道真公の子孫は、実はコテンラジオのリスナーだった?
この番外編のゲストは、太宰府天満宮第40代宮司の西高辻󠄀信宏さんです。西高辻󠄀さんは、太宰府天満宮の御祭神である菅原道真公から数えて40代目の子孫にあたります。
樋口さんの紹介によると、西高辻󠄀さんは昭和55年に福岡県太宰府市で生まれ、東京大学文学部で美術史学を専攻しました。その後、國學院大學大学院で修士号と神職資格を取得し、平成17年から太宰府天満宮に奉職しています。
西高辻󠄀さんは現代美術に造詣が深く、平成18年に立ち上げた太宰府天満宮アートプログラムなどの美術展企画や街づくりにも携わってきました。平成31年に父の後を継ぎ、宮司に就任しています。
西高辻󠄀さんとの縁は、深井さんが以前から面識を持っていたことに始まります。ビジネスカンファレンスのICCで、西高辻󠄀さん本人が太宰府天満宮を案内する企画があり、深井さんと楊さんはそこにサブ案内役として参加したそうです。
なんかサブ案内役で何の機能もしなかったんですけど、その時は。
その後もイベントで一緒に登壇する機会が重なり、深井さんは菅原道真編の放送後に「ダメ元で」番外編への出演を依頼しました。西高辻󠄀さんはこれを快く受けたといいます。
西高辻󠄀さんは、深井さんとの食事の席でコテンラジオの存在を知りました。それから聴き始めて、2年近くリスナーを続けているそうです。そのため、この日の収録には緊張して臨んだと話しています。
西高辻󠄀さんのお気に入りは、太宰府とも関係のある高杉晋作の回です。ハンニバルのように教科書で名前だけ知っていた人物の背景がわかることや、概念を通して歴史のつながりが見えることもありがたいと語っています。車の運転中や出張中にも聴いているそうです。
やっぱり樋口に注目するところが本物のリスナーさんだなと。
1121年続く家と、福岡の人にとっての太宰府天満宮
深井さんが最初に注目したのは、西高辻󠄀家が続いてきた年月です。西高辻󠄀さんによると、道真公が亡くなってから1121年が経っています。
深井さんは、500年程度続く家なら中世ヨーロッパのハプスブルク家などがあるとしながら、千年を超えて続く家は特殊だと話します。そうした家の人がどんな感覚を持っているのかを聞きたい、というのが今回の招待の動機の一つでした。もう一つの動機は、アートプログラムなど、現代の神社としての新しい取り組みを紹介することです。
話題は、福岡に住む番組メンバーと太宰府天満宮との関わりに移ります。小学4年生で中国から福岡に来た楊さんは、小学5〜6年生のころにスケッチ大会で初めて太宰府天満宮を訪れました。中学では美術部の部長として、花しょうぶのスケッチに出かけています。
楊さんにとって、太宰府天満宮との最初の接点は美術だったといいます。人生の節目ごとに訪れてきた場所だそうです。
福岡県田川出身の樋口さんは、子どものころから親に何度も連れて行ってもらい、「梅ヶ枝餅を食べに行くぞ」という感覚で通っていたそうです。受験の前にはほぼ必ず参拝し、大人になってからは博物館の展示を見に行くこともあります。
だから博物館あって、神社あって、あとはやっぱ遊園地もあって、で、梅ヶ枝餅という、その、何て言うんですかね、名物もあるみたいなところで、総合的にいろんなものがあります。
西高辻󠄀さんによると、かしいかえんが閉園したことで、だざいふ遊園地は福岡県内で唯一の遊園地になりました。近年は海外からの参拝者も増えていて、全体の2〜3割ほどが海外の人だそうです。
島根県出身の深井さんは、太宰府天満宮は島根でも受験の神社として有名で、受験の前に参拝に行く人が大勢いると話しています。
なぜ道真公のお墓の上に神社が建っているのか
西高辻󠄀家は、道真公の嫡流の家系です。西高辻󠄀さんによると、菅原道真公を祀る神社は全国に約1万2000社あるといわれています。
そのなかで太宰府天満宮が特別なのは、道真公の墓所の上に創建されたからです。お墓の上に建てられた神社はほとんどなく、全国でもまれな例だといいます。お墓という性格もあるため、代々の子孫が祭祀を執り行い、この場所を守ってきました。
樋口さんはこの話を受けて、太宰府天満宮は親族にとってのお墓の役割も兼ねているのだと確かめています。
西高辻󠄀家の名字は、時代とともに変わってきました。家が分かれるときには土地の名前を付けることが多く、西高辻󠄀さんの家は太宰府の大きな鳥居のそばにあったことから「大鳥居」を名乗ったそうです。
天満宮が日本中にある理由とは
深井さんは、天満宮の数の多さに素朴な疑問を投げかけます。福岡の自宅の近くにも、出雲の実家の近くにも天満宮があるそうです。
