名古屋弁の謎を解くカギは、天下人でも味噌でもない?
前回、名古屋方言には関西の要素と関東の要素が混ざり、武士っぽい言い回しも残っているという謎が提示されました。今回の水野さんは、その直接の要因は「歴史」にあると切り出します。
堀元さんはまず、信長が天下を取った影響で武士言葉が残ったのではと予想します。水野さんはそれを否定し、名古屋には全国でも類を見ない別の特徴があると話します。
(全国に類を見ないのは)味噌、赤味噌をめっちゃ使う。
あんなに赤味噌使う人たちあんまいないじゃん。
堀元さんの赤味噌説は流され、話は「名古屋がどうやってできたのか」へ進みます。水野さん自身、調べ始めたときには方言と街の成立が結びつくことに驚いたといいます。
名古屋方言について考えようと思ったら、名古屋がどうやってできたのかを考えなければならないっていうことって、やっぱ意外ですよね。
堀元さんは、行政区分は後から決まるものなので、名古屋という名前ができた瞬間は方言とあまり関係がないと考えていました。一方で水野さんは、街の成り立ちがわかれば、そこに住んだ人々がどんな人たちだったかもわかると説明します。
北海道出身の堀元さんは、札幌については明治初期に開拓使が送り込まれた始まりを小学校で習ったといいます。対して水野さんは、愛知の尾張地方に住んでいたものの、小学校は名古屋ではなく東海市だったため、名古屋の始まりを知らなかったそうです。
街ごと引っ越した?「清須越」というニュータウン計画
水野さんは名古屋の成り立ちを、現代に置き換えて説明します。首都・東京の機能も住民も、まるごと別の開けた土地へ移したような出来事だったといいます。
もともと尾張の中心は清須 ── 現在の愛知県清須市あたり。織田信長の拠点だった清須城があり、本能寺の変の後に織田家の後継を決めた清須会議の舞台としても知られますでした。その清須を、数倍広い名古屋台地にそっくり移し、ニュータウンにしたのが名古屋の始まりです。
しかも移った場所ね。名古屋台地って台地があったんだけど、そこをタヌキとかキツネとか住んでたんですよ。
タヌキやキツネが住むような土地を急にニュータウンに変え、人口は6、7万人ほどになったといいます。この移転は清須越 ── 江戸時代初期、名古屋城の築城にあわせて清須の町を城下ごと名古屋へ移した大移転。武家や町人、寺社までが移ったとされますと呼ばれ、家康の指示によるものだったようです。
水野さんによると、1610年から名古屋城が築かれ、それと同時にまとめて移転しました。名古屋はオールドタウンではなく、出自はニュータウンだったというのが、この回の出発点です。
名古屋って日本でも三大都市の一つだから、俺オールドタウンだと思ってたんだけど、出自はニュータウンだったんだ。
堀元さんは、パリの「新しい橋」という名のパリ最古の橋、ポンヌフを例に出します。ポンヌフは名前が実態から離れていった例で、名古屋は逆に、当時は実態と合わなかった名前に実態が追いついてきた、と整理しました。
尾張の中心は清須。名古屋台地はタヌキやキツネが住む土地だった
1610年からの名古屋城築城にあわせて清須の町を移転し、人口6、7万人ほどのニュータウンになった
身分ごとに住む場所を分けた街は、言葉をどう残したのか
水野さんが挙げる名古屋の街づくりのもう1つの特徴は、社会階層と居住区を分けたことです。しかもそれを碁盤割りで整えたといいます。
名古屋の碁盤割りでは、武家屋敷が密集し、町人の街も職業ごとに細かく分かれていました。今でも呉服町や繊維街といった地名が残っているそうです。
武家言葉は武家言葉で、武家のグループで喋ってるわけでしょ。町人は町人言葉で喋ってる。
こうした環境は、階層ごとの言葉、つまり階層方言 ── 地域ではなく、身分や職業、社会階層によって異なる言葉づかい。同じ街の中でも集団ごとに違いが生まれることがありますが生まれ、保たれやすい土台になったと考えられています。
堀元さんは神保町の古本屋街やお茶の水のギター屋街にたとえ、「ギター屋言葉」が保たれやすいのかもしれないと冗談を飛ばします。水野さんは否定せずに受け止め、堀元さんから「優しい」とからかわれました。
