「結論から喋れ」はエゴなのか?
この回は、水野さんが「結論から喋れという教えは、エゴなのではないか」と切り出すところから始まります。ゲストの室越龍之介さんはすぐに同意し、堀元さんだけが反対に回ります。
いや、結論から喋った方がいいです。人間は。(過程を喋ると)どこに行くか本人もわかんない状態でダラダラダラダラ喋るのに付き合わされる人の気持ちにもなってほしいですけどね。
題材は、前回の放送で概要を紹介した『「論理的思考」の文化的基盤』です。水野さんのおさらいでは、この本は「論理性や合理性には2軸4象限の多様性があり、それは作文教育と歴史教育によって作られる」と主張しています。
ゲストの室越龍之介さんは、大学院の博士課程でキューバをフィールドに研究した文化人類学の出身です。古典ラジオへの出演を通じて2人と知り合い、今は会社の歴史を調べたり、経営者と理念を考えたり、人文学的な知識を家庭教師のように教えたりする仕事をしています。
水野さんは、室越さんが2か月ほど自宅に居候していた時期に、2人の合理性の違いに驚いたといいます。水野さんは1週間後や1年後の締め切りから逆算して毎日を動かしますが、室越さんは今だけに集中しているように見えたそうです。
堀元さんも、初対面の室越さんに生まれ育ちや小中学校の教育について延々と質問され、戸惑った経験を話します。室越さんによれば、それは堀元さんの人格を知り、いちばん刺さる接し方を見つけるための遠回りだったとのことです。
その人に気に入られに行くって、なんとなく雰囲気でこれ言ったら気に入られそうだなということを言うのが最短であって、その人の生育環境を知るのはめちゃくちゃ遠回りですよね。
室越さんは、マンハッタン島の取引の例まで持ち出して「相手の文化を知らないと搾取的な取引になる」と反論します。堀元さんが「違う話だな」と返す掛け合いから、室越さんと2人の話し方の違いがよく見えてきます。
論理性が「能力」や「人格」の評価にすり替わる問題
水野さんが最初に取り上げたのは、論理性が能力と結びつけられてしまう問題です。著者の渡辺雅子先生によれば、論理の違いは本来スタイルの違いにすぎません。それでも能力の評価になり、さらに道徳的な善悪や人格の評価にまで広がりうると書かれています。
仕事とかでプレゼンしろって言われた時に、なんか構造化失敗してるなみたいな。綺麗に喋れてないなっていう時に、こいつ能力ないなって評価されてしまったり、挙句の果てに人格がダメだって。
水野さんは、合理性の違いのほうが人格の評価に結びつきやすいのではないかと続けます。例として挙がったのが貯金です。つみたてNISAを積み立てる2人に対して、室越さんは貯金をしない派で、「道徳的に劣った存在ですから」と自虐して笑いを誘います。
本の中でとくに顕著な例として紹介されたのが、学術論文の世界です。どの分野でも代表的な国際誌はアメリカで発行される英語誌なので、アメリカ式のパラグラフライティングで書かないと、まともな論文だと見なされにくいといいます。
たとえば日本の歴史学は、細かいトピックを掘り下げる伝統があります。しかし、その書き方は「描写的すぎる」と批判され、主張と根拠を並べるアメリカ式の型にならないと評価されない、と本では論じられています。
各地域ごとにね、良しとされているスタイルが違うっていうだけなのに、アメリカ式が世界の覇権を握っちゃってるんだ。
日本語で書いても構造は違う? フランスが難解になる理由
文化人類学の世界ではどうだったのか。室越さんによると、日本の研究者は日本語で論文を書くことが多いそうです。一方で室越さんは、日本に留学している中国の学生が日本語で書いた論文をチェックした際、とても読みにくかった経験があるといいます。
室越さんの説明では、読みにくさの原因は修辞の多さと、文章の構造そのものの違いでした。修飾を削るのは簡単でも、段落の構造をどこまで直してよいのかは難しい問題だったそうです。
室越さん自身は、アカデミックライティングを叩き込まれた経験はあまりないといいます。「それぐらい自分で分解してできないとダメ」という厳しい指導のもとで、我流で身につけてきたそうです。
堀元さんは、マリノフスキー ── 20世紀前半に活躍したイギリスの人類学者。長期の住み込み調査にもとづくフィールドワークの手法を確立した人物として知られていますの『未開人の性生活』が、意外にも結論から書かれていたことを思い出します。室越さんによれば、イギリス人の研究者が中心だった初期の人類学はそういう書き方でした。しかし、フランス人が登場してから一気に難解になっていくといいます。
