偉人が集まる下加治屋町とは?
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西郷隆盛さんは、1828年1月23日に鹿児島城下の下加治屋町で生まれました。深井さんによると、この場所は今の鹿児島中央駅のすぐ近くで、下級武士が多く住む地域だったそうです。
大久保利通さんは、その3年後の1830年8月に同じ下加治屋町で生まれたとされています。ただし実際の生誕地は隣の高麗町だったらしく、地図で見ると「すぐそこ」と言えるほど近い場所です。大久保さんは吉田松陰と同年同月の生まれで、幕末の主役たちが同世代だったことがわかります。
下加治屋町の戸数はわずか70余り。そこから西郷隆盛さん、大久保利通さん、日露戦争の将軍である大山巌さん、東郷平八郎さんが生まれています。
すげえな。これはなんかね、偶然なのかそうじゃないのかわかんないですよね。
いや、偶然じゃないでしょ。
深井さんは、西郷さんと大久保さんが「並び立つ両雄」として描かれがちなことにも触れます。わずか3歳差でも、長幼の序が現代よりはるかに厳格な時代で、しかも年長者を敬う郷中教育を徹底して受けていたため、二人にはきちんとした先輩後輩の関係があったはずだという指摘があるそうです。
16人を養う年収300万円の家
西郷さんは長男として生まれました。父は吉兵衛、母はマサで、弟が3人、妹が3人の7人兄弟です。祖父の龍右衛門、祖母、使用人まで含めると、世帯の人数は16人を超えていました。
西郷さんの幼名は小吉で、元服後は吉之助を名乗ります。手紙などでも基本的に「西郷吉之助」と書いており、生前はこちらの名で通っていたようです。南洲翁と名乗ることもありました。
西郷家の家格は下から2番目ほどで、父の吉兵衛は御小姓組の勘定方小頭という小役人でした。俸禄は47石ですが、これは籾の状態の石高で、精米すると24石ほど。足軽より少しましな程度だといわれます。
深井さんは、歴史学者の磯田道史さんの本が47石を年収およそ300万円と見積もっていることを紹介します。その収入で16人を養うのですから、深井さんの言葉を借りれば「超貧乏」です。
西郷家には布団が十分になく、西郷少年は弟や妹を布団に寝かせ、自分は足だけを入れて眠っていたといいます。父の吉兵衛は内職に励み、家格が上の赤山靱負 ── 薩摩藩の家老の家に生まれた武士。のちのお由羅騒動に連座して切腹し、西郷隆盛に大きな影響を与えたとされますの家で手伝いのような仕事もして、なんとか家計をつないでいました。
愚鈍で「ややこしい」少年だった?
幼い頃の西郷さんは、才気にあふれるタイプとは見られておらず、むしろ愚鈍視されていたそうです。さらに周囲からは「ややこしい人」だと思われていました。
深井さんの説明では、西郷少年は意志が強く頑固で、普段はむっつりと口をきかないのに、譲れない場面ではズバズバものを言い、一度怒ると絶対に引かない性格でした。他人には些細に見えることが、本人には重大事だったのです。
だから地雷踏んだらめっちゃややこしいみたいな。
深井さんは、西郷さんのこだわりは人生を通して見ると分かりやすいと話します。正義感、目の前の人の感情、かわいそうな人を放っておけないこと。弱い者いじめをすれば、西郷さんの前ではひどく怒られただろうといいます。
では、なぜ幼い頃は評価されなかったのか。深井さんは、人の性質は社会との関係の掛け算で表れ方が決まるので、平穏な環境では「ただ面倒くさい人」に見えたのだと説明します。激動の時代になって、この強い意志が発揮されることになります。
薩摩独自の郷中教育はどう始まった?
西郷さんの幼少期を語るうえで避けて通れないのが、薩摩藩独特の子弟教育制度である郷中教育です。豊臣秀吉の朝鮮出兵で島津義弘が出陣し、戦争が長期化して主君が不在になったとき、風紀の維持と子弟の鍛錬のために作られたとされています。
郷中教育の土台の一つが、島津忠良 ── 戦国時代の薩摩の武将で、島津家中興の祖とされる人物。号の日新斎から日新公と呼ばれますの教えをいろは歌にした「日新公いろは歌」です。その最初の「い」は、昔の教えを聞いたり唱えたりしても、自分が実行しなければ意味がないという内容で、実践を重んじる姿勢が冒頭に置かれています。
神道、仏教、儒教が混ざった教えで、深井さんは「これが相当機能してます」と評価します。どの藩にも独自の教育はありましたが、薩摩の郷中教育には武士としてのエリート教育をしようという強い意志が感じられるそうです。
郷中教育の単位は地域ごとの組織です。城下士が住む地区はいくつかのエリアに分けられ、エリアを方限 ── 薩摩藩の城下で武士の居住地を区切った地域単位。この地域ごとに郷中と呼ばれる青少年の組織が置かれました、そのエリアにある組織を郷中と呼びました。6〜7歳で郷中に加わると、22〜23歳まで抜けることができず、他の郷中の人と交友を結ぶことも許されませんでした。
(他の郷中と関係を)持っちゃいけないのやばくない?
