放射線はどうやって見つかったのか
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今回のコテンラジオが扱うのは原子力です。前回までの火薬、農耕に続くテーマとして、楊さんが原子力の技術がどう発見されたかから話を始めます。
出発点になったのは原子力とは直接関係のない放射線の発見でした。1896年、ドイツのヴィルヘルム・レントゲン博士がX線を発見します。
このX線の論文を読んだフランスのアンリ・ベクレル教授は、蛍光を発する物質もX線のような放射線を出すかもしれないと考えました。そこで自ら光るウラン化合物を使って実験を始めます。
ベクレル教授は当初、太陽光のエネルギーでウラン化合物が反応して光っていると考えていました。ところが数日間パリが曇り、太陽光を当てないよう引き出しにしまっておいた写真乾板にも、ウラン化合物の像がくっきり写っていたのです。
つーことは、これ太陽光関係ないと。暗いところでずっと化合物光っとるわと。
ここからウラン化合物が自発的に何かを出していることがわかりました。ただしベクレル教授の研究はここまでで、「ウランの化合物が何かを出している」ところまでが到達点でした。
命をかけたキュリー夫妻の研究
ベクレルが残した「ウラン化合物の謎の光の正体」を研究テーマに選んだのが、ポーランド出身のマリ・キュリーです。女性蔑視の時代にパリへ留学し、パリ大学で学び、物理学者ピエール・キュリーと結婚しました。
マリ・キュリーは分析を進め、光っているのは化合物ではなくウラン原子そのものだと突き止めます。そして原子が自発的に出すこの謎の放射線を「放射能」と名付けました。
さらに彼女はウラン以外にも放射線を出す原子があることを発見します。トリウム、ウランの300〜400倍強い放射線を出すポロニウム、温泉でも知られるラジウムなどです。ポロニウムは祖国ポーランドにちなんだ名前でした。
キュリー夫妻は化合物として存在するラジウムを単体で取り出そうと、硫酸や硝酸で溶かすなど様々な方法を試します。研究室で青白く光る塩化ラジウム溶液を眺めては、その美しさにうっとりしていたと言います。
そうだよね。いいね。放射能だけどね。
当時は放射能が体に害を及ぼすことがわかっていませんでした。4年かけて11トンの化合物から取り出せた塩化ラジウムは、耳かき一杯ほどだったと言います。
この成果でマリ・キュリーはベクレルとともに第3回ノーベル物理学賞を受賞します。女性初のノーベル賞受賞者であり、後にラジウムの発見でノーベル化学賞も獲得しました。
しかし長年の放射線研究は確実に体をむしばんでいました。助手も亡くなり、マリ・キュリー自身も1934年に放射線障害で命を落とします。研究を引き継いだ娘イレーヌも、急性白血病で亡くなりました。
この真理の探求に全振りしていく人間がいるんだよな。たまに出てくるやつや、歴史上で。
原子は「分割できないもの」ではなかった
もう一つの流れが原子という概念です。古代ギリシャの哲学者デモクリトスが、これ以上分割できない小さな単位アトムの組み合わせでこの世ができているのではと語っていました。
科学革命の後、観察と実験によって本当に原子があることが証明されていきます。ただしデモクリトスの説とは似て非なるもので、原子はこれ以上分割できないものではありませんでした。
原子の内部には、太陽系のように中心に原子核があり、その周りを電子が回っていることがわかってきました。原子核は陽子と中性子からなり、陽子の数が元素を決めていることも判明します。
これ、顕微鏡で見たとかじゃないですよね。
1938年、ドイツの物理学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンが、ウラン原子の原子核に中性子を当てると原子核が分裂することを発見します。これが核分裂です。
