主君・島津斉彬は、なぜ突然亡くなったのか
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前回までの西郷隆盛編では、将軍の跡継ぎ争いを抱えた幕府が、海外と朝廷の間で板挟みになる状況が描かれていました。今回は、西郷が仕えていた薩摩藩主・島津斉彬の死から話が始まります。
斉彬の死は周囲には突然に見えましたが、深井さんによれば前兆はいくつもあったといいます。直接の死因は、コレラや腸炎ビブリオ、赤痢など胃腸系の病気だったといわれています。
斉彬は城下の天保山にあった調練所で、炎天下に軍の練習を見守り続けていました。その激務で極度の疲労状態となり、病床に伏してから10日余りで臨終を迎えます。
斉彬は、跡継ぎには異母弟の島津久光か、久光の長男を希望すると言い残しました。その判断を託した相手は、斉彬を嫌っていた父・島津斉興でした。斉彬と久光自身の仲は良かったと話されています。
勅許なき条約調印が招いた反発とは?
斉彬の死と同じ時期に、幕末の大事件である安政の大獄が起こります。発端は、斉彬が亡くなる1か月前に、大老の井伊直弼が天皇の勅許なしで通商条約に調印したことでした。
孝明天皇は条約について「諸大名ともう一度議論して決めよ」と言い直しており、これは事実上の拒否でした。それでも幕府は、アメリカ総領事ハリスの圧力もあり、日米修好通商条約の調印を断行します。
深井さんは、勅許が必要とされた理由をコンセンサスだと説明します。条約に反対する大名たちを「天皇がOKしたのだから」と落ち着かせたかったのに、天皇が認めなかったため、結果は逆効果になりました。
楊さんは、列強の側も「勅許がないことで尊王攘夷派が調子づいている」と理解していたと補足します。武力を持たない天皇がなぜそれほど強い発言力を持つのか、列強には不思議に見えていただろうと3人は笑います。
天皇全然武力持ってねえじゃん。なんでそんな強い発言力あるん?
幕府の強硬姿勢に反発したのは、かつての一橋派でした。水戸藩の徳川斉昭(徳川慶喜の父)らは江戸城に登城し、井伊直弼の責任を追及します。
これに対して井伊直弼は、将軍・徳川家定の名で、斉昭や松平春嶽らに謹慎や隠居の処分を命じました。深井さんは、権威が落ちてきた幕府が「幕府はこっちだぞ」ともう一度押さえつけようとした動きだと解説しています。
勅許なしで調印
井伊直弼がハリスの圧力もあり、日米修好通商条約に調印する
孝明天皇が反発
天皇は再議論を求めており、事実上の拒否を無視された形になる
一橋派の追及
徳川斉昭らが江戸城に登城し、井伊直弼の責任を追及する
謹慎・隠居の処分
井伊直弼は将軍の名で斉昭や松平春嶽らを処分し、押さえつける
朝廷の「一つ飛ばし」の命令は、なぜ危険だったのか?
幕府が反対派を押さえつけるなか、朝廷の側も動きます。孝明天皇を含む朝廷は、幕府に言っても思うように動かないため、水戸藩に直接命令を下しました。
深井さんは、この「幕府を飛ばして藩に命令する」動きを、日本史で何度も起きてきたシステム崩壊の典型だと指摘します。楊さんも、ヒエラルキーを飛ばしているのだと強調します。
この一つ飛ばしでシステム全崩壊するやつって日本史で何回もあったじゃん。
命令の内容は、将軍は賢いが、周りの心得の良くない「有司」にだまされて天皇の意思に背いてしまった、というものでした。処分された徳川斉昭や松平春嶽の言い分は真っ当だと天皇は考えている、と諸藩に伝えるよう水戸藩に命じたのです。
楊さんによれば、「有司」は役人という意味で、名指しこそしないものの井伊直弼を指していました。大老が天皇から直接攻撃されたことになり、見過ごせば幕府の権威は本格的に失墜します。
井伊直弼らはこの命令を無効にするよう働きかけるとともに、水戸藩とそれに連なる志士を次々に逮捕していきます。翌年までに、皇族や公家、水戸藩の家老、橋本左内、そして吉田松陰らを含む100名余りが謹慎や死罪となりました。これが安政の大獄です。
朝廷が水戸藩に直接命令
幕府を通さず、井伊直弼を批判する内容を諸藩に伝えさせようとする
幕府の権威が揺らぐ
大老が天皇から直接攻撃され、見過ごせば権威が失墜する
安政の大獄
井伊直弼が水戸藩や志士を逮捕し、100名余りを処分する
楊さんは、井伊直弼が苛烈に反応した背景として、朝廷と天皇の発言力が大きくなっていた時代状況を挙げます。藩よりも「天皇の国」という上位レイヤーが大事だという世界観が、武士の間に浸透しつつありました。
でもそれだけのやっぱ必然性はあって。だって260年ずっと幕府がトップだったからね。
主君を失った西郷は、なぜ月照と海に飛び込んだのか?
