都などに偏っているといいます。
言うて平安時代とかには、めちゃくちゃみんながいろんな日記とか書いてたわけじゃない。そう考えると資料足りてんじゃない?
さらに水野さんは、語彙や文法はまだマシだと補足します。日記に単語がそのまま文字で残っているからです。問題は発音でした。
音韻の歴史をやろうと思うと、資料の壁がめっちゃでかいんですよね。
発音の記録は文字には残りません。堀元さんが「鎌倉時代のHIKAKINみたいな人の動画があればいい」とボケると、水野さんは、そういう音の資料は残っていないと返します。
結果として、わかっているのも近畿地方の資料に集中しています。九州や東北など、他のエリアの言葉は資料がほとんどないと水野さんは説明します。
語彙や文法。日記などに単語が文字でそのまま書かれているため観察できる
発音やアクセント。文字には記録されず、音声の記録も残っていない
鹿児島だけ精度高く復元できるという謎
そのうえで水野さんは、18世紀初頭の鹿児島方言だけがめちゃくちゃ精度高く音を復元されているという不思議な事実を提示します。
鹿児島ピンポイント?
鹿児島ピンポイントです。
隣り合う熊本などの言葉は、ほとんどわかりません。鹿児島だけがある程度の精度で復元できているといいます。
さらに驚くのは、その資料が日本国内には一切存在しないという点です。堀元さんは「絶対に鹿児島にあるだろ」と食い下がりますが、水野さんは「ないです」と否定します。
この異常な状況、どうしてこのようになったのかっていう謎解きを今回したいと思います。
なぜ昔の発音がわかるのか
謎解きの前に、水野さんは発音やアクセントをどう復元するのかを説明します。結論は「発音やアクセントについて書いた資料を見る」というシンプルなものでした。
例えば奈良時代の万葉仮名 ── 日本語の音を漢字一文字一文字に当てて書き表したもの。奈良時代に使われましたがその一例です。当時の漢字の音も中国の研究である程度復元されているため、それを対応づければ日本語の発音が間接的にわかります。
日本語の音は定かでないんだけど、その漢字の読み方はわかってるから、間接的に日本語の音もわかる。
なぜこんなに回りくどいのか。水野さんは、当時の人が発音やアクセントをわざわざ書き残そうとは思わないからだと説明します。
一方で、母語話者が気づかない発音の違いを、非母語話者は敏感に捉えます。室町時代には、ポルトガルやスペインの宣教師が布教のために日本語を学び、キリシタン資料 ── 室町時代に来日した宣教師らが残した、日本語の発音などがわかる資料を残しました。
日本語の発音を示す資料は日本人が作るんじゃなくて、外国の人が作るもんなんだよね。
堀元さんは、母語の発音は普通意識しないと話します。その例として、中学の頃にアップルの母音が「あ」と「え」の間の音だと習って驚いた経験を挙げました。
現代に近いほど発音がわかるとは限らない
水野さんは、現代から近い時代ほど音が正確に再現できるわけではないと話します。奈良時代は精度高く出せる一方、次の平安時代は資料がなさすぎて「暗黒時代」と呼ぶ研究者もいるそうです。
奈良時代とかはだいぶ精度高く出せるんだけど、その次の平安とかになると、その先生は資料がなさすぎて暗黒時代って呼んでました。
平安時代は貴族の日記が数多く残っているのに、誰も発音について書いていません。そのため、部分的にしか発音の資料がなく、実態がつかめないといいます。
ただし、発音にうるさい人が例外的に手がかりを残すこともあります。江戸時代には「今時の発音は正しくない」と嘆く資料があり、そのおかげで部分的にわかることもあると水野さんは述べます。
漂流の果てにロシアへ着いた薩摩の船
いよいよ謎解きです。カギは18世紀の鹿児島の海運技術でした。当時、大阪へ向けて頻繁に船が出ていたといいます。
1728年11月頃、大阪行きの船に17人が乗っていました。8日間の暴風雨で太平洋に押し出され、半年間も漂流します。
半年間海の上でずっとどこにも着けない状態が続いて。
船はそのまま北上し、ロシア東端のカムチャッカ半島に流れ着きます。ところが、日本人を発見したシュティンニコフ ── 漂着した日本人を殺すよう兵士に命じたロシア側の人物は、兵士たちに日本人を殺すよう命じました。