核分裂が起きると中性子が2〜3個飛び出し、周りの原子核に当たってネズミ算式に分裂が連鎖することもわかりました。さらに分裂時に失われた質量が、膨大なエネルギーに転化することも判明します。
これは一番有名なやつですよ。アインシュタインのやつや。
注目すべきはそのスピードです。マリ・キュリーがノーベル賞を取ったのが1900年代初頭、そこから原子構造がわかり、30年ほど後には核分裂が判明します。そして核分裂が発見された1938年から、原爆が投下された1945年まではわずか7年でした。
マンハッタン計画と亡命した科学者たち
核分裂が発見された瞬間、物理学者たちはこのエネルギーを爆弾に使えると即座に思いつきました。1939年、物理学の大御所ニールス・ボーアがアメリカの学会で核分裂を発表すると、科学者たちは軍事利用の可能性に気づきます。
当時はナチスがユダヤ人迫害政策をとっており、アインシュタインやレオ・シラードといったユダヤ人科学者がアメリカへ亡命していました。彼らは、ナチスドイツが先に原爆を作れば世界が危ういという強い危機感を抱きます。
そこで彼らは当時のルーズベルト大統領に、ナチスより先にアメリカが原爆を作るべきだという警告の手紙を書きます。アインシュタインもこの直訴状に署名しました。実際、ドイツではハイゼンベルクが原爆開発をかなり進めており、開発競争はどちらが勝つかわからない状況でした。
ルーズベルト大統領は当初乗り気ではありませんでしたが、ドイツが実際に開発していることがわかり、1942年に開発計画をスタートさせます。開発から3年で原子爆弾が完成しました。
開発の事務所が最初マンハッタンに置かれたため、この計画はマンハッタン計画と呼ばれます。その後、ニューメキシコ州のロスアラモスに移転されました。
軍部はリーダーに科学者を選びます。カリフォルニア大学のロバート・オッペンハイマーです。物理学者でありながらカリスマ性やマネジメント能力を買われ、最高峰の科学者たちを次々にリクルートしていきました。
集められたのはフェルミ推定で知られるエンリコ・フェルミ、天才と呼ばれたフォン・ノイマン、後に水爆を作るエドワード・テラー、リチャード・ファインマンなど。最終的に科学者1500名がロスアラモスに集まり、家族も含めると1万人ほどの街になりました。
楊さんはここに社会構造の変化を見ます。マンハッタン計画には軍人も参加していました。それまで科学の現場には科学者か技術者しかいませんでしたが、ここに軍人が加わったのです。
この時代は国民国家が最も強い時代で、国が科学を牽引し、科学者を動かして開発を進めていました。この点は、AIなどを民間の株式会社が開発する現代とは大きく異なります。
ウラン型とプルトニウム型、そして頓挫したドイツ
マンハッタン計画では、原子爆弾の作り方が2つあることがわかりました。端的に言えば広島型と長崎型です。
広島型はウラン型で、2つのウランの塊を分けておき、片方をピストルのように発射してぶつけ大爆発させます。長崎型はプルトニウム型で、原子炉でウランからプルトニウムを製造し、周囲から衝撃を与えて圧縮し爆発させます。
原料製造が大変で構造が簡単。2つのウランの塊をぶつけて爆発させる
原料製造が簡単で構造が大変。プルトニウムを周囲から圧縮して爆発させる
ドイツはプルトニウム型で開発を進めていました。ハイゼンベルクが通常の100万倍の威力の爆弾を2年以内に作れると言って着手します。
プルトニウム型には中性子を減速させるための黒鉛や重水が必要でした。ドイツは重水を採用しましたが、重水は水の電気分解を繰り返して作るため豊富な電力を要します。
この動きを察知したイギリス軍の特殊部隊が電気分解装置を爆破し、ドイツの計画は頓挫します。重水が作れなくなって開発が遅れ、その直後にナチスドイツ自体が崩壊しました。
楊さんは、こうした妨害が可能になったこと自体に時代の変化を見ます。かつては科学と技術が別々のパートに分かれていましたが、原子力の時代には両者がほぼ同時期に、融合した形で進んでいました。
