ロシアで起業した二人は、なぜ出雲にいるのか
この回のゲストは、株式会社SAMI Japan代表取締役の牧野寛さんと、同社で法務・税務などを担うボリス・アファナセフさんです。二人はウクライナ戦争が起こるまでロシアで事業をしていて、戦争を受けて島根県出雲市に会社機能を移しました。
樋口さんが読み上げたプロフィールによると、牧野さんは1989年東京都出身で、東京外国語大学ロシア語学科を卒業後、新卒で楽天に入社しました。eコマース事業に従事し、営業部の四国支社の立ち上げも経験しています。
牧野さんは2016年にロシアのサンクトペテルブルクへ移住し、翌年ロシア人の友人とSAMI LLC ── 牧野さんがロシアで共同創業した会社。東欧ITスタートアップの日本進出支援や、日系企業との協業推進などを手がけていましたを共同創業しました。2022年、ウクライナ戦争を受けて会社機能のすべてを出雲市に移し、SAMI Japanとして再始動しています。
現在のSAMI Japanは、地方のIT企業やスタートアップに向けて、東欧の高度なITエンジニアを活用した開発組織の構築支援やデジタルプロダクトの受託開発を行っています。牧野さんはグローバルVCであるパルサーベンチャーキャピタルのアジア事業統括も務めています。
牧野さんによると、サンクトペテルブルクはロシアの中でも西側にあり、エストニアのタリンやフィンランドのヘルシンキに近い街です。移住は仕事の赴任ではなく、楽天を退職したうえでの移住だったといいます。
ボリスさんはモスクワの国立研究大学高等経済学院の法学部を卒業し、ロシア原子力庁傘下の研究所で法律顧問として働き始めました。その後、鉄道関連メーカーのボンバルディアグループで国際法務・税務・コンプライアンスを担当し、2019年には民間金融機関でシニアコンプライアンスオフィサーを務めています。
ボリスさんはロシア時代の創業メンバーとしてSAMIに加わり、戦争後に他のメンバーとともに出雲へ移住しました。日本の法律を独学で学びながらバックオフィス全体と社員の生活サポートを担い、東欧エンジニア向けの日本移住プロジェクト『HelloJaponia』や、ウクライナ避難民向け就労支援プロジェクト『ドポモーガ.jp』でもPMを務めています。
ボリスさんが日本に来たのは収録の前年の4月9日で、来日してまだ1年ちょっとです。深井さんは、戦争で状況が大きく変わり、男性は徴兵されかねない状態になったため、二人は拠点を移さざるを得なかったと補足します。
それで日本に来られて、それがたまたま出雲だったんですよ。二人とも全然別に(出雲には)縁ないんですけど。
出雲は深井さんのふるさとです。牧野さんは島根県にさえ入ったことがなく、出雲大社に惹かれて来たわけでもありません。深井さんは帰省した際に出雲で二人と知り合い、今では親しくしているといいます。
それはなんか山で鹿見るぐらいの感じで、牧野さんとボリスさんいるんですか?
