高句麗から李氏朝鮮へ、両班はどう生まれた?
日露戦争編は、日本・中国・朝鮮・ロシアの4者を順に見ていく構成です。チャプター1と2で中国、チャプター3で日本を扱い、第4回の今回は、これまでのコテンラジオであまり触れてこなかった朝鮮の歴史を取り上げます。
深井さんはまず、朝鮮半島の歴史を駆け足で説明します。高句麗・新羅・百済の三国時代があり、日本が敗れた白村江の戦い ── 663年、朝鮮半島の白村江で倭国・百済の遺民と、唐・新羅の連合軍が戦った海戦。倭国側の大敗に終わりましたのあと、唐の援助を受けた新羅が半島を統一しました。
新羅の後には内乱を経て高麗が立ちます。高麗はモンゴルに敗れて属国になりますが、元が衰退すると朝鮮民族の反乱が起き、同じくモンゴル支配から脱しようとしていた明の助けで李氏朝鮮が建国されました。
李氏朝鮮の「朝鮮」という国名は、建前上は明の皇帝から授かった名誉ある名前だったと深井さんは説明します。
明に恩義のある李氏朝鮮は、上下関係に厳しい儒教の一派である朱子学 ── 南宋の朱熹が体系化した儒学。身分秩序や君臣の上下関係を重んじ、明や李氏朝鮮、江戸幕府でも官学として重視されましたを国家統治の柱にしました。日本やヨーロッパでは武力に基づく武人政治が生まれましたが、朝鮮では文官による統制が重視され、武士のような階級は出てきませんでした。
李氏朝鮮にも武官はいましたが、文官と武官を合わせた両班 ── 李氏朝鮮の支配層。もとは文班と武班の官僚を指す言葉で、次第に世襲的な特権身分になっていきましたが貴族層を形づくります。重要な役職を占めた家の息子が同じ役職に就くことを繰り返し、官僚が世襲で貴族化していったという構図です。
外戚の権力闘争と、大院君の「元に戻す」政治
李氏朝鮮の国家体制は中国の古いやり方を踏襲した中央集権型で、国王が両班を通じて命令を徹底させる仕組みでした。国王の力が強いぶん、国王の配偶者の親戚である外戚が力を持ち、新旧の外戚が争うことで政治が腐敗していったと深井さんは話します。
誰が外戚になるかっていうことがすげえ大事な社会システムになってるんです。
日本が明治維新を迎える頃、朝鮮は宗主国の清にならって鎖国政策をとっていました。国交があるのは清だけで、日本とは朝鮮通信使を通じて互いのニュースを伝え合う程度だったといいます。
明治維新の5年前、第25代国王の哲宗が後継者のないまま亡くなります。王位継承の指名によって、一族の子どもが高宗として即位しました。
この高宗の実父に与えられた称号が大院君です。本来は外戚が力を持つところを、大院君は外戚に権力を取られる前に自ら政治を握り、儒教的な王政の復活を目指しました。
深井さんは、大院君の方向性を日本とは逆の動きだと説明します。日本が「近代化しなきゃ」と焦っていた一方で、大院君は国をしっかり閉じ、外国人を入れない方針を貫きました。
しかし朝鮮半島は地政学的に重要で、欧米列強の圧力は高まっていきます。特に日本にとっては、他の列強が朝鮮に入れば日本をいつでも攻められる状態になるため、朝鮮にどうにかなってほしいと考え続けていました。
日本や中国では「意をもって意を制す ── 「以夷制夷」のこと。本来は異民族同士を争わせて制する意味ですが、ここではヨーロッパの技術を取り入れてヨーロッパに対抗する考え方として語られています」という発想で近代化が進みましたが、朝鮮はこの流れに乗り遅れていきます。
「皇」と「勅」の一文字で、なぜ手紙は突き返されたのか
