攘夷期限の日、長州だけが外国船を撃った?
前回までの高杉晋作は、10年の休暇を申請して許可され、頭を丸めて政治の舞台から身を引いていました。深井さんによると、そのあいだも日本の政局は目まぐるしく動き、将軍が朝廷に約束した攘夷の期限が迫っていたといいます。
結論から言うと、攘夷の期限が来ても幕府は何もしませんでした。ところが長州藩だけは攘夷を断行し、長州の港に来ていた外国船を砲撃します。
長州藩の砲撃の背後では、久坂玄瑞 ── 長州藩士で吉田松陰の門下生。高杉晋作と並ぶ松下村塾の双璧とされ、尊王攘夷運動を京都で主導した人物ですたちが政治工作を進めていました。最初に撃ったのは、軍艦ですらないアメリカの商船だったと深井さんは説明しています。
そうです。次はフランス艦砲撃します。オランダ艦も砲撃します。全方位ですよね。いきなり。
イケイケドンドンやね。
砲撃のあとはアメリカの軍艦が報復に来て、長州の砲台は破壊され、味方の船も撃沈されます。さらにフランスの軍艦が来て、200何十人ほどのフランス兵が上陸し、農家を焼き払ったと語られます。
それ(フランス兵の上陸)に対して甲冑とほら貝で戦うみたいなね。
深井さんは、久坂玄瑞たちも列強が進んでいることは知っていたと補足します。それでも地の利や、相手が攻めてくる状況を考えれば、頑張れば勝てると思っていた。しかし実際には、昔の武器や甲冑さえ十分にそろっていない状態で、まったく太刀打ちできなかったといいます。
攘夷の実行から晋作の呼び戻しまでの流れは、次のように整理できます。
攘夷期限
幕府は何もせず、長州藩だけが攘夷を断行する
外国船砲撃
アメリカ商船、フランス艦、オランダ艦を次々に砲撃する
列強の報復
砲台を破壊され、フランス兵が上陸して農家を焼き払う
晋作の呼び戻し
困った藩が、頭を丸めた晋作に打開策を求める
身分を問わない「奇兵隊」はなぜ生まれた?
惨敗して困った長州藩は「晋作を呼び戻せ」となります。高杉晋作が10年の休暇を願い出て頭を丸めてから、わずか3ヶ月後のことでした。
3ヶ月しか経ってないのに。
藩から打開策を問われた晋作は、馬関 ── 現在の山口県下関市の旧称。関門海峡に面した港町で、長州藩の外国船砲撃の舞台になりましたのことは自分に全部任せてほしいと答えます。勇士を集めて兵隊を作り、それを奇兵隊と名付けるという策でした。
深井さんによると、奇兵隊の「奇」は「正」の反対語です。正規の兵である正兵に対して、神出鬼没の奇兵がいる。つまり奇兵隊はゲリラ部隊の発想だと説明されています。
奇兵隊の背景には、武士への見切りがありました。武士は人口の10パーセントほどしかおらず、国を守るから偉い立場にいるはずなのに、今回の戦争ではボコボコに負け、逃げた者もいたといいます。
ただし深井さんは、晋作が身分の平等を信じていたわけではないと強調します。晋作は侍のエリートで、農民を侍と同等だとはまったく思っておらず、単に機能として必要だから集めたというのが実態だったといいます。そこが伊藤博文たちと違うところだと話されています。
当時の長州は、単純な攘夷論ではなく、最終的には国交を結びたいと考えていました。ただ、虐げられた形で条約を結ぶことには断固反対という立場です。そのため戦争をしながら、伊藤博文と井上聞多をロンドンへ密かに留学させてもいました。
長州ファイブ、それは誰が言ったんだ。絶対長州藩は言ってない。
奇兵隊には、商人など資金を持つ人たちの力も集められました。深井さんは白石正一郎という人物を挙げ、エンジェル投資家のような存在だと例えています。
奇兵隊と別に正規軍もあり、正規軍の人を無理に奇兵隊へ入れることはしない一方、入りたい人は入ってよいとされました。武器もそれぞれ得意なもので戦えばよい、という柔軟な方針でした。
民衆の側にも、ナショナリズムのような感覚が芽生えていたと深井さんは話します。外国から攻められることで、侍と自分たちという区別より「自分たちみんな」という意識が出てきた。村を焼かれた人の中には、殺されるより戦いに行くほうがましだと考えて志願した人もいたといいます。
