宮司の家に生まれた子どもの最初の記憶とは?
この回は、太宰府天満宮の宮司家に生まれた西高辻信宏さんの生い立ちから始まります。深井さんは、1980年生まれの西高辻さんに、生まれたときから道真公の話を聞かされてきたであろう環境での一番古い記憶を尋ねました。
西高辻さんが挙げたのは、6歳のときに亡くなった祖父と境内を散歩した幼稚園のころの記憶です。祖父は戦後すぐの一番大変な時期に宮司を担い、65歳で亡くなりました。
西高辻さんは、祖父の後ろ姿や一緒にいた時間が、自分の中で核になっている部分だと話しています。
宮司家に残る話は、道真公 ── 菅原道真。平安時代の学者・政治家で、大宰府に左遷されてこの地で亡くなりました。のちに天神様として祀られ、学問の神様として信仰されています自身の話だけではありません。西高辻さんの家は築400年以上で、幕末には三条実美 ── 幕末・明治の公家。尊王攘夷派の中心人物の一人で、明治政府で太政大臣を務めましたが3年間住み、西郷隆盛や坂本龍馬も訪れて会議をしていた記録が残っているそうです。
行った時にお家の中入れていただいたことがあるんですけど。この部屋で、その三条実美さんがいた部屋みたいな。
深井さんは実際に家に上がったことがあり、坂本龍馬と会議をしていた部屋が今も家の中にあると驚きを込めて紹介しています。
境内の幼稚園と、庭ではない「お預かりした場」
樋口さんは、実家が天満宮の敷地内にある生活そのものが想像できないと切り出します。西高辻さんが通ったのは、境内にある太宰府天満宮幼稚園でした。
西高辻さんによると、幼稚園には地元の子どもが多く通い、今も園児が境内を散歩したり駆け回ったりしています。スケッチ大会や七五三など、地域の多くの人にとっても天満宮は子ども時代の記憶と結びついた場所だと話しています。
自分の家の庭が地域の方から愛される庭じゃないわけじゃないですか、僕の庭が。
樋口さんのこの問いに対し、西高辻さんは、境内は天神様が鎮まり人が集う場であり、自分のものではなく「お預かりしている」感覚が強いと答えます。神社は鎮守の森があり人が出入りしやすく、開かれた場であることを意識しているといいます。
一方で、子どもらしい思い出もあります。西高辻さんは、黒田家から寄進された江戸時代の門をサッカーゴールにして遊び、外に出たボールを参拝者が投げ返してくれたと振り返っています。
小学校へは参道を通って通い、帰りは開いているお店に挨拶しながら帰ったそうです。西高辻さんは、地元の人や職員に見守られて育ったという思いがあり、子どもながらにしっかりしなければという気持ちもあったと話しています。
継ぐことへの葛藤は、父の急病でどう変わったのか
深井さんが、継がなければならないことへの葛藤を尋ねると、西高辻さんは思春期が一番葛藤していたと認めます。敷かれたレールに乗っているような気持ちと、自分で何かをやりたい思いがあったといいます。
その背景には母方の祖父の存在がありました。満州で学生時代を過ごしてシベリア抑留に遭い、帰国後に起業して上場まで果たした祖父を見て、西高辻さんも一から何かを作り出したいと考えた時期があったそうです。
転機は高校2年生のときです。父が急病で倒れ、家族が呼び集められるほどの状態になりました。父は今は元気になっていますが、そのとき西高辻さんは、自分が継がずに神社が悪い方向へ進んだら強く後悔すると気づき、神職の道に進む覚悟が決まったと語っています。
高校2年生でその覚悟をする人生って何ですか?すごい人生。
回復した父と話したとき、西高辻さんは「決まったことしかできず自由がないのでは」と打ち明けました。父は、祭りと祈りが最も大切だとしたうえで、宮司にもいろいろなことができ、自分で可能性を狭めているのではないかと返したそうです。
西高辻さんはその後、歴代の宮司が各時代で神社の可能性を広げてきたことを調べ、自分の考えが足りなかったと感じたといいます。そこから、自分の代で神社に何を貢献できるかを考えるようになりました。
敷かれたレールで、決まったことしかできないと感じていた
宮司だからこそできることがあり、自分の代で何を貢献できるかを考える
源平から明治まで、神社はどう生き残ってきたか
深井さんは、戦後に神社の立ち位置が国家によって変えられた祖父の時代にも触れ、伝統と時代の変化を西高辻さんがどう受け止めているのかを尋ねます。
西高辻さんは、社会や権力者が変わる時期はどの時代も苦労していると答えます。源平の争いでは、平氏と縁の深かった太宰府で、奉仕する家同士が平氏側・源氏側に分かれ、勝った側の家が前に出るといった形をとったそうです。
戦国時代も筑前の支配者はころころ変わったため、家ごとに担当を分け、何があっても神社が残る形にしていたといいます。こうした動きは、研究者に公開している資料などからうかがえると話しています。
室町時代には、道真公は連歌 ── 複数人が句を順に詠みつないで1つの作品にする和歌の形式。中世に武士や公家の間で盛んになりましたの神様としても信仰されていました。関ヶ原の後に筑前へ入った黒田官兵衛(如水)は連歌に通じ、道真公への信仰も厚く、福岡城ができるまで境内に庵を構えて住んでいたそうです。
明治に入ると黒田家の庇護はなくなります。当時の宮司だった西高辻さんの高祖父は、開かれた神社をつくる必要があると考え、20歳を過ぎたころに宝物を公開する太宰府博覧会を明治6年に企画しました。
そこから博物館の誘致運動が始まり、4代にわたって受け継がれていきます。
西高辻さんは今の自分の感覚を、駅伝ランナーのような感覚だと表現します。前の人からたすきを受け取り、自分の区間を全力で走り抜いて次へ渡す。その区間には自分の個性や考えが出てよいというのが父の思いでもあったと話しています。
守るものと新しくするもの、判断の優先順位は?
