言語学とコンピュータサイエンスは「意味」で出会えるか?
水野太貴さんと堀元見さんは、本を読んで温泉に入るインプット奴隷合宿の2日目の夜に、この回を収録しています。これまでの合宿は各自が読みたい本を読むスタイルでしたが、今回は初めてテーマを設定しました。
テーマ設定の理由は、言語学好きの水野さんとコンピュータサイエンス好きの堀元さんが、勉強中に「近いことをやっていないか」と感じる機会が多かったことです。互いに逆側から掘れば、トンネルが開通するかもしれないという見立てでした。
二人の近い部分を逆サイド側からお互い勉強して掘ったら、もしかしたらトンネルが開通するんじゃないかみたいな、そういう見立てがあって、今回はですね、意味スペシャル。
堀元さんは、この合宿を研究室旅行での発表会になぞらえます。水野さんの言語学研究室の旅行は白川郷を観光して先生と飲むだけでしたが、堀元さんが行った草津の研究室旅行では、初日の夜に発表があったといいます。
水野さんが扱うのは、「リンゴは赤い」のような自然言語の文から意味を引き出す話です。一方の堀元さんは、プログラミング言語も構文を解釈して意味を抽出し、実行しなければならないため、最終的には意味論に行き着くと考えていました。
構文から解釈して意味を抽出して実行しないといけないから、意味論っていう分野があるらしいっていうことは聞いてたんですよ。
ただし、2日間の勉強内容はまだお互いに共有していません。話してみて接点が見つかるのか、全く通じないのか、どちらに転ぶかわからない状態で発表会が始まります。
「意味のエッセンス」は空集合?
水野さんは、2日間のインプットのエッセンスから話すと切り出したうえで、「本当にわからん」と言います。堀元さんは「意味とは◯◯である」と言わないとサムネイルにならない、と抗議します。
わかんないです。もうどこまでやってもわかんないです。
水野さんは、それなら堀元さんにとって「リンゴは赤い」の意味は何かと問い返します。堀元さんは、頭の中にあるリンゴという果物が赤いという性質を持っている、と言っているだけだと答えます。
この答えを受けて、水野さんは肝になる点を示します。自然言語の意味は、基本的に現実世界と接点を持っていなければならないということです。
自然言語における意味って現実世界と接点を持ってなきゃいけないわけですよね。
もちろん「ペガサスは二足歩行である」のような架空の文も成立します。それでも水野さんがまず考えたいのは、話者が発した文法的な文が、現実世界の何に対応するのかという問題です。
意味論にはほかにも、意味は世界に対応づける規則ではなく心の中にある心理的な現象だ、と考える立場もあります。水野さんは今回、そうした非客観的な意味論ではなく、世界との対応付けを扱う客観的な意味の方を掘りたかったと説明しています。
文が現実世界の何に対応するかを考える。今回水野さんが掘った立場
意味は世界との対応規則ではなく、心の中にある現象だと考える
言語学はなぜ「意味」を避けてきたのか?