年齢で分かれた集団教育の仕組み
郷中の中は年齢で細かく分けられていました。6〜7歳から12〜13歳までが稚児、14〜15歳から妻帯する23〜24歳ごろまでが二才です。稚児はさらに、6〜10歳の小稚児と、11〜12歳の長稚児に分かれていました。
| 区分 | 年齢の目安 | 役割 |
|---|---|---|
| 小稚児 | 6〜10歳 | 長稚児に面倒を見てもらう |
| 長稚児 | 11〜12歳 | 小稚児の面倒を見る |
| 二才 | 14〜15歳から23〜24歳ごろ | 稚児全体を統括し、二才頭がリーダーを務める |
郷中では、嘘をつくこと、負けること、弱い者いじめが悪とされ、年長者を敬うことが徹底的に叩き込まれました。一方で二才の段階になると、上下関係はありつつも、公平な立場で自由に集団で問答することが奨励されます。
だから年上だから言えないとかやめろってこと。ちゃんとディベートせろってこと。
樋口さんは、今の教育で言われていることに近いと感じ、深井さんも最新の教育に近く、松下村塾 ── 吉田松陰が長州の萩で主宰した私塾。身分を問わず塾生を受け入れ、議論を重んじたことで知られますでも同じようなことをしていたと応じます。
ただし郷中教育では「議を言うな」とも言われ、特に年上に言い過ぎることは戒められていました。深井さんは、武士同士でメンツがぶつかると殺し合いになりかねないので、最後のストッパーとしてこのルールがあったのだろうと推測しています。
酒も女性も禁止、破れば切腹
郷中教育には年中行事もありました。曽我兄弟の仇討ちを称える曽我どんの傘焼き、関ヶ原で徳川家康の陣を突破して帰った島津義弘をたたえる妙円寺詣り、赤穂浪士の忠義に学ぶ赤穂義士伝輪読会などです。これらは今も鹿児島県内で受け継がれていると本に書かれていたそうです。
7歳ごろから20代まで他と関わらずに過ごす郷中は、ものすごい連帯感を生みました。深井さんによると、その連帯感はそのまま戦闘集団に転じ、薩摩の武士はずっと戦国モードを続けていた人たちだといいます。
郷中の規律は厳しく、23歳まで酒とタバコは一切禁止でした。輪読会で酒の匂いがすれば激しく怒られたそうです。女性との関係にもストイックで、噂話すらもってのほか。遊郭に入ったり女性と関係したりした者は、郷中の全員に迫られて切腹させられたといいます。
お前あの子と話しとったよな。切腹みたいになるらしい。
切腹を命じられた側は、卑怯な振る舞いをせず潔く自決することで面目を全うするとされました。また、掟を破った者は誰からも口をきいてもらえなくなることもあったそうです。
だからもうその中でハブられたらもう生きていけないぐらい、本当に社会やったんですよ、それが。
会津の「什の掟」との共通点
深井さんは、のちに登場する会津藩にも「什」という似た教えがあったことを紹介します。「什の掟」は名前に反して10個ではなく、7つの掟と最後の一文で構成されています。
中身は、年長者に背かない、年長者にお辞儀をする、嘘を言わない、卑怯な振る舞いをしない、弱い者いじめをしない、戸外で物を食べない、戸外で婦人と言葉を交わさない、というものです。最後に「ならぬことはならぬものです」と締めくくられます。
いきなりそんなマナー、いきなりマナー来たの?
