「彼」と「彼女」は対等なペアではなかった?
水野さんによると、日本で初めて書き言葉の中で「彼女」と呼ばれた人物は特定されています。ここでの「彼女」はガールフレンドの意味ではなく、英語のsheにあたる三人称の代名詞です。
水野さんはまず、男性を指す「彼」と女性を指す「彼女」をペアとして捉えがちな感覚に疑問を投げかけます。堀元さんは、漢字で見ると「彼」に「女」が付いているだけで対になっていないと指摘しますが、水野さんが問題にしているのは見た目ではなく歴史の違いです。
端的に言うと、彼っていう言葉はめちゃくちゃ昔からあったんですけど、彼女ってできたの最近なんですよ。
「彼」は8世紀頃には見られ、万葉集にも例があるとされます。一方の「彼女」は19世紀になるまで存在せず、その間には1000年ほどの空白がありました。
8世紀頃には見られ、万葉集にも例がある
19世紀になるまで存在しなかった
1000年もの間、女性を三人称で指す場面はあったはずです。堀元さんは「両方彼だったのでは」と推測し、水野さんはそれが正解の1つだと答えます。昔の「彼」は女性も、さらには物も指せました。
「彼」はこそあどの「あ」の仲間
水野さんは次に、「彼」が指示詞の「こ・そ・あ・ど」のどの系統に属するかを堀元さんに尋ねます。子音が同じ「こ」を答えた堀元さんに対し、正解は「あ」の系統でした。
指示詞の使い分けは、日本語母語話者でも説明が難しいものです。堀元さんも例を挙げながら考えますが、「お手上げかもしれない」と明確な説明ができませんでした。
水野さんは、日本語を母語としない人にもわかる説明として、話し手と聞き手の「領域」で考える方法を紹介します。
| 系統 | 指すもの | 例 |
|---|---|---|
| こ | 話し手の領域にあり、聞き手の領域にないもの | これ美味しいよ |
| そ | 聞き手の領域にあり、話し手の領域にないもの | (自分は見た映画について)その映画面白いですよ |
| あ | 話し手・聞き手どちらの領域にもないもの | (二人とも見ていない映画について)あの映画面白いらしいですよ |
たとえば二人とも見ていない映画なら「あの映画面白いらしいですよ」とは言えますが、「この映画」「その映画」とは言いません。こうした文脈の中で指すものが決まる現象はダイクシス ── 発話の場面や話し手・聞き手の位置によって指す対象が決まる言語現象。「ここ」「今日」「私」なども同じ仕組みで解釈されますと呼ばれ、研究の量も膨大だといいます。
今んとこ俺の領域にもないし、水野さんの領域にもないから、(「あれ」は)はるか遠くにある思い出せないものだからだね。
堀元さんは、物の名前が出てこない人が「あれ、なんだっけ」と言う理由もこの仕組みで説明できると気づきます。水野さんも、指示詞が「この」「あの」のような言いよどみになりやすいのは、こうした性質と部分的に関わっていると考えられると補足しました。
英語のsheを訳すために生まれた「彼女」
ここまでの整理として、古い「彼」は現代語の「あの」に近い系統で、話し手からも聞き手からも遠い人や物を指せました。その「彼」とは別に、19世紀になって突然「彼女」が作られたのはなぜかが、この回の中心の問いです。
答えを言うと、外国語の影響ですね。
明治期に英語の文章が大量に入ってきたことで、heとsheの区別に合わせた訳語が必要になりました。水野さんはこれを、言葉が翻訳によって変わることがある例として示します。
ただし「彼女」は、生まれた当初は「かのじょ」ではなく「かの女」と読まれていたそうです。「あの女」に近い読み方で、「彼」が「あ」の系統だったことを裏づける証拠の1つだと水野さんは話します。
「かのじょ」と読む初出例は、1885年から86年頃に書かれた坪内逍遥 ── 明治期の小説家・評論家・劇作家。評論『小説神髄』で写実主義を提唱し、シェイクスピア全集の翻訳でも知られますの『当世書生気質』だとされています。坪内はシェイクスピアの翻訳者としても知られ、翻訳者としての頭の使い方から、sheの訳語として「彼女」を自作に出したのではないかと考えられています。
初出とされるのは「俗に言うおてんばなれども、彼女は活発だなどと言って、書生連に喜ばれる小娘なり」という一文です。
監修の蔦先生によると、初版の振り仮名は「かのじょ」でしたが、第2版では「かの女」に変わっていました。ただ、1927年の逍遥選集に再録された際は「かのじょ」になっており、逍遥自身が校正しているらしいことから、これを初出例としても問題ないのではないかという指摘も受けたそうです。
最初の「彼女」はダーツバーの女中?
