師・松陰の処刑を知った晋作に待っていたのは結婚?
高杉晋作は、師である吉田松陰の処刑を江戸からの帰国途中に耳にし、激怒します。深井さんによると、晋作は一瞬「絶対に復讐する」という気持ちになったものの、その後は父や毛利家のことを考えて冷静になったようです。
晋作は長州藩の重鎮である周布政之助に宛てて、すごく頭にきているが、父親もいるので思ったとおりに復讐することはできない、という内容の手紙を送っています。
すごく頭にきてるけど、その父親もいるから、自分が思ったことを思ったとおりに復讐するっていうことはできないんだっていう手紙を(周布政之助に)送ってるんですよね。
萩の家に戻った晋作を待っていたのは、親が決めた結婚でした。当時22歳の晋作は、16歳の政(政子とも呼ばれます)を妻に迎え、子孫を残すよう求められます。
いきなりまた。お前落ち着けと。
晋作は30歳になるまで絶対に嫁はもらわないと豪語していましたが、相手は萩で一番と言われる美人だったらしく、結婚を受け入れます。その後、息子も生まれています。
航海術も剣術修行も、すぐに投げ出した理由は?
結婚後、晋作には藩の命令として航海術を学ぶよう指示が下ります。深井さんは、晋作を将来藩を動かす中心人材に育てるための人材育成の一環だったと説明しています。
晋作は大いに喜び、男としてこの宇宙に生まれたのだから、筆や硯の家来になどなれるか、という意気込みを語ったとされます。事務仕事ではなく大きなことをしたい、という気持ちの表れです。
言い方がね、おしゃれだな。
ところが晋作は、萩から江戸まで約2ヶ月の航海を経て江戸に着いた途端、自分には向いていないと航海術の勉強をやめてしまいます。
上の江戸に着いた途端にやっぱりやめますって言って。いや、あの航海術の勉強やめます。これは俺には向いてないです。
同じ頃の江戸では桜田門外の変 ── 1860年、大老・井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸浪士らに暗殺された事件。安政の大獄への報復とされ、幕府の権威失墜を象徴する出来事になりましたが起きていました。井伊直弼から大弾圧を受けた水戸の浪士たちが、その復讐として井伊直弼を白昼堂々と暗殺したのです。
深井さんは、将軍の次に偉い、あるいは将軍以上の権限を持つ人物が昼間に殺されたことは、幕府の威厳が地に落ちていることを示していたと話します。樋口さんは、今の日本で言えば首相暗殺にあたる大事件だと受け止めています。
激動の時代の中、松陰を失った晋作はかなり自信をなくしていたようです。江戸から萩へ戻る道中で剣術修行をしようと日記を書き始めますが、試合で勝てなかったらしく、その日記も途中で途絶えてしまいます。
なんかメンタル弱いです。
繊細だよね。
樋口さんはこうした挫折を、成長のために必要なものだったかもしれないと捉えます。深井さんも同意し、晋作はここから勉強に振り切り、陽明学 ── 中国・明の王陽明が唱えた儒学の一派。知ることと行うことは一体だとする「知行合一」を重んじ、幕末の志士にも大きな影響を与えましたや国学を学び直すことで、松陰の魂を自分の中で育て始めたと話しています。
エリートの役職と、揺れ動く長州藩の藩論
萩に戻った晋作は、世子小姓役 ── 藩主の跡継ぎ(世子)のそば近くに仕える役職。仕事自体は身の回りの世話や事務が中心でも、将来の側近候補としての意味合いを持ちましたに選ばれます。深井さんは、殿様の息子の一番の側役にあたる役職で、仕事は簡単な事務だったものの「めっちゃエリートスタート」だったと語ります。
この役職に就いたことで晋作は再び江戸へ行き、久坂玄瑞や桂小五郎たちと交流を始めます。その頃、長州藩では藩の方針をめぐる大きな揺れが起きていました。
長州藩にいた長井雅楽は、単純に外国人を排斥しても意味がなく、世界と交流して国力を養い、富国強兵や殖産興業を進めるべきだと主張しました。深井さんは「とても真っ当な考え方」と評しています。長井雅楽は藩主たちを説得し、その考えが藩の方針として採用されます。
長井雅楽は晋作の父の友人でもあり、晋作にとって近しい存在でした。一方で、攘夷派の久坂玄瑞らはこの開国路線に猛反発し、その反対活動によって藩論は再び攘夷へと振り切れていきます。
楊さんは、久坂玄瑞らの攘夷思想は当時の萩でも過激な部類で、必ずしも広く受け入れられていたわけではないと補足します。その理由は、彼らが倒幕まで目指していたからです。
攘夷にしても何にしても、江戸幕府っていう既存のシステムを生かしながら、天皇という存在を強調して、それを国をまとめて外国に対抗していこう。でも日下玄瑞とかあの辺とかはいやもう江戸幕府倒しちゃおうよみたいな。