明治新政府は大院君政権に使節を送りますが、大院君は国書の受け取りを拒否します。理由は、文面に「皇上」や「勅を奉じ」という言葉が使われていたことでした。
冊封体制の中では、「皇」や「勅」は中国皇帝だけに許された言葉です。朝鮮から見れば、日本の王が勝手に皇帝の言葉を使っている礼儀知らずの文書だったことになります。
(冊封)体制の中では中国皇帝だけに許された特権なのに、日本の王が勝手に使ってる、やばない?ってなるわけですよね。
それは受け取れないです。
日本からすれば、独立国のトップは皇帝であり、日本では天皇がそれにあたるので、天皇の言葉は「勅」だという感覚でした。深井さんは、これこそ繰り返し説明してきたウェストファリア的な感覚だと話します。
「皇」「勅」は中国皇帝だけの言葉。日本が使うのは礼儀知らずで、受け取れない
独立国のトップは皇帝であり、日本では天皇。天皇の言葉だから「勅」と書くのは当然
国書を受け取る、受け取らないの問題で日朝の意思疎通はこじれ、日本政府内では西郷隆盛の征韓論 ── 明治初期、朝鮮に開国を迫るため武力行使も辞さないとする主張。1873年の政変で西郷隆盛らが下野するきっかけになりましたのような考えが醸成されていきます。
全然ドア開けてくれないから、もうちょっとドア壊しに行こうみたいな、そういった流れになってきます。
大院君政権は排外政策と清への臣従を堅持し、諸外国との問題はすべて清に報告していました。しかし清自身がアヘン戦争以来の列強の圧力やフランスのベトナム侵攻などに追われ、朝鮮どころではありませんでした。
唯一の外交相手である清からなおざりにされた李氏朝鮮は、適切な国際情勢の認識を持てません。一方の日本は、李氏朝鮮が開国に傾かないのを見て、朝鮮が国家防衛上の大きな障害だという認識を持つに至ります。
後で後でってなって。ご飯の後ってなって。
閔妃の登場で開国へ、それでも揉めた「どちらの門」
高宗は閔妃と結婚します。閔妃の両親は早くに亡くなっていたため、大院君は外戚の専横を防げる、つまり自分の権力を維持できると考えてこの結婚を進めました。
ところが閔妃は賢く権力欲のある人物で、親戚と手を組んで力を伸ばし、ついには大院君を政権から排除してしまいます。
閔妃と外戚の政権は、大院君の復古政策に不満だった人々と組んで、鎖国攘夷を改め開国と近代化へ舵を切ります。対日外交の責任者を全員更迭し、明治政府との交渉を始める判断をしました。
しかし日本が再び送ってきた国書は同じ文面で、「皇」や「勅」の問題は解決していませんでした。江戸時代と明治政府で印章が違うことまで、朝鮮側は問題視していたといいます。
そこなんかどうにかならなかったんですかね。スタンプとかで。ピピって消して。
忠実なね、(清の)朝貢国だったからね。
閔妃政権は国書は受け取ることにしますが、使節は江戸時代と同じやり方でもてなすと伝えます。朝鮮の王宮には、対等な国の使節が通る門とは別に、宗主国である清の使節が通る門がありました。
日本側は、独立国なのだから清の使節と同じ門を通らせてほしいと主張し、今度はどちらの門を通るかで揉め始めます。深井さんは、滑稽に聞こえても切実な問題だったと話します。
(冊封)体制とウェストファリアの戦いになってるから、どっちかが細かいことで崩れると総崩れするんだよね、やっぱりどっちも。だから譲れないんでしょうね。
江華島事件と日朝修好条規、日本が取った「言質」とは?