礼儀を示すために差し出した刀で切りつけられるなど、ほとんどの日本人が殺されてしまいます。生き残ったのは2人だけでした。
生き残ったゴンザとソーザ
生き残った2人が、この回のキーマンです。1人は11歳の若者ゴンザ、もう1人は36歳のソーザでした。
グリとグラみたいな。ゴンザとソーザ。
なぜこの2人だけ生き残ったのか、理由はわかっていません。ただ、日本人を殺したシュティンニコフは、その後ロシアの女帝アンナに怒られて処刑されました。
女帝アンナは「漂着した日本人は保護しろ」と命じていました。ただしカムチャッカは端の地で、その指令が届いていなかったのです。
保護を命じた理由は人道ではなく、利用価値でした。当時のロシアは鎖国中の日本と通商を結びたく、漂流民から日本語を学びたかったのです。
全然いいやつと思ったけど、役割として働かせたかっただけ。全然いいやつじゃないじゃん。
それでもゴンザとソーザは解放され、ペテルブルグに送られてロシア語の教育を受けました。女帝はゴンザに日本語の辞書や入門書を作らせようとします。
つまり船が漂着したっていう偶然のアクシデントによって、当時の発音の資料が残ってるっていうことなんですね。
もし薩摩ではなく仙台などの人が漂着していれば、仙台の方言が残ったことになります。津軽でも似た話があったと水野さんは述べます。
ソーザが果たした見えない役割
ゴンザは11歳と若く、ロシア語の読み書きを習得しました。一方、25歳上のソーザはロシア語ができるようにならなかったといいます。
そのため、薩摩方言の資料を残したのはゴンザです。ただ水野さんは、ソーザが役に立たなかったとは思えないと語ります。
日本語を話せる人間が1人だけになれば、その人は日本語を話さなくなり、やがて忘れてしまいます。ソーザは、ゴンザが日本語を忘れないために欠かせない役割を果たしたのです。
ソーザはゴンザが日本語を忘れないようにするために欠かせない役割を果たしたと言えると思うんですよね。
キリル文字だから残せた発音の解像度
1736年4月、ゴンザは日本語学校で教えます。これはロシアで記録に残る最初の日本語学校とされ、生徒用に6冊の本を書きました。
本はゴンザ1人ではなく、ロシア人のボグダノフと協力して作られました。ポイントは、日本語の発音がキリル文字 ── ロシア語などで使われる文字。子音と母音を別々に書き分けられるで書かれている点です。
日本語のかなは「か」を1文字で表しますが、キリル文字は子音と母音を分けて書けます。そのため、日本語のかなより解像度高く発音を写せるのです。
その解像度が生きるのが、母音の無声化 ── 「たくさん」の「く」のように、母音の声帯振動が起きずに発音される現象です。堀元さんが「たくさんの『く』はちゃんと出てなくないですか」と指摘すると、水野さんは鋭いと反応しました。
これ地域差もあるので、関西とかだと関東に比べると母音の無声化って少なくて。
「ありがとうございます」の最後の「す」も、関東では無声化しますが、関西では声を出して発音される傾向があります。この無声化のマークが、ゴンザの資料にはきっちり残っているのです。
たくさんありましたって文章を書いた後に、このくは無声化していますって横にわざわざ書かないですよね。
母語話者は無声化にほとんど気づきません。非母語話者だからこそ気づける違いを、ボグダノフの耳とキリル文字が書き取ったといえます。
「か」を1文字で表し、子音と母音を分けられない。子音だけの発音は書き残せない
子音と母音を別々に書ける。母音の無声化まで写せる解像度がある
資料をどこまで信じるかという研究の姿勢
ゴンザの資料は「ゴンザ資料」と呼ばれ、どのようにできたのかは諸説あります。ボグダノフと一緒に作られたことはわかっていますが、分担の割合はわかっていません。
そこで研究者は、資料の筆跡を見て人物を突き止めるといった作業をします。水野さんは、警察のようだと表現しました。
資料って読む前に、その目の前にある資料がどの程度信用できるのかっていうところから始めてるんですよね。
いい加減な資料を信頼すると、その後の研究が崩れます。批判的に資料を読む姿勢が大切だと、水野さんはリサーチを通じて改めて感じたそうです。
ゴンザの辞書に残る鹿児島の言葉
