なぜヨーロッパは命がけで海へ出たのか?
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ムガル帝国編の前回は、アウラングゼーブ帝の時代に最盛期を迎えたムガル帝国が、同時に衰退へ向かい始めた話で終わりました。今回は時代を遡り、イギリスがインドへ進出してくる前段階として、ヨーロッパの大航海時代から話が始まります。
楊さんの説明では、ヨーロッパの人々はそれまで、中央アジアやトルコ方面のムスリム商人を介して、アジアの絹、紙、香辛料、陶磁器を仕入れていました。
ムスリム商人という中間業者が1つ挟まる分、マージンが乗って値段は高くなります。ヨーロッパにとってアジアの品々は、欲しいのに買えない金額のものが多い状態でした。
そこでヨーロッパ諸国は、イスラム世界を介さずにアジアへ行く手立てとして、命がけの航海に乗り出します。アフリカ南端の喜望峰 ── アフリカ大陸南西端の岬。1488年にポルトガルのバルトロメウ・ディアスが到達し、インド航路開拓の足がかりとなりましたを回ってアジアへ向かうルートを最初に見つけたのがポルトガルでした。
ヴァスコ・ダ・ガマは本当に「インドを発見」したのか
ポルトガルの探検家ヴァスコ・ダ・ガマがインドに来航したのは1498年で、到着したのはインド西南部のカリカット、現在のコジコードです。名前は似ていますが、カルカッタとは別の街です。
深井さんによると、ポルトガル王マヌエル1世 ── 15世紀末から16世紀前半のポルトガル王。インド航路の開拓など海外進出を推進し、ポルトガルの繁栄期を築きましたが探検や商業の発展を積極的に支援し、その流れの中でヴァスコ・ダ・ガマが抜擢されました。7月にリスボンを出発し、到着まで10か月ほどかかり、乗組員の半分ほどが亡くなる過酷な航海だったといいます。
楊さんは、子どもの頃に習った「インドを発見した」という言い方を西洋史観だと指摘します。アジア側から見れば、インドではすでにムスリム商人やさまざまな言語を話す人々がグローバルに交易をしていて、そこへかなり後から来た人たちが加わっただけでした。
深井さんも、当時のユーラシアにはイスラム帝国、インド、中華王朝があり、世界のGDPの大半を担っていたと補足します。ヨーロッパは、アジアから見れば経済や文化のレベルがやや低い地域だったという見方です。
喜望峰を回る新航路でインドを「発見」した偉業
国際市場がすでにある場所へ、欲しい商品も持たない後発の人たちが来ただけ
命がけで遠いアジアまで来た理由は経済だけではありませんでした。東方のどこかにキリスト教徒の指導者プレスター・ジョン ── 中世ヨーロッパで信じられた伝説上の人物。東方にキリスト教国を治める王がいるとされ、探検の動機の一つになりましたがいるという伝説があり、その人物を探す宗教的な情熱も航海を後押ししていたと語られます。
投資の3000倍を持ち帰った香辛料貿易と、しょぼすぎた贈り物
経済的な動機について、深井さんは香辛料の利益率の高さを紹介します。航海費用の60倍の価値があるコショウ、シナモン、クローブを持ち帰ったという記述や、『ユーラシア帝国の興亡』にある、投資者が払ったコストの3000倍の値打ちの交易品を持ち帰ったという記述です。
100万円を投資すれば30億円になって返ってくる計算で、楊さんも「投資リターンめちゃくちゃやばい」と驚きます。
だから、当時のこの交易ルートを開拓しようとしているヨーロッパの人にとっては、人が何人か死んだって別にいいんですよ。本当にそういう風に書かれてあったんですね。
カリカットは胡椒の輸出港として栄えたインド洋貿易の中心地の一つで、ヴァスコ・ダ・ガマが着いたとき、街にはスペイン語やジェノヴァ語を話せる人までいました。グジャラート地方の綿布や藍、スリランカの宝石、中国の絹や陶磁器なども取引されていました。