深井さんは戦後の流れも補足します。第二次世界大戦後、米ソ冷戦でも国主導の開発競争が続きました。冷戦が終わると国が科学に予算を割くモチベーションが下がり、培った科学と技術を産業へ転換する流れができていったと言います。
核兵器ができれば戦争はやむのか
ナチスドイツが崩壊すると、科学者の間で「もう原爆を作る意味がないのでは」という動揺が広がります。そもそもドイツより先に作るための計画だったからです。
そこでオッペンハイマーは、核兵器という究極兵器ができれば人類は戦争をやめると考えると語り、研究者を再び開発へ向かわせました。
核兵器っていう究極兵器ができたら、人類は戦争をやめると思うと。だから我々の力で完成させよう。
楊さんはこの発想に啓蒙思想的な楽観を見ます。人間が理性を働かせればうまく収まるという前提であり、合理的に考えられる人ばかりならそうかもしれない、という発想です。
一方で逆の行動をとる科学者もいました。かつて大統領に直訴状を書いたレオ・シラードは、ナチスが消えた今は原爆を作る必要がないと考えを変えます。原爆投下の2か月ほど前にフランクレポートを書き、無警告で都市に投下するのは非人道的だと訴えました。
シラードは、日本人を呼んで砂漠や無人島で威力を見せつけ降伏を促せばよいと提案し、70名の科学者の署名を集めた使用中止の嘆願書を、投下の20日ほど前に大統領へ提出します。ブレーキを踏む科学者もいたものの、止まりませんでした。
人類初の核実験と原爆投下
嘆願書が送られた1日ほど前、ニューメキシコ州アラモゴード実験場で人類初の核実験が行われました。8キロ離れた場所から起爆スイッチを押したと言います。
爆発の威力はTNT火薬19,000トン分。太陽数個分の光を発する火球が生まれ、キノコ雲になったと記録されています。オッペンハイマーはその凄まじさに圧倒され、やばいものを作ってしまったと感じたと言います。
その凄まじい爆発を前に「しょぼい」と言った人物がいました。後に水爆を作るエドワード・テラーです。想像していたよりも小さかったのでしょう。
こいつちょっとすげえな。怖いな。
1945年8月6日、B29エノラ・ゲイが誰にも迎撃されずに日本本土へ到達し、リトルボーイと名付けられた爆弾を高度9600メートルから投下します。その後、視界の悪い小倉を避けて長崎にファットマンが投下されました。
アメリカでは、原爆はこの70年間ほど基本的に肯定的に受け止められてきました。ただし投下当初から少数派ながら否定する声もあり、その多くは宗教関係者だったと言います。
深井さんは、この一連の流れを、手にした科学と技術の波には誰も抗えないというもう一つの事例だと表現します。ブレーキを踏もうとした科学者でさえ、止められなかったのです。
科学者に生まれた「原罪意識」
楊さんは、この原子力の歴史を放射能発見からのスピードで振り返ります。ベクレルとキュリー夫妻の発見から、原子構造、陽子や中性子、核分裂、そして爆弾までが半世紀足らずで到達しました。国家主導で天才科学者が集中投入されたからこその速さです。
楊さんはここで、科学に対する見方の転換にも触れます。当初、科学は人類を良くする楽観的なものと受け取られていました。しかし原爆の登場で、科学者自身が初めて「これは自らの存在を滅ぼしかねない」という恐怖を抱きます。
この流れは現代にも続いています。遺伝子解析やクローン、ロボットやAIに対して、とにかく進めればいいわけではないという慎重な派閥があるのは、原爆から生まれたものだと言います。
深井さんは、影響があまりに常識を超えて大きくなったからこそこうした思考が出てきたと指摘します。人間の力が拡大するにつれ責任も拡大されるべきだという発想から、環境倫理、生命倫理、情報倫理といった考え方が各分野に現れました。
技術者倫理っていう考え方が生まれるのはこのタイミングで、科学者倫理とか技術者倫理ですよね。