交渉が進まないことに苛立った日本政府は、武装した船を朝鮮へ送ります。測量を名目に江華島付近でわざとうろつき、攻撃を誘発して、それを口実に要塞を攻め落としました。これが江華島事件 ── 1875年、朝鮮の江華島付近で日本の軍艦雲揚号と朝鮮側砲台が交戦した事件。翌年の日朝修好条規締結につながりましたです。
武装船の派遣
測量を名目に江華島付近へ砲艦を向かわせる
攻撃の誘発
付近でわざと動き回り、朝鮮側からの攻撃を招く
要塞の制圧
攻撃を名目に要塞を攻め落とす
条約締結
驚いた朝鮮側が交渉に応じ、不平等な日朝修好条規を結ぶ
(武力の)示威で攻撃して不平等な条約を結ぶって、なんか聞いたことあるですね。
実際に攻撃してるから、ペリーの黒船よりも割と結構ストロングスタイルですよね。
朝鮮側はウェストファリア的な条約を理解しておらず、日本の不平等な要求はすべて承認してしまいます。朝鮮側が文句を言ったのは、日本の「大日本皇帝閣下」に対して朝鮮が「朝鮮国王殿下」で尊称が対等でない点や、国名を「大日本国」「大朝鮮国」とそろえる点でした。
深井さんによれば、日本にとって最も大きな成果は、条約に「朝鮮国は自主の国にして日本と平等の権を保有せり」という表現を入れたことです。朝鮮は独立国だという条約上の言質を取ったことで、朝鮮を冊封体制から引き離し、ウェストファリア的な秩序に近づけた格好になりました。
開化派と守旧派、壬午軍乱で振り出しに戻る朝鮮
日朝修好条規以降、朝鮮国内では開国を進めたい開化派と、鎖国を続けて従来のやり方で国を運営したい守旧派の対立が深まります。楊さんは、江戸幕末と似た動きだと指摘します。
すでに港を開いた李氏朝鮮は、清や日本に使節・留学生・視察団を送り、国際情勢の把握に努めます。この時期、ロシアの南下を脅威として朝鮮も認識し始めました。
閔妃は日本をモデルに官僚組織の一部を近代化し、新式の鉄砲と軍制を備えた軍隊を作ります。しかし改革に費用を使ったため、旧来の軍隊への給料が滞り、反乱が起きてしまいます。
軍制改革
閔妃が日本をモデルに新式軍隊をつくる
給料の滞り
改革に費用がかかり、旧軍への給料が遅れる
旧軍の反乱
新軍を指導する日本の軍人や駐留部隊が殺される
政権交代
反乱軍が大院君を呼び戻し、閔妃を追い落とす
この反乱が壬午軍乱 ── 1882年に漢城で起きた旧式軍隊の兵士による反乱。日本公使館も襲われ、清が介入して事態を収拾しましたです。収拾した時点では、閔妃の開化派が退けられ、大院君の守旧派が政権に戻っていました。
深井さんは、この後日本に併合されるまで、朝鮮の政局は大院君と閔妃の2つの派閥の間を行き来したと話します。両派は日本、清、ロシアとそれぞれ結び、国内を混沌とさせていきました。背景には、両班が陰謀を巡らせて争う李氏朝鮮の歴史的なフォーマットがあったといいます。
開くぞってなったり、守るぞってなったり。
二つの派閥を日清が支援、戦争への道筋
朝鮮の国内勢力が2つに分かれたことで、片方を日本が、もう片方を清が支援する構図が生まれます。これにより、朝鮮での日清の権益の衝突が現実味を帯び、日清戦争へとつながっていきます。
統一、窓口統一せずに。こっちはこっち、こっちはこっちで。
番組では、ここまでの流れも整理されます。ヨーロッパの国々が主権国家としての帝国主義的な政策でアジアへ植民地を広げ、東アジアの覇権国家だった中国は正面衝突の末にアヘン戦争で敗れます。
それを見た日本は自力で近代化を進め、朝鮮は国際情勢の認識が遅れたために冊封体制にとどまろうとしました。そして、冊封体制のもとで存在感を保ちたい清と、ウェストファリア的な論理の中で自衛のために存在感を示したい日本が、朝鮮をめぐって対立していきます。
| 国 | 国際秩序への向き合い方 | 朝鮮に対する姿勢 |
|---|---|---|
| 清 | 冊封体制を維持しつつ列強と衝突し、アヘン戦争で敗れる | 冊封体制の中で存在感を保ちたい |