『当世書生気質』で「彼女は活発だ」と書かれたのは、お豊という女性です。お豊は「楊弓場」の女中でした。
蔦先生はこの店を「今で言うダーツバー」と補足しました。堀元さんは、ツッコもうと待っていたのに一撃でイメージできてしまったと驚いています。
一方で、現代のダーツバーとは違う点もあります。当時この職業の女性は売春をしていることも多かったそうです。水野さんは台本で「遊女」と書いていましたが、誤解を避けるため、「楊弓場の女中で、当時この職業の人は売春をしていることも多かった」と説明するほうが正確だと蔦先生から助言を受けたといいます。
すごいね。要求場(楊弓場)で働く女性ですって言われたら全然面白くないね。
初期の「彼女」には見下すニュアンスがあった?
なぜ最初の「彼女」が楊弓場の女中だったのか。堀元さんは「手が届かない距離のある女性」だからではないかと推測しますが、水野さんは「真逆です」と答えます。当時の「彼女」には、むしろ相手を下げるニュアンスがあったという説があるそうです。
水野さんはその理由を、英語のheと日本語の「彼」の違いから説明します。「He is my teacher」は英語では自然ですが、日本語で「彼は私の先生だ」とはあまり言いません。お世話になっている社長を「彼は…」と紹介すると、堀元さんの言うように「偉そう」に聞こえます。
人称代名詞で、動詞の形を決めるルール上必要な部品。目上の人にも使いやすい
英語的な人称がなく主語も省略できる。目上には使いづらく、心理的な距離が出やすい
英語では三人称単数で動詞にsが付くように、人称が文法上不可欠です。日本語は主語によって動詞の形が変わらず、主語を省略できるので、わざわざ「彼」と言う必要がありません。
さらに、こそあどの「あ」の系統はネガティブな価値判断と結びつくことが多いといいます。水野さんは、上司が席を外した部下について「あれ、要領悪いでしょ」と身内を下げて言う例を挙げました。
だから彼女も生まれた直後はちょっと(相手を)下げるようなニュアンスで用いられていた。だからこそダーツバーの女中さんに使った例が初出なのかもしれないってことですね。
堀元さんは、自分が「距離のある女性」を連想した理由として、高校時代に通ったミニシアター併設カフェの店員への淡い憧れを明かします。水野さんからは「その人ダーツバーじゃないよ」とツッコまれていました。
「彼」は外資に押されて事業を縮小した
「彼女」の誕生によって、「彼」が指せる範囲は狭まりました。それまで女性も物も指せたオールラウンダーの「彼」が、男性だけを指す言葉になったのです。
今までは日本国内で何でもやれてたのに、外資が入ってきちゃったせいで、うわ、この領域で勝てねえわってなって、業を狭めたみたいな状態だね。
もちろん変化は一気には進みませんでした。水野さんによれば、次のような段階を経て「彼」や「彼女」は広がっていったといいます。
翻訳文
翻訳文が手本となり、日本語の文章が変わる
小説
翻訳文学から近代文学へ使用範囲が広がる
文語
のちに文語でも使われるようになる
日常語
日常語に浸透し、翻訳語由来だと意識されなくなる
水野さんは、「彼女」は「哲学」や「経済」と同じ、明治期の翻訳語のジャンルに入ると話します。それなのに昔から日本語にあったような顔をしている点を、堀元さんは英語由来なのに日本語らしく聞こえる野菜のオクラにたとえました。
船を「彼女」と呼んだ時代
「彼女」にはガールフレンドの意味が定着する前に、今ではほとんど使われない用法がありました。sheの翻訳の影響で、船を「彼女」と呼んでいたのです。
