西郷隆盛、絶望と島流しの日々──斉彬の死から二度の流刑まで
歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO)の西郷隆盛編第4回では、深井龍之介さん、楊睿之さん、樋口聖典さんが、島津斉彬の急死から安政の大獄、月照との入水未遂、奄美大島への流刑、桜田門外の変、島津久光の台頭、そして二度目の島流しまで、西郷隆盛の激動と絶望の日々を語っています。その内容をまとめます。
斉彬の急死と安政の大獄
西郷隆盛にとって最大の後ろ盾だった島津斉彬薩摩藩第11代藩主。西洋技術の導入や富国強兵に尽力した開明的な名君。西郷を見出し、直接の家臣として重用した。が、炎天下の軍事訓練を見守った後に倒れ、そのまま亡くなってしまいます。直接の死因はコレラコレラ菌による急性感染症。幕末の日本では「コロリ」と呼ばれ、何度も大流行した。激しい下痢・脱水を引き起こす。や腸炎ビブリオ、赤痢などの胃腸系疾患とされています。亡くなる一年前の時点ですでに寝たまま排泄するほど体調を崩しており、傍目には突然でも、身体はかなり弱っていたようです。
斉彬が亡くなる一ヶ月前、井伊直弼彦根藩主。幕府の大老に就任し、日米修好通商条約を勅許なしで調印。反対勢力を弾圧する安政の大獄を主導した。が日米修好通商条約1858年に締結された日米間の通商条約。関税自主権の欠如や領事裁判権など、日本に不利な内容を含む不平等条約だった。を勅許天皇の許可・承認のこと。幕末では、朝廷の勅許を得ることが政策の正統性を担保する手段として重視された。なしで調印していました。本来、天皇の勅許は反対派の大名を「天皇がOKした」と納得させるための政治的コンセンサスでしたが、孝明天皇幕末の天皇(在位1846〜1867年)。攘夷を強く主張し、幕府の条約締結を拒否。結果的に朝廷の政治的発言力を高めた。がこれを事実上拒否したため、逆効果になってしまいます。
これに対し、一橋派将軍後継に一橋慶喜を推した勢力。水戸藩の徳川斉昭、薩摩の島津斉彬、越前の松平春嶽らが中心。井伊直弼の南紀派と対立した。の徳川斉昭水戸藩第9代藩主。一橋慶喜の実父。尊皇攘夷の中心人物で、井伊直弼と激しく対立した。や松平春嶽越前藩主。幕末の四賢侯の一人。開明的な藩政改革を行い、橋本左内を登用した。安政の大獄で謹慎処分を受ける。らが井伊直弼の責任を追及しに江戸城に乗り込みますが、井伊は将軍・家定の名で彼らに謹慎・隠居の処分を命じます。「調子に乗るな」と押さえつけようとしたのです。
しかし孝明天皇側がさらに強い手に出ます。幕府を飛び越えて、水戸藩に直接命令を下したのです。内容は「将軍は周りの心得の良くない役人に騙されている。斉昭たちの処分は不当だ。それを諸藩に伝えよ」というもの。「心得の良くない役人」とは明らかに井伊直弼を指していました。
井伊直弼はこれを看過すれば幕府権威が本格的に失墜すると判断し、水戸藩およびそれに連なる志士たちを次々と逮捕・処刑していきます。橋本左内越前藩士・蘭学者。松平春嶽のもとで藩政改革に尽力。一橋派として活動したが、安政の大獄で処刑された。享年26。や吉田松陰長州藩の思想家・教育者。松下村塾で多くの志士を育てた。安政の大獄で処刑。自ら老中暗殺計画を自供し死罪となった。を含む百名余りが謹慎ないし死罪に処されました。これが安政の大獄1858〜59年に井伊直弼が主導した大規模な政治弾圧。一橋派の大名・公家・志士ら100名以上が処罰された。です。
二百六十年間ずっと幕府がトップだった。今までそんな文句言ってくるやついなかったのに、さすがにやりすぎだろってことで思いっきり厳しい処分をした
月照との入水──死にきれなかった男