西高辻󠄀さんによると、天神社の多くは道真公を祀っていますが、違う場合もあります。道真公の死後、太宰府天満宮には道真公を慕う人々が参拝し、役所である太宰府政庁 ── 古代に九州に置かれた地方行政機関「大宰府」の中心施設。九州の統治や外交・防衛の拠点を担いましたに派遣された人々も、文学面を含めて篤く崇敬していたといいます。
全国への広がりには、いくつかの経緯があるそうです。西高辻󠄀さんが挙げた経緯は、次のように整理できます。
農耕の信仰について、深井さんは「稲妻も稲と書きますしね」と応じています。
西高辻󠄀さんは、道真公が亡くなった後も、時代ごとにさまざまな信仰が加わりながら広まっていったと補足しました。深井さんは、この話題だけで本編シリーズが1つできそうだと話しています。
菅原道真編は、ご子孫にどう届いたか
菅原道真編を制作した楊さんは、放送の感想を西高辻󠄀さん本人に尋ねます。
いや、これね、ちょっと聞くの怖いんですけど、どうでしたか?放送は。
だいぶもう労作です。僕の中では今までで一番。
西高辻󠄀さんの感想は「本当にわかりやすかった」というものでした。菅原家の成り立ちや当時の貴族社会、難しい紀伝道 ── 古代の大学寮で中国の歴史書や漢文学を学ぶ学科。菅原家はこの分野の学者を輩出した家柄でしたの説明が明確で、道真公がどのような環境で活躍したのかがよくわかったといいます。
西高辻󠄀さんは、道真公の人柄が表れた漢詩を紹介した点も評価しています。漢詩が残っていることを知る人は少なく、リスナーにも親しみやすい内容だったと話しました。
楊さんは、道真公の回で苦心したのは切り口の選び方だったと明かします。
やっぱ道真公の難しいところは、一つはやっぱり先行研究であったりとか、もうもう本が凄まじく出てるから、この中で、じゃあ古典ラジオが何を抽出して出すかっていうのはもうだいぶ結構考えた。
収録の前から、西高辻󠄀さんのゲスト出演は決まっていたそうです。直系の子孫であり、毎日道真公の祭祀を行う人に聴いてもらうことは、楊さんにとって大きなプレッシャーでした。
古代の人物を扱って、ご子孫に聞いてもらうって、世界史だとちょっと難しい。
楊さんは、学術的な正しさと信仰のエネルギーは必ずしも重ならなくてよい、という考えも語っています。
なんか学術的に実はこういう人はこういうことは実はやってなかったんだよっていう風にあったとしても、信仰の部分では、いやその自分は偉人として信じたいというところでは、なんかそれはそれでなんか別のルートとして走ってるっていう、僕の中では感覚があって。
文献に基づいて、実際に何をしたのか・しなかったのかを検証する
偉人として信じ、慕う気持ちとして別のルートで続いていく
楊さんは、信仰を司る西高辻󠄀さんが番組を聴くからこそ、この2つのバランスをより考えたと話しています。
実務家としての道真公をどう見るか
樋口さんが本編への補足を求めると、西高辻󠄀さんは研究者の間でも意見が分かれる点を挙げました。本編では、道真公が突出して何かをやった証拠は残っておらず、前後の国家システムの変化を道真公の業績と断言するには論拠が弱い、と説明していた部分です。
西高辻󠄀さんは、道真公が関わった記録は歴史のなかで一部抹消されているかもしれないと考えています。道真公は当時の国際情勢をよく把握し、歴史書の編纂にも関わり、民部卿として地方行政や国家財政の問題も理解していたのではないか、と話しました。
そのうえで西高辻󠄀さんは、道真公が志を同じくする人々と政治改革に取り組もうとしていたのではないか、と個人的に感じていると語っています。
楊さんによると、制作時にはそうした見方をする学者の文献も読んでいたそうです。律令制の導入から道真公の登場までの流れは、次のように説明されています。
奈良時代
中国から律令制を入れ、天皇の威光に頼って国をまとめる
地方統制の行き詰まり
地方統制がうまくいかなくなり、人材とは何かを定義する動きが出る
能力で人材を定義
紀伝道や大学寮などの仕組みが整い、能力によって人材を定義する流れができる
道真公の登場
家柄より能力を基にした国家運営を目指したとする説がある
人を基準に税を取る仕組みから、土地を基準に税を取る仕組みへの大きな転換に、道真公と部下たちが関わっていたという説もあります。本編では、こうした内容までは紹介しきれなかったそうです。
