英雄サラディンは実はホトトギスを待つタイプ?
サラディンが生まれたのは、カリフが3人並び立つイスラムの戦国時代のような時期です。深井さんによると、サラディンはアレクサンドロスと同じく英雄視されすぎていて、実際にどういう人だったのかはよくわからない部分があるといいます。
深井さんは、史実として引用するには微妙な記述も多いと断ったうえで、サラディンの人物像を紹介しています。伝えられているのは、筋肉質な英雄ではなく、華奢な体つきで物思わしげな雰囲気の人物だったという姿です。
これ(華奢な人物像)、イスラムから見た世界史っていう本の中に書いてあったんですけれども、僕も読んだ時ちょっとびっくりしましたね。
もっと筋肉マッチョな、そんなイメージだったけどね。
サラディンについての記述には、眼差しは常に憂いを含んでいた、ひとたび微笑むと部屋全体がパッと明るくなった、悲しい知らせに涙を流した、といったものが並びます。信仰心が厚く、慈悲深く、謙虚だったともされています。
深井さんが実際の行動から感じ取るのは、サラディンの忍耐強さです。焦って動いて失敗することがほとんどなく、耐え続けた末に何かを成し遂げるタイプだったといいます。
英雄といってもアレクサンドロスとかナポレオンみたいな感じじゃない。
ホトトギスが鳴くまで待つ人みたいな。
やっぱり家康っぽいんだよね、そこもね。まあ全然違うよ。全然違うけど。我慢強い系です、やっぱり。
一般的にイメージされる、力強く突き進む英雄
華奢で物憂げ。焦らず忍耐を重ねて最終的に成し遂げる我慢強いタイプ
生まれたその日に故郷を追われたのはなぜか
楊さんはまず、サラディン誕生時のイスラム世界を振り返ります。アッバース朝が分裂し、セルジューク朝も分裂し、ファーティマ朝も衰退していく乱世で、十字軍もすでに2回来てエルサレムが奪われていた時期でした。
サラディンはアラブ人でもトルコ人でもなく、クルド人 ── 中東の山岳地帯を主な居住地とする民族。現在もトルコ、イラク、イラン、シリアなどにまたがって暮らしていますです。この時代のクルド人は、昔ながらの農耕や遊牧から離れて都会で暮らし、キャリアアップしたり、独立してクルド系の王朝を建てたりする人も出ていたといいます。
サラディンの父アイユーブはセルジューク朝に仕え、ティクリート ── 現在のイラク中部、チグリス川沿いの都市の代官を務めていました。サラディンはこのティクリートで生まれます。
ところが、サラディンの一族は、生まれたその日にティクリートを離れなければならない事態に陥ります。原因は、アイユーブの弟、つまりサラディンのおじにあたるシールクーフでした。
楊さんによると、シールクーフは勇敢だけれども激情家で、一時の感情からキリスト教徒の役人を殺してしまいました。それがきっかけで、アイユーブ一族は生まれたばかりのサラディンも含めて街から追放されます。
パパディン。
楊さんが「サラディンパパ」と呼ぶアイユーブに、深井さんが「パパディン」とあだ名をつけ、スタジオはしばし盛り上がります。
6年前の恩が一族を救う
追放されたアイユーブ一族が頼った先は、ザンギーでした。実はアイユーブには、この6年前にザンギーを助けた過去があったといいます。
当時ザンギーは独立勢力を築き、もともと仕えていたセルジューク朝と戦って敗れ、たまたまティクリートへ逃げてきました。セルジューク朝に仕えるアイユーブは本来ならザンギーを捕らえるべき立場でしたが、助ける道を選びます。
これ(ザンギーを助けたこと)がサラディンの命運を変えるんですよね、この判断が。
昔の恩があるザンギーはアイユーブ一族を受け入れ、アイユーブとシールクーフに軍団長の役職を与えます。さらにバアルベックという土地の支配権も認め、土地と地位を与えて窮地から救いました。当時のザンギーは十字軍に組織的な抵抗を展開する、名の知れた武将だったそうです。
6年前
アイユーブが敗走してきたザンギーを捕らえずに助ける
誕生の日
シールクーフが役人を殺し、一族がティクリートを追放される
ザンギーを頼る
恩を覚えていたザンギーが軍団長の役職とバアルベックを与える
ザンギー暗殺後、主君を変えて生き延びる父アイユーブ
しかしザンギーは暗殺されます。その直後、セルジューク朝がザンギーの勢力を攻め、狙われたのがアイユーブの任されていたバアルベックでした。
楊さんによると、アイユーブは政治力に優れた人物だったようです。包囲攻撃によく耐え、最後は交渉で住まいを明け渡す代わりに命を助けてもらうことに成功します。
そのうえでアイユーブは、ザンギー朝に仕えるのをやめ、再びセルジューク朝に仕える方針へ転換しました。
主君を変えてるけどね。
ここもなんか戦国武将っぽい。
実際戦国だしね。
30歳まで無名だった若きサラディンの素顔
楊さんは、若き日のサラディンについて、結論から言えば30歳までに目立った活躍はない無名の人物だったと話します。
受けた教育については、ムスリムとしての一般論から推測されるものとして紹介されています。コーランの暗記、語学、算数、歴史、そして法律です。
楊さんによると、イスラム法は統治を評価する基準で、イスラム法と政治がうまく結びついたとき正しい政治が実現したと評価されました。そのためリーダーを担う人にとってイスラム法を修めることは非常に重要で、サラディンも熱心に学んだと考えられています。武人の家系として、馬術や刀剣術にも励んだようです。
一方で、若きサラディンの性格は引っ込み思案で極端におとなしく、武人としての適性は微塵も認められなかったという記述もあるといいます。
そんな言われある?