西郷隆盛の視点に戻りましょう。当時三十歳前後だった西郷は、二十六歳頃から斉彬に直接仕え、幸福な数年間を過ごしていました。それが一転、斉彬の急死、一橋派の壊滅、安政の大獄で尊敬していた橋本左内の死──すべてが望まぬ方向へ転がっていきます。
京都で斉彬の死を知った西郷は、即座に殉死を決意します。別れを告げに訪ねたのが月照京都清水寺の僧侶。尊皇攘夷に傾倒し、近衛家に仕えて政治工作にも関わった。安政の大獄で追われる身となる。という僧侶でした。月照は「今はやめておけ」と慰留し、西郷は一度思いとどまります。しかし安政の大獄が始まると、尊皇攘夷に傾倒していた月照も追われる身になります。
西郷は月照の保護を依頼され、鹿児島に連れ帰ろうとしますが、斉彬亡き後の薩摩藩は父・島津斉興薩摩藩第10代藩主で斉彬の父。斉彬と対立し、お由羅騒動を引き起こした。斉彬死後に一時実権を回復。のもとで井伊直弼政権に迎合する空気が広がっていました。信頼していた家老も亡くなり、味方のいない状態。月照を受け入れてもらうことは絶望的でした。
殉死を思いとどまってからわずか三ヶ月後の十一月、西郷は月照を抱き込んで鹿児島湾に飛び込みます。船頭三人が急いで海中を探したところ、二百二十メートル離れた海面に二人が浮かんでいました。月照はすでに亡くなっていましたが、西郷は生きていたのです。蘇生後、三日三晩意識がなく、目覚めた後も一ヶ月間言葉を話せなかったといいます。
深井さんは、この体験が西郷のその後の人生を決定づけたと語ります。月照だけを死なせてしまった罪悪感、武士として自殺未遂をした恥。以降の西郷は「一回死んだ人」として振る舞い、斉彬の意志を達成してさっさと死のうというモードを抱え続けたと見られています。これはサバイバーズギルト災害や事故で自分だけが生き残った人が抱く罪悪感。戦争帰還兵などに多く見られる心理現象。と呼ばれる心理に近いものかもしれません。
奄美大島での三年間
安政の大獄の中、西郷も逃がす必要がありました。薩摩藩は前藩主の寵臣を無下にもできず、「菊池元吾」という変名を使わせて奄美大島鹿児島県南部の離島。薩摩藩の支配下にあり、砂糖のサトウキビ栽培を強制されていた。本土とは異なる文化圏。に流します。罪人扱いではなく、給料も出ていたそうです。
しかしこの三年間は、日本史が恐ろしいほど激動した時期でした。その真っ只中に、西郷は島にいたのです。ニュースは大幅に遅れて届き、何もできない自分への苛立ちが募ります。鬱的な気分で体調を崩して寝込むことも多く、希望を持てずに食べて寝るだけの生活でかなり太ったという記述もあるそうです。
島到着後、三十日間一度も晴れなかったという天候もあり、鬱状態はさらに深まりました。一方で、現地の女性アイカナ奄美大島で西郷の現地妻となった女性。長男・菊次郎をもうけた。西郷が島を離れた後は奄美で暮らした。と結婚して長男・菊次郎が生まれ、島民への不当な処遇に憤って悪徳役人を懲らしめるエピソードも残されています。感情移入しやすく正義感の強い西郷の気質がここでも表れていたのです。
約三年後、ようやく帰還命令が届きます。皮肉にも、妻子と共に過ごす新しい家ができた翌日のことでした。
桜田門外の変と幕府権威の失墜
西郷が島にいた間、日本を揺るがす大事件が起きていました。桜田門外の変1860年3月、水戸藩脱藩浪士17名と薩摩藩脱藩浪士1名が、大老・井伊直弼を江戸城桜田門外で暗殺した事件。です。安政の大獄で弾圧された水戸藩の脱藩浪士十七名と、薩摩藩を脱藩した有村次左衛門薩摩藩出身の志士。桜田門外の変で井伊直弼にとどめの一太刀を浴びせた人物。事件直後に自刃した。の計十八名が、通勤途中の井伊直弼を駕籠ごと襲撃し、首をはねたのです。