さらに水野さんは、尾張では江戸時代を通じて藩主の領地替えがなく、ずっと尾張徳川家が治めていた点も挙げます。領地替えが起きた土地では、よそから殿様や家来が来て方言が混ざりますが、尾張ではそれが起こりにくかったのです。
その意味で言ったら天下人を生んだ町っていうのはある意味で関係があるね。
徳川家が尾張を治め続けたことは、間接的には方言の保存に関係していると言えそうだ、と水野さんはまとめました。
資料がない「混在期」は、どう推測されているのか
ここから水野さんは、『名古屋方言の研究』という本をもとに、名古屋方言の歴史を3つの時期に分けて紹介します。第1期が混在期、第2期が成立期、第3期が完成期です。
混在期は名古屋ができてからおよそ70年間の時期です。ところがこの時期は、名古屋の言葉が残った文献がほとんどないといいます。
だから名古屋ができてから70年間って言語資料がないんだって。
文献がない代わりに手がかりになるのが、移り住んだ人々です。徳川家が名古屋の領主になったことで三河武士が移り住み、三河の言葉を母体とする武士言葉があったと推測されています。
一方で名古屋は尾張にあるため、もともとの尾張言葉もあったと考えられます。尾張と三河は境川で隔てられ、山もあって往来がそれほど頻繁ではなかったため、別々の言語集団が形成されていたという想定のほうが自然なのだそうです。
さらに大きな街には、伊勢(三重県)や美濃(岐阜県)など周辺地域からも人が流入しました。最初期の名古屋では、三河・尾張・美濃・伊勢の言葉が混ざり合っていたと考えられます。
(この時期は)名古屋弁はまだ成立してない。
京都が引くほどバズった?徳川宗春と名古屋弁の成立
第2期の成立期は、元禄から宝暦まで、1688年から1764年ごろまでです。この時期の大きな転機として、水野さんは尾張藩の7代藩主、徳川宗春 ── 尾張藩7代藩主。幕府の倹約政策とは対照的に、芝居や遊興を認める開放的な政策をとり、名古屋の繁栄を招いたことで知られますを挙げます。
宗春は文化振興に力を入れ、遊郭を公認したり演劇を奨励したりしました。その結果、名古屋は今でいう「バズった」状態になったといいます。
でももう本当に盛り上がっていたみたいで。盛り上がると、その街が近くの国から人が流入またしてくると。
京都の呉服屋である大丸や、大津の豪商が名古屋に支店を出しました。名古屋の盛り上がりに京都の人が「興(京)が冷めた」と歌ったという話もあるほどの活況だったそうです。
堀元さんは、今の名古屋は観光の決め手に欠けると漏らします。水野さんは山崎マザック美術館やジブリパークを挙げて応戦しつつ、名古屋出身者の定番の答えとして「満腹だったらやることないよ」と自ら言ってしまい、笑いを誘いました。
こうした繁栄の中で、名古屋の人々は都市の住民としての意識を持ち始めたと考えられています。周囲の農村や他国の人とは違う言葉を生み出したのではないか、というのが『名古屋方言の研究』の著者、岸川先生の推測です。
これはね、証拠がないんですよ、結局。わからないので、推測でしかないとこの人も著者も言ってるし、これをだから事実だとは言えないんですけど、ありそうですよね。
堀元さんは、古代インドの『カーマ・スートラ ── 古代インドで書かれた性愛や恋愛、教養ある生活についての古典。都市に住む洗練された人の生き方も描かれています』に出てくる「ナーガラカ」という言葉を紹介します。都会人、洗練された人を意味し、都市人はこうあるべきだという倫理が繰り返し語られているそうです。
水野さんが驚いたのは、この時期の浮世草子に「ビジネスマンに一番必要なのは名古屋弁を話せるようにすることで、武芸は二の次だ」という趣旨の主張が出てくることです。当時の尾張藩の言葉は外交用語のような位置づけだったといいます。
ニューヨークみたいな感じですよ。だから。言うたら。
共通語がなかった時代には、イケてる街の言葉こそが通じる言葉だった、と堀元さんも納得していました。
『どうぶつの森』のたぬきちは名古屋の商人言葉を話していた?
