言語学本はなぜチワワを濁らせたがるのか
この回は、りょーさんの新刊『言語学クエスト』の刊行をきっかけに、一般向けの言語学本を書いた経験のある3人が「執筆あるある」を出し合う企画です。最初にりょーさんが挙げたのは「言語学本、チワワいじりがち」でした。
堀元さんによると、二人の著書『言語沼』にも、連濁の説明として「毒ガエル」の理屈なら「毒チワワ」は「毒ジワワ」になる、という話と、毒を持ったチワワのイラストが載っています。りょーさんの本にも、濁音がつくと強そうに聞こえるという音象徴 ── 音そのものが特定のイメージを喚起する現象。濁音が大きさや強さを、清音が小ささや軽さを連想させる例がよく知られていますの説明でチワワが登場するといいます。
全く同じことするのやめてもらっていいですか。我々もそのチワワを濁らせるってボケやったことあるんで。
りょーさんの本では「ち」だけでなく「わ」にも濁点をつけています。水野さんは、わに濁点をつけた音を有声両唇摩擦音と説明しました。
りょーさんによると、この音は日本語にもあり、「ボーボボ」と流れるように言うときに、唇を閉じきらない音として自然に現れるそうです。堀元さんはこれを「雑に発音したボーボボ」とまとめ、3人で実際に発音を試しています。
川原繁人先生はなぜ誰もが引用するのか
水野さんが挙げたあるあるは、「100人中100人が川原繁人先生の本を引きがち」です。堀元さんは、ポケモンの名前で音象徴を考えるような川原先生の話は、一般の人にもわかりやすいからだろうと話します。
切り開いてんすよね、やっぱ川原先生がその道を。これ(川原先生の道)に乗るっていう。
水野さんによれば、音の話をキャッチーに扱った一般向けの言語学本は、川原先生の本がほぼ初めてだといいます。音の話は本来、国際音声字母 ── 世界の言語の音を統一的に表記するための記号体系。IPAとも呼ばれ、音声学を学ぶ際の基本道具ですが頭に入っていることが前提になるからです。
川原先生の工夫は、説明の順番にあります。音象徴というなじみのある話題から入り、その説明に必要な道具として国際音声字母を導入するため、読者は自然に理解でき、その先のラップの押韻などの話にもつなげられるというわけです。
国際音声字母などの前提知識から始まり、音が変わる条件などテクニカルな話が中心
音象徴という日常的な話題から入り、説明に必要な道具として国際音声字母を導入する
りょーさんも、音の話は大抵テクニカルになるため、日常の身近な話題から入る川原先生のスタイルは貴重だと話しています。
素直な王道か、あえての逆張りか
りょーさんの『言語学クエスト』にも、音象徴のパートで川原先生の研究はしっかり入っています。音・意味などパートごとにテーマを分ける構成なので、音のパートで川原先生を外すのは難しいという話になりました。
堀元さんが「引いたら負けだと避けないのか」と尋ねると、りょーさんは、入り口としてわかりやすい本にしたかったので王道を選んだと答えます。
堀元さんは、言語学者から「ことラボは素直にキャッチーなことをやっている。一方で水野さんはあえてキャッチーでないものを探している」と言われた経験を紹介し、二人のスタンスの違いだと話しました。
でもなんか自分が面白いと思わないでやりたくないから、その結果やっぱ否定文のオノマトペとかやりたくなりますよね。
楽器のオノマトペ(の回)、ゆる言語学ラジオ、最近史上一番再生数悪い。ここ20本で一番悪いっす。
今井むつみ先生の研究も引用されがちかという話題では、今井先生は心理学がバックグラウンドで、言語学のプロパーの研究者は心理学的な観点では書かないため、言語学者の本ではそれほど引かれないのではないか、という見方が出ています。
チョムスキーは一般向けの本に入らない
言語学者が書く本なら必ずといっていいほど引かれるチョムスキー ── アメリカの言語学者。人間に生得的な言語能力があるとする生成文法を提唱し、20世紀の言語学を大きく変えた人物ですが、一般向けの本では引かれないというあるあるも出ました。りょーさんも水野さんも、自著で引いていないといいます。