水野さんが続けて挙げる衝撃的な事実は、言語学では意味が長く無視されてきたということです。堀元さんは、言語を知りたいなら意味が一番大事ではないかと驚きます。
水野さんが読んだ『言語の科学4 意味』の冒頭には、ブルームフィールド ── レナード・ブルームフィールド。20世紀前半のアメリカの言語学者で、観察可能な形式を重視するアメリカ構造主義言語学を代表する人物ですが意味を扱うのをいったん保留していた、という話が出てきます。堀元さんは名前から金融情報のブルームバーグを連想し、水野さんにツッコまれます。
保留の理由について、堀元さんは「意味は自明だから考えが止まってしまうのでは」と推測します。水野さんの答えは別で、一番の理由は意味が知覚できないことだといいます。
目に見えないし、耳にも聞こえないし、嗅いでもわからないし、要は知覚できないですから。
言語学が扱ってきた音声は耳で感知でき、単語や文法も音声や文字として観察できます。しかし「リンゴは赤いやつを意味する」の「意味する」は目に見えません。リンゴならまだしも、「とても」や「しかし」の意味を見せてくれと言われると困ってしまいます。
堀元さんは、他の対象は空気の振動のような物理現象なのに、意味だけはそうではないと納得します。だからこそ、意味は心の中にあると考える心理的な立場も生まれたわけです。
水野さんによれば、ざっくり19世紀ぐらいまで、言語学には意味を扱う科学的な手法、つまり誰もが使える手法が存在しなかったと言ってもよいそうです。「とても速い」「とても鋭い」と実例をいくら集めても、「意味するとは何か」にはたどり着きません。
手段がないなら哲学と数学から借りてくる
構造主義のレヴィ=ストロース ── フランスの文化人類学者。構造主義の代表的人物で、神話や親族関係を要素同士の関係から分析しましたのように、意味について論じた人はいました。ただ、それを他の人も再現できる形で定式化する方法がなく、言語学は困り続けていました。
そこで言語学は、意味を扱える他の学問から手法を借りてきます。堀元さんは「他の学問の知見を持ってくるパターン」は熱いと盛り上がります。
ほら、熱い、熱い。それね、一番熱いやつね。他の学問の知見持ってくるパターンですね。
水野さんの理解では、借りてきた先は大きく2つです。1つ目は哲学で、なかでも分析哲学 ── 言語や論理を分析することで哲学的な問題に取り組む20世紀の哲学の潮流。フレーゲ、ラッセル、ヴィトゲンシュタインらが代表ですと呼ばれる分野です。
ただし、「生きる意味」のような意味は、意義と言い換えられるもので、「リンゴの意味」とは別物です。日常言語に「意味」が浸透しすぎているため、まず分析できる部分を切り出し、そのうえで使える手順で考えるという2ステップが必要だったと水野さんは説明します。
ヴィトゲンシュタイン、その前のフレーゲ、ラッセル、クリプキといった人たちの考えが、意味の分析に使えそうだとされました。2つ目の借り先は数学や論理学で、数理論理学という言葉があるように、数学の枠組みも意味を扱う助けになりました。
意味が知覚できない
音声や文字と違い、観察できないため手法がなかった
他分野から借りる
分析哲学と、数学・論理学の枠組みを持ち込む
扱える部分を切り出す
茫漠とした意味から分析できる部分を絞り込む
堀元さんが「もっと意外な分野から借りた例はないのか」と求めると、水野さんはレヴィ=ストロースの『神話と意味』を挙げます。水野さんは、神話の中の神同士の関係を記述するやり方が、山と丘のように関係で意味が決まるという自然言語の分析にも使えるのでは、と想像で話しています。
「水野さんはケチ」はなぜ関数になるのか?