水野さんは、ゴンザが残した「新スラブ日本語辞典」を持参しました。ロシア語の単語とその意味、ゴンザの言葉での言い方、現代日本語の訳が並んでいます。
この辞典では、村山知郎という研究者がキリル文字の読みをカタカナに直しているといいます。堀元さんは、単語だけでなく説明的な言い回しも載っている点に注目しました。
堀元さんが即興で「冗談を言わないという意味をゴンザはどう訳したか」とクイズを出します。答えは「腹狂いせん」でした。
ゴンザ、独特な言語感覚あるね。
「腹狂い」は、ふざけることや冗談を意味する熊本県や鹿児島県の言葉だと辞典には書かれています。ゴンザは京都などの言葉を知らず、地元の言葉で答えたため、鹿児島方言の資料になったのです。
他にも、当時ハ行がまだ「ファ」だった、テやデが「チェ」「ジェ」に近い、シの後のラ行がタ行に変わる、といった特徴が観察できると水野さんは説明します。
ゴンザの死と、資料の再発見
ゴンザは3年半で6冊の資料を作り、21歳で亡くなりました。死因はわかっていません。日本側にゴンザに関する資料はほとんど残っていないといいます。
全く我々が知らない偉大なる日本人ですね。
ゴンザの研究は19世紀初頭に一度あったものの、その後途絶えました。転機は、村山知郎がモスクワの学会でソ連の言語学者からゴンザの辞典の話を聞いたことでした。
日本人でありながら日本では知られていなかった資料を、村山が改めて研究し、大きく広めます。堀元さんはこれを「逆輸入」と表現しました。
クレムリンへ8年送り続けた手紙とゴンザファンクラブ
村山は鹿児島でも講演を行い、聞いた人たちを感動させました。熊本の呉服商・吉村春道さんは、ゴンザの著作を日本に返してほしいとソ連首脳に訴え続けます。
専門家の助けを借りながら、ロシア語の手紙をクレムリンへ毎月送り、それを8年間続けました。8年目にようやく返事が届き、マイクロフィルムが送られてきたといいます。
熱意すご。
その後、有志で「ゴンザファンクラブ」が立ち上がり、一時は300人を超える会員がいました。ゴンザの出身地を、辞典に載る語形と鹿児島の人々の協力で割り出そうとする活動も生まれます。
歴史の偶然が生んだ功績と、方言を残す提案
堀元さんは、ゴンザの話がオスマン帝国の大使ソリマン・アガ ── 17世紀にフランスへ派遣されたオスマン帝国の使節。高圧的な態度で嫌われたが、その暮らしぶりからコーヒー文化が広まったとされるに似ていると話します。本来の目的とは関係ないものを、偶然後世に残した点が共通しているというのです。
何百年と経った後に引きで見た時に、彼らがしたことはすごく大きい功績だった。
水野さんは、他にも漂流民が現地で資料を残している可能性があると指摘します。地元の方言の昔の姿が、思わぬ形で高い精度で復元できるかもしれないというのです。
そこから話は、現代の私たちへの提案に移ります。方言の音声資料は少なく、研究者の人手も足りません。だからこそ水野さんは、自分の母方言でポッドキャストを録ってほしいと呼びかけます。
皆さんぜひ自分の母方言でポッドキャストを録ってほしくて、僕は。
堀元さんの担当編集者は青森出身ですが、地元にいた頃から方言を消し、標準語が得意なキャラで目立っていたそうです。関西出身の知人も、塾講師時代に「方言で受けているのか区別できない」ため、東京アクセントに直したといいます。
堀元さんも大学時代、方言でウケてしまった経験を「ノイズだ」と感じて直したと明かします。それでも2人は、方言は直さなくていい、むしろ残してほしいと語ります。
まとめ
日本国内に存在しない鹿児島方言の発音資料は、漂流民ゴンザがロシアで残したものでした。歴史の偶然と、非母語話者だからこその視点が、貴重な記録を生んだ回でした。
- 昔の発音は文字に残らず、多くは非母語話者の残した資料から復元される
- 18世紀初頭の鹿児島方言の資料は日本国内になく、漂流したゴンザがロシアで作った
- キリル文字は子音と母音を分けて書けるため、母音の無声化まで解像度高く記録できた
- ゴンザの資料は村山知郎の再発見で広まり、日本での研究や市民の活動につながった
- 方言の音声資料は少なく、水野さんは自分の母方言でポッドキャストを録ることを勧めている