楊さんによると、インド洋は誰でも自由に行き来できる海として扱われ、陸軍大国だった当時のインドの支配者たちも、自由な貿易のほうが得だと考えていました。そこへ来たポルトガルだけが、交易を独占するという感覚を持っていたといいます。
ヴァスコ・ダ・ガマはカリカットの支配者ザモリンと関係を結ぶため贈り物を持参します。縞模様の布12枚、黄色の頭巾4枚、帽子6個、珊瑚の首飾り4本、洗面器6個、砂糖1箱、油2樽、蜂蜜2樽という内容でした。
ところがザモリンの召使いはこれを大笑いし、「これは王に差し上げるような品物ではない。メッカやインドの他の土地の最も貧しい商人でさえ、もっといろいろ持ってきた」と言い、貢ぎ物なら黄金でなければならないと返したと、深井さんは記録を紹介します。
まあね、これ(贈り物のリスト)文面で見たらね。俺でもしょぼって思う。
楊さんは、ヨーロッパの品がアジアで通用しないことがわからなかった点を指摘し、どうしても買ってもらえないヨーロッパはやがて武力に頼る方向へ進むと語ります。実際、ヴァスコ・ダ・ガマは後に再びカリカットを訪れ、大砲で街を砲撃し、ムスリム商人を実力で排除しようとしたといいます。
人口150万人の小国ポルトガルは、どう海を押さえたのか
ポルトガルは商業的な独占を目指して、各地の港を占領し始めます。ただしインド側から見ると、戦って負けたというより、興味のない港を勝手に押さえられているという受け止め方だったと楊さんは説明します。
その感覚を伝える数字として、当時のポルトガルの人口は150万人ほどで、樋口さんいわく福岡市くらい。一方のインドは1億人ほどいたとされ、インドの勢力からすれば小さな国の人がちょろちょろしている程度に見えていたようです。
とはいえ、ポルトガルは新しい火器や大型船を持ち、武力では優れていました。ゴアを占領した後、マラッカ、ホルムズと数年ごとに押さえ、最盛期にはアジア全体で50の拠点を持つ海上ネットワークを築き、日本の長崎にも来ています。
このネットワークの首都のような位置にあったのがゴアです。ただし、ポルトガルが押さえたのは中継港だけで、内陸部は支配していませんでした。
なんか後の時代の、そのヨーロッパの列強みたいに、こう凄まじい武力で面的に押さえていったっていう状態ではないです。
カレーの語源と、ポルトガル衰退のはじまり
余談として語られたのが、ヨーロッパ人がこの時期にカレーと出会ったという話です。学者の推測によると、カレーの語源は料理の中身、つまり具を指す言葉だったといいます。
ポルトガル人が現地の人の食事を指差して料理名を尋ねたところ、インドの人は中身のことを聞かれたと思い、カンナダ語 ── 南インドのカルナータカ州を中心に話されるドラヴィダ系の言語。タミル語と同じ語族に属しますあるいはタミル語で「カリ」と答えたのではないか、という説です。ちょっとしたミスコミュニケーションが今に定着した例として紹介されました。
本筋に戻ると、ポルトガルの海上帝国は1560年頃、ムガル帝国でいえばフマーユーンからアクバルへ移る時期に全盛期を迎え、そこから衰退に入ります。
楊さんが挙げる衰退の理由は複数あります。独占を狙って外国船を勝手に拿捕するなど幅を利かせたため、ムガル帝国に愛想を尽かされ、オランダ人やイギリス人で牽制されるようになりました。
本国の事情も重なります。ポルトガルは1580年にスペインに併合され、スペインの利害に従う動きしかできなくなりました。そのスペインも1588年のアルマダの海戦 ── スペインの無敵艦隊がイングランド艦隊に敗れた海戦。スペインの海上覇権が揺らぐきっかけの一つとされますでエリザベス女王のイングランドに敗れます。
なぜ各国が「東インド会社」を次々とつくったのか?
