なぜムガール帝国は急に弱くなったのか?
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前回は、ヨーロッパ諸国がアジアとの海上貿易を始め、イギリスがインドの綿織物で稼ぎ始めた話でした。今回の舞台は、ちょうどその頃に厳格なムスリム皇帝アウラングゼーブが亡くなったあとのムガール帝国です。
楊さんによると、アウラングゼーブ帝の死後、ムガール帝国は遠征で戦っていた敵にデリーを包囲されるほど弱くなり、帝国の権威も落ちていきます。
皇帝の交代の速さにも、ムガール帝国の混乱ぶりが表れています。初代バーブルからアウラングゼーブまでのおよそ200年で即位した皇帝は6人でしたが、アウラングゼーブの死後50年で皇帝は10人も入れ替わりました。
ムガール帝国が弱くなった理由として、楊さんが最初に挙げたのは後継者争いです。兄弟で殺し合うたびに国は無防備になり、分裂し、優秀な人材も失われていきました。
同じ遊牧民出身のオスマン帝国は、メフメト2世が「皇帝になったら兄弟を殺してよい」とルール化したことで混乱が少なかったと本に書かれていたそうです。この説明に、深井さんは納得がいかない様子でした。
王位継承においてのリスク要因になりそうな兄弟が複数いたらさ、じゃあ物理的に排除するっていう。それ(兄弟殺しのルール)解決っていうか、OKって言っただけでしょ。
楊さんがもう一つの大きな理由と見るのが、皇帝直属の側近の不在です。オスマン帝国にはデヴシルメ ── オスマン帝国で、キリスト教徒の少年を集めてムスリムに改宗させ、エリート教育を施して官僚や常備軍に登用した制度で育てた宰相やイェニチェリ ── オスマン帝国の常備歩兵軍団。デヴシルメで集められた少年たちが主力となり、皇帝直属の精鋭として知られましたがいて、皇帝の手足として動きました。
中国にも、建前上は皇帝の言うことしか聞かない宦官 ── 去勢された男性の官吏。中国の宮廷では皇帝の身近に仕え、時に大きな政治的影響力を持ちましたがいました。楊さんは、中国の王朝が数百年続いたのは官僚・皇帝・宦官の三つ巴のバランスがあったからだという感覚を語ります。
一方のムガール帝国では、高官の多くが貴族出身で、貴族の力が強かったといいます。そのため専制君主制を進めようとしても反発やコストが大きく、帝国を弱める要因になったと説明されています。
(側近を)作れなかったというか、作ろうと思わなかったってことなのかな。
出遅れたフランスと「4人に1人が死ぬ」東インド会社
弱っていくムガール帝国に対して、インドへ進出してきたのがイギリスとフランスです。フランスは他国が貿易で儲けているのを見て、自分たちもやらなければと参入しました。
フランスがインド洋に姿を現したのは1520年代で、ポルトガルなどから数十年遅れでした。1604年に東インド会社を作ったものの長続きせず、本格的に作り直したのは約60年後の1664年です。
作り直しを主導したのは、フランスの政治家コルベール ── 17世紀フランスの財務総監。ルイ14世のもとで重商主義政策を進め、東インド会社の再建にも関わりましたです。フランス東インド会社は1674年にインドのポンディシェリーを購入し、ここをインドにおける拠点として綿や絹織物の取引を進めました。
ただし、イギリスもフランスも、東インド会社の経営は最初の50年ほど不振だったといいます。その大変さを示す例として、楊さんはオランダ東インド会社の従業員の死亡率を紹介しました。
オランダ東インド会社では、航海や武力闘争、疫病によって従業員の4人に1人が死んでいたそうです。死んでは新規採用するという、ほぼ使い潰しの状態で回っていました。
え、ブラック企業やん。
すごいね。初期の株式会社のヤバさ。
オランダだけでは人が足りず、ドイツなど外国からも一旗揚げたい若者を集めました。実際には浮浪者やチンピラも多く集められ、海の藻屑と消えていったと語られています。
カーナティック戦争で露呈したインドの弱さ
インドに進出したフランスとイギリスは、ヨーロッパで起きたオーストリア継承戦争 ── 1740年から48年にかけて、オーストリアのマリア・テレジアの継承をめぐって欧州諸国が争った戦争。プロイセンのフリードリヒ2世がシュレジエンを奪いましたで敵味方に分かれます。その戦いがインドへ飛び火したのが、第一次カーナティック戦争です。
第一次カーナティック戦争では、フランス軍の戦略が当たってイギリスを上回り、南インドでフランスの威信が高まりました。
楊さんが挙げるポイントは3つです。戦争が本国由来だったこと、この段階ではフランスが優位だったこと、そしてカーナティック地方の太守が巻き込まれてフランスと戦い、インド側がヨーロッパの軍隊に全く歯が立たないとわかってしまったことです。
清、列強と清が戦った時に清弱えじゃんってなったのと同じ。
逆にインド側からは「こいつら強いんだ」と見えたものの、まだ支配される恐怖心を持つ段階ではなかったといいます。
第二次カーナティック戦争は、性格がまったく違います。ハイデラバードとカーナティックの有力者の後継問題に、フランスもイギリスも自分寄りの人物を据えようとし、危機感を募らせたイギリスが開戦しました。
結果はハイデラバードの後継者をフランスが、カーナティックをイギリスが押さえる引き分けのような形でした。ただ楊さんは、フランスの優位が崩れ始め、外国勢力がインドの政治にナチュラルに介入し始めた点が重要だと強調します。
プラッシーの戦いは会社によるクーデターだった?