ここで話は西郷隆盛の視点に戻ります。西郷はこの頃30歳ぐらいで、26歳ぐらいから斉彬に直接仕え、深井さんはその時期を「すごく幸せだったと思う」と表現します。
しかし斉彬の急死、井伊直弼による一橋派の排除、安政の大獄による橋本左内らの死と、西郷にとって望まない方向へ事態が一気に進んでいきました。
京都で斉彬の死を知った西郷は、すぐに殉死を決意します。別れを告げに行った相手が、尊皇攘夷に深く傾倒していた僧侶の月照でした。月照は西郷を慰め、西郷はいったん思いとどまって江戸へ向かいます。
その後、安政の大獄が始まると、月照は井伊直弼から危険人物とみなされ、追われる身になります。西郷は月照の保護を頼まれ、薩摩へ連れて帰ろうとしました。
月照を福岡に潜ませ、受け入れ準備のために1人で薩摩へ戻った西郷を待っていたのは、藩の意見がまったく変わった状況でした。藩の実権は斉興に戻り、西郷が信頼していた家老も亡くなり、藩内には井伊直弼政権に迎合する雰囲気が広がっていました。
深井さんは、安政の大獄はこの段階では、薩摩藩の藩論をひっくり返すという政治的効果を上げていたと見ています。月照を受け入れてもらえない状況は、西郷にとって絶望的でした。
最初に死を思いとどまってから3か月後の11月、西郷は月照を抱えて鹿児島湾に飛び込みます。驚いた船頭3人がすぐに海へ飛び込んで捜索し、220メートル離れた海面に2人が浮かび上がりました。
月照はすでに亡くなっていましたが、西郷は蘇生し、3日3晩意識が戻りませんでした。意識が戻ったあとも、死ねなかった絶望と、月照だけを死なせた罪悪感、武士が自殺未遂をしたという恥から、1か月間言葉を話せなかったといいます。
「一度死んだ人」としての西郷はどう生まれたのか
深井さんは、この入水未遂は後世から見れば「ここで死ななくていい人」の出来事だとしつつも、当時の西郷が本当に絶望していたことが重要だと語ります。西郷は月照だけを死なせたことを一生悔やみ続けました。
この事件以降の西郷は、まるで一度死んだ人のように振る舞うようになります。斉彬と一緒に死にたかったのに死ねなかった西郷が、それでも動き続けた理由は、斉彬の意思がまだ達成されていないことでした。
その斉彬の意思を達成して、もうさっさと死のうっていうモードをずっと続けてるように見えます。この後は。
楊さんは、明治維新の立役者という華々しい一面だけを見ると活発な人物に思えるが、内面は違ったと指摘します。
深井さんによれば、西郷にとって変なところで死ぬことは、恥の上塗りになってしまいます。入水に失敗した恥を償うには、大きな貢献をしなければならないという感覚でした。
その結果、西郷には自分の命を自暴自棄に扱う傾向が生まれ、のちに理性的とはいえない判断を下すこともあったといいます。深井さんはこの状態を、自分だけ生き残ってしまった罪悪感を指すサバイバーズギルト ── 災害や戦争、事故などで自分だけが生き残ったことに対して抱く罪悪感。心理学の用語として知られ、生存者の心の傷として研究されていますという言葉で説明しています。
奄美大島での3年間、西郷は何を見たのか?
