なぜ「セポイの乱」ではなく「インド大反乱」なのか
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ムガル帝国編の12回目は、イギリスによる植民地支配に対するインドの抵抗から始まります。楊さんによると、インドの人々は植民地支配が始まってから、主なものだけでも数十の反乱を起こし続けていました。
それらの反乱は、部族民の蜂起、宗教運動、農民運動などさまざまな形を取りました。ただ、どれも大々的なものにはならなかったといいます。楊さんはその理由を、インド人がもともとまとまっていないうえに、イギリスの分断政策も受けていたためだと説明します。
その中で、かなり規模が大きかったのがインド大反乱です。楊さんが高校生の頃は「セポイの乱」と習ったそうですが、最近の歴史学ではインド大反乱と呼ばれているといいます。
呼び名が変わった理由は、参加者の幅にあります。セポイ ── イギリス東インド会社に雇われたインド人兵士のこと。ペルシア語由来の「シパーヒー」が英語風になまった呼び方ですやシパーヒーはイギリスに雇われたインド兵を指しますが、この反乱にはインド兵以外の人々も多く加わっていたため、インド大反乱という呼び方に変わってきているそうです。
楊さんは、この大反乱がそれまでの反乱の集大成のようなものだったと話します。そして過去の反乱と明確に違う点が1つあり、それはムガル皇帝を擁立して反乱したことでした。
これ(皇帝の擁立)、意味としては国がやってるってことになるってこと?
楊さんの答えは、ムガル帝国がイギリスに反乱しているように見えるようにした、というものです。年金を受け取って暮らしていた名ばかりの皇帝が、国を挙げての反乱の旗印に据えられたことになります。
油を塗った紙の包みが、なぜ反乱の引き金になったのか
インド大反乱のきっかけは、楊さん自身も意外で面白かったという「エンフィールド銃問題」です。カルカッタ近郊のダムダムに駐屯するインド兵に、新しいライフル銃としてエンフィールド銃が配られました。
エンフィールド銃は、火薬を詰めて撃つ銃です。火薬は薬包と呼ばれる紙の袋に入っていて、兵士はこれを歯で噛み切って火薬を入れる必要がありました。
問題は、その薬包の紙に塗られた油でした。インド兵の間で、この油が牛と豚の油だという噂が流れます。楊さんによると、実際にそうだったらしいといいます。
牛の油ならヒンドゥー教徒にとって禁忌であり、豚の油ならイスラム教徒が穢れることになります。エンフィールド銃の薬包は、両方の宗教のタブーを同時に犯すものだったわけです。
両方の宗教のタブーを犯してしまう。えー、ちょっとそんなところで。
インドの人々はこの噂を、イギリスの陰謀でカーストから外されるという感覚で受け止めたそうです。例えばバラモンが牛の油を口にすれば、禁忌を犯したとしてカーストを失うことになります。
楊さんは、この危機感は信仰というより「生活ができなくなる」という感覚に近いと説明します。ポルトガルやオランダが来ていた頃は生活を変える必要はありませんでしたが、イギリスが領土を統治し、徴税権を獲得してからは生活そのものが壊されていきました。
不満の種はほかにもありました。海外派兵の噂もその1つで、ヒンドゥー教徒にとってインダス川より向こう、ヒンドゥスタンの外へ出ることは宗教的に禁じられていたといいます。
さらにイギリスは、藩王国 ── イギリス支配下のインドで、現地の君主が一定の自治を認められていた国々。最盛期には500以上あったとされますに跡継ぎがいない場合、その領土を東インド会社が没収するというルールを突然作ります。これに藩王国の貴族たちが強く反発しました。
生活の破壊
イギリスの領土統治と徴税で、在来の暮らしが崩れる
エンフィールド銃
牛と豚の油を塗った薬包の噂で、カースト喪失の危機感が広がる
海外派兵の噂
インダス川の向こうへ出ることへの宗教的な忌避
藩王国の没収ルール
跡継ぎがいなければ領土を奪われることに貴族が反発
大反乱
生活を壊された人々がいっせいに立ち上がる
