島津斉彬が見抜いた西郷隆盛の才能──江戸で磨かれた薩摩の「石ころ」たち
歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO)の西郷隆盛編第3回では、深井龍之介さんと樋口聖典さんが、下級武士だった西郷が島津斉彬に抜擢されて江戸へ向かい、水戸学の巨人・藤田東湖や福井藩のエース・橋本左内と出会いながら急成長していく過程を解説。さらに孝明天皇の攘夷スタンスが幕末政局の「重心点」となっていく構造や、公武合体論・将軍継嗣問題の複雑な力学まで、幕末日本の全体像を立体的に描き出しています。その内容をまとめます。
西郷抜擢──庭方役という「殿様の横」
前回までの西郷隆盛は、薩摩藩の末端で農政に関わる下級武士にすぎませんでした。真面目すぎるがゆえに同僚の不正を平気で上に告発し、周囲からは煙たがられていた存在です。ところが、その「空気を読まない」姿勢が上層部の目に留まります。島津斉彬薩摩藩第11代藩主。幕末屈指の開明派大名で、集成館事業など西洋技術の導入を積極的に推進した。筆頭老中・阿部正弘の推挙で藩主に就任。の養育係だった関祐助が西郷を推挙し、ペリー来航の翌年、26歳の西郷は「庭方役藩主の身辺に仕える役職。役職自体の格は高くないが、藩主と日常的に接触できるため、情報や人脈を得る機会に恵まれた。」として江戸に同行することになりました。
庭方役は役職としては大きなものではありません。しかし殿様のすぐそばにいられるという点が決定的でした。斉彬は当時すでに日本トップクラスの評価を受けていた殿様であり、その交友関係には幕閣や各藩の有力者がずらりと名を連ねています。深井さんはこれを「オーナー企業経営者の若手カバン持ち」にたとえました。
中途半端な人からウザがられるんですよ。けど藤田東湖とかから好かれるんだよね。こいつすげえなってなってる
西郷が抜擢された理由は、同僚の不正を直訴するという「封建社会ではありえないムーブ」にありました。周囲からは評価されなかった胆力やポリシーが、権力者から見れば「これからの時代に必要な人材」として映ったのです。深井さんは「大久保利通もこうやって引き上げるけど、めちゃくちゃ活躍する」と、斉彬の人を見る目のすごさを強調しています。
時代のトレンド「水戸学」と藤田東湖
江戸に出た西郷は、各藩から集まった優秀な人材と交わりながら急速に成長していきます。なかでも大きな影響を受けたのが、水戸藩徳川御三家の一つ。尾張藩・紀州藩と並ぶが三家の中では最も勢力が弱かった。水戸光圀の時代に日本史編纂事業(『大日本史』)を開始し、これが尊王思想の源流となった。の藤田東湖水戸藩士・思想家(1806–1855)。後期水戸学の代表的論者で、尊王攘夷思想の理論的支柱。全国の志士から尊敬を集め、「藤田東湖一人で水戸藩が持っている」と評された。安政江戸地震で圧死。でした。
水戸学の面白さは、その出自にあります。水戸藩は徳川御三家尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家の総称。将軍家の血筋が絶えた場合に後継を出す家柄として設けられた。の一角であり、本来なら将軍を輩出する側の家です。にもかかわらず「天皇が偉い」という尊王論を唱えたのです。深井さんはこの矛盾を次のように説明しています。武力で押さえつけていた時代には「将軍が偉い」のは自明だったが、力が弱まるとロジックで説明する必要が出てくる。「めちゃくちゃ偉い天皇から委任されているから将軍は偉い」──これが水戸学の出発点でした。ところがこのロジックは、容易に「じゃあ天皇の方が上では?」という逆転に接続してしまいます。
幕府の権威が低下
太平の世が続き武力が弱体化、ペリー来航で対処能力にも疑問
ロジックで権威を補強
「天皇から委任されているから将軍は偉い」(水戸学)
ロジックの逆転
「委任元の天皇の方が上では?」→ 尊王攘夷運動の思想的根拠に
