決めずに始まる番組と、赤ちゃんの声問題
冒頭からどちらが先に喋るか決めておらず、二人同時に話し出すところから収録が始まります。カットもせず、そのまま番組に残す方針だと樋口さんは話します。
そういえば僕とけんすうさん、どっちから喋り出すか決めてなかったなっていうのを残しましょう、ちゃんと。
前回のエピソードに赤ちゃんの声が入っていたことにも触れ、そこは気にしないというスタンスを共有します。
そういうもんですよ。そういうのを気にするとクオリティにこだわり始めちゃって、みんなアップできなくなるんで。
赤ちゃんの声とかを許容できないって、器がちっちゃい。
完璧さを求めすぎない、雑談番組らしい構えが最初に示されます。ここから本題の「ポッドキャストとは何か」に入っていきます。
そもそもRSSってもう関係ないのでは?
前回、定義せずに話し始めてしまったポッドキャストという言葉を、あらためて整理しようという流れになります。
けんすうさんはまず、クラシックな定義を振り返ります。もともとはRSSウェブ上の更新情報を配信するための仕組み。もともとポッドキャストはこのRSSを使い、iPodなどに音声ファイルを自動でダウンロードするための技術だったで配信される音声コンテンツ、というのが一番狭い定義だったといいます。
クラシックな一番ベース(の定義)ってRSS配信される音声コンテンツであるっていう。一番狭いのが多分Apple Podcastで、要はiPodで聞くよねがスタートじゃないですか。
けんすうさんは2004年に初めてポッドキャストを手がけたと話し、当時はiPodにエピソードを入れる前提だったと振り返ります。しかしその定義でやっている人は、もう今はほとんどいません。
現在はYouTube、Spotify、Apple Musicなどで聴ける音声を「ポッドキャスト」と呼ぶのが一般的です。さらに最近では、YouTubeにしか上げていないのに「ビデオポッドキャスト」と呼ぶケースも増えていると指摘します。
Spotifyは実はRSSを公開しておらず、Spotify限定配信のものはRSSを持ちません。つまり「RSSがなくてもポッドキャストと呼ばれる」時代に、すでに入っています。
なぜ中田敦彦さんはポッドキャストじゃないのか
樋口さんが自身のXへのポストを紹介します。ラジオ、ポッドキャスト、音声メディア、IPサイマル放送地上波放送をインターネット経由でも同時に配信する仕組み。radikoなどが代表的、電波放送、ネットラジオ、ビデオポッドキャスト、YouTube動画配信のベン図を、誰か描いてほしいという内容でした。
前提と文脈によって定義が違いすぎるんで(誰かベン図にしてほしい)。もうこれぐちゃぐちゃなんですよ。
オトナル代表の八木さんがAIでベン図を作ってくれたものの、線が入り組みすぎて「人体の筋肉図みたい」だったと樋口さんは笑います。二次元では収まらない、というのが率直な感想でした。
話は「中田敦彦さんのYouTubeはポッドキャストと呼ばれないのはなぜか」に及びます。中田さんもコテンラジオも同じVoicy音声配信プラットフォームの一つ。国内の音声メディアとして広く利用されているで配信しているのに、感覚がまったく違うといいます。
中田敦彦さんのYouTubeはポッドキャストとは多分呼ばれないよね。で、それが音声だけで配信されたとしても、おそらくちょっと違う。
同じVoicyでも、コムドットのやまとさんはポッドキャストとして聞いているが、中田さんはそうではない。この違いは何なのかと二人は考えを巡らせます。
落ち着いた低いトーン、卓上マイクが映る、お便りを読む、向かい合う構図、アマチュア的な作り
テンションが高い、テレビ的なカメラワーク、ピンマイクの使用、正面向きの構図、プロの作り込み
声のトーン、マイクが映っているかどうか、カメラワークや座り方など、複数の要素が「ポッドキャストらしさ」を決めていると二人は分析します。
テンション高く、「どうも」みたいな感じで来ると違うと思うが、お便りとか読んでこう低いトーンで落ち着いてるとポッドキャストだなと思いそうな気はしますね。
長さ、フォーマット、そして「読むポッドキャスト」
時間の長さも判別要素になります。「3分ニュース」のようなポッドキャストは、仕組み上はポッドキャストでも、そう感じにくいといいます。