楊さんの説明では、当時の一般的な藩の考え方と久坂玄瑞らの考え方には、幕府を残すかどうかという大きな違いがありました。
江戸幕府の既存のシステムを生かしつつ、天皇の存在を強調して国をまとめ、外国に対抗する
江戸幕府そのものを倒してしまおうと考える。楊さんは「最右翼」のような存在だったと表現
深井さんによれば、長州藩の殿様はかなり優柔不断で、その時一番声の大きい意見を採用していました。そのため、妥当なことを言っていた長井雅楽の路線は押し切られ、藩論が変わっていきます。
念願のヨーロッパ行きが、まさかの選考漏れ
藩論が揺れる中、江戸にいた晋作にヨーロッパ行きの内命が下ります。晋作は江戸での留学中から、翼があるならいろいろな国を見てみたい、と口にしていました。深井さんは、その言い回しを「おしゃれJ-POP」と評しています。
ヨーロッパ行きの話は、幕府がヨーロッパへ使節を送る計画に、諸藩の若者を従者として同行させられるというものでした。長州藩の要人である周布政之助が、優秀な長州の若者に世界を見せたいと考え、白羽の矢を立てたのが晋作です。
松陰は黒船に行ってまで世界を見ようとしたけどできなかった。それを自分は見れるんだと思ってウッキウキなんですよ。
父親からも賛同を得て話は進むかに見えましたが、2名の予定だった枠が1名に減り、晋作は最終選考から漏れてしまいます。意気揚々と書いていた日記は、ここでもまた途中で止まります。
すぐブログやめるやん。
そう、すぐブログやめる。
深井さんはここまでの晋作の人生を、一つも成功していない「全部空回り」だったとまとめます。ここまでの挫折を時系列で並べると、次のようになります。
そう、全部空回り。ただ一人松陰のみがお前はすごいってずっと言ってくれてただけ。
楊さんも、晋作はいろいろ頑張っていたものの、全然自分を見つけきれていなかったと話します。同じ頃、久坂玄瑞は京都で天皇の周辺に入り込み、藩論を動かすほど活躍していました。父親というストッパーがある晋作は、そこまで動けずにいたのです。
落ち込む晋作を気の毒に思った長州藩は、ヨーロッパは無理でも上海なら行ける、と声をかけます。晋作は上海に行く意味があるのかと乗り気ではありませんでしたが、父親の「殿様が言うなら行きなさい」という言葉もあり、上海行きが決まります。
これで上海に行くことになって、めっちゃ人生変わるんですよ。
長崎で待たされた2ヶ月、留学費用を使い込む
当時の日本と中国には国交がなく、しかも中国はアヘン戦争 ── 1840〜42年に清とイギリスの間で起きた戦争。敗れた清は香港の割譲や上海などの開港を強いられ、列強による半植民地化が進むきっかけとなりましたの後で不安定な状態でした。そこで一行はオランダを通じ、貿易のふりをして上海へ向かうことになります。
晋作は幕府の従者として、他の藩の従者たちとともにまず長崎へ向かいました。ところが長崎では出航できず、2ヶ月ほど待たされてしまいます。
この長崎滞在中、晋作は長州藩から受け取っていた上海行きの費用を、深井さんの話では500万〜700万円分ほどを、ほぼすべて遊興に使ってしまいます。
確か留学というか、上海行き用のお金すっげえもらってんのに、数百万円分、そのお金全部風俗で使いますから。
バカたれ。
深井さんは、晋作の人生のここまでを見る限り、とても世界史を動かす人間には見えないと語ります。どんな人が歴史を変えるかはわからないというのが、深井さんの率直な感想です。
だからさ、ほんともう本当にね、どんな奴が歴史変えるかわかんねえから。本当に本当に。
散財の理由について深井さんは、あくまで予想と断ったうえで、焦燥感から精神的に保てず、刺激のあることをしていないとじっとしていられなかったのではないかと話します。久坂玄瑞らがどんどん活躍していく中での焦りがあった、と樋口さんも同意しています。
上海で晋作が見た、列強に支配される清の姿
長崎での2ヶ月を経て、晋作はようやく上海に渡ります。上海で晋作が目にしたのは、西洋の圧倒的な技術力でした。イギリス人が多くいる上海で、晋作は蒸気船の実物やアームストロング砲 ── イギリスのアームストロングが開発した後装式の大砲。射程と命中精度に優れ、幕末には佐賀藩などが導入しましたなどの兵器を初めて見て、日記にスケッチも残しています。
しかし深井さんによれば、晋作にとって一番の衝撃は、西洋人に対して奴隷のように扱われ、へりくだる中国人の姿でした。
ことごとく中国人が使役されてて、まるでイギリス、フランスの奴隷のようだと。