水野さんがレヴィ=ストロース ── フランスの人類学者。構造主義の代表的な思想家で、神話や親族関係を構造として分析しました。難解な文体でも知られていますの名前を挙げると、室越さんは「その登場以降」だと答えます。アメリカの研究者であるマーシャル・サーリンズも、フランス留学から帰ってくると難解になったそうです。
室越さんが連載用に「名著のリスト」を作ったときも、並んだのはフランス人・ドイツ人・ロシア人ばかりでした。アメリカ人やイギリス人はいなかったといいます。水野さんと堀元さんは、室越さんの両論併記や弁証法的な話し方を「フランスっぽい」と評します。
要は何?ってみんな思ってますから、聞いてる時。
堀元さんのこの発言は、室越さんが古典ラジオで「わかりにくい」と言われた箇所についてのものです。そう言われたのは、「こういう考え方も、こういう考え方もある。今回はこの見方で見る」という弁証法的な話し方をしていた部分でした。堀元さんは冗談めかして、ありもしない研究を持ち出して断言するスタイルを勧めます。
結論から話すと、本当に認知負荷は下がるのか?
ここで本題の「結論から話すのは正義か」に入ります。水野さんはまず、自分たち「結論族」の考えを提示します。結論が先にあれば、後から出てくる話の位置づけがわかるので、認知負荷が下がるという主張です。
これに対して室越さんは「それ絶対嘘だと思う」と返します。結論から話されると、まず結論を覚えておき、その後の論証が本当にそこへたどり着くかを確かめながら聞き続けなければなりません。そのぶん、かえって負荷が高いのではないかという指摘です。
水野さんによれば、室越さんは以前「結論が正しいかどうかは自分で判断したい」とも話していたそうです。前提から順に積み上げて聞くほうが楽だし、聞き手も助かると考えていたといいます。
堀元さんは、この室越さんのスタイルには「洗脳されにくい」という利点があると気づきます。先に結論を受け入れてから理由を聞くと、結論を所与のものにしてしまうからです。
逆に結論を言われて、一旦それを受け入れて、理由を後から聞くスタイルって、やっぱ洗脳されやすいですよね。一旦結論を所与のものとしちゃうから。
話の位置づけがわかり、聞き手の負荷が下がるとされる。一方で、結論を先に受け入れるため論証が雑でも信じやすい
結論にたどり着くかを覚えておく負担がない。聞き手が自分で正しさを判断でき、洗脳されにくい
水野さんは、自分の中で価値観が逆転したと話します。「結論から話す」がゴールだと思っていたのに、本を読んでからは結論から話さないほうが本当は上にあると感じるようになったそうです。政治的な判断ができる市民ほど、結論から話すことに抵抗を持つのではないか、というわけです。
一方で室越さんは、ビジネスの世界に来て驚いたことを挙げます。「結論」と言って話し始めたのに、まったく結論ではないことを話す人がとても多いといいます。
結論が先だと「検証されにくい」という落とし穴
水野さんは、時間の順序を完全にひっくり返して話せば室越さんにとって問題ないのかと尋ねます。室越さんの答えは「それはわかりにくい」でした。室越さんが求めているのは、公理や命題から順に理屈を積み上げていく話し方です。
ここで堀元さんは、自分の論文の読み方を振り返ります。アブストラクトで結論を知り、面白すぎて怪しいと感じても、英語の実験デザインを読むのは面倒です。そこで研究タイトルに「批判」を付けて検索し、批判がなければ正しいと考えることにしているそうです。
批判されてなさそうだったら、よし、大丈夫そうだっていう、完全に周りを見て僕ついてってるから、全然良き市民じゃないっすねこれ。
室越さんは、結論を先に話すことのいちばんのメリットは「検証されにくいこと」だと指摘します。個人向けのゼミで、アメリカ型で話す人の動画をメンバーと見て、論証のどこが間違っているかを話し合ったことがあるそうです。そのとき、最初の結論を受け入れた人は、論証の誤りを認めなかったといいます。
堀元さんは、これに近いプライミング ── 先に受けた刺激が、その後の判断や行動に無意識のうちに影響を与える現象。心理学でよく知られた効果ですの実験を紹介します。ある人物の動画を見せ、好ましい、または好ましくないというレポートを指示どおりに書かせます。すると後から本心を聞かれても、書いたとおりの評価を答えてしまうという実験です。
「結論が先」はベトナム戦争と採点の都合から生まれた?