イギリスの優位を確定させたのがプラッシーの戦いです。イギリス東インド会社は、親フランス的だったベンガル太守を引きずり下ろし、親イギリス的な人物を立てようとして戦いになりました。
兵力はベンガル太守軍5万に対し、イギリス軍2400でした。それでも戦いはあっけなくイギリスの勝利に終わっています。
楊さんは、プラッシーの戦いは現太守を軍事力で倒して傀儡を置いたクーデターにすぎないと指摘します。それをムガール帝国が何も言えないほど弱っていたことも、この戦いから見えてきます。
この戦いを主導したのは国ではなく、国から独占権を委任された東インド会社でした。国王が領土を広げる戦争とは違い、会社がビジネスの延長で自分たちに都合のよい状況を作るために戦ったことに、驚きの声も上がります。
プラッシーの戦いでベンガルが親イギリスになったことは決定的で、フランスはほぼインドから駆逐されました。続く第三次カーナティック戦争でもフランスは敗れ、ポンディシェリー以外から撤退します。
第一次カーナティック戦争
フランスが勝利し、インド側の弱さが露呈
第二次カーナティック戦争
後継問題への介入で引き分け、フランスの優位が崩れ始める
プラッシーの戦い
イギリスがベンガル太守を交代させ、優位が確定
第三次カーナティック戦争
フランスがポンディシェリー以外から撤退
徴税権ディワーニーで「支配」のフェーズへ
傀儡として立てたベンガル太守の次の代は、東インド会社に反発します。これに対してイギリスが戦いを挑んだのがブクサールの戦いで、ここでついにイギリスはインドと正面から戦うことになりました。
ブクサールの戦いに勝ったイギリスは、ベンガル、ビハール、オリッサの徴税権を要求します。この徴税権はディワーニー ── 徴税や財務を管理する権利を指す現地の言葉。ブクサールの戦い後、東インド会社がベンガルなどで獲得しましたと呼ばれ、楊さんはここからフェーズが変わると繰り返します。
港や拠点を押さえていたポルトガルや、香料諸島で生産していたオランダとは違い、イギリスはインドの税金そのものを徴収するようになりました。司法権や警察権も実質的にイギリス人が握り、行政業務だけをインド人が担う形です。
税を払わせるには軍事的な脅しが必要だったため、イギリスはインドで軍隊を持つようになり、会社軍が生まれます。公共サービスを提供するわけでもなく税を取るその姿は、番組内でみかじめ料やヤクザのフロント企業にたとえられました。
このときムガール皇帝は、東インド会社から年金をもらって懐柔されていたといいます。
徴税権を得たイギリスは、一気に儲かるようになります。それまでは綿を買う元手を用意する必要がありましたが、現地で集めた税金で綿を買ってヨーロッパで売ればよくなったからです。
元手を用意してインドの綿を買い、ヨーロッパで売る
インドで徴収した税金で綿を買い、ヨーロッパで売る
進出を後押しした戦費不足とアメリカ独立
イギリスがインドへ深く入り込んだ背景には、ビジネスの利益以外の事情もあったと語られます。当時のヨーロッパ諸国は、戦争資金をどう確保するかが共通の課題でした。
戦艦、要塞、銃などの新しい武器の登場で戦争コストが跳ね上がり、列強には権益を取り続けなければならない構造がありました。さらにイギリスは、アメリカ独立戦争で植民地アメリカを失い、財源に穴が開いていました。
ああ、それ(アメリカ独立)ぐらいの時期なんや。
会社軍の多くは現地で雇った傭兵で、イギリス人より人数が多い存在でした。そこでイギリスは得意の分断統治を用い、高位カーストを優遇し、不可触民を排除するやり方で、もともとあった差別をさらに強化していきます。
インド成金「ネイボッブ」の優雅すぎる一日
徴税で儲かるようになった時代に現れたのが、インド成金と呼ばれるネイボッブです。辞書では、18世紀から19世紀初めのインドで大金持ちになって帰国した英国人と説明されています。
ネイボッブという呼び名は尊敬ではなく、むしろ蔑称でした。彼らはインドの有力者から金品を受け取り、横領も重ね、東インド会社自体は結局あまり儲からず、本国の出資者が怒っていたといいます。
楊さんが読み上げた記録では、ネイボッブは朝8時に大勢の従者に迎えられ、自分では何もせず着替えさせてもらい、散髪されながら朝食をとります。10時に事務所へ行き、午後2時に帰ってくる、と揶揄的に描かれていました。
一日やってみたいな。
実際にはもう少し忙しかったそうですが、あるネイボッブは62人の従者をインドに残してきたと語り、多くの家庭が100人もの人を雇っていたといわれます。雇われた側はお金がもらえたし、ナショナリズムもまだなかったのでは、という見方も出ていました。
藩王国と軍事保護同盟という「ハメ技」
アウラングゼーブの死後に独立傾向を強めた各地の領主を、東インド会社軍はマイソール戦争、マラーター戦争、シク戦争などで次々に破っていきます。