晋作の怒りは、具体的な光景に向けられていました。イギリス人やフランス人が道を通る時は中国人が道を開けなければならないこと、イギリス人が架けた橋を中国人が渡るには通行料を取られることなどです。
自分の国の自分の橋を渡るのに、なんで外国人に金を払わないといけないんだと。
儒教を大切にしていた晋作にとって、本場の孔子廟がイギリス軍に占拠され、寝床にされていたことも大きな衝撃でした。儒教を知りもしない者たちに聖地を踏み荒らされている、と晋作は感じたのです。
晋作は松陰とアヘン戦争について議論を重ね、同じ問題意識を持つ仲間とも話していました。それでも、話で聞くのと実物を見るのとでは違いました。深井さんは、実物を見てしまったことが父親のストッパーを外したと表現しています。
上海での体験が晋作の行動につながるまでの流れは、次のように整理できます。
目撃
蒸気船や近代兵器、西洋人に使役される中国人、占拠された孔子廟を見る
危機感
日本も同じようになってしまうのではと強く恐れる
認識
近代的なものを取り入れることの大切さを痛感する
行動
父親のストッパーが外れ、晋作が振り切れていく
晋作は、薩摩藩がすでに蒸気船を買って密貿易をしようとしていることも耳にします。蒸気船が1隻あれば遠方と貿易ができること、近代兵器の前では人数が関係ないことも、上海で理解していきました。
樋口さんは、日本にとってずっと先生だった中国が荒らされている姿を見たことに触れ、ヨーロッパに行っていたら気づけなかったことかもしれない、という皮肉を指摘します。深井さんも「それかもしれない」と応じています。
稟議なしで蒸気船を買う?帰国直後の暴走
長崎に帰国した直後、蒸気船が絶対に必要だと確信した晋作は、オランダとの間で長州藩が蒸気船を買うという契約を無断で結んでしまいます。
五百万使い込んだくせに、またそこで勝手に金使う。
深井さんは、勝手に会社の契約書を書いてきたのと同じだと例え、樋口さんは「稟議通せよ」とツッコミを入れます。この件は藩内で大きな問題となり、結局契約は破談になりました。
その中で、周布政之助だけは、そういう気持ちになってもおかしくないと晋作を擁護したといいます。樋口さんは、そこまでさせるほど上海での体験が衝撃だったのだと受け止めています。
尊王攘夷に振り切れる長州と、晋作の失望
晋作が上海に行っている間、京都では久坂玄瑞らが周旋して回り、政治が大きく動いていました。久坂玄瑞らは藩内の意見を固めて、藩論に採用されていた公武合体論 ── 朝廷(公)と幕府(武)が協調して国を立て直そうとする考え方。幕府を残したまま朝廷の権威を取り込もうとする穏健路線でしたの長井雅楽を排斥し、切腹にまで追い込みます。
長井雅楽の切腹によって公武合体論はなりを潜め、長州藩は尊王攘夷論へと振り切れていきます。深井さんは、ここから長州が日本の尊王攘夷を推し進め、中央政界の表舞台に立っていくステージに入ると説明しています。
樋口さんは、今の日本でも歴代総理大臣が山口県から8人出ていて最多であることに触れ、その背景にこの時期の動きもあるのではないかと話しています。
一方で晋作は、尊王攘夷論自体には賛成しつつも、上海で兵器を見てきたからこそ、軍備を増強しなければどうにもならないと訴え続けます。しかし、上海を見ていない周囲の人々には、その危機感が伝わりませんでした。
本当は軍備増強しないといけないのに、今のままでも日本は勝てるとか訳分からんこと言って、とにかく外国人殺せばいいとか言ってるやつらやべえみたいに思ってるわけよ。
晋作の実力は、まだ藩や他の人を動かすところまで届いていませんでした。軍備増強の訴えが聞き入れられない中で、晋作は重罪である脱藩に踏み切ることになります。
深井さんは、ここから晋作が松陰らしくなっていくと予告します。なぜ脱藩に至るのかは、次回で詳しく語られる予定です。
まとめ
松陰の死の後、高杉晋作は結婚、航海術や剣術修行の挫折、ヨーロッパ行きの選考漏れ、留学費用の使い込みと、空回りを重ねていました。その晋作を変えたのが、上海で見た列強に支配される清の姿であり、そこから晋作の「松陰化」が始まります。
- 晋作は藩命の航海術や剣術修行をいずれも途中で投げ出し、日記も途中で途絶えていた
- 長州藩の藩論は、長井雅楽の開国路線から久坂玄瑞らの尊王攘夷へと大きく揺れ動いた
- 長崎で待たされた2ヶ月の間、晋作は数百万円分の上海行き費用を遊興に使い込んだ
- 上海で使役される中国人や占拠された孔子廟を見たことが、晋作の父親というストッパーを外した
- 帰国後に蒸気船の無断契約や軍備増強の訴えが受け入れられず、晋作は脱藩へと向かう