XやnoteにアップされたHfile音声、stand.fmのライブ配信も、それぞれポッドキャストとは違う印象を持たれています。stand.fmは非同期のライバーがいるようなイメージで、Voicyは「声のブログ」に近いと二人は整理します。
極めつけは、テストステロンさんがnoteで始めた「読むポッドキャスト」です。もはや音声ですらない、文字だけのコンテンツをポッドキャストと名乗るケースが出てきています。
読むポッドキャストみたいな言い方をしてて、すげえいいなと思ったんですよね。
さらに極端な例として、「非公開ポッドキャスト」まで想定できると二人は話します。会場で二時間喋って、音源を残さなくてもポッドキャストだと言えばそうなる、という可能性です。
そもそもポッドキャストのポッドってiPodのポッドやったから。元々もうポッドキャストの言葉の定義の根源は消えてんす半分。だからポッド消えてて、今キャストだけ残ってるけど、キャストすら今消えるって話ですよね。
「ポッド」も「キャスト」も定義から抜け落ちていく。ここまで来ると、送り手側の技術や形式では定義できないことが浮かび上がります。
結局、認識する側の問題
けんすうさんが好きなYouTubeチャンネルとして、般若心経をテクノ調にアレンジしたものを挙げます。コメント欄を見ると、般若心経として聞く人、ミュージックビデオとして見る人、BGMとして流す人と、受け手によって受け取り方が違うのだといいます。
これはもう[[唯識論::すべての現象は自分の心が生み出したものだとする仏教哲学の一つ。認識する側にすべての存在が依存するという考え方]]やな。
樋口さんはこれを「認識する側の問題であって、配信側の問題じゃない」と表現します。何がポッドキャストかを決めているのは、送り手ではなく受け手だという結論に近づきます。
その象徴的な例として、ゆる言語学ラジオの二人が挙げられます。同じ番組を同じプラットフォームで配信しているのに、水野さんは肩書きを「ポッドキャスター」、堀本さんは「YouTuber」と書いているそうです。作り手同士でも自己認識が違うのです。
同じ番組を同じプラットフォームで配信してる二人の自己認識違うんすよ。
樋口は音声、けんすうは長尺。二人の軸の違い
ここで二人自身の定義の軸が違うことが明らかになります。けんすうさんは、自分がやっているのはコンテンツ制作であり、ブログを書くのと同じ枠だといいます。
樋口さんは自分のことポッドキャスターだと思ってるけど、僕はやっぱコンテンツ作ってるっていうイメージでやってるので、絶妙にずれてるんです。
けんすうさんが重視するのは音声かどうかよりも「長さ」。長いコンテンツの方が文脈やポイントまで全部言えるから、というのが理由です。テストステロンさんの文字コンテンツを「ポッドキャストっぽい」と感じたのも、長いからでした。
一方の樋口さんは、音声であることそのものに強いこだわりを持っていました。
僕はやっぱりコンテンツの長短とか内容じゃなくて、やっぱ声であることにめちゃくちゃ重き置いてたんですよね。
樋口さんは、文字より音声の方が発信・受信が得意な人がいるという「インプット特性・アウトプット特性」の観点から、音声での送受信を増やしたいと考えています。だからこそ音声であることが本質になります。
音声であることを重視。アマチュアコンテンツっぽさもポッドキャストらしさの一要素
長さを重視。親密性が高く、双方向的な錯覚があり、長時間のコンテンツをポッドキャストだと感じる
飴とジュース、情報と温泉
けんすうさんがなぜ長さを重視するのか。編集者から言われた「飴が好きな人と、飴を溶かしたジュースが好きな人がいる」というたとえを紹介します。
一巻に凝縮された名作漫画を好むタイプが飴派、五十巻続く長い漫画を好むタイプがジュース派。けんすうさんは後者で、気に入ったコンテンツを長く楽しみたいのだといいます。
これに対して樋口さんは、自分は本を早く読み終わりたい派だと打ち明けます。読む時間はストレスなので、最短で情報を得たい。だから本を読む時間そのものが好きな人の感覚がわからなかったといいます。
温泉って効能だけタブレットでパクって食って、その温泉の効能なっても嫌で、気持ちいいから入るわけじゃないですか。
情報自体に価値を置くのか、その時間に価値を置くのか。この違いが、そのままコンテンツの好みや長さの評価軸にも影響していると二人は整理します。
コテンラジオ二倍速で聞くみたいな人と、僕絶対等倍がいいんですよ。早く終わっちゃうじゃんと思うので。
本を早く読み終わりたい。倍速で聞く。効能だけ得られればよい