SAMI Japanには二人以外にもロシア人やウクライナ人のメンバーがいて、出雲には10人以上が暮らしています。深井さんによれば、戦争が続く中で来られる人から順に来ている状態で、人数は少しずつ増えているそうです。
なぜ出雲だったのか。1本の電話がつないだ縁
出雲を選んだ直接のきっかけは、モンスターラボグループCEOの稲川さんからの電話でした。稲川さんは出雲出身で、深井さんの高校の先輩でもあります。
牧野さんが戦争後に状況の悪化を受けて日本への移転を考えていた頃、モスクワ時間の土曜日の朝に、稲川さんから「今ちょっと電話できる?」というメッセージが届きました。電話で行く先を聞かれ、東京というイメージはないと答えると、「出雲来たら?」と言われたといいます。
深井さんによると、稲川さんは世界の数十カ国に支社を持つIT企業の社長で、ウクライナのキーウにも支社がありました。稲川さん自身も戦争の影響を受けていたため、その大変さがわかっていて、牧野さんたちを心配して電話したのだろうと深井さんは話します。
牧野さんのもとには、戦争が始まると多くの知人からメッセージが届きました。ただ、精神的につらい時期ですぐには返信できず、返信してもその後は何も続かないことが多かったといいます。牧野さんは、そうした連絡の多くがメディアの衝撃的な報道に煽られたものだったと感じていました。
その中で、境遇の近い稲川さんがいきなり電話をくれたことに、牧野さんは強い縁を感じました。稲川さんは、出雲には知り合いの経営者も多く、地元の経営者と一緒にサポートできると伝え、牧野さんは出雲に決めたそうです。
戦争の勃発
ロシアで状況が悪化し、事業の継続が難しくなる
移転先を模索
日本への移転を考えるが、行く先は決まっていない
稲川さんの電話
モスクワ時間の土曜の朝に連絡が入り「出雲来たら?」と誘われる
出雲に決定
地元経営者と一緒にサポートできると言われ、縁を感じて移転
ロシアのIT事業は、日本移転で何が変わったのか
牧野さんはロシアで、自社ウェブサービスの開発、日本企業から発注を受けたデジタルプロダクトの受託開発、そして日本進出を目指すロシアやウクライナのITスタートアップへのコンサルティングを行っていました。ロシアやウクライナのスタートアップシーンに深く入り込んでいたといいます。
IT系の仕事は、パソコンさえあればどこでもできるという強みがありました。牧野さんは、飲食店とは違う点としてそのメリットを挙げています。
深井さんは、戦争でロシアとウクライナのスタートアップと一緒に仕事を続けにくくなる以上、事業内容を大きく変えなければならなかったのではないかと尋ねます。
牧野さんの答えは、意外とそうでもないというものでした。SAMIはもともと、日本の資金力やネームバリューと、ロシアやウクライナの優秀なエンジニアやスタートアップを掛け合わせることを目指しており、お金自体は日本企業から受け取ることが多かったからです。
牧野さんにとって、ロシアやウクライナは優秀な人材が見つかる「リソース国」でした。そのリソース国側の人たちとは関係を続けられた部分もあれば、完全に切れてしまった部分もあったといいます。
それでも経営者の目線では、日本への移転は営業先やお金をいただける先に近づくことでもありました。牧野さんは移転を決めるとき、これなら移転してもいいという考えがあったと振り返ります。
ボリショイ劇場とサックス。芸術一家に育ったボリスさんが法学部を選んだわけ
深井さんは、戦争前後の話は次回以降に聞くとしたうえで、まず二人の人生を聞きたいと切り出します。最初はボリスさんの生い立ちです。
ボリスさんは1990年生まれで、収録時点で32歳です。モスクワで生まれ、父親はおらず、仕事をしていた母親に代わって祖父母に育てられました。
ボリスさんの家族は音楽や文化の世界の人が多く、祖母の弟はボリショイ劇場 ── モスクワにある歴史ある劇場で、バレエやオペラの公演で世界的に知られていますの監督、祖母はソ連の有名なピアニストでした。祖父もソ連の大きな交響楽団に関わる有名な音楽家で、演奏のためによく日本を訪れていたそうです。