安政の大獄のさなか、西郷自身も身を隠さなければならなくなります。薩摩藩は、前藩主が非常に気に入っていた家臣を無下にもできず、西郷を奄美大島へ流島処分としました。
この1回目の島流しは、罪人扱いというより逃がしてあげる意味合いが強かったといいます。西郷は先祖のルーツとされる菊池家にちなんで「菊池源吾」と名を変え、給料も出て、生活の自由度も比較的高かったと話されています。
しかし、この3年間は日本史が恐ろしいほど激しく動いた時期でした。西郷はその中心にいられず、島で遅れて届くニュースを聞くしかありませんでした。
この時の彼の悔しさとかもすごかったと思う。いろんなニュースがめっちゃ遅れて入ってくるわけ。
奄美大島での西郷は、ストレスで体調を崩して寝込むことも多く、食べて寝るだけの生活でかなり太ったという記述もあるそうです。着いてから30日間一度も晴れなかったという天候も、気持ちを滅入らせました。
島民との関係も簡単ではありませんでした。薩摩藩は奄美大島の人々に砂糖を増産させて安く買い叩いており、薩摩から来た西郷は強く警戒されたといいます。
一方で、西郷は島で現地の女性・愛加那(アイカナ)と結婚し、長男も生まれます。以前に一度結婚していましたが、江戸へ行く際に離婚していました。
島で暮らすうちに、西郷は薩摩藩が島民を不当に扱っていることを知ります。深井さんは、近くにいる人の感情を取り込んでしまうのが西郷の特徴だとし、島民に感情移入して悪徳役人を懲らしめたエピソードも残っていると紹介します。
ほぼ3年後、ようやく帰還命令が届きます。それは妻子と過ごす家ができた翌日で、西郷は新しい家で1日だけ過ごしてから島を離れました。
桜田門外の変は、なぜ起こるべくして起こったのか?
西郷が島にいる間に起きた大事件の1つが、桜田門外の変です。安政の大獄での水戸藩への対応に怒った水戸藩士たちは、藩が幕府に従わざるを得なくなったため脱藩しました。
脱藩した17名に、同調した薩摩藩の脱藩者・有村次左衛門を加えた18人が、登城中の井伊直弼を襲撃して殺害します。駕籠の外から刺され、引きずり出されて首をはねられるという、憎悪に満ちた殺され方だったといいます。
深井さんは、安政の大獄と桜田門外の変はどちらも、ここまでの流れを聞けば当然そうなるだろうと思える出来事だと語ります。
それは井伊直弼も抑えつけるわって思うし、それは抑えつけられた水戸藩士はキレる人いるでしょうねって思うじゃないですか。
楊さんが言うように、大老が白昼堂々暗殺されたことで、幕府の権威は大きく傷つきました。御三家の家臣である水戸藩士、つまり将軍から見れば陪臣にあたる者たちに大老が殺されるのは、ありえないことでした。
この事件の後、幕府は強硬な態度を一切取らなくなります。深井さんは、強硬に出れば殺されるから、命を捨てる覚悟のある者でなければ強硬姿勢は取れなかったと説明します。
深井さんは、以前のオスマン帝国のシリーズで扱ったアブデュルハミト2世 ── オスマン帝国末期の皇帝。一度は憲法を制定したものの、のちに停止して専制的な政治を行いました。彼自身は暗殺されずに退位していますの復古的な動きと、井伊直弼の動きは同じだと例えます。そのうえで、幕府の権威はペリー来航以降ずっと落ち続けていたと整理しています。
和宮の降嫁は、幕府に何をもたらしたのか?