では、アメリカ式の「結論から書け」はどこから来たのか。堀元さんは「アメリカ独立宣言の起草で理想とされたから」と予想しますが、水野さんに「根本的に間違えてます」と一蹴されます。
本によれば、この型が生まれたのは1970年ごろで、背景はベトナム戦争でした。戦争から帰還した若者が大学に大量に流れ込み、その学生たちに一定レベルの論文を書かせる必要が生まれたといいます。
そこで言語学者のクリステンセンが苦肉の策として推奨したのが、主張を先に置いて演繹的に論を進める形式でした。この形式には、大量のエッセイを短時間で採点できるという利点がありました。これが洗練されたものが、現在の5パラグラフエッセイ ── 序論・本論3段落・結論の5段落で構成するアメリカの定番の作文形式。冒頭で主張を示し、本論で根拠を述べますだとされています。
ベトナム戦争
戦争から帰還した若者が大量に大学へ流れ込む
教育現場の課題
大勢の学生に一定レベルの論文を書かせる必要が生まれる
クリステンセンの推奨
主張を先に置き、演繹的に進める形式を苦肉の策として勧める
採点の効率化
大量のエッセイを短時間で採点できるようになる
定着
洗練されて現在の5パラグラフエッセイになる
今なんか人生で信じてきたものが崩れた。え、俺絶対にそっちの方が論として優れている、人間の理解を助けるから、人類有史ずっといいだろって思ってたんだけど、
水野さんは、こうした成り立ちを明らかにするのが、著者の専門である知識社会学 ── 知識や考え方が、どのような社会的条件のもとで生まれ、広まるのかを研究する社会学の一分野ですのアプローチなのだろうと話します。
日本の作文教育は、感想を「すり合わせる」訓練?
水野さんが「もう一つ驚いた」と紹介したのが、日本の作文教育です。修学旅行の作文や読書感想文のように、日本では「体験して、自分はこう変化した」という文章を書かされます。
(『スーホの白い馬』を)読んだところで、明日からこの時にこういう風に行動しようって変容ってそんな起きないのに。
さらに最近は、学級で感想文を発表し合い、友達の感想を聞いて自分の感想が変わることまで期待されているそうです。著者はこれを、個人の感じたことを社会に期待される感想へすり合わせる作業だと捉えています。しかも子どもは、それを自分で選び取った考えだと理解するといいます。
堀元さんは、中学の国語の授業で感じた気持ち悪さの正体がこれだったと気づきます。教材は「ウミガメと少年」という話でした。戦時中に洞窟へ隠れた少年が、生きる勇気をもらったウミガメの卵を空腹から食べてしまい、最後は海に身を投げる物語です。
授業では、最後の一文「あったかい海の水が甘い」の解釈を話し合いました。先生はクラスの意見を黒板に書き出しながら、「少年はウミガメになったのではないか」という読みへ誘導していたように見えたそうです。その読みはテストの答えにもなっていたといいます。
僕はすごく資本主義に組み込まれるみたいなのがうまいので、これ言っといたら点取れるんだからもう書くに越したことはねえわって言って、全く気にならずに最終的には書いてたんですけど。
本によると、日本の授業には他にも特徴があります。先生が生徒の解釈を黒板に並べたまま、正解を明言せずに終わること。そして動物や植物に「なりきって」考える課題が多いことです。動物が主人公の作品では狐が最も多いという研究もあるそうです。
水野さんの説明では、背景には、立場の違う人とトラブルを起こさずに社会を作る力を育てるという国語教育の目的があるといいます。人間ではないものにまで感情移入させ、全体で丸い結論へまとめていくわけです。
ただし、日本の作文教育は最初からこうだったわけではありません。もともとは子どもの自由な表現を重んじる「つづり方」という科目があり、その後の歴史は次のように変化していったと紹介されました。
水野さんが驚いたのは、2000年以降の変化の背景でした。そこにはOECDの国際学習到達調査 ── OECDが15歳を対象に実施する国際的な学力調査で、通称PISA。国別の順位が話題になりますの試験対策という側面があるとされています。国はグローバル化した社会を生き抜く力の育成とも説明しているそうです。