嘘、負け、弱い者いじめを戒め、年長者を敬う。酒・タバコは23歳まで禁止、女性と関係すれば切腹
年長者を敬い、嘘、卑怯、弱い者いじめを戒める。戸外で婦人と話すことを禁じ、切腹の例もあった
深井さんは、これほど厳しいのは薩摩と会津の特徴で、遊んでいた高杉晋作のような長州にはない気がすると話します。よく似た教えで育った薩摩と会津が、のちにライバルとして戦うことになる点を、出演者たちは「エモい」と感じたそうです。楊さんは薩摩を「ジャパンのスパルタ」とたとえます。
西郷さんも7歳で郷中に入り、8歳からは藩校の造士館 ── 薩摩藩の藩校。藩士の子弟に儒学などを教えましたに通いました。午前中は講習、午後2時までは読書や習字という日課で、四書五経を中心に朱子学を学んでいます。
なお深井さんは、郷中教育はこの時点ですでに転換を迫られており、西郷さんたちをその産物として語るのは違うかもしれないと指摘する本もあったと付け加えています。
13歳の喧嘩で失った右腕の力
郷中教育を受けていた西郷さんは、13歳のときに大きな事件に遭います。舞台は、関ヶ原で約1600人いた島津勢が80人余りになりながら家康の陣を突破した出来事をたたえる、妙円寺詣りの日でした。
西郷さんは生まれつき体が大きく、先祖にいた超人的に強い「無敵斎」の再来だと一族で話題になっていました。それが災いし、他の郷中にいた16歳の横堀という青年が、無敵斎の子孫を倒してやろうと喧嘩を挑みます。祭りの日は多少の喧嘩が許される雰囲気もあったようです。
結果は、13歳の西郷さんが3歳上の横堀をボコボコにしてしまいます。郷中の「負けてはならない」という教えのもと、引き下がれなくなった横堀は、翌月の雨の日、帰宅途中の西郷さんに刀で斬りかかりました。
西郷さんは避けたものの右腕を斬られ、腱を傷めたとみられ、その後ずっと刀を握れなくなりました。西郷さんは横堀のことを許し、そこから読書に励むようになります。
無敵斎の再来
体が大きく、一族から強さを期待される
祭りの喧嘩
16歳の横堀に挑まれ、13歳で打ち負かす
刀による報復
翌月、斬りかかられて右腕を負傷し、刀が握れなくなる
読書ルートへ
武力の道を断たれ、勉強に打ち込む
武力ルートじゃなくて読書ルートに入るんですよ、これで。
深井さんは、これを武士としての肉体的な強みが強みでなくなった分岐点だと見ています。ベートーヴェンの耳が聞こえなくなった話にも近く、しかも武士が刀を握れないことは、能力だけでなく社会的な地位にも関わる問題でした。
末端の役人として農民と向き合う
勉強を重ねた西郷さんは、1844年、18歳で郡方書役助として働き始めます。農業政策を担う奉行の下で働く役人のうち、最下級の役職です。藩内を回って道路や橋の修繕を手配し、米の出来具合を確かめ、年貢の徴収を監督する現場の実務でした。
西郷さんはこの仕事を10年ほど続け、年貢の計算など経理的な能力を身につけます。深井さんは、賢いと見られていたというより、勉強と仕事を通して実務能力を獲得していったのだと説明します。
上司の迫田太次右衛門は、民を憐れみ、清貧で無欲な人柄だったといわれ、西郷さんはこの人から大きな影響を受けたとされます。ここで西郷さんは農民への深い愛情を持つようになりました。
農民から米をもらって生きている以上は、武士として百万倍返ししなきゃみたいな。
当時の武士らしく、農民を導くべき存在と見る発言も多いものの、農民を搾取する感覚はなかったといいます。一方で、上納金をかすめるような同僚の不正はすべて指摘して糾問したため、煙たがられ、乱暴で同僚との関係が悪いと謗られることもありました。
学問では朱子学をかなり勉強し、のちに陽明学にものめり込みます。禅にも関心を持ち、深井さんは殿様への態度など、西郷さんの判断軸はとても儒教的だと感じると話します。一方で蘭学はそこまで優先しておらず、当時の一般的な侍の態度だったようです。
陰謀論が藩を揺るがしたお由羅騒動
西郷さんが21歳ごろ、薩摩藩主は島津斉興でした。その息子に名君として知られる島津斉彬、腹違いの弟に賢い島津久光がいます。久光の母は側室のお由羅でした。
お由羅騒動は、斉彬と久光のどちらが藩主になるかで家臣同士が争った後継者騒動です。深井さんによると、お由羅には何の陰謀もなかったのに、久光を藩主にしようと企んでいるという陰謀論が薩摩の武士の間でまことしやかに広まりました。
