診察室で「血圧」と言うのはなぜ失礼に聞こえるのか
前回の放送では、東北の患者さんが「こんにちは」ではなく「血圧」と言いながら診察室に入ってくる、という一見失礼に思える話が紹介されました。今回は水野さんが、このメカニズムの謎解きから始めます。
水野さんはまず前回の傾向をおさらいします。東北の人はあまり喋らず、近畿の人はいろいろなことを口に出す、という対比です。そのうえで今回扱う大きな傾向として、「婉曲に言う関西、直接的に言う東北」を挙げます。
え、逆な感じするけどな。関西の人の方が直接的、「自分おもんないで」とか言ってそうな気がするけど。
堀元さんの直感に対し、水野さんは身内が亡くなったときの言い方を例に出します。秋田では「お母さんが死んだ」のように「死ぬ」とはっきり言うのに対し、大阪では「およろしゅうない」「お力落としのこと」といった間接的な言い回しを使うそうです。ただし若い世代が使うかはわからず、上の世代に残っている形式かもしれない、と水野さんは補足しています。
次の例は、お店に入るときの挨拶です。堀元さんは「こんにちは」「いいですか?」と答えますが、全国には「いるか」「入るぞ」「買おう」「売ってくれ」「くれ」など、さまざまな形式が散らばっているといいます。
へー、すごいな、ストレートだね。
分布図を見た堀元さんは、呼びかけ類の中にある「申し系」に注目します。テレビ番組『相席食堂』で和泉元彌 ── 狂言和泉流の狂言師。テレビ出演も多く、狂言の所作や言い回しを一般に広めた人物の一人として知られていますさんが「申せ申せ、案内申せ」と言って町工場を訪ねていた場面を思い出したそうです。水野さんは、電話の「もしもし」も「申す」から来ているはずだと応じます。
話を本筋に戻すと、東北に多く分布しているのは「買おう」「入るぞ」といった意思表明の形式です。診療所で「血圧」と言って入るのも、これから行われる行為や用件を先に伝えている点で同じだ、と水野さんは指摘します。
入るという無礼を働く許可を求めるワンクッションを置く
買う、入るといった用件や意思を先に直接伝える
この対比を聞いた堀元さんは、仕事のDMで「こんにちは、いいですか?」とだけ送ってくる人に「用件を言えばいいのに」と感じる、と話します。ところが自分は店に入るときには「ごめんください」とワンクッション置いていることに気づき、矛盾を自覚します。
その若年性老害ぶり、やめた方がいいですよ、本当に。
お昼寝まで指図する東北、「ちょっとそこまで」の京都
水野さんは『ものの言いかた西東』に載っている東北の会話例を紹介します。女性が「お昼食べたのすか?」と聞き、男性が「まだだ」と答えると、女性は「早く食べてお昼寝しなさい」と返し、男性は「はい、ありがとう」と応じる、というやり取りです。
この会話が共通語話者に不思議に聞こえる理由を、水野さんは言語化します。食事や昼寝のタイミングは個人が自分で決めることで、それを指図するのはプライバシーにかなり踏み込んでいるからです。
東北の人は、この私的な領域に立ち入るのを前置きとかぼやかしたり、遠回しに言うんじゃなくて、率直に切り込むんですよね。
これと対照をなすのが京都です。「お出かけどすか?」と聞かれて「へい、ちょっとそこまで」と返す、というステレオタイプ的な会話があります。本書では、京都の人は他人に構われるのを嫌うため、最低限の声掛けはしても他人のプライバシーには極力関わらない姿勢なのではないか、と指摘されているそうです。
「早く食べてお昼寝しなさい」と、相手の私的な事柄にも率直に切り込む
「ちょっとそこまで」と婉曲に返し、他人のプライバシーに極力関わらない
堀元さんは、昔のチャットサービスで知らない者同士が「ご飯食べた?」とだけやり取りしていた思い出を持ち出します。水野さんはこれを面白い話として拾い、無視はできないが話題もない場面で「ご飯食べた?」と聞くのは、他の言語の挨拶でも見られる普遍的な形式だと説明します。
「どうも」で済ませる東北と、言い分ける近畿
近畿と東北のもう一つの対比は、「細かく言い分けるか、言い分けないか」です。堀元さんは「具体を言う東北のほうが細かいのでは」と推論しますが、正解は逆でした。婉曲な近畿は形式が細かく分かれ、直接的な東北はあまり言い分けないといいます。
