宗教は死をどう語ってきたのか
前回のコテンラジオでは、人間が死をどう扱ってきたかという話の中で、「死んだらどうなるのか」という考え方を6つの類型に分類しました。今回はその続きとして、各宗教や哲学で死がどう考えられてきたかを具体的に見ていきます。
話に入る前に、楊さんは宗教を扱ううえでの前置きをしています。一口にキリスト教や仏教と言っても宗派はさまざまで、神学者、お坊さんや牧師さん、神父さん、一般の信徒の間でも理解は異なるはずだという指摘です。
間違ってるなとか、私が信じていることと違うなっていうことあると思うんですけれども、一旦僕たち調べた限りの書籍に基づいて話させていただきます。
数ある説の一つで言われていることを我々はまとめて紹介するということなんでね。
楊さんが示した話の順番は、セム一神教、インド文明、中国文明、日本、そして哲学や現代の考え方です。今回のエピソードでは、このうちセム一神教とインド文明までが語られます。
神がすべてを創った世界で、人間はどうなる?
楊さんはまず、セム一神教 ── ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の3つをまとめた呼び方。いずれも中東のセム系の民族に起源を持ち、唯一の神を信じる点が共通していますの世界観から説明します。はじめは神様だけがいて、時間も空間もありません。神様が天地を創造したことで、「神様と世界」がある状態になるという考え方です。
一神教の世界観では、人間は他の生き物と少し扱いが違います。楊さんが参考にした橋本先生の見解によれば、人間は神様が自分に似せて直接作った存在で、アダムとイブだけでなくその子孫もそう考えられているといいます。
一神教に共通するのが、神様がいずれ世界を壊すという終末の思想です。ユダヤ教では神様が世界に直接介入して良い世界を作り出すと考えられ、キリスト教やイスラム教では明確な「最後」があって世界がガラッと変わるとされます。
楊さんによれば、終末が来ると世界そのものがなくなり、人間だけが存在するようになります。これはキリスト教では「神の王国」、イスラム教では「緑園」などと呼ばれるそうです。
どういう状況なのかがね。ピンと来づらいですけどね。
なんか表現の問題な気もするけどね。今ある世界はこのようにはなくなるっていう話じゃないかなと思いますけどね。
終末の後の世界で神と一緒に生きられるのは、最後の審判 ── 終末の時に神が人間の生前の行いを裁くとされる出来事。キリスト教やイスラム教の終末論の中心にある考え方ですで罪を赦された人たちです。赦されない人は永遠の炎に焼かれるとされます。
この世で生きて死ぬ
死はいずれ復活するまでの小休止のようなもの
復活する
人間はみんな復活すると考えられている
最後の審判を受ける
神様に罪を赦されるかどうかが決まる
永遠に生きるか、焼かれるか
神と共に永遠に生きるか、永遠の炎に焼かれるかのどちらか
この流れから、楊さんは一神教における死を「小休止」のようなものだと整理します。いずれ復活するのだから、本質的には死というものが存在しないという考え方になるわけです。
一方でユダヤ教には、人間が復活するかどうかについて論争があったそうです。人間は塵から造られたので塵に還り、神様が命じれば死者も復活します。ただ、神様が実際に復活を命じるかどうかで見解が分かれているといいます。いずれにせよ、前回の6類型でいえば「別の世界で永遠に生き続ける」パターンにあたります。
「死なない」とはどういう意味か。ユーザーアカウントのたとえ
一神教の「人間は死なない」という説明について、深井さんは言葉の意味を補います。ここでいう「本質的な死」とは、アイデンティティが消滅するような感覚のことだという解釈です。
一神教で死なないって言ってるのは、普通に死ぬと思ってると思うんだよね、一神教の人も。けど、アイデンティティの消滅みたいな概念じゃなく、ここの今の文脈では捉えられていたということだなと思ってて。
この説明を受けて、樋口さんがユーザーアカウントにたとえます。アカウントを一度停止しても、完全に削除はしないので再開できる、というイメージです。
その元々のサーバーにこれまで生まれた人間っていうののデータが全部入ってて。ただ、終末のタイミングでは別のサーバーにデータを引き継ぐんだが、どれを引き継ぐかっていうのを神様が選別しますっていう話だと思います。
めちゃくちゃ分かりやすい今の。そうか、もう一回アクティブにさせることが復活ということなんですね。
深井さんは、いつインアクティブからアクティブにされるかわからないのは怖いことかもしれないと言いつつ、自分が知る一神教の人からその恐れを感じたことはないとも話します。