堀元さんは、巨人であり大きな功績なのに、一言でその功績を説明できないから引かれない現象だとまとめました。水野さんは、チョムスキーの理論は日常の言語事象を説明することが目標ではないため、日常と結びつけにくいと補足しています。
ここで堀元さんは、似た現象として「クリプトガミスト」の話を持ち出します。チューリングの暗号解読チームに、隠花植物学者 ── 花を咲かせない植物(コケ、シダ、藻類など)を研究する学者。英語でcryptogamistと呼ばれますが綴りの似た暗号学者(cryptographer)と間違えて採用された、という有名な話です。
事実
隠花植物学者は実際に暗号解読チームにいて、海藻の知識で水没した書類の復元に活躍した
ガセ
「綴りが似ていたから間違えて採用された」という部分は誤り
一人歩き
複雑な経緯を一言で語れず、最もキャッチーなガセ部分だけが広まる
この複雑な経緯を一言では話せないから、この一番キャッチーな部分は一人歩きしていて(中略)完全に同じ現象ですよね。
堀元さんは、一言で語れない話は語られないか、キャッチーな部分だけが歪んで広まるという点で、チョムスキーの件と同じ構造だと説明しました。一方、話の長さに水野さんは「厄介な大人」扱いで応じ、堀元さんは司会に徹すると宣言します。
本を1冊書くには100冊読む必要がある
りょーさんが挙げたのは、本を書くには100冊読まないといけない、という実感です。参考にしたのは堀元さんの著書『ビジネス書ベストセラーを100冊読んで分かった成功の黄金律』で、内容というより「100冊読む」というメタな姿勢を参考にしたといいます。
『言語学クエスト』は各セクションの最後に読書案内や参考文献を載せていて、全部合わせると100冊になるそうです。りょーさんは、人生で一番本を読んだのは本を書いているときかもしれないと振り返っています。
リサーチの進め方では違いが出ました。りょーさんは、動物の言語を書くならそのテーマだけ調べて1セクション書き、また次を調べる、という小ネタごとの繰り返しで進めたといいます。
10冊読んでると、その1冊目読んだやつの感動薄れないですか(中略)。水野さんが30冊まとめてリサーチしてから(ゆる言語学ラジオの)台本書いてますっていうのイカれてるなと思って。
水野さんは、30冊読み終えたら読書ノートを作って全体をおさらいするので感動はよみがえると反論します。いま執筆中の単著についても、章ごとに調べては書く形で進めていると話しています。
りょーさんと堀元さん。読んだ直後の「面白い」を新鮮なうちに書ける
水野さん。読書ノートで全体を振り返り、上澄みから大きな全体感を作れる
研究史はなぜこんなに面白いのか
水野さんは、執筆中の本では研究史の流れを強調しているといいます。こういうアプローチで解けそうだ、でも問題がある、解決した人はいるか、という積み重ねが面白く、それはたくさん読まないと見えてこないそうです。
堀元さんは生物の研究史を例に挙げます。ノアの箱舟 ── 旧約聖書の物語。大洪水の前にノアが家族と動物のつがいを箱舟に乗せて生き延びさせたとされますが実在したという前提では絶滅した種はいないことになるため、化石が出ても「偶然生き物に見える岩だ」と説明されていたそうです。
堀元さんは、現代の地質学者が書いた『岩は嘘をつかない』を紹介しました。著者は昔の学者を馬鹿にするつもりで研究史をひもといたが、そこにあったのは神学と科学が少しずつ歩み寄る真摯な営みだった、という内容です。ただし堀元さん自身は20ページしか読んでいないと明かしています。
水野さんも、自分より頭のいい大人たちが人生をかけて議論していること自体が、言語学の研究史の面白さだと話しています。
仮タイトルは「世界一受けたい言語学の授業」だった
『言語学クエスト』の章構成について、りょーさんは最初にセクションタイトルだけを一気に決め、それを音・意味などにクラスタリングして章を作ったといいます。堀元さんがセンスがいいと評した最終章「人ならざるものの世界」は、編集者が考えたものだそうです。