水野さんは大学時代の体験を語ります。転勤族の家庭で育ったアルバイト仲間が、飲食店を出るときに「ごちそうさまでした」ではなく「どうも」と言って出ていくのを見て、気障に感じたそうです。その後、水野さん自身もすぐに真似するようになりました。
本書によると、この「どうも」は東日本に多く、特に東北では何でも「どうも」で済ませる傾向があるといいます。買い物の場面では、客も店も「どうも」と言い合っていればある程度済むそうです。
万能カードやん。
失敗したときの感動詞にも同じ傾向があります。西日本的な「しまった」「しもうた」は失敗専用の形式です。一方、東北の「ありゃ」「あや」「やった」は、驚きやののしり、喜びなど失敗以外の場面でも使えます。
水野さんが「しまった」と言おうとして「このボンバーマン」と言い間違え、「しまった=ボンバーマンが強く連合学習されていた」と弁明する一幕もありました。堀元さんは、漫画で壺を割った登場人物が「やった」と言うのを読んで、なぜ喜んでいるのかと引っかかった記憶を語っています。
さらに大阪方言では、「言う」の命令形が「言え」だけでなく「言い」「言うて」「言わんか」「言うてんか」などに分かれ、ニュアンスで細かく言い分けているといいます。堀元さんはこれを、東北は十徳ナイフ ── ナイフ、缶切り、栓抜きなど複数の道具を1本にまとめた折りたたみ式の多機能ナイフを好み、関西は用途別の専用ナイフを揃えている、とたとえました。
| 場面 | 近畿・西日本 | 東北 |
|---|---|---|
| 挨拶 | 場面ごとの形式を使う | 客も店も「どうも」で済む |
| 失敗 | 「しまった」「しもうた」(失敗専用) | 「ありゃ」「やった」(他の場面でも使える) |
| 命令 | 「言い」「言うて」「言わんか」などを使い分け | (言及なし) |
堀元さんが「関西の人のほうが世界の解像度が高くて優れているのでは」と雪の語彙の話を持ち出すと、水野さんは「そういうこと言わないのが優れた人間」と返し、優劣の話にしないよう釘を刺しました。
失礼な人は、性格ではなく文化で動いているのかもしれない
水野さんはここまでの内容を整理します。初回は「口に出す関西、口に出さない東北」、今回は「婉曲に言う関西、直接的に言う東北」と「細かく言い分ける近畿、言い分けない東北」です。本書では7つの二項対立が示されていて、紹介したのはそのうち3つだけだそうです。
本を読んで水野さんが考えたのは、同じルールで生きているという前提を外すことの大切さです。他者理解は一般によく語られますが、地域レベルで行動原理が違うという話はあまり顧みられていない、と水野さんは話します。
こいつ失礼な奴だわって思った時に、ちなみに出身地どこ?ってならないもんね。
一方で水野さんは、ある人の行動をすべて出身地に帰すのも駄目だと注意します。堀元さんも、人はサークルや新卒で入った会社の文化など、とても複雑な変数で形成されていると補います。
水野さんが本書で感動したのは、言語行動の差が従来の研究では個人の性格に帰せられていたという点です。東北の人はコミュ障な性格が多い、と考えられていたところを、小林先生らの研究チームが全国調査で土地ごとの言語行動のルールとして浮き彫りにしました。
水野さんは、近畿出身の妻が食卓でお礼を言わない東北出身の夫に腹を立てる、という例を挙げます。夫は怠慢なのではなく、自分の文化の影響を受けて合理的に振る舞っているだけかもしれない、と見方が変わるといいます。
堀元さんは身近な例として、普段は言葉を選ぶ水野さんが、つまらない企画にだけは「それ面白くなくないですか?」とはっきり言う理由を語ります。後で聞くと、水野さんが勤める会社の部署の企画会議が、面白くないものは面白くないと言う文化だったそうです。
さすがに知らん人とかにね、例えばじゃあ言語学ラジオで今度こういうのやってくださいって言われた時に、でもそれ面白くなくない?とかは言わないです。
中世なら「血圧」は失礼ではなかった?