学者の何人かは「文献に残っていないことが起こらなかったこととは限らない」と述べていて、研究が進めば道真公の政治的業績の輪郭がはっきりする可能性も十分にある、と語られました。西高辻󠄀さんからは、研究が進んだら第2弾をお願いしたいという声も出ています。
いや、特にその状況的に消された可能性は高いってことですよね。最後、大宰府に飛ばされたみたいな形になってるから。
国のナンバー2だった道真公を太宰府に左遷したことは、当時の貴族にも大きなショックとして受け止められたのではないか、という見方も示されました。道真公の話題がタブー視された時期があったのではないか、という想像です。ただし、話者はこれを個人的な想像だと断っています。
神様を扱う難しさ、楊さんの思い入れ
楊さんにとって、菅原道真編には特別な難しさがありました。道真公は、楊さんが子どものころから人生に関わってきた偉人だからです。
楊さんは道真公に対して信仰的な思いを強く持っていて、コテンラジオとしての学術ベースの描き方とどう切り分けるかに正直苦労したといいます。中国から福岡に来て、おそらく初めて訪れた神社が太宰府天満宮だったそうです。
言ったら神様を扱うわけですもん。
樋口さんは、本編では道真公が亡くなってからの話、つまり神様としてどう祀られていったかをあまり扱っていないと振り返ります。その部分は、いつか改めて取り上げたいという話になりました。
ご先祖様であり神様でもある道真公とどう向き合うか
樋口さんは、西高辻󠄀さんが日々どんな気持ちで道真公と向き合っているのかを尋ねます。
西高辻󠄀さんは、道真公は先祖であると同時に、神様になった方であり、千年以上慕われてきた存在だと話します。そのため、何より祈りを中心に祭祀をしっかり行うことを大切にしているそうです。道真公が永遠に鎮まる場所を清浄に保ち、未来へ残していくことを日々感じているといいます。
太宰府天満宮では、毎朝と毎夕、道真公に食事を供える祭りが必ず行われます。そのほかにも、道真公の生涯や人柄に結びつく特徴的な祭りがあるそうです。
| 祭り | 時期 | 内容 |
|---|---|---|
| 日々のお供え | 毎朝・毎夕 | 道真公にお食事を供える |
| 神幸式 | 9月 | お神輿に御霊を移し、道真公の旧居とされる榎社へ行列し、一晩過ごしてから翌日戻る |
| お衣替え | 4月・11月 | 道真公のお衣を取り替える |
神幸式では、道真公に梅ヶ枝餅を差し入れたという伝承が残る場所にも挨拶に立ち寄ります。この祭りは千年近く続いているそうです。
樋口さんが「まだそこにいらっしゃるかのように接している」と受け止めると、西高辻󠄀さんは社殿の造りにも同じ考えが表れていると説明しました。太宰府天満宮では、楼門をくぐると鯉のいる小さな池があり、飛梅もあります。本殿は、道真公の住まいから庭を眺めているような雰囲気で整えられているそうです。
現在の本殿は桃山時代に再建されたものですが、それ以前の古い地図にも同じ配置が残っています。西高辻󠄀さんは、平安時代の寝殿造りに由来するこの形に、道真公が今もここに住んでいるという気持ちが亡くなった直後から強くあったのだろう、と話しています。
要はご先祖様っていう感覚と神様っていう感覚って全然別なんですよ、僕の中で。それが一体化してるわけですよね。
深井さんは、1100年以上続く家の末裔である感覚や、学問の神様の子孫として東京大学に進んだことへのプレッシャーと誇りについて、次回じっくり聞きたいと提案します。後編では、西高辻󠄀さんの生い立ちから話を聞くことになりました。
さっき言いましたけど、世界史上でいないわけじゃないですか。ここにしか。それをちょっと次回その生い立ちからじゃあ聞かせていただけたら、すごい嬉しいなと思っております。
まとめ
前編では、道真公の直系子孫である西高辻󠄀さんが、コテンラジオのリスナーとして菅原道真編を振り返りました。そのうえで、天満宮が全国に広がった経緯や、道真公をいまも生きているかのように祀る祭祀の姿を語っています。
- 西高辻󠄀家は道真公から1121年続く家で、太宰府天満宮は道真公の墓所の上に建つ、全国でもまれな神社です
- 天満宮・天神社は、伝承の地、寄進された土地、農耕の信仰、篤い信仰者の活動などを通じて全国に広がりました
- 西高辻󠄀さんは、道真公が実務家として政治改革に関わっていた可能性を語り、研究が進めばその輪郭が見えてくるかもしれないと話しました
- 楊さんは、学術的な描き方と信仰的な思い入れの切り分けに苦心したと明かしています
- 毎日のお供えや神幸式、お衣替えなど、道真公がいまもそこにいるかのように接する祭祀が続いています