元のタイトルは「世界一受けたい言語学の授業」でした。りょーさんはAmazonランキングで学び直し系の世界史本が上位にあるのを見て、売れる本のタイトルはこうなのかと引きずられたといいます。
世界一受けたい言語学の授業(売れ筋ランキングに引きずられた仮タイトル)
言語学クエスト ことばの世界をめぐる冒険(編集者の案)
水野さんは、りょーさんらしいタイトルだから本人が考えたと思っていたと話します。短いタイトルは感想を投稿するときにハッシュタグにしやすいという利点も挙がりました。
堀元さんは発売後のあるあるとして、「#言語学クエスト」ではなく「#言語クエスト」と書く人が出て表記が揺れると予想しています。ゆる言語学ラジオも「ゆる言語ラジオ」と言われ続けているからです。
編集者のコメント採用率が10割という幸運
りょーさんは、編集者のすごさを何度も感じたといいます。原稿を出すたびに、こう直せばよいという具体的な指示まで含んだ緻密で正確なコメントが返ってきて、採用率は100パーセントだったそうです。
たとえば漢語はあまり連濁 ── 2つの語が結びつくとき、後ろの語の最初の音が濁音になる現象。「毒」+「カエル」が「毒ガエル」になるのが典型例ですしないという説明で、りょーさんは「塩対応が塩大王にならない」という例を出していました。編集者は、連濁すると意味が変わってしまう「国家試験が国家事件にならない」という、より良い例を提案したといいます。
枕草子を引用する際も、ネット上のテキストではなく、写本の中で最もスタンダードなバージョンを勧められたそうです。
すげえハマってる人だと、今Ryoさんが言ったことと同じ現象起こるんですよね。「おっしゃる通りでございます」みたいな。
堀元さんは、そういう編集者に出会ったのは4人目くらいだったと話し、1冊目で出会えたりょーさんは運がいいと驚きます。『言語沼』で水野さんが堀元さんの原稿に入れたコメントの採用率は6割くらいで、それ以前の本では3割くらいだったそうです。
構成記号と紙のゲラに浮き足立つ著者
りょーさんは、歳が近くことラボを見てくれている編集者でセンスが似ていたこと、初めての本で未熟な文や論理展開を指摘してもらえたことが助かったと話しています。
水野さんは、以前りょーさんと一緒にコトバという季刊誌の取材を受けた際、ゲラの赤入れで「構成記号って使うもんすか?」と聞かれたエピソードを明かします。堀元さんは「浮き足立ってますね」と反応しました。
今回の本では紙のゲラが送られてきて、りょーさんはテンションが上がったといいます。効率なら電子のほうがよいとわかっていても、手触りがあり、どこまで終わったかがわかりやすい紙のほうが気分が上がる、という点で出演者の意見は一致しました。
紙に直接赤入れをすると実物が残るので、これをメルカリで5万円で売ると儲かります。
堀元さんは、プライドより10万円のほうが大事だと言い切ります。水野さんは「誉れがない」とあきれ、堀元さんが卒業証書を出品しようとして温和な母親に止められた話まで持ち出されました。
編集者にどこまで甘えていいのか
イラストについては、編集者がイラストレーターの候補を出し、りょーさんはその中から選んだといいます。当初はことラボの動画のようにアイコンや簡単な図解を自作するつもりでしたが、書き進めるうちに足りないと感じ、ほぼイラストレーターに差し替えてもらったそうです。
ここで出演者から、出版業界に物申したいことが出ます。著者が出版社にどこまで甘えてよいかがわからず、イラストを入れたいと思っても遠慮して言えないまま終わるケースがありそうだ、という悩みです。
りょーさんはタイトルもカバーも、任せればよいものが上がってくると考えていたそうです。自分は内容ばかり考えていて解像度が「世界一受けたい言語学の授業」レベルだった、と自虐も交えています。