あの時間がさ、そのOECDのその国際学習到達調査の順位に目配せした結果生まれてたんだとしたらさ。
教育制度が今の「当たり前」を作っている
堀元さんは、アメリカの5パラグラフエッセイも日本の作文も、教育制度の都合で導入されたものが今まで続いている点が共通していると指摘します。
水野さんは、本のタイトルから「風土が違えば合理性が違う」という話を予想していたそうです。しかし実際には、ベトナム戦争のような偶発的な要因が絡む、もっとややこしい話でした。そして自分と堀元さんは、経済的に成功したアメリカの影響で、その価値観を日本にいながら内面化していると話します。
ビジネス面だけ見て、僕らはあっちの話しかたわかりづらいなってなってるんだとしたら、すごい狭量だなと思いました。
堀元さんは、拍子抜けした気分も語ります。日本とアメリカの違いは、何千年の歴史の蓄積から来ていると思っていたそうです。ところが実際には、ベトナム戦争やOECDの調査のような、ごく最近の出来事で作文の形が決まっていました。
さらに堀元さんは、過去に著書『ビジネス書ベストセラーを100冊読んで分かった成功の黄金律』を書いたときの気づきを重ねます。多くのビジネス書は「ダメだった私が、この方法でこんなに変わった」という構成で、まさに日本の作文の型だというのです。教育の段階で植え込まれているから、日本人には読みやすいのではないかと話します。
論文は「参考文献」から読むべき?
論文の読み方の話では、2人と室越さんの違いがはっきり表れます。アブストラクトしか読まないことも多いという堀元さんに対し、室越さんはアブストラクトで感動することはないといいます。むしろタイトルで「こんな論文があるんだ」と感動することがあり、『「論理的思考」の文化的基盤』もタイトルで買ったそうです。
だって論理的思考のの後に一番来ちゃいけないじゃん。文化的基盤。確かにそんなわけないんだから。
室越さんの読み方は、次のような順番です。本文を読む前に全体の見取り図を作り、それから読むかどうかを決めます。
読んで面白ければ参考文献を見るという2人とは、順番が逆です。堀元さんは『読んでいない本について堂々と語る方法』に出てくる話を紹介します。本同士の関係を把握している人こそが、本に最も詳しいという論考です。この話をもとに、室越さんの読み方は正しいと認めます。
室越さんは、アブストラクトや論文紹介のブログには一番センセーショナルな部分しか置かれていないと話します。問いの設定と解釈がわからなければ、その現象を正しく判断できないというのが理由です。
ライターの仕事を始めた室越さんは、先輩から「1行ごとに次の行を読ませるように書く」と教わって驚いたそうです。文章は全部読むものだと思っていたからです。水野さんも室越さんの原稿を編集した際、接続詞を増やして読者の認知負荷を下げるよう指摘したといいます。
僕ウェブで文章を書く時なんて、3行に1行ぐらいキャッチコピーつけてんだから。
最後まで聞く人がなぜ好かれるのか
人は全部読み、全部聞くと思って生きてきた室越さんは、意図せず人に好かれる理由にも最近気づいたといいます。それは、人の話を最後まで聞くからでした。わかりにくい話で周りが離脱しても、その人が何を言っているのか知りたくて聞き続けるそうです。
水野さんは、悩み相談をされると解決策を言ってしまい、信頼を失って相談されなくなったと自己分析します。一方の室越さんは相談をよく受けます。相手の感情を代弁せず、「あなたはこう言っていたんだね」と事実を繰り返して聞くといいます。
堀元さんは、これをコーチングで習う傾聴 ── 相手の話に評価や助言を挟まず、注意深く耳を傾ける聞き方。カウンセリングやコーチングの基本とされますと重ねます。ただ室越さんは、インサイトを出すこと自体はあきらめていません。解釈できる「塊」が溜まるまで待ち、翌日や1週間後に伝えるのだそうです。
僕、水滴1滴ぐらい見た段階でもう2リットル溜まってるような感じで喋り始めますよ。つまりこういう話だね、それは。
話の途中ですぐ解釈を口にする。水滴1滴で2リットル溜まったかのように話し始める