一応僕仏教徒なんだが、じゃあそのような感覚をそのままそうやって信じてるかっていったら、そんなことねえからさ。
教義の整理と、信じている人の実感は別物かもしれない。深井さんは、この説明をクリスチャンの人が聞いて違和感を覚えることは十分あり得るだろうと付け加えています。
因果論で世界を見るインド文明と、瞑想という方法
続いて楊さんはインド文明の死生観に移ります。インドでは、宇宙の基本的な理解が因果論で説明されます。出来事Aと出来事Bの関係、つまり因縁や縁起の中で世界を考え、物事には原因と結果があるという見方です。
原因と結果の関係は観察でき、理解もできます。そのため、インドの因果論は神秘的というより、合理的で近代的な考え方に見えると楊さんは話します。
楊さんは、因果論の反対にあるのが目的論 ── 物事は最終的な目的やゴールに向かって進んでいると考える立場。哲学では、原因から結果を説明する因果論と対比されますだと説明します。一神教は、最後の審判という到達点に向かって生きる目的論的な考え方です。
最後の審判という到達点があり、人はそこへ向かって生きる
物事は関係性の中にしかなく、最終的な到達点は特にない
ただ因果論には難しさがあります。水を火にかけるとお湯になる程度なら観察できますが、子どもをどう育てたらどんな大人になるかといった因果関係は複雑すぎてわかりません。
インド文明では、この因果関係がまるごとわかる状態が悟りだと考えます。真理を悟ることに最高の価値を置く点は、バラモン教 ── 古代インドで、聖典ヴェーダに基づき祭祀を担うバラモン階級を中心に発展した宗教。のちのヒンドゥー教の母体になりましたでもヒンドゥー教でも仏教でも基本的に同じだといいます。
では、どうやって世界全体を理解するのか。自然科学の実験は対象をコントロールできるところまで縮めて原因と結果を見るので、世界全体の理解は難しい。そこでインドの宗教は瞑想を使うのだと楊さんは説明します。
瞑想で真理に到達できるとされるのは、宇宙というマクロコスモスと、「私」というミクロコスモスが同じ構造を持っていると考えるからです。楊さんはこれを、じゃんけんと狐拳のたとえで説明します。
猟師は狐に勝つけど、狐は庄屋に勝って、庄屋は猟師に勝つみたいなやつですよね。
じゃんけんも狐拳も、ナメクジ・ヘビ・カエルの三すくみも、強い弱いの関係性は同じ構造です。同じように「私」と宇宙が対応しているからこそ、自分を見る瞑想が世界の理解に役立つという理屈です。深井さんは「理論上わかる」と受けつつ、この説明には諸説あり、自身の解釈では仏教はこの考え方を取っていないとも補足しています。
悟った聖者は誰が決めるのか。修行者たちのトーナメント
瞑想で真理に到達できるかどうかについて、インド文明では「できる人もいるし、できない人もいる」と考えます。大抵の人は因果関係のごく一部しか理解できず、この状態を仏教では「無明」と呼ぶそうです。
楊さんはここでウパニシャッド哲学 ── 古代インドの聖典ウパニシャッドに説かれた思想。宇宙の根本原理と個人の本質の関係を探究し、のちのインド思想に大きな影響を与えましたを紹介します。枢軸の時代とも呼ばれる時代にインドで広まった考え方で、バラモン教からヒンドゥー教に引き継がれた聖典の一つです。
その中心にあるのが梵我一如 ── 宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と、個人の本質であるアートマン(我)が同一であるとする考え方です。梵は宇宙の法則、我は私たちの本当の自己を指し、この2つが同じだと考えます。深井さんが確かめたとおり、先ほどのマクロコスモスとミクロコスモスの話にあたります。
真理を悟った聖者は宇宙と完全に対応しているので、その真理も完全だとされます。では、ある人が本当に悟ったかどうかを、周りはどう判断するのでしょうか。
楊さんによれば、修行者同士はお互いの様子からどちらのレベルが上かがわかるそうです。大勢の修行者の間で序列が付き、そのベストオブベストが本物の覚者だとされます。
なんかトーナメントじゃないけど、なんか序列でガーッてなって、トップオブトップの一番強いやつとかが決まってんだ、ここで。
らしいよ。もうシンプルにとても人間っぽい挙動だよね。やっぱここでも序列作る作らないとやっていけないんだみたいな。
聖者は、真理は言葉では表現できないと言います。そのため、悟ったかどうかは悟らなければわかりません。楊さんは、ゴータマ・シッダールタを聖者だと考える人たちが仏教徒であり、ゴータマが悟ったかどうかは信じるかどうか、つまり信仰の問題になると整理します。