もう一つの疑問が、参考文献の代金は自腹なのかという点です。水野さんによれば基本的に出版社の経費にはならず、経費にすれば本は出版社のものになるからだといいます。
一方で堀元さんの『ビジネス書ベストセラーを100冊読んで分かった成功の黄金律』では、出版社がラインナップのたたき台を作り、100冊を送ってくれたそうです。書き終えたあとは好きにしてよいと言われ、ツイートしたところ大学生から欲しいという連絡が多く届き、少しずつ譲ったと話しています。
最初に「武装解除」を伝えるという作法
本業が編集者である水野さんは、自著『きょう、ゴリラをうえたよ』で担当編集者が気を遣っている様子だったため、最初に自分のスタンスを伝えたといいます。
僕、あの原稿書く以外のことはやりたくないです。
水野さんは、イラストも装丁も判型も任せ、取り上げる子どもの言い間違い80個のピックアップまで編集者に任せたそうです。自身の感覚は「原稿を作る工場」に近く、たたき台にリアクションはするという立場でした。
堀元さんは、編集者から頼まれたテーマを言われた通りに書くという森博嗣さんのスタイルに近いと紹介しています。
水野さんは、自分にはクリエイティブディレクションのセンスがないので任せてよかったと振り返り、りょーさんも適材適所だと同意しました。
餅は餅屋ってやつですね。この例えで餅出すの最悪じゃないですか?餅は素人がついてもうまいから。
バリューブックスへの謝辞は「誤植」なのか
りょーさんは、参考文献代については、クリエイター向けに好きなだけ本を買ってよいというスポンサーをしているバリューブックスと提携するのがおすすめだと話しました。『言語学クエスト』の執筆でもかなり利用したそうです。
堀元さんによると、ゆる言語学ラジオや系列番組の書籍代もバリューブックスが出しています。
僕ね、この言語学クエストでね、一個ね、これなんとか削除したり改変してほしいなと思って。
水野さんが指したのは、あとがきにある「株式会社バリューブックス様に多くの参考文献を提供いただきました」という謝辞でした。自著のあとがきには一切書いていなかったため、こちらを「誤植」として消してほしいと訴えます。
堀元さんは、人の本を消させるのではなく自分の本に入れるべきだと返しました。水野さんのあとがきには、研究にフリーライドしたくないという思いから、言い間違いの投稿フォームへの協力を呼びかける文章が入っていると本人は説明しています。
バリューブックス限定の特典は何がつくのか
最後は『言語学クエスト』の購入案内です。バリューブックスで買うと、ことラボ初のグッズとなる試験管のロゴのステッカーと、限定の特典動画がついてくるそうです。特典は時期によってつかない可能性もあるため、早めの購入が勧められています。
特典動画は、言語学クエストというタイトルにちなんで、ヴィトゲンシュタイン ── オーストリア出身の哲学者。言葉の意味は使われ方の中で決まるとする「言語ゲーム」の考え方を提示しましたの「言語ゲーム」という哲学の概念を扱う内容だといいます。
謝辞の件で水野さんは「人権がない」と扱われ、質問を無視される流れが続きます。それでも特典動画がいつものことラボのような編集だとわかると、水野さんは「知りたいことは知れました」と前向きに締めくくりました。
まとめ
一般向けの言語学本の執筆あるあるからは、わかりやすい入口の作り方、リサーチの量、そして編集者との役割分担が本の質を左右することが見えてきます。
- 川原繁人先生の本は、身近な音象徴から入り、必要な道具として国際音声字母を導入する順番で音の話をキャッチーにした
- チョムスキーのように一言で功績を説明できない研究は、一般向けの本では引かれにくい
- りょーさんは約100冊の参考文献を読み込み、小ネタごとに調べて書く方法で『言語学クエスト』を仕上げた
- 仮タイトル「世界一受けたい言語学の授業」から、編集者の案で『言語学クエスト』に変わった
- 編集者にどこまで任せるかは、水野さんのように最初に伝えておくと双方がやりやすい