成立期の名古屋弁について、水野さんは補足を加えます。碁盤割りに住んでいた大商人には、もともと京都との交流がある程度あったと考えられるそうです。
今でも名古屋には、料亭の女将のような人だけが使う、京都言葉のような名古屋弁があります。その代表例が「おいでませ」や「なも」です。
上町言葉の「なも」は、標準語の「ね」にあたります。「やっとかめだなも」は「久しぶりだね」という意味です。
え、あれじゃん、たぬきちじゃん。どうぶつの森の。
堀元さんは、『どうぶつの森』が商人のたぬきちに借金を返すゲームだと説明します。そのたぬきちが「だなも」と話すことから、商人言葉としての考証がしっかりしていると盛り上がりました。
なもですよ、それ。名古屋の商人言葉。
京都と交流のある大商人や、京都の大丸の名古屋出店、近隣からの流入によって、この時期にはすでに近畿の言葉が入っていたようです。庶民も京阪語由来の表現を使っていたといいます。
- 打ち消しの「ん」(買わない→買わん)
- ウ音便(早くせよ→早うせい)
- 埒が明かない→埒明かん(今の名古屋では「だちかん」)
堀元さんは「らちかん」が「だちかん」になった変化を「魔改造」と表現していました。前回話題になった「せん」「しん」などの表現も、元禄から宝暦のころに入ってきたと考えられています。
江戸の言葉は人ではなく本からやってきた?
意外なことに、成立期にはまだ江戸語の流入はなかったそうです。江戸の言葉が入ってきたのは第3期の完成期になってからでした。
『名古屋方言の研究』では、江戸語の流入は江戸で刊行された書籍の影響と見るべきだとされています。近畿の言葉は人によって直接持ち込まれ、江戸の言葉は本を通して間接的に入ってきたという整理です。
成立期(元禄〜宝暦)に、商人の交流や人の流入によって直接持ち込まれた
完成期に、江戸で刊行された書籍の影響で間接的に入ってきたとされる
イメージとしてはあれだよね。東京の人のファッション直接は見てないけど、ファッション誌だけ読んで真似してる。
水野さんは、今の愛知の大学生にもまさにそういう感じがあると応じました。また、下町の庶民層の言葉も、この完成期に完成したのではないかと書かれているそうです。
水野さんが悲しかったのは、滝沢馬琴 ── 江戸後期の戯作者。28年かけて書いた長編『南総里見八犬伝』で知られる、江戸を代表する人気作家ですが名古屋の言葉を「甚だ野鄙なり」と書いていたことです。「二流小説家」と毒づく水野さんに、堀元さんは江戸のベストセラー作家だと訂正しつつ、馬琴のえげつない描写の話で溜飲を下げさせていました。
名古屋弁に武家言葉が残ったのはなぜか
ここで水野さんは、名古屋弁の成り立ちを振り返ります。ニュータウンができて言葉が混ざり、都市化とともに名古屋言葉ができ始め、近畿の影響を受け、さらに江戸の言葉も取り入れて名古屋弁ができた、という流れです。
いよいよ本題の、武家言葉が残った理由です。幕末には武士が経済的に苦しくなり、商人が台頭しました。その結果、町人と武士が接近し、言葉も混ざったといいます。
名古屋方言では武士っぽい言葉ばかりが注目されますが、商人っぽい言葉も多くあります。名古屋の上町には「ごめんあすばせ」や「おいでやす」のような、京都の商人を思わせる言葉も残っているそうです。
一方で「ご無礼」や「ござる」のような武士っぽい言葉は、武士の言葉に端を発するのだろうと水野さんは話します。
他の地域と比べて、さっき言ったように、武士は武士、町人は町人でずっと過ごす期間が長かったから、その特徴をやっぱ保持しやすかったって面は大きいんじゃないかな。
ほかの地域では社会階層の違う人々がすぐ混ざり、領主の交代で家来の言葉も入ってきます。名古屋は階層が分けられ、領主も変わらなかったため、言葉の純度を保ちやすかったのではないか、という想像です。
さらに、武士言葉っぽく思われるものには敬語表現が多いといいます。「ござる」のほかにも「ござらっせる」などがあります。
都市になると敬語は複雑になる?