ボリスさんは6歳ごろまで祖父母と一緒に過ごし、小学校2年からは俳優や音楽を学べる特別な学校に通いました。そこで演劇も学んでいます。
だからか。ボリスの会話がたまにセリフっぽいんですよ。
ロシアでは小学校から高校まで同じ学校に通うのが基本です。ボリスさんは2年生から11年生まで同じ学校で学び、その10年間、プロのサックス奏者を目指していました。
ところが高校のときに、いろいろなことを教えてくれた先生が亡くなりました。ボリスさんはそのトラウマから音楽をやめます。
次の進路として、ボリスさんは大好きだった数学の道を考えました。しかし友達と話すうちに、得意な数学ではなく、弱いところを学んだほうがいいのではないかと考え、あえて苦手な法学部を選んだといいます。
芸術一家に生まれる
祖父母は音楽家、祖母の弟はボリショイ劇場の監督
特別な学校で学ぶ
演劇を学び、10年間サックス奏者を目指す
恩師の死
高校時代に先生が亡くなり、音楽をやめる
法学部を選ぶ
得意な数学ではなく、あえて苦手な法学に進む
で、芸術をやってたんでしょ?大体コンプリートしてるじゃないですか、なんか。芸術、理系、文系みたいな。
ボリスさんが進んだ国立研究大学高等経済学院は、比較的新しい大学ですが、海外とのつながりが多く、卒業証明はフランスやドイツでも使えるそうです。ボリスさんはそれを理由にこの大学を選びました。
ロシアの「弁護士」は、日本と少し仕組みが違います。ボリスさんによると、ロシアで弁護士と訳される職業は、基本的に刑事事件を扱う人だけを指し、ボリスさんはその試験を受けていません。
ボリスさんは一時、警察官として働くことも考えていました。しかしインターンの受け入れ担当の女性が病気になり、別の会社でインターンをすることになったといいます。
ボリスさんは、もし警察の人間になっていたらロシアから出られなくなっていただろうと話します。深井さんと楊さんは、そこが運命の分岐点の一つだったと反応しています。
楽しい人間関係とパッション。ボリスさんが4つ以上の言語を話せる理由
楊さんは、たくさんの才能を持つボリスさんが人生の進路を決めるときに何を大事にしているのかを尋ねます。
(ボリスさんは)なんか自分が何かその人生をこうここに進みたいっていう判断する時に、何を大事にされてるんですか?
ボリスさんの答えは、楽しい人間関係でした。周りの人と一緒に歩きながら、楽しく面白い思い出を作ることが、自分にとって一番幸せな生き方だといいます。
深井さんは第三者の立場から、牧野さんとボリスさんは深く信頼し合っていると感じています。
深井さんはさらに、ボリスさんが英語、ドイツ語、ロシア語、日本語を話せる理由を尋ねます。
英語については、母親やおばにアメリカ人の友人が多く、保育園のころから学んでいたそうです。ボリスさんは、1990年にスティーブ・ジョブズ ── アップルの共同創業者。自伝のなかで、1990年ごろにモスクワを訪れたことに触れられているとボリスさんは話していますが自分の家に泊まったことがあると母親から聞いたといいます。ボリスさん自身はまだ赤ん坊でした。
ドイツ語は大学で学びました。日本語のきっかけは、日本によく行っていた祖父の話を子どものころから聞いていたことです。祖父はボリスさんが6歳のときに亡くなったため、詳しい話を聞けず、自分で体験しようと思ったといいます。
ボリスさんは大学時代、両親からのプレゼントとして一人で日本旅行に出かけ、東京と京都を訪れました。友達はできたものの英語では会話が難しく、日本語を少し勉強しようと考えます。
ロシアに戻ったボリスさんは、ツアーを手配した観光会社に電話し、日本人の知り合いがいないか尋ねました。紹介されたのは天理教 ── 日本で生まれた宗教の一つ。海外にも布教拠点を持っていますの人で、ビールを飲みながら日本語を教えてもらったそうです。
その後、ボリスさんは短期間日本語学校に通い、寮で同じ部屋になったのが、現在SAMI Japanで経営に携わるキリルさんでした。キリルさんを通じて牧野さんとも知り合い、パーティーなどで交流するうちに日本語を話せるようになったといいます。
