死はいつ訪れる?文化ごとに異なる「死の瞬間」
前回までの「人間はなぜ死ぬのか」という話を受けて、楊さんは「では死とは何か」と問いかけます。樋口さんは、少し前まで死を「動かなくなること」くらいに考えていたものの、わからなくなってきたと答えます。
とりあえず今すげえ生きたいです。
楊さんによれば、死は人類に普遍的に起きるものの、死をどう認識し、どう扱うかは文化によって大きく異なります。そして多くの文明が死後の救済を語っているにもかかわらず、ほとんどの文明で人々は死を恐れているといいます。
逆にみたいな感じになりますよね。怖いから救済があるってすげえ言われてる感じが。
死が訪れる時点についても、見解はさまざまです。楊さんは、ユダヤ教の学者たちが古代イスラエルの時代から、死の目安を呼吸と脈拍のどちらで判断すべきか議論し続けてきたと紹介します。
厳格なヒンドゥー教徒は、火葬の薪の熱で頭蓋骨が割れるまで、本当の死は訪れないと考えているそうです。インドネシアの離島には葬儀を2回行い、白骨化した遺体を改めて埋葬する習慣があり、沖縄にも骨を洗う洗骨 ── 遺体をいったん埋葬・安置し、白骨化した後に骨を洗い清めて改めて葬る風習。沖縄や奄美などで行われてきましたという似た風習があるといいます。
マダガスカルにはファマディハナ ── マダガスカル中央高地の伝統儀礼。墓から遺体を取り出し、新しい布で包み直して再び墓に納めますという儀礼があり、死者を掘り出して最後の埋葬のために遺骨返しを行うそうです。楊さんは、こうした慣習の背景に「死と埋葬の間は中間的な状態だ」という感覚があると説明します。
死と生の「中間」にとどまる魂、家族と暮らす遺体
楊さんが挙げた中間状態の例の一つが、ゾロアスター教 ── 古代ペルシアで生まれた宗教。善悪二元論で知られ、遺体を鳥に委ねる鳥葬の伝統を持ちますです。ゾロアスター教の伝統では、魂は死の瞬間に天へ昇るのではなく、3日間付近を漂ってから死後の世界へ旅立つと考えられています。
楊さんによれば、この3日間は、遺体を鳥に食べさせる鳥葬で鳥が遺体を食べ終えるまでの期間とおおむね重なるそうです。食べられている間、魂はそこにとどまるという考え方です。チベット仏教にも、死と生の間の中間状態を指す「中陰」という概念があると紹介されます。
楊さんが「驚嘆すべき事例」として挙げるのが、インドネシアのスラウェシ島に住むトラジャ人の慣習です。トラジャ人は遺体をすぐに埋葬せず、一時的に建てた家屋に何か月も安置し、ゆっくり腐敗していく遺体とともに暮らすといいます。
トラジャ人は分泌液を吸い取る布で遺体を巻き、家の片隅に席を与えます。遺体の悪臭は数日で消え、亡くなった親族は家族にとってインテリアのような存在になるそうです。腐敗が十分に進むと立派な墓に埋葬され、タウタウと呼ばれる等身大の木彫りの像が見張りとして外に置かれます。
いやでも(遺体の)腐敗が進んでるんですよ、愛する家族が。怖。
そこになんか価値観の物差しの違いが表れてますよね。だからこれぐらい多様なんだって。
樋口さんは、日本の四十九日にも、魂がまだそこにいるという似た感覚があるのかもしれないと話し、楊さんもその可能性に同意します。
ゾロアスター教
魂は3日間付近を漂い、鳥葬の期間と重なる
チベット仏教
「中陰」という中間状態に魂がとどまる
トラジャ人
腐敗が進むまで何か月も遺体と暮らし、その後に埋葬
死者と結婚する?冥婚と死後の子孫づくり
楊さんは角度を変えて、亡くなった人と結婚する「冥婚」という考え方を紹介します。日本でも、未婚で亡くなった人のために人形や絵馬を奉納することがあるといいます。
台湾に数か月住んでいた楊さんは、現地の人から冥婚にまつわる話を聞いたそうです。道端に置かれた現金入りの赤い祝儀袋を拾うと人が集まってきて、亡くなった娘さんと結婚してほしいと頼まれるといいます。未婚で亡くなった娘を不憫に思う家族が、拾った人を婿に迎えるという伝統です。
だから絶対に赤い祝儀袋を拾っちゃダメだよって(台湾の)人ぐらいに僕言われました。
もうバツイチつくわけですね、そこで。
楊さんはさらに、スーダンの一部の社会の例を挙げます。子どものいない重要人物の男性が亡くなると、家系の断絶を防ぐため、妻が代理人との間に子どもを作り、その子を亡くなった男性の子と見なす習慣があるそうです。
楊さんは、こうした例から、死者は社会からいなくなるとは限らず、医学的に亡くなった後にも子孫を持てると指摘します。死の概念は、それほど曖昧だというのが楊さんの見立てです。
医療は死をコントロールできる?近代が外した「はしご」
