父への手紙と脱藩、桂小五郎の尻拭い
上海で海外の様子を見てきた高杉晋作は、自分の意見が藩に聞き入れられないことから、ついに脱藩を決意します。深井さんは、晋作が自暴自棄になっていたのだろうと見ています。
以前の晋作は父親を気にして、大きな行動を取れずにいました。深井さんによれば、上海での経験と、それまでの吉田松陰とのやりとりが重なり、晋作の中で臨界点を超えてしまったといいます。
(晋作は)父親に手紙を送るんですよ。「この度、国事切迫につき、余儀なく亡命つかまつり候」つって。
律儀だね、ちゃんと手紙送るんだね。
脱藩した晋作は松陰の墓に参拝したあと、明倫館の教授である加藤友林加藤友林を訪ね、一緒に攘夷活動に身を投じようと誘います。しかし加藤からは普通に「やめとけ」と反対されてしまいます。
加藤は桂小五郎に手紙を書き、晋作を迎えに来てほしいこと、脱藩の罪に問わないでほしいことを頼みます。晋作はその言うことを聞いて戻り、脱藩は取り消しになりました。
桂小五郎がまあほんと兄貴分なんですよね。
「狂挙」へ振り切れた晋作と外国人暗殺計画
脱藩騒動のあとの晋作は、それまでの晋作とはまったく違うと深井さんは繰り返します。晋作はこの後、外国人の暗殺を企てるようになります。
今までのこの鬱憤溜めてたやつがバーンって爆発してる。
深井さんによれば、晋作は軍備の増強が大事だと考えながら、実際にやっていることは軍備増強でもなく、むしろすぐ戦争に突入して負けかねないことばかりでした。だからこそ、エネルギーの爆発だと深井さんは捉えています。
晋作は自分の行動を、暴挙の「暴」を「狂」に置き換えた狂挙 ── 常識から外れた激しい行動をあえて「狂」と呼ぶ表現。吉田松陰は「狂」を、既存の枠を突き破る志の表れとして肯定的に用いましたと呼んでいました。深井さんは、「諸君、狂いたまえ」と言っていた吉田松陰に似てきていると指摘します。
この頃の幕府は、開国を朝廷から許してもらえないまま、朝廷の意見に抗えなくなっていました。将軍が頼みに行っても天皇が聞き入れず、深井さんはそれがここ数百年起こったことのない事態だったと説明します。背景には久坂玄瑞らの動きや、朝廷の後ろにいた薩摩の存在がありました。
朝廷は幕府に条約の破棄、つまり攘夷 ── 外国を打ち払い、外国人を国外へ追い出すという主張。幕末には天皇を尊ぶ尊王論と結びつき「尊王攘夷」として広がりましたの実行を求めます。幕府は仮病まで使って引き延ばしますが、ついに5月何日までに必ず攘夷をするという期限を約束させられてしまいます。その動きを朝廷の裏で動かす急先鋒が長州でした。
晋作たちが外国人暗殺を企てた理由は、攘夷を唱えるなら説得力のために外国人を1人ぐらい殺しておかないと、という考えだったといいます。深井さんも「ひでえ話だけど」と前置きしています。
その攘夷攘夷って言ってんのに、俺らまだ外国人1人も殺してないよなつって。
先に薩摩は生麦事件 ── 1862年、薩摩藩・島津久光の行列を横切ったイギリス人を藩士が殺傷した事件。翌年の薩英戦争のきっかけとなりましたで、大名行列を横切ったイギリス人を斬り殺していました。薩摩に負けてはいけないという意識もあり、晋作たちは久坂玄瑞らと、横浜の金沢へピクニックに出かける外国公使を狙う計画を立てます。
ところがこの計画は、協力を求めた相手から漏れていきます。漏洩から中止までの流れは次のとおりです。
協力要請
久坂玄瑞が土佐藩の攘夷派・武市半平太に協力を求める
漏洩
武市半平太が土佐藩主の山内容堂に計画を話す
通報
山内容堂が長州藩に知らせ、長州藩が驚く
中止
藩主の息子が一同を泣いて止める
英国公使館焼き打ちと幕府の尻拭い
藩主の息子に泣いて止められ、多くの者は感動しました。しかし深井さんによれば、この時の晋作はまったく動じていなかったといいます。
晋作は謹慎を命じられたにもかかわらず、初志貫徹を誓う書面を作って全員に血でサインさせ、今度は英国公使館焼き打ちを計画します。この計画には伊藤博文も加わっていて、実際に成功してしまいます。
夜中に火を放って、もう燃やして、燃やしてるのを今度また酒の場でこうやって眺めながら、こうやってみんなで酒飲むみたいなことしてるんです。
ちょっとどういうマインド?