水野さんは、突き詰めたある意味論の立場からすると、自然言語は関数で考えられると話を進めます。堀元さんは「意味は関数じゃないでしょ」と反発します。
水野さんが例に出すのは、堀元さんがよく口にする「水野さんケチですよ」という文です。小銭がないから出してほしいと頼まれた堀元さんがそう言うと、水野さんは「変項を1つ取る関数で、真理値が返ってきた」と応じ、さらに「1」と返します。
やっぱり真だなと思ったんで。1って。
堀元さんは、この話がコンピュータサイエンスそのものだと気づきます。手続き型言語では、関数で処理した最後に0や1を返して終わるイメージがあるからです。ところが堀元さんが納得しすぎたため、水野さんは「視聴者はわからないから聞き返すのが役割だ」とたしなめます。
改めて水野さんは、この立場を形式意味論 ── 数学や論理学の道具を使って、文の意味を厳密に記述しようとする意味論の一分野。文の真偽の条件を中心に扱いますと呼ぶと説明します。茫漠とした意味のうち、身の回りの事実と発言が整合しているかどうかの判断を返す流れを、狭義の意味として扱う立場です。
「リンゴが赤い」の意味がわかるとは、その人が知っている知識や体験している世界で「リンゴが赤い」が成り立つかどうかを判断できること、と捉えます。水野さんは、こうした考え方を真理条件的意味論と呼ぶと説明しつつ、名前はうろ覚えだと断っています。
整理すると、まず扱う文を命題に限ります。「3は8より小さい」は命題ですが、「あいつマジおもんねえわ」は人によって判断が割れるので命題になりません。そして、聞いた文が真か偽か判断できれば意味がわかったことにする、という非常に狭い取り方です。
何これ?って思う感覚ってめちゃめちゃ素朴な感覚としてわかるんですけど、強調したいのはですね、言語学が当時使える手立てってのを使うとしたら、そのぐらいにしか絞れない。
堀元さんは、0か1かを対象に論理を語るブール代数の考え方だと補足します。さらにブール代数の考案者ブールについて、雨に濡れて帰ると妻に濡れた毛布でくるまれ、肺炎で亡くなったという逸話を披露し、水野さんのダジャレも交えて脱線していきます。
文を関数として分解すると何が見えるか
話は本題に戻り、堀元さんは、真理条件を判定することは関数そのものだと指摘します。水野さんは高校数学のf(x)=x+1を例に、ある値を入れると全体の値が決まるのが関数の本質だと説明します。
入力に対して出力が出てくる。だから関数は関わる数って書くんじゃなくて、箱の数って書かないとダメだ。
形式意味論での正確な捉え方では、「ケチだ」という述語の部分を関数とみなします。「ケチだ関数」は「誰が」だけを引数に取り、堀元を入れると偽、水野を入れると真が返ってきます。
引数
「水野」という個体
関数
「ケチだ」という述語
出力
話者の持つ世界と照らして、真(1)か偽(0)が返る
堀元さんにとっては、文を「ケチだ」と「水野は」に分けて関数として捉える発想が驚きでした。C言語のように返り値の型を指定する関数を書く人なら、「boolean ケチだ」という宣言がすぐに浮かぶので、エンジニアには入りやすい話だといいます。
水野さんはさらに、名詞は個体、ある述語は個体を取って真理値を返す関数、さらにそうした関数を引数に取る関数もある、と型を入れ子にしていく考え方を紹介します。部分ごとに真理値を作って上に持っていけば、最終的に文全体が1か0を返す関数として書けるというアプローチです。
根底のアイデアが完全に一緒です。だからコンパイラ作る人が考えるのと全く同じそれ。
堀元さんは、これは『プログラミング言語の形式的意味論入門』で読んだ話と同じだと興奮します。水野さんは、文の意味が構成要素の総和で決まるというフレーゲ ── ドイツの数学者・哲学者。現代論理学の創始者の一人で、文の意味は部分の意味とその組み合わせで決まるという構成性の原理で知られますの構成性の考え方につなげます。
言語学とプログラミング言語は、根底のアイデアでつながっていたわけです。合宿前に掘ったトンネルは、ここで開通したといえそうです。
型理論は電子レンジ
堀元さんは、関数の引数にさらに関数が来られるという話を聞き、何が来てよいかを考えるのは型理論そのものだと言います。本1冊、400ページほどかけて論じる問題だそうです。
水野さんはそれを「電子レンジの中に食品以外の扇風機を入れていいか考えるようなもの」と例えます。堀元さんは、大学院生が読むようなウィンスケルの大著も、概ね電子レンジに家電を入れてよいか問題を論じていると言ってよい、と認めます。
レンジの中に家電入れてチンしたらやばいっしょ、危ないっしょっていう話ですよ、型安全。
堀元さんは、ウェブで長年使われてきたJavaScriptを「何でも入れられてしまうめっちゃでかいレンジ」に例えます。洗濯機も家も人も入ってしまうので危険で、そこで安全な言語としてTypeScriptが生まれ、今広く使われているといいます。
何でも入れられるめっちゃでかいレンジ。関数の引数に何でも入り、バグにつながる
注意書きがいっぱいあるレンジ。入れていいもの悪いものを決めて安全にした
水野さんは、レンジに猫を入れて訴訟になり、メーカーが注意書きを書くようになったというアメリカの逸話を重ねます。堀元さんは、電子レンジは箱で、出力もあるので、関数の例えとして奇跡的に完璧だと絶賛します。
例えうまい、完璧です。注意書きがいっぱいあるレンジがTypeScriptです。
「あのアイドル可愛い」や命令文は真か偽か?