さらに核戦争への恐怖は、核戦争後の世界を描く映画やゲームを大量に生み出しました。滅ぼされるかもしれないという恐怖は、技術に対する恐怖としては初めてのものでした。なお、軍事利用として始まった核分裂は、戦後の資源危機の頃に原子力発電としても普及していきます。
核兵器廃絶運動と科学者の社会参加
原爆によって生まれた「野放しにするのは危うい」という流れは、まず核兵器の管理をめぐって現れます。戦後、核兵器を軍の管理下に置く案に科学者が激しく反対し、それを防ぐことができたと言います。
さらに核兵器の廃絶を目指す運動も広がります。1955年、哲学者バートランド・ラッセルとアインシュタインが、米ソの核開発競争を憂慮し核兵器廃絶と平和を訴える宣言を出しました。
ラッセルはラジオ放送で、共産主義者であれ反共産主義者であれ、白人であれ黒人であれ、東西間の問題を戦争によって解決してはならないと訴えたと言います。
これらの問題を戦争によって解決してはならないということです。
この宣言をもとにパグウォッシュ会議という世界的会議が開かれるようになります。10か国からノーベル賞受賞者を含む22名が集まり、核エネルギーの危険性、国際的ガバナンス、科学者の社会的責任と国際協力を議論しました。
日本からは湯川秀樹、朝永振一郎、小川岩雄らが参加しました。全ての核兵器と戦争の廃絶を科学者が唱えるという現象は、18〜19世紀の科学者からは信じられないものだと楊さんは言います。
楊さんは、こうした行動の背景に科学者の原罪意識があると指摘します。オッペンハイマーが爆発を見て「やばいものを作ってしまった」と感じた、作ってはいけないものを作ったかもしれないという問いが出発点になっていると言います。
科学者倫理からビジネスパーソンの倫理へ
1970年代に入ると科学倫理の流れが加速し、1990年代初頭にはELSIという概念が登場します。ESGの科学者倫理版のようなもので、Ethical, Legal and Social Issuesの頭文字です。
ELSIは、DNAの二重らせん構造に対しても社会的影響を含めて慎重に研究すべきだと主張します。つまり、科学を研究するだけでなく、それがどんな影響を持つかも研究しながら進めるべきだという考え方です。
2020年にはRRI(Responsible Research and Innovation、責任ある研究とイノベーション)という概念も登場します。ELSIを十分に考慮した上で行動していくという意味で、ESGとSDGsの関係に近いものです。
倫理・法・社会的な課題。科学研究の社会的影響を慎重に考慮すべきという考え方
責任ある研究とイノベーション。ELSIを十分考慮した上で行動していくこと
楊さんは、この構造がいまビジネスパーソンにそのまま起きていると言います。好奇心や社会的要請でとにかく先に進めていたものが、影響が大きすぎるために慎重論を生み、それが内部からカウンターとして出てくる。ESGやSDGsは全く同じ動きだと指摘します。
楊さんは、責任と公共性が求められるのは強い力を持った者であり、それが戦争の時は科学者に、今は民間の人たちに起きているのだと語ります。力の主体が国民国家主導から民間へ移った結果だという見立てです。
絶対に起こしてはいけないことをどう防ぐか
楊さんは、核戦争が起こる確率が低いかどうかではなく、絶対に起こさないためにどうすべきかを考える必要があると強調します。
低いかどうかじゃなくて、絶対起こさないかどうかが大事なんじゃん、これって。
この視点はAIにも当てはまると楊さんは言います。AIが暴走しないよう機能をつければ大丈夫という議論はあるものの、大切なのは、絶対に起こってはいけないことをどう防ぐかだと指摘します。
核爆弾も「みんなが撃たなければいい」ではなく、自分たちの倫理が通用しない国や、世界を滅ぼしたい個人が撃っても大丈夫な状態をどう作るかが問われました。AIも同じで、悪意ある個人一人が使っても大丈夫な状態を100%担保できるかという思考が必要だと言います。