楊さんによれば、死の曖昧さは現代でも続いており、脳死 ── 脳全体の機能が失われ回復不能になった状態。人工呼吸器などで心臓が動き続けていても、死と見なすかどうかが議論されてきましたの概念がその典型です。人類はこれまで、生者が死への道筋をコントロールできるという感覚を持ったことがなかったといいます。
楊さんは、医療の発展によって現代人は生死を左右できるような感覚を持っているかもしれないと話します。その結果、脳死状態の人の生命維持装置を切るかどうかを選ばなければならず、死について考えざるを得なくなったという見方です。
深井さんは、どこからが死か、死んだらどうなるかは、かつて宗教や慣習の中で説明されていたと話します。しかし現代はそれを一度脇に置き、科学が正しいとしながら、その科学も死を説明していないと指摘します。
楊さんは流れを整理します。近代に理性が登場し、世の中のすべては突き詰めればわかるという考え方が広まったことで、伝統的な儀礼が受け止めていた死が排除されました。医療がその答えになるかと思われたものの、結局まだわかっていないといいます。
死をどう扱うかとか、死とはどういうものかみたいなもののコンセンサスが取れてたんだけど、ある意味はしご外されてるよねっていう、今の僕たちの方が。
改めて自分たちがもう理性というものを使って、死に対して意味付けを行わないといけないっていう苦悩を抱えることになったんですよ。
楊さんは、この回を収録していること自体も近代的な苦悩だと話します。深井さんは、昔なら改めて考える必要のないことだったと応じつつ、今でも宗教の「はしご」がかかっている人もいて、グラデーションがあると補足します。
なぜ人間は死ぬのか?シュメールのアダパ神話
では、はしごがかかっていた時代に人々は死をどう説明していたのか。楊さんがまず紹介するのは、4000年以上前のメソポタミアにあったシュメール文明 ── メソポタミア南部で栄えた最古級の都市文明。楔形文字を生み出したことで知られますの「アダパの物語」です。アダパはシュメール語で「人」を意味するそうです。
物語では、司祭で漁師でもあるアダパが、嵐で船を沈められて南風に悪態をつきます。天空の神アンは風が止んでいることに気づき、部下から、アダパの攻撃で風の翼が折れたと聞かされます。
神アンに呼び出されたアダパは、水の神エアに助言を求めます。エアは、喪服を着て天空の門番である神タンムーズとニンギシュジダの前に出て、二人の死を悲しんでいると言えば門番が喜び、アンに口添えしてくれるだろうと教えます。
さらにエアは、アンが差し出す油とローブは受け取り、パンと水は断るよう助言します。楊さんによれば、喪服の件はどうやら冗談で、それを言うと門番が喜ぶという話らしいのですが、何が面白いのかは楊さん自身にもよくわからないそうです。
アダパが実際にアンと会うと、アンは逆に、パンと水を口にしてローブと油は捨てるように言います。アダパはエアの助言に従い、ローブをまとって油を塗り、パンと水を断りました。
楊さんの説明では、布にくるまれ油を注がれた姿は埋葬される状態、つまり死の運命を表し、パンと水は永遠の命の象徴でした。アダパは、エアにまんまとはめられて死ぬ運命を選んだことになります。
埋葬される姿を表す、死の運命の象徴。アダパはこちらを受け取った
永遠の命を約束する象徴。アダパはエアの助言で断った
そういう話か。邪悪な神エアやったんや。
コヨーテが扉を閉めた?カド族の死の起源
楊さんは次に、アメリカのテキサス東部に住むネイティブアメリカン、カド族の神話を紹介します。この神話では、もともと死は存在しませんでした。しかし赤ん坊は生まれ続けるので、やがて地上が人類で埋まってしまうと心配されたといいます。
酋長たちは話し合い、人が一度死んで少し経ったら現世に戻ってくる仕組みを提案します。その会合にはコヨーテも参加していました。
いいよね、神話って急にこういう感じになるの俺すげえ好き。普通にコヨーテがおるとか、会合に。
コヨーテは、一時的に死ぬだけでは問題を先送りにするだけだと反対します。しかし会議では長老たちの案が採用され、戻ってくる魂を司祭の歌で呼び戻す場所として、巨大な医術院が建てられました。
最初の男が死ぬと、司祭は10日間待ちました。すると西の空から竜巻が吹き込み、男の魂がそれに乗って戻ってきます。ところが竜巻が医術院に着いたとき、コヨーテが突然扉を閉めてしまいました。
竜巻は扉にぶつかって彼方へ消え、それ以来、死は行き来できないものとして確定したといいます。カド族は竜巻を彷徨う死者の魂と考え、コヨーテは忌み嫌われるようになったそうです。
人口の懸念
死がなく、地上が人間で埋まることが心配される
会議の決定
一度死んだ人が戻ってくる仕組みが採用される
医術院