深井さんはこの事件のインパクトを強調します。大老という幕府最高位の人間が、家臣の家臣にあたる水戸藩士に殺されたのです。以後、幕府は強硬的な態度を一切取らなくなります。「殺されるから」というシンプルな理由で。命を捨てる覚悟のある人間でなければ強硬策は取れず、幕府にはそのような人材がほとんどいなかったのです。
幕府は朝廷との協調路線、いわゆる公武合体朝廷(公)と幕府(武)が協力して政治を行うべきだとする考え方。幕府権威の低下に伴い、朝廷の伝統的権威を借りることで体制を立て直そうとした。策に舵を切り、第十四代将軍徳川家茂第14代征夷大将軍。紀州藩主から将軍に就任。公武合体策の一環として和宮と婚姻。21歳の若さで病没。の正室として孝明天皇の妹・和宮孝明天皇の異母妹。公武合体策の象徴として将軍家茂に降嫁。すでに婚約者がいたが、政治的理由で引き離された。を迎え入れます。その見返りとして幕府は攘夷決行を約束させられますが、実現不可能と知りながらの空手形でした。
島津久光の大勝負
斉彬の死後、その父・斉興が一時実権を握りますが、翌年には斉興も亡くなります。こうして実権を握ったのが島津久光斉彬の異母弟。藩主ではなく「国父」として薩摩藩の実権を握った。公武合体を推進し、自ら上洛・江戸行きを敢行して国政に介入した。でした。藩主は久光の息子ですが、実質的な統治者は久光という構図が幕末まで続きます。
久光の最初のムーブは大胆なものでした。上洛して朝廷に自らの立場を認めさせ、さらに江戸へ行って幕府に公武合体策を直接提案するというのです。藩主でもなく、無位無冠の人物が京都から江戸まで乗り込んで国政を動かそうとする──前代未聞の行動でした。
幕府が藩を呼んで意見を聞くフェーズから、呼ばれてもないのに意見を言って政治を実際に変えちゃうフェーズになった。これは久光が能動的に起こしたことでフェーズが変わった
楊さんによれば、久光は天皇に対して「自分は天皇の臣下である」と宣言し、幕府を強烈に非難した最初の諸侯でした。外様の九州の藩主(でもない人物)が朝廷の信頼を獲得し、国政を動かそうとする構図は、他の藩にも大きな衝撃を与えます。
結果として久光は、一橋慶喜水戸藩主・徳川斉昭の七男。のちの第15代将軍。公武合体策の中で将軍後見職に就任し、幕政の実権を握った。を将軍後見職に、松平春嶽を政治総裁職に就けることに成功。藩内でも、過激派が集まった寺田屋事件1862年、京都伏見の寺田屋に集まった薩摩藩過激派を、久光の命令で薩摩藩士が鎮圧した事件。同士討ちとなった。を自ら鎮圧し、朝廷からの信頼をさらに高めました。
朝廷の信頼獲得
天皇の臣下と宣言し、寺田屋事件で過激派を自ら鎮圧
幕府人事への介入
慶喜を将軍後見職、春嶽を政治総裁職に就任させる
雄藩の発言力が激変
「呼ばれて意見を言う」から「呼ばれなくても政治を変える」フェーズへ
ちなみに、この時期に京都の治安維持のために京都守護職幕末に新設された役職。会津藩主・松平容保が就任し、京都の治安維持を担当。この配下組織として新選組が活動した。が新設され、これがのちの新選組京都守護職のもとで京都の治安維持にあたった浪士隊。近藤勇・土方歳三らが中心。尊攘派志士の取り締まりで知られる。へとつながっていきます。
二度目の島流し──西郷を変えた獄中生活
西郷が奄美から呼び戻されたのは、久光の上洛に先立つ根回し要員としてでした。京都での人脈を持つ人材が薩摩藩には西郷しかいなかったのです。しかし再会早々、西郷は久光に「あなたのような田舎者が京都に行っても逆効果ですよ」と言い放ちます。薩摩の方言で「地ごろ」(田舎者)と呼んだとも伝えられています。