等倍で聞きたい。長く楽しみたい。温泉に浸かる時間そのものに価値がある
ラジオとポッドキャスト、プロとアマの曖昧さ
もう一つの軸として、樋口さんは「プロコンテンツかどうか」を挙げます。樋口さんの中では、ラジオは放送局が作るプロコンテンツ、ポッドキャストはSNS文脈に近い個人発信、というイメージがありました。
しかし現在は、コテンラジオやゆる言語学ラジオのように、ポッドキャストで生計を立てる人も増えています。プロとアマの境界も曖昧です。デザイナーの例を挙げて、樋口さんは境界の難しさを説明します。
一年間で一円も稼いでないけど、僕はプロのデザイナーです。お金もらわないと仕事しませんって言って一年間仕事しなかったとしても、この人プロって言ってもいいという認識もあるし。ダメという認識もある。
令和ロマンの番組を例に、けんすうさんはさらに複雑さを指摘します。stand.fmで収録してSpotifyやApple Podcastに流している、バリバリのプロコンテンツ。ラジオともポッドキャストとも言い切れないラインにあります。
企業からポッドキャストを作りたいと相談を受けた際も、上がってきたものが「ラジオっぽい」と感じたが、その理由は言語化できなかったといいます。感覚でしか判別できないのが実情です。
向かい合うかカメラを向くか、ビデオポッドキャストの分岐
ビデオポッドキャストの中にも、YouTubeっぽいものとポッドキャストっぽいものがあると樋口さんは指摘します。この分岐点として、座り方の違いを挙げます。
机を、二人が前向いて座ってて、カメラに向かって体を向けてたらYouTubeっぽく見えるんですよ。で、お互いが向かい合って座ってたらビデオポッドキャストっぽく見えるんですよ。
けんすうさんは、作り手がふだんYouTubeを見ているかポッドキャストを聞いているかで、番組の作りが変わってしまうと補足します。制作者の「原体験」がフォーマットに現れる、ということです。
二人が前を向き、カメラに向かって体を向けている
二人が向かい合って座り、会話している構図
これも明確な理由はわからないが、なぜかそう感じてしまう。定義しようとするほど、感覚頼みであることが浮き彫りになります。
結論、定義するのは無理。だから毎回すり合わせるしかない
客観的にどんな場合でも当てはまるポッドキャストの定義は、もう作れないというのが二人の結論です。そのため、話す文脈ごとに「ここではポッドキャストをこう定義します」と毎回すり合わせるしかないといいます。
そのミーティングとか、そこで話されている文脈ではポッドキャストをこれとしますみたいなものを毎回つけていくしかないなと思ってるって感じです。
けんすうさんは自分の定義を「長尺で、親密性が高くて、双方向性が高いコンテンツ全般」だと整理します。樋口さんは「音声であり、アマチュアコンテンツっぽさがあるもの」と整理します。二人の答えは一致しません。
この曖昧さは、新しいコンテンツを考える発想の材料にもなります。「YouTubeで流行っているブレイキングダウンをポッドキャスト化したら何になるか」といった思考実験ができるからです。
これ音声だって考えると多分口喧嘩であろうになりますし。そうでなくて、長尺コンテンツだって言うと、ユーザー参加型のすごい長い三時間戦う番組とかになろうとかになるかもしれない。
「これから十二回で離婚するまでの様子をお届けします」というような、長尺だからこそ感情移入できるコンテンツも想像できるといいます。定義の曖昧さが、逆に企画の余白を生んでいるとも言えそうです。
まとめ
ポッドキャストの定義は、RSSの時代から始まり、プラットフォーム、フォーマット、テンションや座り方まで含めた曖昧なものへと変化してきました。二人はそれを共通の答えに落とすのではなく、送り手ではなく受け手が決めていること、そして自分自身の判断軸を持つことの大切さを語り合いました。
- RSSも音声も必須ではなくなり、ポッドキャストの定義はもうぐちゃぐちゃになっている
- 同じプラットフォーム・同じ会話でも、テンションやマイク、座り方でポッドキャストっぽさが変わる
- 樋口さんは「音声であること」、けんすうさんは「長さと親密性」と、二人の軸自体が違う
- 情報自体に価値を置く人と、時間そのものに価値を置く人がいて、コンテンツの好みも分かれる
- 結局ポッドキャストかどうかは受け手の認識次第で、話す文脈ごとに毎回定義をすり合わせるしかない