敬語形式が多いのは、近畿にも見られる特徴です。京都などの「〜してはる」は「雨ようさん降ってはるわ」のように天候にも、「お子さんよう泣いてはるね」のように目下の相手にも使えると水野さんは説明します。
名古屋にも「してござる」「して見える」「しとらっせる」「しとりゃあす」など複雑な敬語形式があります。水野さん自身も細かな使い分けはわからないそうで、堀元さんは「シトラスの香りしとらっせる」とすかさずボケていました。
こうした敬語を使う土壌がなぜあったのかについて、水野さんは断言できないとしたうえで、1つの仮説を紹介します。都市になるほど、出自のわからない人と話す機会が増え、失礼のないよう敬語を使う動機が生まれるというものです。
例えば飲み屋でたまたま喋ることになった相手がどんな出自の人かわからないってなったら、失礼のないようにするじゃないですか。
堀元さんは、公立小学校の先生から聞いた話を重ねます。保護者に顔を覚えられる一方で、先生側は全員の顔を覚えられないため、すれ違う大人全員にうっすら会釈して首が疲れるというのです。
都市化
出自のわからない人と話す機会が増える
敬語を使う動機
失礼のないように敬語を使いたくなる
敬語形式が残る
複雑な敬語形式が使われ続ける
「ござる」の存続
その波に乗って「ござる」も残り、今では武家言葉のように見える
水野さんは、このあたりまでなら言ってよいだろうと研究者の先生と相談したと話します。ただ、その言い方は慎重さのあまり「〜じゃないか」が何重にも重なり、堀元さんに「6コンボぐらいしてましたね」と突っ込まれました。
なぜ水野さんは歯切れが悪かったのか
水野さんは、今回の内容はほとんどわからないことだと念を押します。江戸時代の名古屋にはローカル出版社があまりなく、文献が少ないためです。
堀元さんは、『南総里見八犬伝』は江戸一番のベストセラーでも500部しか出ておらず、多くの人が貸本屋で読んでいたと紹介します。Twitterで大勢が読む一方でコミックスを買う人は少ない「ちいかわ」のようだ、とたとえました。
さらに水野さんが驚いたのは、名古屋弁を体系的にまとめた本がほぼないことです。参考文献として『やっとかめ!大名古屋語辞典』や『名古屋弁トキントキン講座』などが紹介されましたが、多くは単語を集めたものだといいます。
比較的単語レベル以上の内容を扱うのが『名古屋方言の研究』と『名古屋弁の構造』ですが、どちらも書き手は言語学者ではありません。名古屋の元校長先生で文化財調査委員の人や、名古屋のローカル出版社の人だそうです。
だから逆説的なんですけど、名古屋方言めっちゃ恵まれてる方なんですよ、これ。
名古屋は人口が多く、地元の出版社があったからこそ、こうした本が出せました。地方の独立系出版社が少ない地域では、方言の本はさらに限られます。限られた資料から考察している以上、理由の多くは推測や仮説だと覚えておいてほしい、と水野さんは話しました。
方言を記録として残すのは誰の仕事か
方言研究者も、書籍になっていない情報を求めている面があるそうです。地元に方言へ異様な熱量を持つ人がいて、まとめたものが残っていると研究には大いに助かるといいます。
東京でも名古屋弁を使い続ける水野さんに、堀元さんは「感覚が織田信長の時代」と茶化します。水野さんは留学中に名古屋を「キャピタルではないがセンター」と説明していたと明かし、東京を「スモールシティ」と言いかけて訂正されていました。
それでも水野さんは、方言は黙っていると消えてしまうと話します。ポッドキャストは後世の資料にもなりうるため、名古屋弁で話しておいたほうがよいというのです。
後世の人がね、見れるかもしれんもんでよ。
リスナーへのお願いは「方言でコメントちょうでゃあ」
締めくくりに堀元さんは、教わった「しとらっせる」を使って「いつも聞いとらっせる皆様」と挨拶に挑戦します。お礼は「ありがと」と言うのがコツだと教わり、何度か言い直して合格をもらいました。
最後に二人は、リスナーに自分の地域の方言でコメントを書いてほしいと呼びかけます。標準語訳を付けてもらえると助かるそうです。
皆さんの方言と、あと方言愛ね、教えてちょうだいと。
次回は、語彙ではなく、意識するだけで普通の会話が名古屋弁らしく聞こえるコツを教えると予告されました。堀元さんは「だちかんだから終わりにしようや」と使ってみせましたが、名古屋では「だから」より「もんで」と言うと指摘されていました。
まとめ
名古屋方言の謎は、清須越というニュータウン的な成り立ちと、身分ごとに住む場所を分けた街づくりから読み解けるかもしれません。ただし資料が少ないため、多くは推測や仮説として語られています。
- 名古屋は1610年からの名古屋城築城にあわせ、清須の町を名古屋台地へ丸ごと移して作られた
- 碁盤割りの居住区分と領地替えのなさが、階層ごとの言葉を保ちやすくしたと考えられる
- 近畿の言葉は人の交流で直接、江戸の言葉は書籍を通して間接的に入ったとされる
- 都市化で敬語が使われ続け、その流れで「ござる」も残ったという仮説がある
- 名古屋弁の体系的な資料は少なく、方言を話し記録すること自体に意味がある