楊さんは、日本人の友達と話したいという理由だけでここまで話せるようになることに衝撃を受けます。ボリスさんは、パッションを持てば何でもできると思うと答え、その後は同じように韓国語も学んだそうです。
牧野さんも、大学で日本語を学んでいないのに、観光で訪れただけで日本語が話せるようになった人は周りでもボリスさんくらいで、特殊だったと話しています。
別荘のパーティーから始まった、ボリスさんのSAMI参加
弁護士として働いていたボリスさんがSAMIで働くようになったのは、2017年か2018年ごろのことです。牧野さんとキリルさんから誘われ、友人の別荘で開かれていたパーティーに電車で出かけたのがきっかけでした。
そのパーティーで、ボリスさんは「ボリスは弁護士だっけ?じゃあちょっと手伝ってくれるか」と声をかけられたといいます。
ボリスさんには他の仕事もありましたが、面白そうだと思って手伝い始めました。最初は二人が何をしているのか全くわからず、日本の法律に関することだけを手伝っていたそうです。
手伝ううちに、ボリスさんは二人が本当にすごいことをしていると感じ、少しずつ会社の中に入っていきました。いろいろな人をつなぎ、一緒に面白い仕事を生み出す二人の姿は、人と人との関係が好きなボリスさんにとって憧れだったといいます。
コロナの時期には、給料なしで働くこともありました。ボリスさんはそれも含めて好きだったと話し、代表だった牧野さんが笑う場面もありました。
それでちょっとずつジョインしていって。で、その人と一緒にいて楽しいなってなって、こう繋がりが強くなっていったっていうやつなんだ。
アメリカで感じた違和感と、軽い気持ちで選んだロシア語
続いて深井さんは、牧野さんがロシアとつながった理由を尋ねます。ロシア語を学ぶ人はロシア文学や軍事が好きなことが多いそうですが、牧野さんにはそうした関心は全くなかったといいます。
牧野さんは小さいころからバスケットボールをしていて、外国といえば常にアメリカでした。大学もアメリカに行くつもりで、高校で部活が落ち着いたころに一人でアメリカへ行き、2週間ほど暮らしてみます。
ところが、現地の人たちとの生活や考え方がどうも合いませんでした。牧野さんは、ここで4〜5年暮らすイメージが湧かなかったといいます。
日本に戻って別の選択肢を探していたとき、牧野さんが目をつけたのが東京外国語大学のロシア語学科でした。国内で最も多くロシア語を学ぶ学生を取る大学で、学びたい人が少ないため入れそうだと考えたそうです。
牧野さんが大学に入った2008年は、BRICS ── ブラジル・ロシア・インド・中国などの新興国をまとめた呼び名。2000年代に高い経済成長が注目されましたという言葉とともにロシアが「来る」と言われていた時代でした。ロシアが来るならここでいいという、めっちゃ軽い気持ちで入ったと牧野さんは振り返ります。
牧野さんは在学中、2010年から2011年にかけて1年間モスクワに留学しました。この時期は、東日本大震災と重なっています。
留学中の牧野さんは、ロシア語を学ぶ外国人とは話せても、ロシア人と話す機会が少ないことに悩みました。そこで、日本語を学ぶロシア人とロシア語を学ぶ日本人を集める言語交換のグループを作ります。そのメンバーにキリルさんがいて、キリルさんの紹介でボリスさんとも出会いました。
牧野さんにとって、2010年に出会ったボリスさんの第一印象は「うさんくさいやつ」でした。イケメンで、どこからか颯爽と現れたボリスさんを警戒し、当時はキリルさんとだけ仲が良かったそうです。二人が親しくなったのは、牧野さんが起業のためにロシアに戻った2016年以降です。
震災の募金で流れた涙が、ロシアでの起業を決めた
牧野さんがロシアでの起業を決めた原点は、モスクワ留学中に起きた東日本大震災でした。当時はFacebookが日本でも最盛期で、牧野さんは言語交換のグループをFacebook上で運営していました。