藤田東湖はこの後期水戸学の最大の論客であり、深井さんいわく「水戸藩は藤田東湖一人で持っている」ほどの存在でした。サービス精神に溢れ、相手の肩書きで差別せず歓待する。頭の回転が速く、大男で目力があり、酒も強い。全国から志士が教えを乞いに集まるハブ的存在だったのです。
西郷もこの藤田東湖に心酔し、二人で酒を飲み交わしながら議論した末、興奮しすぎて藤田東湖の家でゲロを吐き、介抱されるというエピソードが残っています。しかし出会いの翌年、安政江戸地震1855年(安政2年)に江戸を襲った直下型地震。死者約4,000人、倒壊家屋約15,000軒と記録される。藤田東湖もこの地震で圧死した。で藤田東湖は命を落とします。深井さんは「藤田東湖が生きていたらめちゃくちゃ日本史変わったと言われている」と語り、実際に東湖亡き後の水戸藩は統率を失っていったことを指摘しました。
斉彬と西郷の相互リスペクト
庭方役として斉彬のそばに仕える中で、西郷は「水戸学ネットワークを築け」という指令を受けます。当時、水戸学は武士の間で最大のトレンドでした。深井さんは「今でいうAIみたいなもの」とたとえています。AIに精通していればパワーがあるように、水戸学に精通しているだけで政治的影響力を持てた時代だったのです。
西郷はこのネットワーク構築が非常に得意でした。中途半端な人からは敬遠されるものの、藤田東湖のような一流の人物からは「こいつすごいな」と評価される。常に本気で生きている姿勢が、経験や知識の不足を補って余りあったのです。この能力は下級役人時代にはまったく活きませんでしたが、庭方役として重要人物と接し、その考えを斉彬に伝える仕事では絶大な威力を発揮しました。
経験とか知識とかは足りないけど、共に語るに足るなってすごく偉い奴に思わせる才能と力をやっぱ持ってて、最初から
一方、西郷から見た斉彬は「神様」のような存在でした。殿様であるだけで畏敬の対象なのに、さらに途方もなく頭がいい。あるとき西郷は勇気を出して「西洋かぶれすぎませんか」と進言します。当時の西郷は一般的な攘夷論者の考え方を持っていたからです。これに対する斉彬の返答が見事でした。
斉彬は、朱子学で学ぶ中国だってかつては異国だったと指摘し、医学・砲術・蒸気船の導入が急務だと具体的に述べました。水戸学ネットワークから嫌われるかもしれないが気にするな、と。深井さんは「この時代にこの言語火力は相当すごい」と評しています。
後年、斉彬は松平春嶽越前(福井)藩第16代藩主(1828–1890)。幕末の四賢侯の一人。坂本龍馬を金銭的に支援するなど、幕末政局で大きな役割を果たした。に対してこう語っています。「家来はたくさんいるが、能力は足りない。ただ西郷一人は薩摩の宝だ。彼を御せるのは自分以外にはないと思う」。殿様が殿様に対して部下を「宝」と呼ぶ──斉彬と西郷の関係の深さを物語るエピソードです。
孝明天皇の攘夷スタンスと幕府権威の失墜
話は日本全体の構造へと移ります。西郷が活躍し始めた1856年頃、列強は次々と日本に通商関係を求めて来航していました。国内では水戸学をベースにした攘夷論者が大勢を占めています。そんな中、孝明天皇第121代天皇(1831–1867)。明治天皇の父。徹底した攘夷論者で、自分の代に外国との新たな条約を結ぶことを頑として拒んだ。その意思が幕末政局の「重心点」となった。は徹底的に攘夷を主張していました。
朝廷はクローズドな世界で、外国の知識はほぼゼロ。孝明天皇は「自分の時代に新しい条約を結ぶなんて絶対にあってはいけない」という感覚を持っていました。深井さんはこれを「外国に対する現状理解偏差値」でたとえます。薩摩藩が75、幕府が70だとすると、多くの藩は35程度、朝廷に至っては25くらい──本気で興味がないからです。