権威を失った幕府は、朝廷と協調しなければならないと意識し始め、公武合体 ── 朝廷(公)と幕府(武)が協力して政治を立て直そうとする考え方。幕府は朝廷の権威を借りて求心力を回復しようとしました策に移っていきます。老中の久世久世広周と安藤信正は、朝廷の伝統的権威を使って幕府の威信を回復しようとしました。
その結果、第14代将軍・徳川家茂の正室として、孝明天皇の妹・和宮が迎え入れられます。和宮にはすでに婚約者がいましたが、引き離されての縁組でした。
朝廷内では反対の声も上がりましたが、公家の岩倉具視は、公武合体はかえって朝廷の権威を高めるだろうと主張し、実際にその通りになっていきます。
楊さんは、朝廷の権威を利用することは幕府にとって諸刃の剣だったと指摘します。幕府にプラスがある一方で、朝廷の権威をブーストさせ、幕府に不利な効果も生んでいきました。
和宮を迎える見返りとして、幕府は攘夷の決行を約束させられます。深井さんによれば、幕府は攘夷などできないと分かっていながら、権威を高めていずれ反故にするつもりでこの約束をしたといいます。
桜田門外の変
大老・井伊直弼が水戸浪士らに暗殺される
強硬姿勢の放棄
殺されることを恐れ、幕府は強硬な態度を取らなくなる
公武合体へ
幕府は朝廷の権威を借りるため、和宮を将軍の正室に迎える
攘夷の約束
見返りとして、実行できない攘夷の決行を約束させられる
藩主でもない島津久光は、なぜ国政に乗り出せたのか
井伊直弼暗殺の知らせを聞いた西郷は、島で喜んだといいます。その後、薩摩藩では斉彬の翌年に斉興も亡くなり、実権は島津久光が握ることになります。
藩主は久光の息子で、久光自身は厳密には藩主ではありません。それでも実権を握る状態は幕末まで続き、深井さんは「実質藩主と思ってもらっておかしくない」と説明します。
久光はこの状況で、公武合体のイニシアチブを取り、日本全体をけん引する立場を目指します。京都に上って朝廷に自らの立場を認めさせ、そのうえで江戸の幕府に公武合体の話をしに行くという行動でした。
朝廷の側にも事情がありました。頼りない幕府が勝手に条約を結び、京都の治安も悪化するなかで、頼もしい存在が必要とされていたのです。ただし幕府から見れば、藩主でもない久光が来る理由はありませんでした。
なんか退職したくせに会社に出社しに来る人みたいな感じなので。
楊さんは、久光の特徴として、朝廷と天皇の立場に立つことを鮮明にした最初の大名だった点を挙げます。久光は自らを天皇の臣下と位置づけ、国政の混乱の責任は幕府にあると強く非難しました。
楊さんによれば、久光は幕府を倒すとは言っていません。それでも、天皇主導のあるべき政治に立ち返ると朝廷に誓った初めての諸侯であり、そこが久光の特徴的なポイントだといいます。
呼び戻された西郷は、なぜ久光を「地ごろ」と呼んだのか?
久光の京都行きには、事前の根回しが欠かせませんでした。しかし当時の薩摩藩には、京都で工作できる人材がいませんでした。そこで浮上したのが、江戸や京都で人脈を築いてきた西郷です。
もう1つの理由は、西郷や大久保利通が属していた勉強会グループ、のちに精忠組と呼ばれる集団の存在でした。大久保らはすでに藩の重要な役職を占めるようになっており、そのリーダー格が西郷だったのです。
ところが呼び戻された西郷は、いきなり久光に失礼な言葉をぶつけます。江戸で暮らしたこともない田舎者が京都に行っても逆効果だ、という意見でした。
西郷は久光を、薩摩の方言で田舎者を意味する「地ごろ」と呼んだといいます。無位無冠で藩主でもないのに京都へ行っても何も起こらない、もっと慎重にすべきだという主張でした。
楊さんは、西郷は最初から感情的に喧嘩腰で、島流し生活での鬱憤もあっただろうと見ています。深井さんも、2人はもともと合わなかったのだろうと話しています。
久光は侮られていることに気づき、強い怒りを覚えますが、何も言いませんでした。西郷は力をつけてきた者たちのリーダー格で、無下に扱えば彼らが暴発するおそれがあったからです。楊さんは、このとき久光は自分の感情より理性を優先したと述べ、この怒りはのちに爆発していくと付け加えます。
命令違反で、なぜ西郷は再び島流しになったのか?
西郷の反対を受けながらも、久光は上洛を決めます。結論からいえば、この上洛と江戸行きで薩摩藩の権威は大きく高まり、深井さんは「西郷の判断が間違っていて、久光の判断が正しかった」と語ります。
西郷さんの面白いところは、行くって決まったらちゃんと役立つとこ。
西郷は、九州の情勢を視察したうえで下関で待機するよう命じられます。視察を通じて、尊王攘夷の過激派、特に薩摩藩の者たちが暴発しそうな状況だと分かってきました。
藩士が勝手に動けば、藩主が処分を受けるおそれがあります。西郷は過激派を自分が抑えたほうがいいと考え、待機命令を破って京都・大阪へ向かってしまいました。
深井さんは、これは責任感から来る主体的で能動的な行動だったと説明します。楊さんも、斉彬のもとで大きく権限を任され、自由に動いて成功してきた経験が背景にあると指摘します。
しかし久光は激怒します。侮られたうえに命令も聞かないことから、久光は西郷が過激派と一緒に暴発したと受け止めたのです。国父と呼ばれる実質藩主の命令違反として、西郷には再び島流しの処分が下されます。今度は罪人としての処分でした。
深井さんは、西郷がこまめに報告し、理由を伝えて誤解を解く努力をしていれば、こうはならなかっただろうと語ります。お互い最初から相性が悪く、コミュニケーションに消極的だったのかもしれないと話されています。
大久保利通はなぜ「一緒に死のう」と言ったのか?