ポルトガルの儲けぶりを見ていたヨーロッパ各国は、1600年代に入ると次々に東インド会社を設立します。当時のヨーロッパ人は遠い土地をまとめてインドと考え、アメリカ大陸を西インド、インドを東インドと呼んでいたため、この名前になりました。
樋口さんは、自分たちの地域ではなく目的地の名前を社名に付けている点を面白がります。楊さんは「アメリカ大陸会社」と呼ぶのと同じだと説明します。
| 国 | 会社 | 設立年 |
|---|---|---|
| イギリス | ロンドン東インド会社 | 1600年 |
| オランダ | 連合東インド会社 | 1602年 |
| フランス | 東インド会社 | 1604年 |
| デンマーク | 東インド会社 | 1616年 |
フランスは会社がすぐになくなり出遅れます。楊さんによると、海に接する面積が少なく、陸の国境に意識が向きがちだったことに加え、大型船がセーヌ川を遡れずパリに届かないため、港湾機能と政治権力が結びつかなかったといいます。
オランダ東インド会社が「世界最初の株式会社」と呼ばれる理由
各国の東インド会社の中でダントツに強かったのがオランダです。資本金はイギリス東インド会社の10倍あり、船を多く用意でき、組織も有機的に動いていたといいます。
設立はイギリスのほうが2年早いのに、オランダの連合東インド会社が世界最初の株式会社とされるのは、株主の責任が有限責任 ── 出資者が出資額の範囲までしか損失を負わない仕組み。会社が多額の負債を抱えても、個人の財産で穴埋めする必要がありませんだったからです。
楊さんの例では、1000億円を出資して3000億円の赤字が出たとき、3000億円すべてを被るのが無限責任、出資した1000億円分だけ失えばよいのが有限責任です。損失の上限が決まっているため、出資がしやすくなりました。
もう一つの新しさは、出資が10年間固定で途中で引き上げられなかったことです。リスク分散とリターンのバランスがちょうどよく、この仕組みがうまくいったことで株式会社が広がっていきます。
オランダは軍事力、組織力、経済力に優れ、香料と胡椒の貿易を手中に収めます。ポルトガルはホルムズ、マラッカ、コーチン、セイロンといった拠点を失い、小さな勢力へと転落していきました。
オランダはジャワのバタヴィアを拠点に、ポルトガルとは違って内陸部の人と土地まで支配し始めます。香料を作るところから自ら手がけたわけです。
ポルトガル: 港を占領して貿易するだけの商社
オランダ: 内陸の人と土地も押さえ、生産も担うメーカー兼商社
樋口さんが「仕入れコストがすごい下がるよな」と反応するように、自ら生産すれば仕入れがなくなり大量生産もしやすくなります。楊さんは、これが植民地化を進める大きな一手になったと説明します。
出遅れたイギリス東インド会社は「毎回クラファン」だった
イギリス東インド会社は、エリザベス1世の特許状によって15年期限の独占貿易権を与えられた特許会社でした。イギリス国内でアジア貿易ができるのはこの会社だけです。
しかし資金が少なく、経営はなかなか軌道に乗りません。楊さんが挙げる違いの一つが資金の集め方で、イギリスは会社ではなく一航海ごとに出資を募り、航海ごとに精算するプロジェクトファイナンスでした。
会社にまとめて出資し、会社がプロジェクトごとに資金や人材を配分できた
一航海ごとに出資・精算するため、プロジェクト間で資源を融通できなかった
イギリスが最初に力を入れたのもインドではなく、アチェやバンタムなど今のインドネシアにある香料諸島でした。一番売れるのが香料だったうえ、スペインやポルトガルと戦争中で、インドに近づくとポルトガルに攻撃されるおそれもあったためです。
3回目ぐらいの航海から、香料諸島へ向かう途中でインドに立ち寄るようになり、イギリスとインドの関係が始まります。楊さんは、イギリスは最初からインドを狙っていたわけでも、先行していたわけでも、最強だったわけでもないと強調します。
ビジネスで対立したら殺し合い?アンボイナ事件の衝撃
香料諸島では、市場の独占を狙うオランダとイギリスが衝突します。当時の株式会社は武力を持ち、交易権をめぐって軍事的衝突まで起こしていました。