解釈せずに最後まで聞き、解釈できる塊ができるまで待って、翌日や1週間後にインサイトを返す
この違いのせいで、4人で話したTwitterスペースでは、室越さんが途中からまったく話さなくなったそうです。室越さんは翌朝シャワーを浴びているときに、「あの話はこういうことだったのか」と気づいたといいます。
「俺の話を傾聴するな」という人もいる
堀元さんは、ポッドキャスト「どんぐりFM」のパーソナリティの話を紹介します。漫画の感想を聞いてくれる人を募集したいけれど、傾聴はしないでほしい、という内容でした。
俺の話を聞こうとされると急に冷めちゃうから、お前も勝手に喋ってくれ。
堀元さんも傾聴されたくない派だといいます。ゆる言語学ラジオでは、2人がお互いの話を聞かずに直前と関係ないことを話していることがよくありますが、堀元さんはそれをドライブ感のある会話だと考えています。そのうえで、グルーヴを好む人がいる一方で、そうでない人が室越さんを好きになるのだろうと話します。室越さんも、自分を好きになるのは「話を聞いてもらえていない人」だと思うと応じます。
水野さんは、自分がどう聞かれたいかは人と関わってみないとわからないし、こうしたことは高校生くらいで通る道だろうと話します。堀元さんは反例として、大学時代にコミュニケーション本の影響で、楽しくないのに傾聴していた時期があったと明かします。
さらに室越さんは、漫画家の竹内ゆかりさんから「普通、女性は中学生で終わらせている」と言われたと話します。相手が求めるコミュニケーションを試行錯誤して失敗する段階は、中学生くらいで終わるのだそうです。
こんなさ、人類歴史上の文化的基盤からって言ってさ、中学生で通った話してた、俺。
じっくり考えるか、喋りながら考えるか
水野さんは、結論から話すポッドキャストばかりが受けることに疑問を投げかけます。日常の話をするどんぐりFMや、オーバーザサンのような番組もあるからです。堀元さんは、タイプの違いと言われると良し悪しではなく好き嫌いの話になり、「上手な喋り」の正解はないという結論になりそうだと応じます。
室越さんは、自分と同じリズムの人は人生で2、3人だといいます。一緒に「ノラジオ」をやっている大学時代からの友人は、比較的近いそうです。
水野さんが注目したのは、室越さんが考えている間にフィラー ── 「えーと」「うーん」など、発話の合間に入る意味の薄い言葉。考え中であることを示す役割もありますを出さず、ただ黙ることです。普通の人はフィラーで自分の話す番を保持しますが、室越さんは黙って考え、まとまってから話し始めます。
似た例として、水野さんは音声学の河原茂人先生が、考えるときに急に外を向いて黙ることを挙げます。室越さんの恩師は、頭の中の黒板を見ながら空也上人像のような顔で考えていたそうです。対して堀元さんは、聞かれた瞬間に話し始め、話しているうちに間違いに気づくタイプだといいます。
弊社の事情的にはこうこうこうだからこうだと思ったんですけど、違いました。やんない方がいいです。
室越さんは、本で書かれている「経済原理」、つまりアメリカ式がまさに2人の話し方だと指摘します。試行回数が大事なビジネスでは、とりあえず話して違ったら撤回すればよいからです。一方の政治では、一度決断してしまうと大ごとになります。
とにかく話して試行錯誤を繰り返し、違ったら撤回する。試行回数が大事という経済原理にもとづく
一度決断すると大ごとになるので、じっくり考えてから話す。室越さんは投票行動のように話している
室越さんは、何かを聞かれたときは「自分がどのようなことを考える主体か」という存在を問われていると感じるそうです。儲かるからという理由で言説を変える人の感覚がわからないという話を、ノラジオでもしていたといいます。
社史づくりはなぜ「合理性」を生むのか
最後に水野さんが聞きたかったのは、室越さんが請け負っている社史の仕事の話です。歴史観が文化の合理性をどう反映しているかを直感的に理解できる例だからです。
室越さんによれば、大企業の社史部署が書いているのは、文化人類学的に見ると「自分たちの正当性」、つまり「我々とは何者か」です。創業社長の会社や何代も続く会社でも、なぜ今この形なのかを知りたいと考えます。ただし自分たちだけで語ると歪むので、外部の室越さんのような人が入るのだそうです。