西郷の処分が決まったとき、本人はすでに大阪や京都にいました。伝言もなく状況が分からない大久保利通は、グループのリーダーである西郷が何をしたのかと気が気ではありませんでした。
久光は怒りのあまり、同じグループの大久保のことも嫌うようになっていました。大久保は久光の許可を得て西郷を追い、京都の伏見で会うことができます。
話してみると、西郷は過激派に取り込まれて暴発したのではなく、過激派を抑えに行っていただけでした。2人は夜が明けるまで話し込み、大久保はひとまず安心して久光のもとへ戻ります。
しかし大久保より先に、別の人物が「西郷が暴発した」と久光に報告していました。深井さんは、この時期の西郷のコミュニケーションの問題を指摘します。
この時期の西郷さんって、自分が尊敬してる人にはすごいちゃんとやるけど、しょうもないみたいに見なすとすごい失礼な態度取るんですよ。
楊さんは、敵味方をはっきり分けないと気が済まない西郷の気質と通じると述べ、藩という組織の中でそれが常に正解とは限らないと付け加えます。
怒りの収まらない久光に近づけず、絶望した大久保のもとに、西郷が戻ってきます。久光と鉢合わせれば殺されるかもしれないと考えた大久保は、西郷を人気のない浜辺に連れ出し、刺し違えて一緒に死のうと持ちかけました。
大久保の考えでは、西郷の切腹はもう避けられず、そうなれば自分も生きている意味がありません。これに対して西郷は、今ではないと答えます。2人が死ねば、斉彬が描いた公武合体によって国を立て直すビジョンが叶わないからでした。
深井さんは、この西郷の言葉が2人の命を救ったと語ります。2人は死ぬのをやめ、その代わりに命をかけて斉彬の意志を実現していこうという方向へ向かいます。
寺田屋事件で、久光はなぜ朝廷の信頼を得たのか?
一方の久光は、朝廷の信頼をある程度勝ち取り、朝廷の意向として幕府に要求を伝えて承認させることに成功します。
具体的には、一橋慶喜を将軍後見職につけ、安政の大獄で処分されていた松平春嶽を政事総裁職につけました。幕府の中枢に自分が良しとする人物を送り込み、恩も売ることができたのです。
同じ時期に京都守護職が新設され、これが新選組につながっていきます。京都には、リアリズムのない攘夷論者が集まり、天皇に干渉しようとしたり人を殺したりしていました。深井さんによれば、天皇や公家もそれを嫌がっていたといいます。
こうしたなかで起きたのが寺田屋事件です。精忠組から出た薩摩藩の過激派が寺田屋に集まり、京都所司代の殺害などを謀議していました。久光はこの自藩の過激派を、自らの手で討たせます。
楊さんは、久光の国政参入の戦略から見れば、彼らはノイズだったと説明します。朝廷に「治安も守ります」と言った直後に、行き過ぎた自藩の藩士を処分したことで、久光は高い評価を得ました。
身内の不穏分子を自分の手で処分できたんだ。すごいじゃん。薩摩藩やるじゃん、久光やるじゃんってなるんですよね。
深井さんは、他の藩では藩主でも過激派を抑え込むのは難しく、長州藩などでは脱藩が相次いでいたと比べます。西郷も大久保も脱藩しておらず、薩摩藩に脱藩者がほとんどいないことに、久光のガバナンスの強さが表れていると評価しています。
久光の上洛は、幕末のフェーズをどう変えたのか?