深井さんは、株式会社の4代目・5代目の後継者も抱えるであろう悩みとして、絶対に守るべきものと新しくしてよいものの境目をどう判断しているのかを尋ねました。
西高辻さんがブレないようにしているのは、天満宮が道真公への祈りの場所であることです。何をするかを決めるときは、道真公がどう考え、喜ばれるかを自分の中で対話して確かめるといいます。
その次に、地域の人や参拝者に喜んでもらえるか、未来のためになるかを考えます。西高辻さんは、過去と未来の間を今自分が生きている感覚で判断していると話しています。
その中でもやっぱり優先順位っていうのが結構ちゃんと決まっていて、道真公がどう考えるかっていうのがやっぱり一番大事。
この判断基準は、祖父や父の考えからも受け継がれたものだと西高辻さんは見ています。ものを書くのが好きだった祖父の記録や、研究者がまとめた伝記が残っており、考えに触れやすい環境だったといいます。
道真公自身の著作が多く残っていることもありがたいと話し、同時に、その後どう信仰されてきたかも大事にしていると語っています。
せいぜい祖父から孫ぐらいはなんとなく想像できるんですよ。
樋口さんは、自分の自我が担う範囲と比べて、西高辻さんは家や血の単位で考えているように感じたと述べます。西高辻さんは、家というより、1100年以上続いた天神様への信仰を次の1100年どうするかが大きいと答え、動けない場所だからこそ地域という横の広がりも同時に考えるといいます。
仮殿の設計と、お供えの魚をどう決めたのか
深井さんは、道真公がどう考えるかを基準に決めた具体例を尋ねます。西高辻さんが挙げたのは、124年ぶりに行っている御本殿の大改修です。
工事期間中は御本殿が使えないため、仮のお社を建てる必要がありました。4〜5年かけて準備し、建築家から3つほど案が出た中で、今の時代に道真公が生きていたらどう考えるかを基準に、今の仮殿の形に決めたそうです。
父の例もあります。祭りのお供えの魚は昔から鯛が多かったものの、父は毎月の大きな祭りで鯛では道真公も飽きるのではと考え、その季節の旬の魚を供えるようにしたといいます。
魚の種類までね。
4代がかりの時間軸で、森をどうつくり替えるか
深井さんは、4代かけて博物館を誘致した時間感覚に注目します。データベースづくりで普通のスタートアップより長い時間軸で考えている深井さんでも、自分が生きている間に成し遂げられることしか取り組めない感覚があるといいます。
普通やっぱ自分が死ぬまでの間に成し遂げうることしか、今のほとんどの起業家の人たちって、なんなら多分5年10年のことしか取り組めないっていう感覚持ってると思うんですけど。
西高辻さんはこの時間軸につながる最近の取り組みとして、天満宮の森を挙げます。近年は大雨など気象の変化で山が削られる被害が出ており、気温が上がり続けた場合の50年後・100年後の森の姿を考えたそうです。
森が倒れて建物が傷むところまで想定し、大学の先生方と共同で、水がゆっくり浸透して保水力を保てる山づくりを進めています。
九州北部に適した樹種で構成された森
温暖化を見越し、鹿児島など九州南部の木も植えて森を変えていく
西高辻さんは、経済効率性だけを考えれば今はやらないほうがよいが、50年・100年単位で見れば今やるべきだと考えて取り組んでいると話しています。
千年続く家に共通する「公共性の高さ」とは
森の話を受けて、収録では、地域や地球のために何かをするという感覚が、西高辻さんにとっては天神様の一部である自分自身のことになっているのではないか、という受け止めが語られます。
深井さんは、これまで会った千年級の家の人々に共通するのは、デフォルトの思考の公共性の高さだと話します。自分の家が金持ちになるためではなく、公共のことをずっと考えているといいます。
僕が至った結論はそうじゃない限り千年残らないんだろうなと思ったんですよ。
深井さんによれば、公共性が高いとは、人に生かされ、求められ、慕われ続けているということです。誰からも「いらない」と思われれば家はなくなるため、それを担保する精神が帝王学として受け継がれているのだろうと推測しています。
深井さんは、本来の貴族とはこういうものではないかとも述べ、特権階級という悪いイメージだけでは捉えきれないと話しています。
その公共性が時間軸に合体されてるというか、時間軸に沿って公共性が拡張されているっていう、そういう感じかもしれない。
楊さんはさらに、道真公と太宰府天満宮のように、時代ごとに引用され続けるエネルギーの軸があることも重要だと指摘し、普通の企業にそこまでの軸があるかは微妙だと述べています。
学問の神様の家で、受験勉強はどうだったのか