楊さんは、ビジネス界は技術に対して楽観的すぎるのではないかと感じています。「こうすれば起こらない」はその通りでも、一人がやっても大丈夫な状態をどう作るかは、まだあまり議論されていないと言います。
深井さんは、自身が好奇心の強いタイプだからこそ、開発を止められない気持ちがよくわかると語ります。だからこそ絶対に起こしてはいけないルートをどう防ぐかを同時に考える必要があると楊さんは応じます。
楊さんは、オッペンハイマーの煽り方は頭がいいのに愚かだったと振り返ります。世界が完全に滅ぶ可能性が常にある状態に合意する瞬間は、頭のいい人でも感情的だったと言います。
深井さんは、理性を駆動させれば科学技術の負の側面を全てコントロールできるつもりになっている、と危うさを言い換えます。楊さんも、理性は大して駆動していないという前提に立って考える必要があると応じました。
力を持った者は必ず倫理にたどり着く
深井さんは「人間は力を持ちすぎた」と表現します。竹槍で戦っていた頃は地球の方が力強かったのに、今は地球すら滅ぼせるようになったと言います。
楊さんは、中世でも環境破壊は行われていたが中世人には地球を滅ぼせなかった、しかし現代人には地球も人類も滅ぼせると指摘します。だからこそ、その力を持つ一員としての責任が科学者には1950年代からあり、いまビジネスパーソンに降りてきていると言います。
だからもう力を持った者はもうここにたどり着くんですね、必ず。倫理とセットにする。
ただし楊さんは、全員がそこにたどり着くわけではないとも釘を刺します。自社の売上だけ上げればいいと考えるビジネスパーソンは今も多数派であり、それがなくなるわけではないと言います。
一方で深井さんは、倫理の縛りが規制という側面を持ち、産業や自社の競争力を阻害しうる難しさを挙げます。倫理で規制されない者の方が経済的にも軍事的にも強くなる可能性があるため、簡単な問題ではありません。
さらに深井さんは、先進国は以前は許されていたのに、今から発展途上国が同じことをすると規制されるという時間差の不公平も指摘します。「ずるいやん」という別のエネルギーが絡む問題です。
それでも楊さんは、誰かが一度きちんと考えて結論を出した方がいいと語ります。難しいから置いておこうと言いながら技術開発を続けているのは危うい、なにしろ人類を滅ぼせるのだから、という危機感です。
本当はビジネスパーソンがすべきですよね。お金一番持ってて、技術一番使ってて、人いっぱい動かしてる。
こうして原子力の回は締めくくられます。次回はコンピューターとインターネット。力が強すぎて考えさせられるテーマが原子力なら、コンピューターもまた考えるべきことが多いテーマになりそうだと二人は予告しました。
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まとめ
放射線の発見から原爆までわずか半世紀。国家主導で天才科学者が集中投入されたことで、原子力は驚異的な速さで兵器にまで到達しました。その過程で科学者に生まれた原罪意識が、科学者倫理という新しい発想を生み、いまそれが強い力を持ったビジネスパーソンへと降りてきています。
- 放射線の発見(1896年X線、1900年代初頭のキュリー夫妻)から原爆投下(1945年)までは半世紀足らずで、核分裂発見から原爆までは7年だった
- マンハッタン計画は国家主導で1500名の科学者を集め、科学者・技術者・軍人が同じプロジェクトに融合した点が歴史的な転換だった
- オッペンハイマーは「核兵器ができれば戦争はやむ」と楽観したが、シラードら投下に反対する科学者もいた
- 原爆が生んだ科学者の原罪意識から、核兵器廃絶運動やパグウォッシュ会議、ELSI・RRIといった科学者倫理の流れが生まれた
- 強い力を持った者には責任と公共性が求められる。その構造が科学者からビジネスパーソンへ移り、AIにも「絶対に起こしてはいけないことをどう防ぐか」が問われている