楊さんは、イギリスが越えてはいけないラインを段階的に越えていったと話します。深井さんはこの反乱を、日本でいえば一揆のようなものだとたとえています。
カーストを失うことは実際に起こりうる話でした。バラモン出身のインド兵が、戦場で不可触民の少女から水をもらって飲んだだけでカーストを失い、家に入ることも、周りの人と口をきくこともできなくなった例があるといいます。
だから(カーストを失うと)生活基盤から外されるんですよね。
回るチャパティと担がれた82歳の皇帝
インド大反乱の前には、不思議な予兆があったそうです。北インドで主食とされる丸い種なしパン、チャパティ ── 小麦粉を水でこねて薄く焼いた、発酵させない平たいパン。北インドでは日常の主食として食べられていますが、村から村へと回されていたといいます。
チャパティが回される意味はよくわかっていません。ただ楊さんによると、以前の反乱の前にもこの現象が起きていて、大反乱の前にも起きていたという記録が残っているそうです。街には「イギリスが滅びるのは今だ」と語る預言者も現れました。
そして1857年、デリー近郊で東インド会社に雇われていたインド兵が反乱を起こします。薬包を噛んでしまい、もう家に帰れないと追い詰められた兵士たちは、監獄を襲って仲間を救い出し、イギリス人将校を射殺しました。
反乱したインド兵たちは約60キロ離れたデリーへ向かい、その途中でさまざまな人々が加わっていきます。イギリス人居住区や武器庫を襲い、翌日にはデリーを占拠したといいます。
デリーを占拠した反乱軍が担ぎ出したのが、当時のムガル皇帝バハードゥル・シャー2世です。82歳で年金生活を送っていた皇帝は、担がれることを全く望んでいませんでした。それでもインド兵のすごい剣幕に押され、仕方なく立ったそうです。
深井さんは、皇帝は形の上ではイギリスに権力を奪われた旧支配者であり、シンボルとしての機能はあるとみなされたのだろうと話します。
各地の有力者も立ち上がりました。藩王国の1つジャンシー王国の王妃ラクシュミー・バーイーも戦いに加わり、最後は戦死しています。彼女は「インドのジャンヌ・ダルク」と呼ばれているそうです。
一方で、すべてのインド人が反乱に加わったわけではありません。深井さんによると、西洋化した一部の知識人はイギリスの進歩的な政策に期待し、皇帝を担ぐ反乱者を冷ややかに見ていました。ベンガル地方や南インドなどでは反乱は起きず、パンジャブ地方のシーク教徒はイギリスに味方したといいます。
楊さんは、インド全体がまとまれないのは毎回のパターンだと指摘します。ラージプート同士が争っている間にティムールやバーブルが攻めてきた時と同じように、内部の争いから抜け出せなかったというわけです。
ムガル帝国はこうして名実ともに滅んだ
デリーを失ったイギリスは、多くの拠点を奪われ劣勢に立たされます。しかし、西のパンジャブ地方と東のベンガル地方は支配下に残っていました。
パンジャブとベンガルという海に近い地域を押さえていたことで、イギリスは援軍を送り続けることができました。楊さんによると、これによってイギリスが徐々に粘り勝ちしていったといいます。
イギリスはデリー奪還に全力を注ぎ、1週間にわたる市街戦の末にデリーを取り戻します。ただしイギリス側も、司令官と4分の1の兵を失う痛手を負いました。
反乱をしたくなかったバハードゥル・シャー2世は捕らえられ、有罪を宣告されてミャンマーへ追放されます。楊さんは、ほぼ滅びていたムガル帝国が、皇帝がいなくなったことでここに名実ともに滅びたと語ります。
蜂起
デリー近郊でインド兵が反乱し、イギリス人将校を射殺
デリー占拠
参加者を増やしながら翌日にはデリーを占拠し、皇帝を擁立
イギリスの反撃
パンジャブとベンガルから援軍を送り、1週間の市街戦でデリーを奪還
帝国の終焉
皇帝がミャンマーへ追放され、ムガル帝国が名実ともに滅ぶ
楊さんはインド大反乱を、長年続けてきた生活や在地社会を侵害される恐怖に対して起こした最大の反乱だったと位置づけます。一方で、後のインド民族独立運動の第一歩と捉えることもできるといいます。
インド大反乱は広い地域で1年以上続きました。楊さんは、失敗したとはいえ、当時のインドの人々は世界を少しでも動かせたという経験を持てたのかもしれないと話します。