堀元さんは、形式意味論の枠組みに疑問を出します。世の中の主張には「あのアイドル可愛い」のような感想があり、それは真でも偽でもないのではないか、という問いです。
水野さんの答えは、「可愛い」という属性を帯びた集合をまず決めるというものです。世界に3人しかいない、40人のクラスに花子さんや太郎さんがいる、といったモデルを作れば、「花子は可愛い」は命題として真理値を返せます。
堀元さんは、自分基準のモデルにすれば主観的な感想も命題らしくなると納得します。すると水野さんは、堀元さんが本当に挙げるべきだった例として「早くこっちに来いよ」という命令文を出します。
あー全然真でも偽でもねえわ。それすごい。
命令文は命題の形になっておらず、真理値で扱いにくい典型例です。水野さん自身も、命令文をどう扱うかまでは追えていないと話しています。
鶏は「一応鳥である」と言えるのはなぜか?
水野さんがさらに衝撃的な例として出すのが、「Aは鳥である」という文です。魚を入れれば偽で、鶏を入れれば、飛ばないけれど鳥なので真になります。
ところが「一応」を付けると話が変わります。「ツバメは一応鳥である」は気持ち悪く感じますが、「鶏は一応鳥である」は自然に言えます。鶏もツバメも鳥のはずなのに、なぜ片方だけが言えるのかという問いです。
一応鳥であるっていうのは、鳥なんだけど、鳥っぽさはないよっていうのを含意してるから、ど真ん中鳥じゃないやつしか入れないんじゃないですか。
形式意味論のモデルでは、鶏もツバメもペンギンもダチョウも、同じ「鳥」の集合に入ります。そのため「一応鳥である」の真理値が鳥によって変わるのは説明しにくく、一応の意味も含めて扱おうとすると基準が無限に必要になりそうです。
鳥らしい鳥。「ツバメは一応鳥である」は気持ち悪い
飛ばない、鳥らしくない鳥。「鶏は一応鳥である」は自然に言える
そこで、形式理論とは別のアプローチとして、カテゴリーには典型的なメンバーと周縁的なメンバーがあると考える必要が出てきます。水野さんはこれを「強豪校の野球部のベンチ」に例え、堀元さんは「甲子園に行ったと言っていいのか」と返します。
水野さんによると、ここがプログラミング言語との一番の違いです。自然言語の意味は離散的ではなく連続量で、0と1では扱いきれません。
つまり意味を零と一っていう風に扱えたら嬉しいんだよ。めっちゃ助かるんだけど、自然言語はそうじゃなかったみたいな。
堀元さんは、プログラミング言語では文字列でもあり整数でもあるような型の混在はないと言います。水野さんは、頭のいい人が考えれば答えが出そうなプログラミング言語をうらやみ、言語学は考えるほど問題が出てくると嘆きます。こうした問題を扱うのが認知言語学 ── 人間の認知の仕組みから言語を捉える分野。典型と周縁のあるカテゴリー(プロトタイプ)などを扱いますだそうです。
結局、意味とは何なのか?