問題は、情報を最も持っている幕府が「責任者」であることでした。列強に絶対勝てないとわかっているからこそ現実的に条約を結ぶ。しかしその現実的対処が、情報を持たない人々から見ると「弱腰」に映り、幕府の権威失墜につながっていくのです。
情報が非対称であることを自覚してないっていうのが攘夷論者の特徴。自分が知らないことがあることを知らないってやつですよね
幕府権威が下がると、各藩が台頭します。しかし各藩にも幕府以上の権威はありません。すると自然と、天皇に頼らざるを得なくなる。「天皇がこう言っていますから」としか大義名分が立たないのです。そしてその天皇がひたすら「攘夷」と言い続けている──これが幕末政局の「重心点」になったと深井さんは指摘します。
深井さんは「全員権威持ってない時に力で叩き合うじゃなくて、天皇の言うこと聞きますっていうのは日本でしか起こらない」と述べ、天皇という存在が一種の「安定装置」として機能していた点を強調しました。武力によらずにコンセンサスを形成できる装置が存在する──これは日本史の極めてユニークな特徴です。
公武合体論──三勢力のグラデーション
こうした状況の中で、斉彬が構想していたのが公武合体論朝廷(公家)と幕府(武家)が協力して国難に対処すべきだという政治構想。幕府を倒すのではなく、既存の枠組みを組み替えて対応しようとする立場。です。幕府だけではこの難局は乗り越えられない。朝廷と幕府が手を組み、それを有力藩がサポートする体制を作る必要がある──これが斉彬の基本戦略でした。
重要なのは、この段階で斉彬も西郷も「倒幕」は考えていなかったということです。深井さんは「この段階で幕府倒そうぜっていうやつはマジでやべえテロリスト」と表現しています。全部をひっくり返すのではなく、今のいいところを受け継ぎつつ悪いところを変えていこう──公武合体論はそういう「穏当な」立場でした。
ただし深井さんは、最終的に明治政府は「そのどれでもない」と指摘します。朝廷の役職は摂政・関白を含めて全部崩壊し、幕府も消滅した。「アウフヘーベンして全く新しいものが出来上がることしか生き残る術は本当はなかった」のですが、この時点でそれを唱えている人間は一人もいなかったのです。
将軍継嗣問題と橋本左内
公武合体構想の一環として、斉彬は「自分と同じ考え方の人を将軍にしたい」と動きます。第13代将軍・徳川家定江戸幕府第13代将軍(1824–1858)。病弱で政務能力に欠けるとされ、在職中から後継問題が浮上した。は病弱で将軍としての素質に欠き、子供ができる見込みもなかったため、早めに後継を決めて実質的に政治を任せようという声が高まっていました。
候補は二人。血縁で優位な紀州藩徳川御三家の一つ。和歌山を拠点とし、第8代将軍・吉宗を輩出した名門。の徳川慶福と、聡明さで知られる一橋慶喜のちの徳川慶喜。水戸藩出身で一橋家を継ぐ。幼少期から聡明で将軍候補として名前が挙がっていた。のちに江戸幕府最後の将軍(第15代)となる。です。
主張:実力重視。この国難に対処できる将軍を
主要人物:島津斉彬、松平春嶽、徳川斉昭、伊達宗城、山内容堂
主張:血統重視。将軍は血縁で決めるべき
主要人物:井伊直弼、松平忠固ら幕府中枢
ここで西郷のカウンターパートとして登場するのが、越前藩の橋本左内越前(福井)藩士(1834–1859)。15歳で大阪の適塾に入門し、蘭学・医学・兵学を修めた俊英。松平春嶽のもとで一橋派の実務を担ったが、安政の大獄で処刑された。享年26。です。15歳で適塾蘭学者・緒方洪庵が大阪に開いた私塾。福沢諭吉をはじめ多くの幕末・明治の人材を輩出した。に入門した英才で、西郷より6歳年下ながら、蘭学と医学に精通した開国論者でした。
西郷は後年、「先輩では藤田東湖に敬服し、同輩では橋本左内を敬んだ」と語っています。藤田東湖から攘夷論の影響を受け、橋本左内から開国論の影響を受けた。この両方の知的刺激が、西郷の思想を立体的なものにしていったのです。