久光は激怒しつつも理性を優先し、西郷の実力と精忠組への影響力を考えて堪えました。しかし問題はここからです。久光は西郷に「九州の情勢を視察して下関で待機しろ」と命じますが、過激派の暴発を自分が抑えなければと判断した西郷は、命令を無視して勝手に京都・大阪に向かってしまいます。
久光は「こいつ暴発した」と受け取り、激怒します。大久保利通薩摩藩士。西郷の盟友で精忠組の中核メンバー。久光に接近して藩の権力を得ていった。のちに明治新政府の中心人物となる。は焦って許可を得て西郷を追いかけ、京都伏見で再会。西郷が暴発したわけではなく、過激派を抑えに行ったのだと確認し、ほっとします。
しかし、大久保が戻る前に別の人間が「あいつ暴発した」と久光に報告してしまっていたのです。久光の怒りは収まらず、大久保は人気のない浜辺に西郷を連れ出し、「もうここで一緒に死のう」と刺し違えを提案します。
これに対して西郷さんは「今じゃない」と。斉彬の意志がまだ達成されてない。自分は一回死のうとしたけど死ねなかった。その恥を贖罪するまで死ぬつもりはないと
西郷の言葉で二人は思いとどまりますが、久光の怒りは解けません。奄美大島から戻ってわずか二ヶ月で、西郷には二度目の流刑が命じられます。今度は罪人としての処分でした。
最初は徳之島でアイカナと二歳半の菊次郎に再会しますが、すぐに沖永良部島鹿児島県の離島。奄美群島の南西に位置する。西郷は罪人としてここに流され、過酷な獄中生活を送った。への移送命令が届きます。沖永良部島での待遇は前回と全く違い、海岸沿いの六畳ほどの牢屋にボットン便所が同居し、悪天候では塩水が入り込む劣悪な環境でした。太陽にも当たれず、次第に痩せ衰えていき、寄生虫にも感染したといいます。
この状況を見かねた島役人が、西郷の人柄に惚れ込んで自宅に引き取り、命令書を拡大解釈して座敷牢のような部屋を用意してくれました。深井さんはこの島役人がいなければ、西郷はここで亡くなっていた可能性があると指摘します。
この二度目の流刑は西郷の人格を大きく変えました。かつて久光に「地ごろ」と言い放ち、尊敬しない相手にはコミュニケーションを切るような態度を取っていた西郷が、流刑後は表面上の恭順を徹するようになり、対人関係でも慎重になったといいます。研究者は、理詰めで尖った部分をあえて包み隠すようになったと分析しています。私たちがイメージする「西郷どん」は、この壮絶な経験を経た後の姿だったのです。
まとめ
今回のエピソードは、斉彬の死から始まる西郷隆盛の絶望と転落の物語でした。安政の大獄という幕府の強権と、桜田門外の変による権威崩壊。その裏側で、西郷は月照との入水未遂、奄美大島での鬱々とした三年間、そして久光との衝突による二度目の島流しという苛烈な経験を重ねていきます。一方で島津久光は大胆な上洛で雄藩の発言力を一変させ、薩摩藩は国政の中心へと踏み出していきました。激怒する久光のもと、西郷はいつ薩摩政権に復帰するのか──次回に続きます。
- 島津斉彬の急死後、井伊直弼が安政の大獄で反対勢力を徹底弾圧。朝廷が幕府を飛び越えて水戸藩に直接命令を出すなど、幕藩体制のガバナンスが崩壊し始めた
- 西郷隆盛は斉彬の死に殉じようとし、僧侶・月照と鹿児島湾に入水。月照は亡くなったが西郷だけが生き残り、以後「サバイバーズギルト」を抱えて生きることになった
- 奄美大島への流刑中の三年間、日本史は安政の大獄・桜田門外の変・公武合体策と激動。西郷はその中心にいられず、鬱的な日々を過ごした
- 島津久光が藩主でもない立場で上洛・江戸行きを敢行し、慶喜を将軍後見職に就けるなど国政を動かした。寺田屋事件で藩内過激派も鎮圧し、朝廷の信頼を獲得
- 呼び戻された西郷は久光に「地ごろ」と失礼な態度を取り、命令違反で二度目の島流しに。沖永良部島での過酷な獄中生活が、西郷の人格を大きく変えた