深井さんは、久光の上洛と江戸行きによって、雄藩と幕府の関係が変わったと指摘します。以前は、阿部正弘が斉彬ら雄藩を呼んで意見を聞くという段階でした。
慶喜を将軍後見職につけるようなことは、ここで初めて起きた現象でした。深井さんは、久光が能動的に動いたことで幕末のフェーズそのものが変わったと評価し、そうしたことが起こせると内外に示したことも大きかったと語ります。
幕府が斉彬ら雄藩を呼び、意見を聞く
呼ばれていないのに意見を言い、慶喜の人事など政治を実際に変える
さらに、無位無冠でほとんど無名だった久光が一気に有名になりました。楊さんは、九州という遠い地の外様大名が、天皇の信頼を得て幕府にものを言う構図のインパクトは大きかったと述べます。
深井さんによれば、一か八かの決断を成功させたことで、薩摩藩は覚悟を持って国政に関わろうとする一部の藩とだけ組む姿勢を鮮明にしていきます。
藩内に目を向けると、久光は自分に敵対的だった精忠組を、ほぼ完全に抑え込みました。西郷も大久保も屈服させ、暴発した者たちは処分したことで、藩内を一気に掌握したのです。深井さんは、他の藩よりかなり早い段階でこれを成し遂げた久光の決断力と行動力を高く評価しています。
沖永良部島の獄中で、西郷の人格はどう変わったのか?
話は西郷の2度目の島流しに戻ります。西郷は、自分は命令のために主体的に動いただけだと考えていましたが、釈明もせずに処分を受け入れました。奄美大島から戻ってわずか2か月後のことでした。
西郷はまず徳之島に送られ、そこで愛加那(アイカナ)さんと、2歳半になっていた息子の菊次郎に再会します。しかし直後に沖永良部島への移島命令が届き、家族とすぐに引き離されました。
寺田屋事件で精忠組の仲間が討たれたことも聞いていた西郷は、自分も久光に殺されるかもしれないと考えていたといいます。
沖永良部島での環境は過酷でした。牢ができるまでは船の中の牢に閉じ込められ、海岸に作られた獄舎は、悪天候のときには塩水が入り込み、6畳ほどの広さにボットン便所がある場所でした。
西郷はそこで読書を続けますが、次第に痩せ衰え、寄生虫に感染したともいわれています。1回目の島流しとは、まったく違う状況でした。
逃がすための処分で罪人扱いではなく、給料も出て生活の自由度も比較的高かった
命令違反の罪人として牢に入れられ、塩水や悪臭の中で痩せ衰えていった
そんな西郷を見かねたのが、西郷の人柄に惚れ込んだ島役人でした。島役人は西郷を自宅に引き取って看病し、命令書の「囲い」という言葉を座敷牢と拡大解釈して、家の一部屋のような牢を作り直しました。
もし島役人の彼がそれをしなければ、おそらく本当にここで亡くなってた可能性があります。
深井さんは、この艱難辛苦が西郷を鍛え上げ、私たちが知る西郷さんの最後の形態へと到達させたと語ります。頑固さそのものは変わらないものの、牢を出た後の西郷は大きく変わりました。
久光に対しては表向き従う姿勢を徹底し、対人関係でも慎重な人物に変貌したといいます。研究者の間では、理詰めで尖った部分をあえて包み隠すようになったと考察されており、日本人が抱く西郷像は流島後の姿がベースになっているそうです。
久光に生意気な態度を取り、思ったことをすぐに口にして突っかかる
表向きは従い、本音を急に言わず、状況を動かすために慎重に立ち回る
久光はまだ激怒しており、西郷を戻すつもりはまったくありません。それでも西郷はこの後、再び薩摩の政権に戻ることになり、その経緯は次回以降に語られます。入水、大久保との心中未遂、そして沖永良部島の獄と、この時点で西郷は3回ほど死にかけていたことになります。
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まとめ
今回の西郷隆盛編は、斉彬の死から安政の大獄、桜田門外の変、久光の上洛へと日本全体が大きく動くなかで、西郷がどん底を経験した回でした。入水未遂で生まれた「一度死んだ人」としての生き方と、2度目の島流しで身につけた慎重さが、のちの西郷像につながっていくことが語られています。
- 斉彬の死で殉死を願った西郷は、月照との入水で自分だけ生き残り、その罪悪感を抱えて生きることになった
- 勅許なき条約調印と朝廷の「一つ飛ばし」の命令が安政の大獄を招き、その反動で桜田門外の変が起きた
- 藩主ではない島津久光は、上洛と寺田屋事件を通じて朝廷の信頼を得て、雄藩が政治を動かす段階を切り開いた
- 西郷は久光との不和と命令違反で再び島流しとなり、沖永良部島の過酷な獄中で人格が大きく変わった