しかし藤田東湖は出会いの翌年に地震で死去、橋本左内も安政の大獄で処刑されます。わずか一、二年の交わりだったにもかかわらず、西郷は最後の西南戦争1877年(明治10年)、西郷隆盛を盟主とする旧薩摩藩士らが明治政府に対して起こした日本最後の内戦。西郷はこの戦いで命を落とした。の時まで橋本左内からもらった手紙を持ち続けていたといいます。
条約にキレる朝廷──井伊直弼の登場
一橋派の工作は実を結びませんでした。幕府は緊急事態に対応するため、老中の上に大老江戸幕府の臨時最高職。老中の上位に位置し、非常時に設置された。常設ではなく、歴代でも数人しか任命されていない。という役職を新設し、南紀派の中心人物・井伊直弼彦根藩主(1815–1860)。大老として安政の大獄を断行し、吉田松陰らを処刑。その強権的手法は尊王攘夷派の反発を招き、桜田門外の変で暗殺された。を据えます。
井伊直弼は大老就任後、まず孝明天皇の勅許(許可)を得ないまま日米修好通商条約1858年にアメリカとの間で結ばれた通商条約。それまでの日米和親条約(開港のみ)から一歩踏み込み、本格的な貿易関係を規定した。領事裁判権の承認や関税自主権の欠如など、日本側に不利な「不平等条約」だった。を締結してしまいます。同年中にオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同内容の条約を結び、これが安政五カ国条約1858年に日本がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5カ国と結んだ通商条約の総称。いずれも天皇の勅許なしに締結された。と呼ばれます。
幕府は完全な板挟みになりました。天皇が許可してくれなければ国家としてのオフィシャルな決定にならない。しかし外国に一度約束したことを撤回すれば、「ならば幕府を飛ばして朝廷と直接やり取りする」と言われかねない。そして将軍後継も血統優先で徳川慶福(のちの徳川家茂江戸幕府第14代将軍(1846–1866)。紀州藩主・徳川慶福が将軍就任にあたり改名。若くして将軍となり、激動の幕末政局を担った。)に決まり、一橋派の工作は水泡に帰しました。
この回はここで終わりますが、深井さんは最後に衝撃の予告を投げかけます。「次回、ここから斉彬がいきなり死にます」。薩摩の宝と呼ばれた西郷を一人江戸に残して──。
まとめ
今回のエピソードは、西郷隆盛の成長物語であると同時に、幕末日本の構造そのものを理解するための回でした。26歳まで「うだつが上がらない」下級武士だった西郷が、斉彬の抜擢によって日本の政治中枢に触れ、藤田東湖からは攘夷思想の深みを、橋本左内からは開国論の合理性を吸収していく。その背景には、幕府権威の低下・天皇の発言力回復・情報の非対称性という三重の構造変化がありました。
深井さんが繰り返し強調したのは、「リアリズムだけでも理想論だけでもダメだった」という点です。攘夷論がなければ日本は植民地化していたかもしれない。しかし攘夷一辺倒でも滅びていた。最終的に誰も予想しなかった「全く新しいもの」が生まれたという結末が、幕末の本当の面白さなのかもしれません。
- 西郷は「同僚の不正を直訴する」という空気を読まない行動が斉彬の目に留まり、庭方役として江戸へ抜擢された
- 水戸学は「将軍権威の補強」として生まれたが、「天皇の方が上」というロジックの逆転を内包していた
- 藤田東湖(攘夷論)と橋本左内(開国論)という対照的な知性から西郷は影響を受け、両名とも短命だったが西郷の生涯に深い刻印を残した
- 斉彬は西郷を「薩摩の宝」と評し、将軍継嗣工作の権限委譲をするほどの信頼関係を築いた
- 孝明天皇の徹底した攘夷スタンスが幕末政局の「重心点」となり、情報の非対称性が幕府を板挟みにする構造が生まれた
- 公武合体論は「穏当な改革路線」だったが、最終的な明治維新は朝廷も幕府も崩壊する「誰も予想しなかった結末」だった