堀元さんが「意味とは何かの究極の答えは出ていないのか」と問うと、水野さんは、言語学者に聞けばその人が立脚する理論に基づいた答えが返ってくると答えます。コンセンサスはないということです。
例えば形式意味論の島村先生なら、モノマネ交じりに水野さんが言うには「命題の事象を真たらしめる可能世界の集合」と答えるだろうとのことです。認知言語学の先生なら、全く違う答えが返ってくるといいます。
ただし、分野同士が協業できていないわけではありません。水野さんは、互いにできる範囲を分担しながら頑張っているイメージだと話します。
言語学は古代からあるのに意味が解決していない理由について、水野さんは皮肉を込めて「数学待ちだった」部分が大きいかもしれないと言います。数学や哲学の発展を待って、ようやく意味を扱う道具が揃ったという見方です。
だからすごい皮肉なことを言うと、数学待ちだったっていう部分が結構あるかもしれないですね。数学哲学待ちだったなっていう。
「もう6時ですね」は意味論で扱わない
水野さんはさらにややこしい例を出します。家に来た客に帰ってほしいとき、「もう6時ですね」と言って帰ってほしいことを伝える場面です。
一般的な感覚では「帰ってくれ」も意味に含めそうですが、言語学者はこれを意味論ではあまり扱いません。堀元さんは、番組を続けてきた成果で、それは語用論 ── 文脈や話し手の意図を踏まえて、言葉が実際にどう使われ、どう解釈されるかを研究する言語学の分野だと言い当てます。
文から引き出せる「今の時刻は6時だ」という内容まで
「帰ってくれ」という意図を、解釈や推論として扱う
文から引き出せるのはここまでで、その先は解釈や推論として区別するというのが言語学の切り分けです。堀元さんは、友達の家に長居したいときは「意味論しかやってない」と言い張ればいいと言い、水野さんは「1」と返せばいいとボケます。
プログラミング言語の意味論は次回へ
水野さんは、自分が勉強した意味論と、堀元さんの言うプログラミング言語のセマンティクスは何か違うのではないかと問いかけます。堀元さんは、それには操作的意味論と表示的意味論の違いから話す必要があり、45分は欲しいと言います。
収録はすでに1時間20分を回っており、水野さんは「もう1時間20分回ってるよ」と伝えます。堀元さんは覚えたての意味論で「真」とだけ返し、語用論は苦手だとボケ続けます。
操作的意味論と表示的意味論の違いで俺つまずいてたんだなって衝撃があったんで。これね、全然違うものだったから、一緒くたにして勉強してたせいでずっと混乱してたって話がありますんで。
堀元さんの成果は、姉妹番組のゆるコンピューター科学ラジオで翌日に話されることになりました。演者が全く同じ2人による、初めての「コラボ」です。
さらに水野さんは、プロの研究者に講義を受ける不定期シリーズ「ちょいがち言語学ラジオ」の次回テーマが意味論で、言語哲学者の伊住優先生伊住優を迎えると告知します。今回の話は水野さんが3冊ほど読んだ理解に基づくため、間違いがあれば先生に教わってより正確に説明したいと話しています。
最後に2人は、奴隷合宿のシステムを勧めます。水野さんは、大学生活を真面目に送らなかった人間が青春を取り戻してはしゃいでいるだけかもしれないと言い、堀元さんは「真」と返して締めくくります。
まとめ
言語学の側から見た意味は、知覚できないために長く手法がありませんでした。哲学や数学から道具を借りた形式意味論は、意味を真理値を返す関数として捉え、その発想はプログラミング言語の意味論や型理論と根底でつながっていました。一方で、命令文や「一応鳥である」、「もう6時ですね」のような例は、自然言語がその枠に収まりきらないことも示しています。
- 意味は目に見えないため、言語学では19世紀ごろまで扱う科学的な手法がなかった
- 形式意味論では「ケチだ」のような述語を関数とみなし、文を真か偽かを返すものとして扱う
- 述語の型を入れ子にして文全体を評価する考え方は、プログラミング言語の意味論や型理論と同じ発想
- 「一応鳥である」のように典型と周縁がある自然言語の意味は、0と1だけでは扱いきれない
- 文の字義を超える「帰ってほしい」という意図は、意味論ではなく語用論で扱われる