英語のsheは、女性だけでなく国名や船を受ける代名詞にもなります。1926年の用例には、「彼女は大人しく静かに進んだ」「船は大うねりに乗って心持ちよく泳いでいく」という文があり、船を「彼女」と呼んでいます。
堀元さんは船が女性名詞だからではと考えましたが、古英語のshipは中性名詞、boatは男性名詞です。水野さんによれば、sheが船を受ける理由と文法上の性は関係がなく、定説もないそうです。
なぜだかよくわからないけどって入っちゃったらもうひけらかしがいがないんですよ。
中国語では「她」の字をめぐって論争が起きた
sheにあたる形式がなかったのは日本語だけではありません。韓国語や中国語も、ほぼ同じ時期に「彼女」に相当する語を作りました。
水野さんが紹介するのは、中国語の女性代名詞の成り立ちをまとめた『「她」という字の文化史』です。中国語ではもともと「他」が男性も女性も指せ、日本語の「彼」と同じ働きをしていました。sheの訳語を作る議論は1910年代ぐらいから盛んになったそうです。
現在使われるのは、「他」の人偏を女偏に変えた「她」です。しかし当時は複数の案が出され、それぞれに反対意見がありました。
| 論点 | 内容 | 主張・懸念 |
|---|---|---|
| 「伊」を使う案 | 伊藤さんの「伊」の字 | 「他」と音を変えたほうがよいという立場 |
| 読みの重複 | 「她」は「他」と同じ「た」の読み | 同音になり好ましくない |
| 古い用法 | 「她」は昔別の意味で使われていた | 昔そんな意味で使っていなかったという反論 |
| 印刷 | あまり使われない字だった | 活字がなく印刷が大変 |
「她」には反対運動も起き、「うちの雑誌ではこの字は使わない」と宣言する媒体もあったといいます。興味深いのは、女性の権利平等を目指すような進歩的な雑誌のほうが反発した点です。
女偏と「男を上げる」に映る偏見
進歩的な雑誌が反発した理由の1つは、女偏の漢字には「嫉」「妬」「姦」のようにネガティブな意味のものが多いことでした。女性を女偏の字で指すことは、その構造に乗ることになります。「男は人偏なのに女は女偏なのか」「女は人ではないのか」という不満も出たそうです。
水野さんは、男と女を入れ替えただけで意味が変わる例として日本語の表現を挙げます。
大きな仕事を成し遂げるなど、本人の評価が上がる
綺麗になる、モテるなど、異性目線の評価に変わる
つまり、言葉には我々の偏見とか社会構造みたいなのが反映されていると考えられると。
中国では、言葉の中にすでにある男性優位の構造を持ち込むのかという批判も踏まえ、慎重に字が検討されました。最終的には女偏の「她」に落ち着きましたが、水野さんは、新しい字や言葉をどう作るべきかという論争の歴史がこの一字に詰まっていると話します。
会議で言葉を決めるのは技術用語に似ている
堀元さんは、中国の「她」の議論に技術用語との共通点を見出します。一般的な言葉は会議で決めませんが、技術用語はしばしば会議で決めるからです。
堀元さんが挙げたのは、初期のパソコンのキーボード表記です。Backspaceには「後退」、Enterには「復改」という漢字が当てられていた例があるそうです。「復改」は、改行を表すCRLFに対応する日本語として、どこかのメーカーが決めたものでした。
これなんかは僕、見事に会議で新しい日本語を生み出していいなと思ったんですけど、全く普及せず、ENTERって書いてありますね、今はね。
水野さんは、この本では当時の知識人が何に配慮し、どんな反対勢力がいたのかという100年ほどの歴史を一気に追えると評価します。中国語の代名詞1つで1冊の本ができ、それが日本語に翻訳されて読める点に、日本の出版文化のすごさも感じたそうです。