楊さんが重要だと強調するのは、インド大反乱がナショナリズム的ではなかったという点です。
自分の生活が壊されるから立ち上がり、以前の暮らしを取り戻そうとした
国民としてまとまり、国民国家をめざして立ち上がる
「マネジメントを間違えた」というイギリスの反省
インド大反乱を受けて、イギリス政府は反省します。楊さんは、その反省の仕方がとてもイギリスらしく、日本人ならこういう考え方はしないだろうと話します。
反乱ではイギリス人もインド人も互いに残虐な行為をし、両者の間には深い溝が生まれました。それまでのイギリス人は、啓蒙主義 ── 理性による知識の普及で人間や社会を進歩させられるとする18世紀ヨーロッパの思想。植民地支配を「文明化」とみなす根拠にもなりましたやリベラリズムを背景に、教育さえすれば植民地経営はうまくいくという楽観的な見通しを持っていたといいます。
その結果が大反乱だったため、イギリス人はマネジメント方法を間違えたと反省します。そして東インド会社による統治をやめ、イギリス本国が統治する形に切り替えました。
もう1つ強まったのが「劣等人種」という考え方です。人種で優劣を決める考え方はもともとありましたが、それまでは教育すれば何とかなるかもしれないと考えていました。大反乱のあと、イギリス人は劣等人種はどれだけ教えてもだめなのだと考えるようになったそうです。
教育すれば導ける。東インド会社が啓蒙主義的に経営する
教育してもだめな人々を相手にしていると考え、本国が統治方法を変える
マネジメント方法だけなんだっていう、ちょっとね、びっくりする。もっと根本的なところあるだろ。
楊さんは、今の視点からはそう突っ込めると応じます。人種が劣っているから失敗した、だからマネジメント方法を変えなければいけない、という考え方だったということです。
インド哲学への称賛が「アーリア人」の誤解を生んだ
楊さんがイギリス的だと感じたのは、あくまでマネジメントに目がいく点です。管理することへの意識の強さに驚いたといいます。人種差別の部分については、今では世界的によくないという合意があると話します。
人種の話に戻ると、楊さんが滑稽だと感じる出来事があります。植民地支配が始まると、イギリスの知識人たちは支配を効率よくするためにインドの文化やサンスクリット語を学び始めました。
するとイギリスの知識人たちは、インド哲学がすごいことを言っていると気づきます。しかし彼らの見方では、インド人は劣等人種です。劣等人種がなぜすごいことを言えるのか、というところで話がおかしくなります。
発見
イギリスの知識人がサンスクリット語を学び、インド哲学のすごさに気づく
矛盾
「劣等人種」がなぜ優れた思想を持つのかという疑問が生まれる
こじつけ
サンスクリット語を使った祖先アーリア人は、自分たちと同じ祖先だったとする
結論
優れた性質はヨーロッパに受け継がれ、インドでは混血で劣化したとする
楊さんによると、これはヨーロッパ人が自らをアーリア人と名乗るという珍現象につながり、ナチスも「優れたアーリア人」を唱えました。実際には、ヨーロッパの人もインドの人も、さまざまな人の血が混ざる中にアーリア人の血も入っているにすぎないといいます。
言語についても勘違いがありました。サンスクリット語とヨーロッパの言語のルーツが同じという点はあっても、サンスクリット語が大本なのではありません。楊さんは、サンスクリット語はパーニニがヴェーダ語から整えたものだと説明します。
インド哲学すげえってなった後のこじつけ方がすげえなと思ったんですよ。
楊さんは、差別はヨーロッパの人だけでなくすべてのホモ・サピエンスがしているものだと理解しつつ、有色人種を劣っているとみなす人種差別は今も根強く残っていると話します。
インド大反乱の直前には、イギリスでハーバート・スペンサー ── 19世紀イギリスの思想家。生物の進化論を社会に当てはめた社会進化論を唱え、「適者生存」という言葉を広めましたの論文「発達仮説」が出ています。強い社会や民族が弱いものを征服して進化していくという社会進化論は、帝国主義を正当化する理論として使われました。
