安倍政権下の日ロ接近は、なぜ追い風になったのか
SAMI Japanの牧野寛さんは、ロシアのサンクトペテルブルクに移住し、前回の話に出てきたキリルさんと会社を立ち上げました。そこへ、キリルさんの推薦でボリス・アファナセフさんが加わります。
牧野さんによると、学生時代には「怪しい」と思っていたボリスさんを、キリルさんは「賢いから入れた方がいい」と紹介したそうです。話してみると確かに賢く、付き合いの長さもあって信頼できると感じ、少しずつ仕事を頼むようになったといいます。
創業は2017年です。当時は安倍政権下で日本とロシアの距離が近づき、デジタル領域で二国間の共同プロジェクトができないかという議論が起きていました。
牧野さんの話では、日ロのつながりはそれまでエネルギーや自動車といった重厚長大の産業が中心でした。そこへ牧野さんたちが「デジタルといえばスタートアップですよ」と伝えたところ、政府界隈もその流れになっていったといいます。深井さんは思わず「吹き込んだんや」と反応しています。
牧野さんたちは、ロシアやウクライナのスタートアップの面白さを知っていました。彼らを日本に連れて行けば投資や事業づくりにつながるはずだと考え、2017〜2018年ごろ、そのタイミングにうまく乗れたと振り返ります。
当時のビジネスモデルは、経産省や総務省、関連する外郭団体の予算を使い、日本の大企業や中堅企業の投資担当者をロシアやウクライナに招くものでした。現地でスタートアップとマッチングし、事業化までをSAMIが支援する形です。
コロナで「残り2ヶ月」。社員に何を告げたのか
順調だったSAMIの事業は、コロナ禍で一気に止まります。投資担当者が現地に行けなくなり、牧野さんは、ロシアのような「エッジの効いた地域」に行かずに投資や提携を決めることはまずありえなかったと話します。
ロックダウンが重なったのは、ちょうど日本の予算年度の変わり目でした。見込んでいた案件がすべて途絶え、キャッシュは正直なところ残り2ヶ月という状態になったといいます。
牧野さんは当時のメンバーに残高を見せ、「2ヶ月間は給料を払えるから、その間に就職活動をしてほしい」と伝えました。社員に強い当事者意識を持ってもらっていたからこその判断だったと話しています。
ぞっとする、マジで。うわってなる。
ところがメンバーの反応は予想と違いました。「別にサーミが死んだところで私たちが死ぬわけじゃない」と言い、残り2ヶ月あるならもう一度やってみようと声をそろえたそうです。
素晴らしいね。
当時の社員は4〜5人で、牧野さん以外はもともとロシアのメンバーでした。ボリスさんも踏ん張ろうと言った一人で、給料なしで頑張った時期もあったといいます。
政府予算を使い、日本企業の投資担当者を現地に招いてスタートアップとマッチングするコンサル事業
社内のエンジニアで自社ウェブサービスを開発し、イベント主催者から注文を受ける事業
上の図のように、コロナ禍はSAMIの事業の形そのものを変えるきっかけになりました。
起死回生のウェブサービスはどう生まれたのか
追い詰められたSAMIは、自社のウェブサービス開発に踏み出します。牧野さんは、ロシアやウクライナには優秀なエンジニアが多く、CTOのキリルさんに加えて、社内にも実はエンジニアがいたと話します。
当初、牧野さんは残ったお金から1ヶ月分を削って開発を外注するつもりでした。すると社員のイリーナさんから「実は私コード書けます」とDMが届き、「その方が安いですよ」と言われて社内で作ることにしたそうです。
こうして生まれたのが、動画プレゼンを集めるサービスのSamiVideoPitch正式表記です。コロナ禍でイベントがオンラインになり、JETROなどの組織が事前に録画を集めて編集するようになっていました。
しかし、50人や100人から動画を集めると、みんなフォーマットがばらばらで届くという問題がありました。牧野さんは「すごいしょうもない問題」と表現しますが、見え方を気にする予算組織にとっては切実だったといいます。
SamiVideoPitchでは、主催者が「5分でプレゼン、スライドは20枚以内、ワイプの位置はここ」といった形式を決め、ワンクリックで録画用のページを生成します。発表者がそこで録画すると、動画は同じ形式で主催者の元に自動で集まる仕組みです。
技術的には難しくないものの、意外と同じようなサービスがなかったそうです。JETROや他のイベンター、支援組織から注文を受け、SAMIは売り上げを取り戻していきました。
戦争前夜、キーウで何を感じたのか
2020年に始めた事業は2022年まで順調に続きました。SAMIは次の展開として、日本企業からプロダクト開発を受注し、ロシアやウクライナで開発して納品するオフショア ── 開発や業務を海外の拠点や企業に委託する形態。人件費の差や、現地の人材を活用する目的で使われます型のモデルを考えていたといいます。そこに戦争が起きました。