10日後、男の魂が竜巻に乗って戻ってくる
コヨーテ
扉を閉め、魂は戻れず死が確定する
コヨーテ神話と同じレベル?科学が死を語れない理由
楊さんは、人類はこうしてさまざまな形で死を説明してきたものの、今の話も反証はできないと指摘します。深井さんは、誰も死後の世界を見ていない以上、みんなが言っているから納得できるという、コンセンサスの問題なのだろうと話します。
楊さんによれば、こうした説明を否定してきたのが科学です。ところが科学が死についてわかるのは、いつか死ぬという可能性と必然性、そして一人称の死は知りえないという「不可知性」までだといいます。
科学は経験できることっていうことは説明できるんだけど、死を経験できないので、僕たちは。説明できないんですよね。
そのため、科学が使えない領域には、宗教と哲学という人文学の知が適用できるというのが楊さんの見立てです。
深井さんは、コヨーテの話を聞いて「そうではないだろう」と思っても、現代人にはそれ以上のことがわかっていない点を面白がります。
樋口さんは、コヨーテの話を作った人も締め切りに追われていたのかもしれないと冗談を言い、深井さんも、嫌われ者のコヨーテのせいにしたら意外と受け入れられて広まったのかもしれないと乗ります。一方で樋口さんは、答えを言わなければならない立場の識者やカリスマが実際にいたはずだとも話します。
死後はどうなる?伊佐敷隆弘先生の6つの分類
深井さんは、死んだらどうなるかわからないことを、現代人はあまり自覚していないと話します。オカルトを肯定する必要はないとしつつ、地獄は絶対にないと完全に否定するのも、証明されていないことを信じる点で同じだという考えです。
信憑性が全部同列っていうのが僕の中であんまりなかったんで。やっぱりなんか神話の方が低い感じするじゃないですか。
3人は冗談まじりに、自分たちで神話を作ろうかと盛り上がります。そのうえで深井さんは、死後について識者が語ってきた無数のバリエーションを、伊佐敷隆弘先生が『死んだらどうなるのか? 死生観をめぐる6つの哲学』で6つに分類していると紹介します。
楊さんによれば、伊佐敷先生はウィトゲンシュタイン ── 20世紀の哲学者。言語の働きと意味を問い、『論理哲学論考』『哲学探究』で知られますを専門とする哲学者です。その6つの分類は次のとおりです。
| 番号 | 死んだらどうなるか | 番組内の補足 |
|---|---|---|
| 1 | 他の人間や動物に生まれ変わる | - |
| 2 | 別の世界で永遠に生き続ける | - |
| 3 | すぐそばで子孫を見守る | 守護霊のようなイメージ |
| 4 | 子孫の命の中に生き続ける | - |
| 5 | 自然の中に還る | - |
| 6 | 完全に消滅する | - |
俺がびっくりしたのは六つしかないことにびっくりしたんですよ。
深井さんは、無数に見える死生観が分類すると6つのどれかに収まり、しかもどれが正しいのか完全にわからない点が面白いと話します。樋口さんは、これ以外の可能性もありうると応じ、深井さんも思いつかないだけで7つ目があるかもしれないと同意します。
宗教は死をどう扱ってきたのか?次回への前置き
楊さんは次回、宗教や哲学が人類の死をどう扱ってきたかを話すと予告します。宗教を扱うためセンシティブな面があり、宗派による違いや、神学者・聖職者と一般の信徒の間で理解が異なる部分もあるだろうと前置きします。
楊さんは、さまざまな見解や思いを否定するものではないとしたうえで、便宜上、橋爪先生橋爪先生の分類に沿って各宗教の死のとらえ方を検討すると説明します。
簡単に言ったら、ちゃんと冷静に聞いてくださいってことですね。
深井さんは、どの宗教の死生観も6つのパターンのどれかに入っていると話し、次回の宗教編へ期待をつなげます。
まとめ
今回は、死の定義が文化ごとに大きく異なること、近代以降に死の意味づけが個人に委ねられたこと、そして神話も科学も死後を確かめられないという点が語られました。伊佐敷先生の6分類を足場に、次回は宗教の死生観へと進みます。
- 死の瞬間の判断や葬送は、頭蓋骨が割れるまで、骨を洗うまで、腐敗が進むまでなど、文化ごとに大きく異なる
- 冥婚やスーダンの一部の習慣のように、死者が社会から消えず、結婚や子孫づくりに関わる例もある
- 近代の理性と医療は伝統的な死の受け止め方を排除したが、死の意味を説明できず、死への確信は弱まったとされる
- 科学は経験できないものを説明できないため、死後の説明はアダパやコヨーテの神話と同じく検証できない
- 伊佐敷隆弘先生は、死後についての無数の考えを「生まれ変わる」から「完全に消滅する」までの6つに分類している