テロだよ。端的に言ったらテロリストですよ。
焼き打ちの犯人は長くわからないままでした。深井さんは、わかっていても言えなかった可能性もあると話します。長州藩の仕業と気づきながら、力を持っていた長州に遠慮したという説もあるといいます。
結局、責任を取らされたのは幕府でした。諸藩をまとめるリーダーとしてイギリスから詰められ、公使館の建築費用も幕府が出していたと語られます。
だから幕府かわいそうだよね。ね。もう本当に何が起こっても自分のせいなのに。
松陰の名誉回復と逆転していく政局
久坂玄瑞らはさらに過激化し、藩主も巻き込んで、朝廷を通じて幕府に圧力をかけ始めます。深井さんは、安政の大獄の頃とはまったく逆の方向に向かっていると指摘します。
安政の大獄で処刑された人々に大赦令が出され、吉田松陰も改葬が許されました。晋作たちは、罪人としてその辺りに埋められていた松陰の遺体を掘り出して洗い、別の場所へ移したといいます。
松陰の評価の変化は、前後で比べるとはっきりします。
安政の大獄で処刑され罪人扱い。兄も官職を取り上げられる
大赦で名誉回復。遺書の提出や言行の記録が求められ、攘夷のシンボルに
幕府は権力を落としながら朝廷にお伺いを立て続け、攘夷の期限に追い詰められていました。深井さんは、その朝廷のさらに裏に長州藩と薩摩がいる構図を示し、この後は薩摩と長州の権力闘争に入っていくと予告します。
朝廷交渉役を辞退し、頭を丸めた理由は?
高杉晋作は藩から朝廷との交渉役を命じられますが、これを辞退して10年の暇を願い出ます。深井さんは、同じことを吉田松陰も言っていたと振り返ります。
晋作の願いは本当に許可され、晋作は頭を丸めて僧形になります。それでも深井さんによれば、幕府と対決するつもりではいたようです。
深井さんは、政治を動かしていた久坂玄瑞らと晋作とでは、意見が違ったのではないかと推測します。周りがうまく進めていることを自分はできておらず、どうすればいいかわからないこともあって、晋作は冷めていたのではないかと話します。
(晋作は)誰かとすごく共謀したりもしないし。なんかついては離れついては離れみたいな。
楊さんは、晋作がどこか距離を取っていて、なればいいしならなければいい、という割り切った爽やかさがあると表現します。
なんかものすごく熱く燃えてるようにも思えるし、すごい客観視してるようにも思えるし。どっちもあるんでしょうね。
英国公使館を焼き打ちする一方で、花形の朝廷交渉役は辞退する。深井さんによれば、晋作は京都で何かをすることに価値を感じておらず、長州藩以外の人ともほとんど関わらなかったといいます。
深井さんは晋作にアーティストっぽい感じがあるとし、その中に自暴自棄な感覚もあったと見ています。この時期もずっと夜遊びをしていて、そこでストレスを発散していたのだろうと語ります。
頭を丸めた晋作が次に何をするのかは、次回に持ち越しとなりました。
まとめ
上海から戻った高杉晋作は、脱藩を経て鬱憤を爆発させ、自ら「狂挙」と呼ぶ過激な攘夷運動へ突き進みました。その一方で藩の大役は辞退して隠居するなど、燃える自分と冷めた自分が同居する姿が描かれています。
- 脱藩は加藤友林加藤友林と桂小五郎の取りなしで取り消しになった
- 外国人暗殺計画は土佐経由で漏れ、藩主の息子が泣いて止めたが、晋作は動じなかった
- 英国公使館焼き打ちは成功し、責任と費用は幕府が負わされた
- 大赦で吉田松陰は名誉回復し、攘夷のシンボルになっていった
- 晋作は朝廷交渉役を辞退して10年の暇を願い出て、頭を丸めた