楊さんは自身もビジネスパーソンだと自虐を込めて、当時は人を殺したり奴隷にしたりして儲け、その後は工場で子どもを酷使し、最近まで環境破壊をしてきたと振り返ります。時代を経てビジネスパーソンはどんどんまともになってきているので、もっとよくなることに期待したいという見方です。
樋口さんも、今は独占禁止法やESG ── 環境・社会・企業統治の頭文字。企業を財務だけでなく、これらへの配慮で評価する考え方ですの基準もあり、当時とは資本主義の毛色が違うと応じます。
その「最低だった頃」の象徴がアンボイナ事件 ── 1623年、モルッカ諸島のアンボイナ島でオランダがイギリス商館員らを捕らえ処刑した事件。日本人傭兵も犠牲になりましたです。オランダ側がイギリス人に難癖をつけて捕らえ、日本人やポルトガル人も含めて首を切りました。
この事件でイギリスは香料諸島からの撤退を余儀なくされます。樋口さんは、やっていることがヤクザの抗争とあまり変わらないと表現しました。
香料を失ったイギリスが見つけた新商品、インドの綿布
香料諸島を追われたイギリスは、しかたなくインドへ来ます。当時のムガル皇帝はシャー・ジャハーンでした。拠点はマドラス(今のチェンナイ)、ボンベイ(今のムンバイ)、ベンガル地方のカルカッタ(今のコルカタ)で、この3か所は後々まで歴史に影響を与えます。
イギリスは香料諸島から輸入した香料をインドで中継して輸出しますが、効率は悪いままでした。そこで扱い始めたのが、インド産の綿織物です。
きっかけは香料の支払い手段でした。香料諸島では貨幣経済が十分浸透しておらず、銀をもらっても使い道がないため、一定以上は銀と交換してくれません。銀は重くかさばり、船に積める量にも限界がありました。
ヨーロッパの品はアジアでは売れません。毛織物やウールは、暑いインドの人には必要なかったからです。そこでイギリスはインドの綿布を香料商人に渡して香料と交換するようになり、やがて綿布そのものがヨーロッパで売れることに気づきます。
撤退
アンボイナ事件で香料諸島を追われる
中継
インドを拠点に香料を中継輸出するが効率が悪い
交換
銀の代わりにインドの綿布で香料を買う
発見
綿布そのものがヨーロッパで売れるとわかる
インドの綿布は、最初はイギリスの低所得者層に受け入れられ、やがて中流・上流階級にもファッションとして広まりました。洗濯しやすく薄いことも好評で、暑い地域でしか育たない綿はヨーロッパにはなかったといいます。
当然、ヨーロッパの毛織物業者は強く反発しました。楊さんは、産業の転換点では保守派が反発するものの、絶対に勝てないという現象が起こると語ります。
イギリス東インド会社は、1657年頃、クロムウェル ── 17世紀イングランドの政治家・軍人。清教徒革命を主導し、護国卿として国を統治しましたの統治時代に、誰でも株を買える近代的株式会社へ変わっていきます。設立から60年ほどは赤字続きでしたが、この頃から経営が好転し始めました。
アンボイナ事件で負けたからこそ綿布という新しい商品を見つけたイギリスが、どのようにインドでの支配を広げていくのか。その話は次回に続きます。
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まとめ
今回の回では、ムスリム商人を介さずにアジアの香辛料を手に入れたいヨーロッパが海へ出て、ポルトガル、オランダ、イギリスの順にインド洋の覇権を争う流れが語られました。当初は最も弱かったイギリスが、香料諸島を追われた末にインドの綿布という新商品に出会ったことが、後の展開の端緒になります。
- ヨーロッパの航海には、香辛料の莫大な利益という経済的理由と、プレスター・ジョン探しという宗教的理由があった
- アジアから見れば、ヴァスコ・ダ・ガマは国際市場へ後から来た、独占を狙う異質な存在だった
- オランダは有限責任の株式会社と内陸支配でポルトガルを圧倒した
- 航海ごとの出資で出遅れたイギリスは、アンボイナ事件で香料諸島を追われ、インドの綿布を見つけた