イギリスは征服した国に一定の自治権を認めつつ支配下に置き、こうして生まれたのが藩王国です。インドはイギリスに支配されながらも統一されていない状態になりました。
地方勢力を絡め取る手段として、イギリスは軍事保護同盟を結びます。国を守る代わりに軍を駐留させ、その費用を負担させる仕組みです。
同盟締結
守る代わりに軍の駐留と費用負担を求める
内政干渉
巨額の軍事費を要求する
経済破綻
相手国の財政が行き詰まる
領土割譲
結局イギリスに領土を差し出す
産業革命で逆流した綿と三角貿易
藩王国が生まれた頃、意図しない形でさらに深刻なことが起こります。イギリスで産業革命が進み、蒸気機関や紡績機の実用化によって、インドよりも安い綿をイギリス本国で作れるようになったのです。
かつてイギリスの中上流階級が買っていたインドの綿は競争力を失い、逆に安いイギリス産の綿がインドに流れ込みました。インドの産業は打撃を受け、多くの人が職を失って貧困に陥ります。
楊さんによると、ダッカの街では人口が大きく減り、木綿織り職人たちの骨がたくさん落ちていたという記述まで残っているそうです。
一方で、インドの綿が本国で売れなくなると東インド会社も困ります。そこで会社はジュート、コーヒー、そしてアヘンをインドで作り、その売り先として中国を選びました。これが三角貿易 ── イギリス・インド・中国を結んだ19世紀の貿易構造。インド産アヘンを中国に売り、その銀で中国茶を買う仕組みでしたです。
イギリスでは中国の茶が大流行していた一方、中国はイギリスの商品を必要としていませんでした。イギリスはアヘンを密輸し、それを止めようとした清に戦争を仕掛けて売り込みます。楊さんは、今のビジネスパーソンはだいぶマシになったと語り、ソーシャルビジネスの対極にある姿として当時を振り返りました。
自由主義、「インド人」意識、そして統治する会社へ
イギリスの支配は、インドに自由主義も運び込みました。男女平等やカースト批判、英語教育などが広がりましたが、その背景には有色人種を「遅れた社会」とみなし教育してあげるという進歩史観がありました。
番組では、経済学者のケインズ ── 20世紀イギリスを代表する経済学者。『雇用・利子および貨幣の一般理論』で知られ、若い頃はインド省に勤めましたがインドでキャリアを始め、インドの貨幣や金融の制度を調べて本を出したことも紹介されます。
また、ジャーティやヴァルナ、宗教、地域でばらばらだった人々のあいだに、イギリス人という異質な統治者が現れたことで、「インド人」という概念が生まれたのもこの時期だといわれます。
産業革命で台頭した新しい富裕層は、東インド会社の貿易独占に反発し、自由市場を求めました。その結果、東インド会社の商業活動は停止され、会社の仕事はインドの統治そのものになります。ベンガル総督はインド総督となり、ベンガルを中心とした植民地支配が進められました。
インドとの貿易を独占する商業会社
商業活動を停止し、インド総督のもとで統治を担う組織
インドの人々もただ黙っていたわけではなく、各地で何十もの反乱を起こしていました。それが次回扱うインド大反乱へつながっていきます。
内部ストーリーと外部ストーリーのずれ
振り返りでは、前々回までのムガール帝国の宮廷の話と、今回のイギリスの話では世界観がまるで違って見えるという感想が出ます。楊さんは、同じ時代・同じ場所の話でも、インドの内部ストーリーとイギリスの外部ストーリーが別々に存在していたと整理します。
楊さんによると、外部環境の変化に対応できず、自分の思い描いたストーリーを描けなくなるのは、会社でもよく起こることだといいます。アジアとヨーロッパの勢力均衡が崩れる瞬間だという指摘もありました。
最後に楊さんは、批判すべきはイギリスそのものではなく植民地主義だと語ります。日本も同じことをしていたと触れつつ、その構造を理解して繰り返さないことが大事な学びだとまとめました。
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まとめ
今回のエピソードは、後継者争いと側近の不在で弱ったムガール帝国に、イギリス東インド会社が商業から徴税、そして統治へと踏み込んでいく過程を描いています。その先には次回のインド大反乱が待っています。
- ムガール帝国は兄弟間の後継者争いと皇帝直属の側近の不在で弱体化した
- カーナティック戦争とプラッシーの戦いで、フランスが退きイギリスの優位が確定した
- 徴税権ディワーニーの獲得で、東インド会社は交易から支配のフェーズに入った
- 産業革命で安いイギリス綿がインドに流入し、インドの綿産業は大打撃を受けた
- 批判すべき対象は特定の国ではなく植民地主義の構造だと語られた