ところが奇兵隊が砲台を再建して列強の再来襲に備えても、外国艦隊はその後来ませんでした。奇兵隊は長らくやることがなく、やがて正規軍と仲が悪くなり、死傷者が出る内紛まで起こしたと語られます。
(奇兵隊を作った)そこまですごいんですよ。だけどやることなかったんですけど、その後攻めてきてくれなかったんで。
尊王の長州が「朝敵」になった八月十八日の政変
奇兵隊が暇を持て余すころ、京都では八月十八日の政変 ── 1863年に起きた政変。薩摩藩と会津藩が朝廷と結び、尊王攘夷派の長州藩勢力を京都から追放しましたが起こります。それまで長州は日本の攘夷論をリードし、公家を動かして幕府に圧力をかけ、政治を動かしていました。
しかし孝明天皇 ── 幕末の天皇で、明治天皇の父。強い攘夷の意志を持つ一方、幕府を倒すことには否定的だったとされますは、長州を過激すぎるとして嫌っていたといいます。深井さんは、天皇を誰より尊敬する尊王攘夷の長州が、当の天皇から嫌われていたことを大きな皮肉だと話します。
一説にはね、もう本当に長州藩でもう倒幕を押せ押せドンドンだったんですよ。でも孝明天皇は倒幕じゃ倒幕まではちょっと、ちょっとアウトですよ。
さらに長州は公家を動かして偽の命令書のようなものを出していたとされ、それが天皇に知られて怒りを買います。そこに近づいたのが薩摩藩でした。薩摩は長州が勢いづきすぎて自分たちの立場が危ういと考え、天皇と結んで長州の排斥に成功します。
長州は京都から追い出され、三条実美ら尊王攘夷派の7人の公家も長州へ追放されました。これが七卿落ちです。長州は一夜にして京都での基盤を失い、その後は朝敵、つまり天皇の敵と認定されてしまいます。
うわぁ、皮肉すぎる。
楊さんは、この局面での薩摩の政治力が相当すごかったと評し、西郷隆盛や大久保利通を「切れ者中の切れ者」と表現しています。
天皇を尊敬する尊王攘夷派として倒幕に向けて押し進め、公家を動かして政治をリードしていた
天皇は倒幕までは望まず長州を過激すぎると嫌い、薩摩はそこに結んで長州を京都から排除した
十日で政権を塗り替えた晋作は、なぜ孤立した?
京都を追われた長州藩内では、それまで幅を利かせていた尊王攘夷派が動揺し、穏健派の俗論派 ── 長州藩内で幕府との協調を重んじた保守・穏健派の呼び名。尊王攘夷派から見た蔑称で、正義派と対立しましたが再び政治を握ります。
そこで高杉晋作が動きます。晋作は家柄のよいエリートで、藩の上層部と話せるルートを持っていました。深井さんによると、晋作はわずか10日間で俗論派を追い出し、藩の政治を尊王攘夷に塗り替えたといいます。
晋作自身も奇兵隊総督から政務座役に昇進し、政治の中枢に入ります。反対派を完全に排除したことで、深井さんの言う「スーパー過激派政権」が誕生しました。
しかし過激派政権が誕生しても、追放と朝敵認定という問題は何も解決していませんでした。長州の過激派は「天皇は悪くない、全部薩摩藩が悪い」と薩摩、そして会津に激怒し、久坂玄瑞らは京都へ攻め上ろうと主張します。
本当に朝敵になっちゃうし、それはやばいから、ちょっと落ち着けと。で、勝機があるんだったら行っていいけど、勝機がないのに行ったらやばいだろと。
位が上がった晋作は、立場に応じた合理的な判断をするようになっていました。ところが過激派からは「一番過激だったのに出世して何を言っているのか」と言われ、穏健派や世論からは過激な人物と見られる。晋作は両方から責められることになります。
深井さんは、若くして出世した晋作には、周りを納得させるスキルや度量、人徳がまだなかったのだろうと見ています。誰も話を聞いてくれず、晋作は逆ギレし、相手の主張は上っ面だと怒っていたといいます。
落ち込んだ晋作は酒に溺れ、龍馬と親しく一緒に暗殺された土佐の脱藩士・中岡慎太郎 ── 土佐藩出身の志士。陸援隊を率い、坂本龍馬とともに京都の近江屋で暗殺されましたと組んで、薩摩の島津久光 ── 薩摩藩主・島津忠義の父で、藩の実権を握った人物。公武合体を進め、幕末政局に大きな影響を与えましたの暗殺を企てます。