開戦前の空気について、ボリスさんは「戦争という話は流れていたが、誰も信じていなかった」と振り返ります。銀行でコンプライアンスを担当していたボリスさんによると、幹部の会議で戦争の可能性が出ても「ならない」とみんなが言い、銀行として何の準備もしていなかったそうです。
ボリスさんが開戦を知ったのは2月24日の朝、泣いている母親からの電話でした。「本当?」と思い、ひどいショックを受けたといいます。
一方の牧野さんは、グローバルVCのPulsar Venture Capital正式表記の名刺も持っていました。このVCは2022年からウクライナのスタートアップに投資するプロジェクトを準備しており、牧野さんは2021年12月に1週間ほどキーウに滞在していました。
現地では公開イベントを開く計画でしたが、2021年11月ごろに取りやめたそうです。VCの創業メンバーにロシア人がいたため、キーウで公開イベントを開くのは良くないと判断し、現地VCと個別に会う形に切り替えました。
牧野さんは、ウクライナは2014年のクリミア併合 ── 2014年にロシアがウクライナ南部のクリミア半島を自国に編入した出来事。国際的には多くの国が認めていません以来、戦争が続いているという意識だった一方、ロシアの一般の人たちにはその意識がほとんどなかったと話します。牧野さん自身も、キーウに行くまではあまり意識できていなかったといいます。
キーウでの会話はほとんどロシア語でしたが、人によって反応は大きく違いました。ロシア語がわかるはずなのに英語でしか話さず、ロシアの話題に一切触れない人もいて、牧野さんはロシア側とウクライナ側の大きなギャップを強く感じたそうです。
「自分の人生はコントロールできない」。ボリスさんはなぜデモに行ったのか
開戦の瞬間、ボリスさんは「終わりだ」と思ったといいます。2014年以来の衝突に慣れてしまい、軍が動いていてもまともな戦争にはならないと、多くの人が思っていたからです。
ボリスさんが最初に感じたのは、「自分の人生をコントロールできない」という感覚でした。自分のことは自分で決めたいタイプのボリスさんにとって、自分の人生が自分のものではないと感じたのは初めてだったそうです。
政府関係者と仕事で関わった経験もあったボリスさんは、この軍事侵攻は絶対にうまくいかず、長引くだろうと考えました。そして反戦デモに参加し、警察に拘束されます。
当時、牧野さんはサンクトペテルブルクに、ボリスさんはモスクワにいました。牧野さんによると、サンクトペテルブルクはロシアでもデモとその弾圧が最も激しい地域です。
開戦当日、牧野さんはボリスさんと電話しながら、バスでデモの中心地の横を通りました。「ちょっと行こうかな」と言うと、ボリスさんは「絶対ダメだ」と止めたそうです。カメラで撮られていて後から逮捕される可能性もあり、外国人ならなおさら危ないという理由でした。
牧野さんは経営者としてリスクを取らないことにしました。ところがその翌日ごろ、止めたはずのボリスさん自身がデモに行っていたといいます。
ボリスさんは、それが自分の役目だと思ったと説明します。実際に影響があったかはわからないものの、反対しているロシア人がいることを世界に伝えたかった、みんなが怖がって行かなければそれも悪い影響になると考えたそうです。
デモは開戦直後の25日ごろでした。ボリスさんは暴れることなく、笑顔で警察官と戦争の話をしながら警察の車に乗り、約6時間車内にいた後に「帰れ」と釈放されました。ただ、頭から血を流す女性もいて、車内で手当てをしたといいます。
友人とも真っ二つに。なぜ議論すらできなかったのか
ロシア国内での意見の対立について、ボリスさんの家族には戦争を支持する人はあまりいなかったそうです。一方、職場には支持する人も多くいました。
ボリスさんは当初、政治の話は避けていました。意見が違えば誰とでも喧嘩になりかねないからです。しかし子どもたちが亡くなるような状況が続く中、支持する人たちとは関係をやめようと決めたといいます。今回は「黒と白。グレーはない」と感じたと話しています。
牧野さんにも苦しい経験がありました。開戦後すぐに反戦のメッセージを出し、SNSで現地の様子を発信していたところ、10年ほど前に留学先で一緒に日本への復興支援の団体を運営していたロシア人の仲間から、「お前は歴史をちゃんと知ってるのか」というメッセージが届いたのです。
牧野さんは、さまざまな経緯や文脈があることはわかったうえで、それでも侵略する側とされる側という関係は明らかだと考えていました。何度か議論を試みたものの、前提がずれていて、牧野さんのほうがウクライナの情報に騙されているという扱いだったそうです。