人間は死なない、なぜなら生まれてもいないから
ここまでの話から、楊さんはインド文明における死を導きます。前提として、宇宙は生命ではなく因果関係の連鎖のネットワークです。そして人間も宇宙、つまり因果関係にほかならないというのが梵我一如の主張です。
インド文明の立場では、人間が自分を生き物だと思っているのは誤りになります。真理を悟れば、人間は人間ではなく、因果関係の連鎖だとわかるといいます。
楊さんによると、人間は本当は生き物ではないのに、生き物だと思い込んで生きるためにあくせくし、欲望にとらわれます。これが仏教でいう煩悩です。真理を悟った者が悟っていない者を気の毒に思う態度を、仏教では慈悲と呼ぶといいます。
マジでここをちゃんと突き詰めていったら、俺もしかしてなんか別に生きなくてもいいかなっていう感覚に陥る、危機感みたいのがあって、ちょっと考えるのがちょっと怖いっていうのがすごくあるね。
けど、落ち着いてください。それは宇宙の法則が決めることであって、生きていてもいいか悪いかみたいなことを決めるみたいなことが僕たちには多分できないんですよね。
ここで深井さんは、言葉の誤解に注意を促します。日本語で「意味がない」と言うと「価値がない」というニュアンスを含んでしまいますが、ここでの意味は違うという指摘です。
ここで言ってる意味がないっていうのは、そういう区分けに意味がないっていう意味。恣意的な区分けでしかないっていう話だよね。
因果の連鎖のどこからどこまでを「生きている」と呼ぶかに意味がない、という話であり、今すぐ死ぬことに意味があるわけでも、生まれていないと本気で主張しているわけでもない。深井さんはそう整理し、意味と価値は別物だと示します。
いや、まだまだコテンラジオは続くので、皆さんコテンラジオを聞くために生きてください。
そうそうそう、皆さんの生とか死とかを否定しているわけではないんですよ。
カースト制と輪廻、矛盾する2つの死生観
楊さんはインド文明についてさらに付け加えます。聖者を輩出するには社会的な支援が必要だという点です。真理は言葉にできず、一人ひとりがフルタイムで修行するしかないため、社会がその修行者を支えるしかありません。
楊さんによれば、この仕組みが社会身分として固定化したのがカースト制ではないか、という話になります。分業体制として支えているのが、ジャーティ ── インドの世襲的な職業集団。カースト制度の実際の単位とされ、数千にのぼるとも言われますと呼ばれる職業集団です。
ここで輪廻の意味が見えてきます。低いカーストに生まれ、この世では修行のチャンスがない人がたくさんいます。しかし輪廻転生と組み合わせれば、「この人生で頑張れば、次の人生で修行する人になれるかもしれない」ことが担保されるのです。
時間軸が一人の人生よりももっと拡張されてるんですよね。
こうして楊さんは、バラモン教やヒンドゥー教には矛盾した2つの死生観が含まれていると整理します。
人間はそもそも生き物ではなく存在しない。6類型の「死ぬと消滅する」に近い
死んだら別の人間か生き物に生まれ変わる。6類型の「他の人間や動物に生まれ変わる」に近い
深井さんはこの2つが混ざっていることに驚き、修行する人たちは輪廻転生をどう思っているのかと問いかけます。楊さんの答えは「それは悟らないとわからないからさ」というもので、深井さんは「パニクってきた」と笑います。
最後に楊さんは、このインド文明の考え方から仏教が出てきたと触れます。ゴータマをブッダと思うかどうか、覚者とゴータマ、人々が救われるかどうかという3つの問題への立場の違いから、初期仏教、上座部仏教、大乗仏教、密教という4つのパターンが生まれたといいます。ただし今回は深く立ち入らず、次回に続きます。
まとめ
一神教もインド文明も、人間は本質的には「死なない」と考えます。ただし一神教では神がいつでも復活させられるから、インド文明では人間がそもそも因果の連鎖であって生まれてもいないから、と理由はまったく異なります。
- 一神教では、神が人間の「設計図」を保持しており、死は復活までの小休止と捉えられる
- インド文明は因果論で世界を見て、瞑想によって宇宙と自己の対応(梵我一如)を悟ろうとする
- 悟った聖者は修行者同士の序列で決まり、ゴータマを聖者と信じるかどうかが仏教の出発点とされる
- 「生死に意味がない」とは価値がないということではなく、生と死の区分けが恣意的だという意味
- カースト制と輪廻の組み合わせにより、インドの宗教には2つの矛盾した死生観が共存している