ヤケクソなんです。だから彼は彼の立場、そのエリートである立場と彼の本心がやっぱ常に違うんだよ。
晋作の暗殺計画は、多くの人に説得されて断念に終わります。
投獄された晋作を支えた、吉田松陰の言葉
その後の高杉晋作は、説得のために京都方面へ持ち場を離れたことで、仕事を放棄した、あるいは久坂玄瑞たちに合流しに行ったと藩に疑われます。そして投獄されてしまいます。
投獄先は、師の吉田松陰も入っていた野山獄でした。家の石高、これまでの地位、殿様から与えられた衣服まですべて没収され、晋作はいきなりゼロになります。ちょうどこのとき、妻のお腹には子どもがいたといいます。
晋作は野山獄で「先生を慕うてようやく野山獄」という句を詠みます。深井さんは、上海視察までしたエリートが囚人になった自分を、松陰と重ねて皮肉った歌だと解説しています。
上海を視察したエリート。奇兵隊総督から政務座役へ昇進し、藩政の中枢にいた
野山獄の囚人。家の石高、地位、殿様からの衣服まで没収された
精神を保つのが限界に近い中で、晋作は読書と詩作にふけり、日記も書きました。楊さんは、この時期の晋作は徹底的に自己と向き合うようになったと話します。
死にたかったと思うよ。プライド高いからね。けど、生きて何かしてから死んでやるって思ってたと思う。
深井さんは、晋作が松陰の「死して不朽の見込みあらば」という言葉を思い出していたのではないかと推測します。晋作は獄中で考えた末、国を思う心は変わらないとわかり、頑張ろうと思ったと本人が記しているそうです。
晋作に目をかけてきた重鎮の周布政之助 ── 長州藩の重臣で藩政改革を担った人物。高杉晋作ら若い志士を庇護したことで知られますは獄を訪ねて激励しますが、それによって失脚し謹慎になったといいます。晋作の置かれた立場がどれほど厳しかったかがうかがえます。
獄中の晋作は、松陰の兄から頼まれて松陰の遺稿の編纂にも取り組みました。時間がなく途中でやめてしまいますが、この時期の晋作は松陰と深く向き合っていたと深井さんは見ています。
獄中の日記には、いつものプライドの高い晋作とは違う書きっぷりが残っています。国のために動いているのに誰にも理解されない悔しさをつづり、ある日には7000字ほどの長文を書きました。そこには、ここで死んでも本当の考えを後世に知ってほしいという思いがあったと記されているそうです。
やがて役職の高い父の尽力で、晋作は自宅の座敷牢に移ります。父は晋作を温かく迎え、晋作は号泣したといいます。深井さんは、厳しく封建的だった父も、一人息子の晋作を愛情深く見ていたのだろうと話しています。
なんとなくですけど、原点回帰というか、昔のあの時に思ったこととかを思い返してる感覚が伝わってくるな。
一方で長州の状況は最悪でした。朝敵とされた長州を討つため幕府から征長軍が派遣され、同じ時期には砲撃したアメリカやイギリスなどの列強も再び迫ってきます。かつて京都政界を動かした長州は四面楚歌となり、晋作は牢の中にいました。
そう、ここから先が(晋作の)歴史に残るアクションがここから先に起こる感じ。
まとめ
攘夷の実行で列強に惨敗し、八月十八日の政変で朝敵となった長州は、一気に転落しました。その渦中で奇兵隊を作り、藩政の中枢にまで上った高杉晋作も、両方から責められて孤立し、獄中で松陰の言葉と向き合います。物語は、晋作が歴史に残る行動を起こす次回へつながります。
- 長州藩だけが攘夷を断行して外国船を砲撃し、列強の報復で惨敗した
- 3ヶ月で呼び戻された晋作は、身分を問わないゲリラ部隊として奇兵隊を作ったが、敵が再来せず出番がなかった
- 尊王を掲げた長州は、孝明天皇に嫌われ、薩摩藩と結んだ政変で京都を追われ朝敵となった
- 藩政の中枢に入った晋作は、過激派と穏健派の両方から責められ、最後は野山獄に投獄された
- 獄中の晋作は読書と日記で自己と向き合い、吉田松陰の言葉に支えられていた