室越さんは、人々が知りたいのは歴史そのものではないと話します。出来事の連なりをどう捉えるかによって、「私は今何なのか」を知りたいのだといいます。ミッション・ビジョン・バリューのように、会社の考えを社員やステークホルダーに言語化して伝える必要が高まっていることも背景にあるそうです。
ミッションを聞かれた堀元さんが「儲かったらええねん」と答え、スタジオが笑いに包まれる場面もありました。室越さんはそれくらいはっきりしていればよいとしつつ、受け継いだ会社では一人で決められないので歴史を知りたくなるのだと続けます。
出来事の連なり
歴史そのものは起きた出来事の並びにすぎない
語り直し
どう捉えるかを決め、筋の通った物語として記述する
アイデンティティ
「我々はどういう存在か」がはっきりする
判断の根拠
だから今この事業戦略を取る、という推論のパターンが生まれる
堀元さんは、Appleを例に挙げます。自分は異常かもしれないと思っている人のための製品を作ると決めていれば、中途半端に平均的なコンピューターを出さずに済むという話です。室越さんは、これが歴史によって合理性を生み出すことだと説明します。
(社史には)ノイズになるようなこととかってあんまり入れないと思うんですよ。
水野さんは、歴史教育も同じ構造だと話します。観点なしに歴史は伝えられません。本では、イランの連環する時間や、アメリカの「どんどん良くなっていく」という歴史観の違いも紹介されているそうです。
隣にいる人も、違う合理性で動いているかもしれない
水野さんがこの回で伝えたかったのは、合理性の押し付けを「道徳的に良くない」と批判するのとは別の見方です。目の前の人は異なる合理性で動いているかもしれず、その合理性は社会的に構築されたものかもしれない、という見方だといいます。
水野さんは、以前扱った『ものの言い方西東』のシリーズとの共通点も挙げます。堀元さんが振り返るように、あの回は、東北の人が合理的な戦略として挨拶を少なくしているのに、他地域の常識で見ると失礼だと人格の評価に結びつけられてしまう、という話でした。
それ意外と己の中の論理性とか合理性とかにまで染みついてるんだなっていうのをめちゃくちゃ思いました。
室越さんがこのテーマに興味を持ったきっかけは、新井紀子さんの『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』でした。中学生の半分ほどが簡単な論理構造を読み取れていないという結果を見て、同じ文章を違うように受け取る人が隣にいると気づいたそうです。
室越さんは、その人たちを愚かだと考えるのは、文化人類学がかつて「未開人は愚かだ」と考えたのと同じ誤りだと話します。この本は、客観的だと思っているものが社会に影響されていることを教えてくれる、非常に面白い本だったと評します。
水野さんによれば、この本は著者がテーマに出会ってから35年かけてできたものです。価格は5000円ほどで、ハードカバーの300ページほどの本ですが、埋もれているのはもったいないと考えて今回の収録に至ったといいます。
まとめ
「結論から話す」は普遍的な正解ではなく、ベトナム戦争後の採点の都合や、日本ならOECDの調査対策といった教育制度の中で作られたスタイルの一つだ、というのがこの回の大きな発見です。3人の話し方の違いそのものが、合理性の多様性を示す実例にもなっていました。
- アメリカ式の「結論が先」は、1970年ごろにベトナム戦争の帰還兵が大学へ流入した際、大量のエッセイを採点しやすくするために広まったとされる
- 結論から話すと、聞き手が結論を先に受け入れてしまい、論証が検証されにくくなる面がある
- 日本の作文教育は、つづり方から感想のすり合わせへと変化し、2000年以降はOECDの調査対策という側面もあるとされる
- すぐ話すビジネス的なスタイルと、じっくり考える政治的なスタイルは、前提となる場面が違う
- 社史や歴史の語り直しが、組織や社会の推論パターン、つまり合理性を生み出す