ヴィクトリア女王の直接統治は何を変え、何を変えなかったのか
インド大反乱のあと、東インド会社は全権限をイギリス王家に献上して解散します。インド、パキスタン、バングラデシュ、今のミャンマーにまで及ぶ広い地域が、ヴィクトリア女王の名において直接統治されることになりました。
楊さんによると、ヴィクトリア女王は東インド会社のマネジメントが悪かったと謝るような宣言を出します。藩王国の継承権を奪うことや、インド人の信仰を無視することはしないと約束し、公共事業や人民の幸福にも取り組む姿勢を示しました。
支配するっていう大まかな枠組みは変えずに、やり方だけちょっと変えますよっていう宣言ですよね。
楊さんは、イギリスがインドをドル箱として使っていて、それを利用するのに一番よい状態を保とうとしたのだろうと答えます。
軍隊も再編されます。反乱を起こしたインド兵の数を大幅に減らし、ヨーロッパ出身の兵を増やしました。砲兵隊のような強力な部隊はすべてイギリス人の部隊に変えたといいます。
さらにイギリスは、パンジャーブのシーク教徒やネパールなど、比較的忠実な地域の兵を中心に据えました。カーストや宗教を基準に部隊を編成し、インド兵同士が互いに反目して連携できないようにする仕組みを強めていきます。
イギリスのエリート教育からガンディーが生まれた
植民地支配のもとで、インドは経済的にも発展していきました。鉄道や電信、水路が作られ、特にカルカッタ、ボンベイ、マドラスといった植民地都市は目覚ましく発展したといいます。
鉄道の建設が急ピッチで進められた背景には、反乱に備える軍事目的もあったそうです。都市では中間層が厚みを増し、大学で英語教育を受けたエリートも出てくるようになりました。
楊さんは、そのエリートの中からガンディーが出てくると話します。イギリスがエリート教育を施した人々から、非暴力で独立に導くガンディーが生まれたわけです。
まあね、皮肉というか、なんというかね、自分たちで反乱の種を育てて。
楊さんによると、イギリスには自由で平等な社会をめざすリベラリズムの考え方がありました。しかしイギリスはそれをインドには適用していません。リベラリズムを学んだインド人は、なぜインド人はだめなのかと考えるようになります。
楊さんは、同じことが日本にも黒人の人々にも起こったと指摘し、思想の流入は止められないと語ります。力をつけた中間層がイギリス統治に反発し、やがて非暴力で独立に至る歴史は、ガンディー編に続いていきます。
楊さんは、ガンディーがヒンドゥー教の聖典バガヴァッドギーターを読んでいたことにも触れます。ガンディーのサティアグラハ ── ガンディーが提唱した非暴力の抵抗運動の理念。サンスクリット語で「真理の把握」を意味しますは、シリーズ冒頭で扱ったアーリア人の生活感覚から来ているとし、そのつながりが自分の中でエモいと話しています。
支配者が変わっても、民衆の暮らしは変わらなかった
本編を終えた出演者は、インドの通史を振り返ります。楊さんによると、国単位でほぼ全部の通史をやったのは初めてで、パンゲア大陸の時代から現代のGoogle CEOスンダル・ピチャイまでを扱ったといいます。
楊さんがインドを学びたいと思った一番のきっかけは、インドが今すごく伸びている国だからでした。仏教を学んでいたこともあり、インド哲学との違いにも関心があったそうです。
その違いの詳しい話は、ポッドキャストのレベルを超えるため今回はほとんどしていないといいます。それでも、アートマンという自己の概念のルーツや、ヤージュナヴァルキヤの言葉とブッダの言葉のつながりを感じてもらえたならよかった、と楊さんは話します。
支配者が次々に変わっても続いてきたものについて、楊さんはジャーティを挙げます。ムガル帝国時代のムスリムは全体から見れば多くなく、民衆は統治者が変わってもジャーティを基礎に同じ暮らしを続けていたといいます。
一方で、統治者が変わるたびに新しい要素も入ってきました。楊さんは、タージマハルのようにムスリムの要素がなければ作れない建築も生まれたと話します。深井さんは、言葉も宗教も違う支配層が上に立つ構造はユーラシアの国ではよくあることだと補足します。