樋口さんは、学問の神様を祀る家に育った西高辻さんの受験のプレッシャーを尋ねます。西高辻さんは、中学受験ではあまり気にしなかったものの、大学受験では少し感じたと振り返ります。
受験前から、うまくいかなかったらとマスコミや発言力のある芸能人に言われ、世の中からはこう見られるのだと高校時代に感じたそうです。
一方で、切磋琢磨できる友人が多くいたこと、両親がリスクの高い選択でも進みたい道に進むよう応援し、責任は自分たちが取ると言ってくれたことに安心したといいます。天神様に守られている感覚もあったと話しています。
天満宮で合格祈願を受けることになった際、職員が誰も自分からは引き受けず、最終的に父が祈願をしたというエピソードも語られました。
はい、自分がやってね、失敗しちゃったらもうやばいですからね。
結果は無事に合格だったそうです。
美術の先生と東大の展覧会が教えた「答えは1つじゃない」
勉強について聞かれた西高辻さんは、本に囲まれた環境に加え、中学で出会った美術の先生の影響が大きかったと話します。
1回目の授業は、鏡を見て顔の中央に線を引き、右半分を右手、左半分を左手で描く自画像でした。右利きの西高辻さんは左側がうまく描けませんでしたが、先生は左側の線のほうが柔らかいと評価したそうです。
うまく描ける、いい線
意思があまり入らず柔らかい。この線を生かして次の作品を作る
西高辻さんは、答えが決まった場所に最速でたどり着く受験勉強とは違い、答えは1つではなく視点を変えれば違うものが見えると気づいたといいます。この経験が、大学で美術史を選ぶ理由の1つになりました。
もう1つの理由は、宝物などの古いものに囲まれて育ち、作った人・残した人・奉納した人の歴史に興味を持ったことです。
学芸員の資格を取る授業では、東大の博物館で海外のアーティストと学生が展覧会をつくる企画に参加しました。学生が学内で撮った写真を「大気圏」「地下圏」などで分類し、航空機のタービン模型と鳥の剥製を並べるなど、編集によって違う価値を示す体験だったといいます。
西高辻さんは、この体験が太宰府に戻ってからの取り組みのきっかけにもなったと話し、博物館や美術館はある意味データベースだとも述べています。
時代ごとに解釈されて引用されて生き残っていくっていう、この現象がすごく面白いんですよ。
美術との関わりを聞かれた楊さんは、小さいころから絵を描き、中学・高校で美術部に入り、今も気に入った絵を買っていると話しています。
味酒家との1100年と、千年残ることの「究極の合理性」
深井さんは最後に、道真公の時代から天満宮に仕える味酒家を紹介します。西高辻さんによれば、味酒家の先祖は大宰府に流された道真公に付き従った弟子で、道真公の埋葬も担い、今も共に天満宮に仕えているそうです。
楊さんは、ふつうは尊敬する人を自分で選んでそばにいるのに、家柄で関係が脈々とつながっている点に驚きを示します。
深井さんは、こうした伝統を非合理と見る考え方もある一方で、ESGを勉強してきた立場からは、長期的に最も合理的だと考えていると話します。
深井さんによれば、人間社会は認知できない複雑な要素で動いており、千年残ったものは運だけでは説明できず、どこかに必然性があります。その必然性を、深井さんは長期の合理性と捉えています。
この百数十年追求されてきたもの。当代で採算が合うかを重視する
認知しきれない要素を含めて千年残る必然性。当代で採算が合わなくても未来の森に投資する
深井さんは、森に南九州の木を植える判断を、当代では採算が合わないのに投資する「ホモサピエンスにとっての究極の合理性」だと表現しています。収録では、歴史を俯瞰しないと因果関係を俯瞰できない点に、歴史を学ぶ意味があるという声も出ました。
次回は、今の神社とこれからの神社を西高辻さんがどう考えているかを聞く予定です。樋口さんは、神社はお参りに行くだけの場所だったので知らないことだらけだと、期待を語って締めくくりました。
まとめ
西高辻信宏さんの話からは、1100年続く信仰の場を、自分の区間で全力を尽くして次へ渡すという継承の感覚が見えてきます。道真公への祈りを最優先にしつつ、博物館誘致や森づくりのように数世代先を見据えた判断が、深井さんの言う「長期の合理性」につながっています。
- 西高辻さんは高校2年のときの父の急病で、神職の道に進む覚悟を決めた
- 判断基準の第一は、道真公への祈りの場であることと、道真公が喜ばれるかどうか
- 九州国立博物館は、明治6年の太宰府博覧会から4代・120年がかりで実現した
- 温暖化を見越し、九州南部の木を植えて50年・100年後の森をつくる取り組みが進んでいる
- 深井さんは、千年級の家に共通する公共性の高さと、千年残ることの長期的な合理性に注目している