| 日本 | 清の敗北を見て自力で近代化 | 自衛のため、ウェストファリア的な論理で影響力を持ちたい |
| 朝鮮 | 情勢認識が遅れ、冊封体制にとどまろうとする | 国内が派閥に割れ、両国の対立の舞台になる |
樋口さんは、ウェストファリアと冊封体制が何で、なぜぶつかるのかを一つずつ理解すれば、朝鮮の挙動も日本の挙動も「そりゃそうやろな」と見えると話します。一方で、この歴史は今につながる国際問題でもあるため、冷静に見ることが難しくなるとも語ります。
深井さんは、感情的に刺激されることに加え、各国の学校教育がそれぞれの国の立場から歴史を教えることも、メタ認知を阻む一因だと指摘します。同時に、そうした教え方が歴史を学ぶきっかけになり、国民がまとまるエネルギーにもなる面があるとして、「なんとも言えない」という結論になりました。
大院君を笑えるか?現状認識の難しさ
深井さんは、世界秩序が変わる瞬間を見ていると、いろいろなことが起きるものだと振り返ります。そのうえで、100年ほど経った今だから整理して理解できるのだと話します。
僕たちから簡単に思っちゃうと、大院君アホやなって見えるじゃないですか。
けど、日常生活の中に埋め込まれてるとわかんないじゃないですか、そんなこと。
深井さんによれば、大院君の政策は国内政治としては悪くありませんでした。腐敗した両班政治を改め、中央集権的な王権国家に戻すという方針は、それ自体としては筋が通っていたからです。
ただ、鎖国体制にとどまろうとするからこそ外国の情報が入らず、日本に武力で示威されるまで状況がわからないという構造がありました。インターネットのない当時、情報は現地に行くか、文献や手紙に頼るしかなく、その手紙にも書き手のバイアスがかかります。
現状さえ正確に認識できれば、対処はロジカルに考えられると番組では語られます。孫子の「己を知り、敵を知れば百戦危うからず ── 中国の兵法書『孫子』の言葉「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」。相手と自分の実情を知れば負けないという意味です」も、現状認識のことだという見立てです。
面白いのは、中国・日本・朝鮮の中で最も正確に状況を認識できたのが日本だったという点です。番組では、一番遅れていて渦中にいなかったからこそわかったのではないかと語られ、聴き手にも自分にとって現状認識できていない領域はどこかを考えてみてほしいと呼びかけます。
話は、コテンラジオが福岡県田川という辺境で生まれたことや、辺境から出た秦の始皇帝にも広がります。メインストリームからは外れ値が出にくいのかもしれない、という見方です。
明日にはちょっと田川の人に殺されてるかもしれないですけど。
次回は、壬午軍乱以降に朝鮮内部で対立が広がり、清と日本が別々の勢力を後押しする中で、日清戦争へどう突入していくのかが具体的に語られる予定です。
まとめ
李氏朝鮮は、朱子学と両班による中央集権体制のもとで外戚の権力闘争を抱え、大院君の復古路線と閔妃の開国路線の間で揺れ続けました。冊封体制とウェストファリア体制という相容れない2つの秩序がぶつかる中で、朝鮮は日清の利害が衝突する舞台になり、その過程は現状認識の難しさを今の読者にも問いかけます。
- 朝鮮は明の支援で建国され、朱子学と文官中心の両班体制のもとで外戚の権力闘争が政治を腐敗させていた
- 大院君は鎖国と王政の復古を目指し、「皇」「勅」を含む日本の国書を冊封体制の論理で拒否した
- 閔妃政権は開国へ転じたが、門の選び方などをめぐって交渉は進まず、日本は江華島事件で日朝修好条規を結ばせた
- 壬午軍乱以降、大院君派と閔妃派が日本・清・ロシアと結んで争い、日清の対立が戦争へ近づいた
- 渦中にいなかった日本が最も正確に状況を認識できたという見方から、現状認識の難しさと歴史のメタ認知の効用が語られた