どうしてもヨーロッパの歴史とか日本の歴史に比べて、この辺のやつってやっぱ遠いっすよね。普段生活してたら。
楊さんは、地理的にはヨーロッパよりインドのほうが近いのにと応じ、その距離が今回で縮まればいいと話します。インドの歴史は面白さよりも、知っているだけで意味があるシリーズだったというのが楊さんの感想です。
大陸国家のメンタリティと、多様性の二面性
ユーラシア大陸と島国の日本では、メンタリティが大きく違うという話も出ます。平原が広い大陸では、馬さえ使えばどこまででも行けます。逆にいえば、どこからでも攻められるということです。
そうした環境では、いつどこから攻められるかわからないという危機感が生まれます。その結果、国土を広げることが安全保障上いちばん大事になるといいます。
確かに塀のすぐ外に敵の国あったら怖いけど、塀からだいぶ離れてたら心理的安心感があるから。
言葉が通じず、異なる文化の相手が周りにいるからこそ、防御として同じかそれ以上の激しいことをする必要があった、という見方も示されます。ただしこれは今のユーラシア諸国の政策を肯定するものではなく、あくまでメンタリティの話だと断られています。
樋口さんは、インドがまとまらない理由として多文化と多様性を挙げます。その性質はトラブルの時にはまとまれないというデメリットになりますが、現代の市場経済ではメリットとして働いているのではないかと話します。
楊さんは、中央集権が進めば国は強くなる一方で、文化的な多様性が失われて規格化されやすいと応じます。樋口さんは、インドという1つの国をヨーロッパくらいの広さで考えたほうがいいという感覚を得られたことも大きかったと振り返ります。
70〜80冊から選んだ3冊と、自分で学び続けること
インド通史のために、出演者たちは合わせて70冊から80冊ほど読んだのではないかと楊さんは話します。その中から紹介されたのは3冊です。
- 『世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ』(中公文庫)
- 『カーストとは何か インド「不可触民」の実像』(中公新書)
- 『インド哲学七つの難問』(講談社選書メチエ)
1冊目は佐藤雅紀先生、中里成昭先生、水島司先生らによる通史で、ムガル帝国から英領インドへの流れをつかむのに向いているといいます。2冊目は鈴木麻弥先生の本で、楊さんは細かい具体例も多く、みんな読んだほうがいいと勧めます。
3冊目は宮本恵一先生の本です。楊さんは簡単ではないとしつつ、読んで余裕だったか、難しかったがわかったか、全くわからなかったかを教えてほしいと呼びかけます。その反応によって、今後の選書が変わるかもしれないそうです。
キュレーションしてるだけなんで、多分これだけで学び終わったっていう感覚になられるとちょっと違うなっていう。
楊さんも、学びは一生続く生涯学習だと応じます。最後に、コテンラジオとCOTENの活動は、広告やスクール事業、出版をあえて行わずCOTEN CREWの支援で成り立っていることが紹介され、月額1000円以上での参加が呼びかけられました。
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まとめ
インド大反乱は、宗教と生活を壊されることへの恐怖から広がり、ムガル帝国を名実ともに終わらせました。反乱後のイギリスは統治を本国に移しましたが、支配の枠組みは変えず、その中で育ったエリートから後の独立運動が生まれていきます。
- エンフィールド銃の薬包に塗られた牛と豚の油の噂が、カースト喪失の危機感を生み、大反乱の引き金になった
- 反乱軍に担がれた82歳の皇帝バハードゥル・シャー2世が追放され、ムガル帝国は名実ともに滅んだ
- インド大反乱はナショナリズム運動ではなく、以前の生活を取り戻そうとする反乱だった
- イギリスは反乱を「マネジメントの失敗」と捉え、人種差別を強めながら統治方法を変えた
- イギリスが施したエリート教育と思想の流入が、やがてガンディーの非暴力独立運動につながった