背景にあったのは財政問題です。斉彬は蘭学趣味で西洋に通じた開明的な人物で、藩主になればどんどん投資しそうだと思われていました。斉興の代でようやく財政を立て直したのに、また投資されては困ると考えた派閥が、久光を押し立てようとしたのです。
財政への不安
斉興の代で立て直した財政を守りたい派閥がいる
斉彬への警戒
開明的な斉彬は大きく投資しそうだと思われる
久光擁立の動き
警戒する派閥が久光を押し立てようとする
陰謀論の拡大
お由羅が裏で操っている、呪ったという噂が広まる
何にどれぐらい投資するかで意見が割れて、どの新規事業をどれぐらい大切に扱うかで意見が割れて、それで派閥争いになっちゃったみたいなのが、まさにこの時の争いだったんですよね。
斉彬の嫡男と次男が相次いで病死すると、それもお由羅の呪いだと噂されました。深井さんは、女性蔑視から来た魔女のような話で、呪いにリアリティがあった時代ならではだと話します。しかも実際には、斉彬と久光は仲が良く、久光は兄を尊敬していたそうです。
西郷さんは斉彬派で、陰謀論を信じ込み、お由羅と結託しているとされた家老の島津豊後の暗殺決議にまで関わっていたようです。斉彬はこの動き全体に強く怒りましたが収まらず、関係者には切腹、謹慎、島流しといった処分が下りました。大久保利通さんの父も連座して喜界島に流されています。
切腹した一人が、父の吉兵衛が手伝いに出ていた家の赤山靱負でした。尊敬していた先輩のような人物の見事な切腹は、下手をすれば自分も処罰されていた西郷さんに強い衝撃を与えたとされます。深井さんは、西郷さんが最後まで久光を好きになれなかった出発点がすでにここにあり、それは陰謀論による勘違いだったと話します。
本人が違うと言っても、もううわってなってるから。
遅すぎた名君・斉彬の藩主就任
紆余曲折の末、斉彬は藩主になりますが、それは43歳のときで、当時としてはとても遅い就任でした。理由は、父の斉興に嫌われていたからです。
斉興は、祖父の島津重豪 ── 薩摩藩の第8代藩主。蘭学を好み、藩校の設立など多くの事業に力を入れた一方、藩の財政を大きく悪化させたとされますが大金を使った後始末で財政を立て直した人物で、息子の斉彬が同じように金を使うことを恐れていました。深井さんは斉興の目線を「絶対FXで身を崩す」とたとえ、樋口さんは「FXよりは社会的価値が高い投資」と返します。
状況を動かしたのは、琉球を通じた薩摩の密貿易の発覚でした。これを見つけたのが30代で老中のトップになった阿部正弘です。斉彬を高く評価していた阿部正弘が斉興に圧力をかけ、斉彬は藩主の座につきました。
成功するかどうかは歴史の我々は知ってますけども、斉彬が名君ってことは。でも当時はわからないですもんね。
深井さんも、投資をしただけでまだ回収していない段階だったから、家中は不安で、その不安が陰謀論まで生んだのだとまとめます。
家族の死、まだ何者でもない20代
同じ頃、西郷さんには超大事件が起こります。祖父、父、母が次々に亡くなり、西郷さん自身が当主になったのです。弟や妹を養いながら結婚もしますが、暮らしはひどく貧しいままでした。
陰謀論に騙されて処罰寸前までいき、両親を失い、仕事では同僚に嫌われ、刀も握れない。深井さんは、22〜24歳ごろの西郷さんを「普通の下級武士の超貧乏なちょっと嫌われてる人」だと表現します。
ここからなんで歴史の教科書に載るのかですよ。
まったく先の見えない状態から、西郷さんがどうやって歴史の表舞台に上がっていくのか。その答えは次回以降に語られます。
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まとめ
今回の西郷隆盛さんは、英雄の姿とはほど遠い存在でした。貧しい大家族、厳しい郷中教育、右腕の負傷、陰謀論と家族の死を経て、20代前半になっても下級武士のままです。一方で、頑固な正義感、読書と実務で培った力、農民への思い、儒教的な判断軸は、この時期にすでに形づくられていたと考えられます。
- 西郷さんは16人以上を年収300万円ほどで養う、超貧乏な下級武士の家に生まれた
- 郷中教育は年齢別の集団教育で、議論を奨励する一方、掟を破れば切腹もあるほど厳しかった
- 13歳で右腕を斬られて刀が握れなくなり、武力ではなく読書と実務の道に進んだ
- お由羅騒動で陰謀論を信じたことが、久光を最後まで好きになれない出発点になったとされる
- 20代前半の西郷さんは、まだ何者でもない「うだつの上がらない」青年だった