牧野さんの祖母は福島にいて、震災は自分事でした。何かできないかと考えた牧野さんは、自分のコミュニティをもとに、モスクワでリモートの復興支援の学生団体を立ち上げます。
地震がほとんどないロシアでは、震度とマグニチュードの違いもあまり知られていませんでした。牧野さんたちは募金を集めて日本に送り、日本で起きた地震の大きさや復興の大変さを伝えていきました。
その活動の中で、道を歩いているロシア人のおばあさんやおじいさんが、涙を流しながら募金をしてくれたといいます。普段は厳しい警察や学校の人たちも、親身になってやり方を教えてくれました。
牧野さんはその経験に強く心を動かされ、この恩をいずれ返したいと考えるようになりました。
一方で、お金をかけずに学生だけで続けるボランティアは長続きしないこともわかりました。継続して何かを返していくには利害関係が必要だと考え、2011年ごろには「次に来るときは絶対にビジネスで来よう」と決めたといいます。
東日本大震災
モスクワ留学中に発生。祖母が福島にいて自分事だった
復興支援団体
言語交換のコミュニティをもとに募金活動を始める
ロシアの人々の優しさ
見知らぬ高齢者が涙を流して募金し、周囲も親身に協力
恩返しの決意
継続するには利害関係が必要と考え、ビジネスで戻ると決める
楽天で「ロシア」と言い続けた日々と、ロシアが肌に合った理由
牧野さんは新卒で楽天に入ったときから、いずれロシアで何かをすると決めていました。楽天の中でずっと「ロシア、ロシア」と言っていて、当時の同僚には変わったやつだと覚えられているだろうと笑います。
楽天を選んだのも戦略的な判断でした。2011年ごろ、楽天がロシアのeコマース大手にマイナー出資したというニュースを知り、数年以内にロシアで事業を立ち上げるだろうと考えたそうです。その立ち上げに関われば、将来の起業にも役立つと牧野さんは見ていました。
実際に配属されたのは四国でしたが、牧野さんは地方を見る立ち上げの経験も良いものだったと話します。ところが四国での仕事の途中で、楽天が海外事業から大きく撤退する時期がありました。
ロシアはどうなるのかと聞いても、そういう雰囲気ではありませんでした。そこで牧野さんは、自分でロシアへ出ようと決め、2016年ごろに移住します。
樋口さんは最後に、アメリカよりもロシアのほうが肌に合ったのかと尋ねます。牧野さんは、振り返ってみればそうだと答えます。
アメリカでは、日本人が英語を勉強してきても、高校生ならせいぜい日常会話ができる程度です。牧野さんは、相手のレベルに合わせなければ仲間として認めてもらえず、良い関係を築きにくいと感じていました。
一方ロシアでは、挨拶をロシア語で言えるだけで「お前、ロシア語しゃべれるの?」と歓迎されたといいます。牧野さんは、言葉への向き合われ方の違いから、ロシアのほうが自分に合っていると感じたのです。
相手の英語のレベルに合わせないと仲間として認められにくい
挨拶をロシア語で言えるだけで喜ばれ、関係が築きやすい
それは(日本語がペラペラな)ボリスさんが日本語ペラペラできたらめっちゃ仲良くなりたいですよ。
番組では、ここから二人が戦争にどう向き合い、どう動いたのかを次回以降に聞いていくとして、前編を締めくくっています。
まとめ
前編では、ウクライナ戦争をきっかけに出雲へ移ったSAMI Japanの二人が、戦争前までにどんな人生を歩み、どう出会ったのかが語られました。偶然の縁だけでなく、人との関係を大切にする姿勢と、ロシアの人々への恩返しという思いが、二人を結びつけてきたことがわかります。
- 出雲を選んだきっかけは、出雲出身でモンスターラボグループCEOの稲川さんからの1本の電話だった
- 日本企業から資金を得る事業構造だったため、日本移転は営業先に近づく判断でもあった
- ボリスさんは芸術一家に育ち、恩師の死を機に音楽をやめ、あえて苦手な法学を選んだ
- 牧野さんは震災の募金で出会ったロシアの人々の優しさに心を動かされ、ビジネスで恩を返すと決めた
- アメリカとロシアでの言葉への向き合われ方の違いが、牧野さんにロシアを選ばせた