日本の「彼女」はなぜすんなり定着したのか
中国語と比べると、日本語では「彼女でいいのか」という論争があまり知られていません。堀元さんは、坪内逍遥が使い始め、なんとなく皆が使って定着したという印象を語ります。
水野さんが挙げる数少ない違和感の表明が、翻訳家のベック貞則さんの著書『翻訳読本』です。そこでは「『彼』とか『彼女』は日本語としても他の言葉としっくりしない、ザラザラした異質な感じがする」と書かれているといいます。
ただしこれは質感の話で、ジェンダー平等の観点からの議論や、反対・普及の勢力をまとめた文献は、水野さんが知る限り見つけられなかったそうです。
一番の参考文献にした『翻訳語成立事情』は、社会、個人、近代、美、恋愛、存在、自然、権利、自由、そして彼・彼女の10語を扱う新書で、「彼女」の部分は10ページちょっとしかありません。日本語の文献なのに、中国語の「她」のほうが詳しく学べたという逆転を、水野さんは面白がっています。
モノを指す役割は「あれ」が引き継いだ?
水野さんは、ここまでの話を次のように振り返ります。
初期の「彼女」は軽蔑やネガティブなニュアンスを伴っていたのかもしれず、東アジアの言語もほぼ同時期に同様の形式を作りました。水野さんは、「彼女」は近代化の産物とも言えると話します。
堀元さんは、「彼」が物を指せなくなったあと、その役割が「あれ」に移ったのかと質問します。蔦先生のコメントによれば、「彼」が指したのは圧倒的に人が多く、物や事を指す例はコーパスで見る限りそれほど多くなかったそうです。
(「彼」は物を)指すことはできたが、そう、実態としては少なかった。
そのため水野さんは、もともと少なかった物を指す用法を「あれ」が引き継いだのではないか、という見方を示しています。
1語の翻訳が言語の体系全体を動かす
水野さんが最後に伝えたかったのは、言語変化の要因は省略や簡略化、テレビ、隠語だけではなく、翻訳もその1つだということです。
堀元さんは、sheが入ってきたことで直接関係のない「彼」まで影響を受けた点に注目します。水野さんは、言語は体系になっているので、1語を導入して他が変わらないほうが不自然だと答えます。
sheの概念が入ってきた時にsheのスロットって空いてないんですよね、そもそも。
sheのスロットは最初から空いていなかったため、それまで「彼」が担っていた領域を分け合うことになりました。堀元さんはこれを、財閥が外資の参入で事業を切り離し、人員を別の事業に回す動きにたとえ、Twitterなどに押されて方向を変えたmixiの例も挙げています。
この比喩から話は、水野さんが好きな企業の話題へ広がります。地主株式会社や日立造船、夢見つけ隊といった会社名が次々に挙がり、堀元さんは「株式投資クラスタが好きなだけでは」とツッコんでいました。
まとめ
「彼女」は昔からある言葉に見えて、実は明治期にsheの訳語として生まれた翻訳語です。その誕生は「彼」の役割を狭め、中国では字の選び方をめぐる論争まで起こしました。1語の翻訳が言語の体系全体を動かすことを、身近な代名詞から確かめられる回です。
- 「彼」は8世紀頃からあり、女性や物も指せたが、「彼女」は19世紀までなかった
- 「かのじょ」の初出は坪内逍遥『当世書生気質』で、指されたのは楊弓場の女中お豊だった
- 「あ」系統に近い「彼女」には、当初相手を下げるニュアンスがあった可能性がある
- 中国では「她」の字をめぐり、読み・印刷・ジェンダーの観点から論争が起きた
- 言語は体系なので、翻訳で1語が入ると既存の語の役割も変わる