水野さんは入店時の挨拶の歴史にも触れます。中世後期には、「買う」と宣言するスタイルが古い形だったそうです。残された文献が特定の地域に集中しているため、その地域の方言だった可能性もある、と留保をつけています。
そう考えると、その時代には「血圧」と言いながら入ることは失礼ではなかったかもしれません。現代は、標準語のもとになった山手言葉 ── 東京・山の手地域の中流以上の家庭で話されていた言葉。明治以降、標準語の基盤の一つになったとされますや東京の言葉がそういう形式ではなかったため、面食らう人がいるにすぎない、と水野さんは話します。
中世後期は「買う」と用件を宣言するスタイルがあり、用件を言って入るのが普通だった可能性がある
標準語の基盤となった東京の言葉に合わないため、「血圧」のような挨拶が失礼に聞こえる
堀元さんは、ドラゴンクエストのような剣と魔法のRPGで、店主に「冷やかしならお断りだよ」と言われた記憶を持ち出します。無言で店に入った主人公は、買う気がないと思われていたのかもしれない、という冗談に、水野さんは「余計な話でした」と返しました。
人文学は「自分と出会い直す」学問
最後に水野さんは、人文学について考えていることを語ります。研究者たちは「人文学は何の役に立つのか」「この時代にやる意味はあるのか」と聞かれ、真剣に悩んでいるそうです。
水野さんは、人文学を「自分と出会い直す学問」だと説明してきました。今回も、他人のことが少しわかると、翻って自分についても少しわかった気がするといいます。
本書のように、相手がどんな世界を見てどんな合理性で動いているかを想像できれば、他の人に寛容になれる。その意味で、人文学は自然科学が踏み込めない領域で役に立っていると水野さんは話します。
堀元さんは、GPSと相対性理論のように自然科学は成果を示しやすいが、人文学にはスマホのような一発でわかる例がないのが難しいところだと応じます。そこで「水野さんが凄まじい善人になれば人文学の広報になる」という冗談に発展し、ガンディのような行進まで提案されました。
水野さんは、自分はメタ認知が弱いと周りに言われるため、そのギャップを埋めるために人文学をやっているのかもしれない、と打ち明けます。
エンディングでは、堀元さんが「こんにちは、ご相談いいですか?」というメールにも、やはり用件と拘束時間やギャラを一発で書いてほしいと主張し、自分を顧みることの難しさを笑いに変えて締めくくりました。
まとめ
今回の回では、東北と近畿の言語行動の違いを手がかりに、相手の振る舞いを性格ではなく文化のルールとして見る視点が語られました。その視点は、他者を理解し、自分と出会い直す人文学の意義にもつながっていきます。
- 東北は用件を直接伝え、関西は婉曲に言う傾向があり、「血圧」と言って入るのも用件を先に伝える形式と考えられる
- 東北は「どうも」「ありゃ」のように言葉を使い回し、近畿は「しまった」や命令形のように細かく言い分ける
- 言語行動の差は従来性格に帰せられていたが、全国調査で土地ごとのルールとして浮き彫りになった
- 中世後期には用件を宣言する挨拶があった可能性があり、失礼かどうかは時代や文化で変わる
- 他者の合理性を想像できると寛容になれる点に、人文学の役立ち方があると水野さんは考えている