人を助けようという価値観を共有していた仲間から言われたことで、牧野さんはメンタルを保つのが本当に難しかったと振り返ります。最終的にはそうしたメッセージを無視することにし、断絶した人が何人かいるといいます。
聞き手の側からは、日本では周りに戦争に賛成する人がおらず、仲の良い人と意見が分かれる苦しみは想像するしかない、という感想が出ていました。
トップビジネスマンでさえ、なぜ状況を読めなかったのか
ボリスさんが日本に来たのは4月で、開戦から1ヶ月ちょっと後のことでした。開戦の瞬間、牧野さんは「針が30年戻った」と感じたといいます。日本人とロシア人の信頼関係が崩れればビジネスはできず、外資の撤退でソ連時代に戻るほどの変化が来ると考えたからです。
そのため牧野さんは、2月24日から起きたことを自分の感情も含めて映像とともにすべて記録しています。いつか価値が出るのではないかと考えているそうです。
開戦から1週間ほどは、周りはまだ楽観的でした。日系銀行の知人に為替の見通しを聞くと「このあたりまでは行くでしょう」と言われたのに、翌日にはその2倍ほどを超えていたといいます。
総領事館などの政府関係者や大手企業の現地トップも「すぐ終わるでしょう」という様子でした。しかし実際には飛行機が飛ばなくなり、外資も次々と撤退しました。牧野さんは、少なくともロシアにいた周りの人たちは、トップビジネスマンも含めて現状を理解できていなかったと話します。
日本に帰ってから「戦争が起きると思わなかったのか」と何度も聞かれたそうです。牧野さんは、ロシア国内ではクリミア併合のイメージが強く、侵攻があってもキーウまでは行かない、すぐ沈静化するというバイアスがかかっていたと分析しています。
国外退去を決めた3つのターニングポイント
牧野さん、ボリスさん、キリルさんのボードメンバーが国外退去を最終的に決めたのは、3月7日の日曜日の夜でした。開戦から2週間ほど後のことです。牧野さんは、そこに至るまでに大きく3つのターニングポイントがあったと説明します。
1つ目は空路の閉鎖です。以前ならオフシーズンに成田とモスクワを往復5万円ほどで行けたのが、開戦直後は成田からイスタンブール乗り換えの片道エコノミーで1人150万円ほどになったといいます。
2週間先なら数十万円の便もありましたが、2週間後に何が起きているかわからないため、買う意味があまりなかったそうです。
2つ目は言論統制です。開戦当初はデモもあり、IT業界では1万5000人ほどが名前や連絡先を出して公開署名をしていました。牧野さんも署名したといいます。それが、反戦的な投稿で禁錮刑になる法律によって一気に沈静化しました。
もう戦時体制下の、なんかもう言論統制がもうプログラムに入ったって感じですね。
隣の人が何を考えているかわからない疑念が広がり、牧野さんは向かいの空き家で揺れる灯りさえ、誰かがこちらを見ているのではと怖くなったそうです。反戦のメッセージを出し、日本人として目立つ立場だったことも息苦しさを強めました。
3つ目の決定打は国際送金の制限です。法人間でロシアから日本法人へ送金できれば、移動後も生きていけると考えていました。しかし3月7日深夜の大統領令で日本が非友好国 ── ロシアが制裁を科した国などを指定したリスト上の国。指定された国との取引には、ロシア当局の規制や介入がかかるようになりますに指定され、法人間送金にも中央銀行などが直接介入できるようになりました。
物理的にも、言論的にも、お金的にも出られなくなると感じた牧野さんたちは、その夜のうちに退去を決めます。通常は銀行や税理士を通す送金の手続きを、自分たちで口座のシステムを操作して出し、翌朝一番に間に合うことを願ったといいます。
極限状態やな。サバイバルや。
脱出の続きは次回で語られることになり、今回の話はここで締めくくられました。
まとめ
SAMI Japanの牧野さんとボリスさんは、日ロ接近の追い風とコロナ禍の危機をくぐり抜けた先で、ロシア国内からウクライナ侵攻に直面しました。楽観から混乱、分断、そして国外退去へと進む過程から、当事者でなければ見えない現実が伝わってきます。
- コロナ禍で資金が残り2ヶ月になっても、社員の後押しと社内エンジニアの力で自社サービスを生み出し、事業を立て直した
- ロシア国内ではクリミア併合のイメージが強く、トップビジネスマンでさえ戦争の規模を見誤っていた
- ボリスさんは「自分の人生はコントロールできない」と感じながら、反対するロシア人の存在を伝えようとデモに参加した
- 戦争をめぐって友人や同僚とも意見が分かれ、議論すらできずに関係を断つことになった
- 空路の閉鎖、言論統制、国際送金の制限という3つの転機を経て、3月7日の夜に国外退去を決めた