楊さんによると、軍事指導者としては合格水準に達していたものの、特別な資質に恵まれていたわけではありません。それでもサラディンがリーダーになっていった理由として、仲間からひたすら尊敬されていたという記述が残っています。
民族で差別しないリーダーシップと寛容さ
サラディンのリーダーシップで楊さんが面白いと挙げるのは、民族への向き合い方です。配下にはアラブ人もトルコ人もいましたが、サラディンはクルド人を特段優遇しなかったといいます。
その結果、後にサラディンが持つ軍隊の内部では、出自にもとづく差別や対立がほとんどなかったそうです。
また、サラディンは軍事力で一気に事を解決せず、まず外交や交渉で解決しようとしました。戦闘そのものに最大の価値を置くのではなく、慎重さで困難に対処する辛抱強さを発揮するリーダーだったと楊さんは説明します。
さらにサラディンは、イスラムで美徳とされる寛容さを体現していたという記述が残っています。楊さんによると、寛容さはサラディン個人の性格というより、イスラムの徳目の一つとして語られるものです。
冷水をかけられても怒らなかった入浴エピソード
サラディンの寛容さを示すエピソードとして、楊さんは入浴の話を紹介します。重い病から回復したサラディンが風呂に入ろうとしたところ、お湯が熱すぎたため、召使いに冷たい水を持ってくるよう頼みました。
召使いは1度目に水をこぼし、2度目にはサラディンの近くで桶を落として、冷たい水をすべてサラディンの体にかけてしまいます。
ちょっと打ち首じゃない?これ。おっちょこちょい。
サラディンは死ぬかと思うほどの思いをしたそうですが、召使いをとがめず、ジョークで済ませたといいます。
いや、ちょっともし俺を殺そうとするなら、あらかじめちょっと知らせてくれよみたいな。それで終わり。
深井さんは、他の王様ならどうしたのか基準がわからないとしつつ、相手が召使いであることが大きいのだろうと話します。楊さんは、信長ならかなり怒っていたのではないかと応じます。
楊さんによると、このエピソードは、権威を振りかざすことを嫌い、部下の失敗にもユーモアで対処したサラディンの寛大さを示すものとして残っています。ただし、どこまで創作が入っているかはわからないとも添えています。
ちょっとブラックジョークなところにこの人の性格出てるよね。
ヌールアッディンに見込まれた側近時代
ここから話はサラディンの政治的な動きへ移ります。暗殺されたザンギーの後を継いだのは、息子のヌールアッディンでした。
楊さんはヌールアッディンを、イスラムの若きホープのような優秀な人物だと紹介します。シリアを統一し、十字軍に対してみんなで一発入れようと声を上げていく動きを見せました。
ヌールアッディンは、セルジューク朝が支配していた都市を自分の支配下に収めようと攻めていきます。その攻めた先にいたのが、セルジューク朝に鞍替えしていたアイユーブでした。
アイユーブはここでヌールアッディンに協力し、城を明け渡して傘下に入ります。つまりアイユーブは、ザンギー朝に入り直したことになります。
裏切りまくってる。
父についていったサラディンは、ヌールアッディンにとても気に入られて出世していきます。土地の徴税権を与えられ、一人前の騎士として公に認められました。
ヌールアッディンは常にサラディンを隣に置いて側近として行動を共にし、十字軍への軍事行動や都市奪還作戦にもサラディンはおそらく参加したとされます。サラディンはこの主君のもとで、戦略上の駆け引き、戦況の判断、軍隊の掌握の仕方を学び、武将としての素養を身につけていったと考えられています。
ファーティマ朝の内紛とエジプト進出
こうした流れの中で、サラディンはエジプトへ進出します。当時エジプトを押さえていたのは、シーア派のイスラム王朝ファーティマ朝 ── 10世紀に北アフリカで興り、のちにカイロを都としたシーア派の王朝。アッバース朝とは別に独自のカリフを立てていましたでした。
ファーティマ朝の内部では権力闘争が起きていて、宰相を務めていたシャワールが敗れてパージされます。シャワールは権力回復のため、ザンギー朝に助けを求めました。
ヌールアッディンにとって、エジプトは豊かで手に入れたい土地です。救援要請を政治介入のチャンスと見ますが、2回ほど失敗したといいます。
シャワールはザンギー朝のおかげで一度は地位を回復しましたが、権力を主張されることを嫌って厄介払いし、エルサレム王国にザンギー朝の人たちを追い払うよう救援を求めるような動きまで見せました。
それでもザンギー朝は最終的にエジプトを取ります。このときの対エジプト作戦のトップはサラディンのおじシールクーフで、サラディンもそれについていきました。ザンギー軍はシャワールを排除し、ファーティマ朝のカリフの支持も得ることに成功します。
おじの急死で転がり込んだ宰相の座
エジプトでは、シールクーフがファーティマ朝の宰相に任じられます。攻めていった先で、そのままポジションをもらったことになります。
ほら、これ重要だ。
ところがシールクーフは、肥満が原因とされる急死を遂げます。誰がファーティマ朝を支配すべきかという議論になったとき、エジプトに残っていたザンギー軍がサラディンを推し、サラディンがファーティマ朝の宰相になりました。
とんでもねえ出世。
楊さんは、この出来事をヌールアッディンの立場から見てほしいと話します。エジプトの実権を握れたと思ったら、送り込んだサラディンがポジションを得て、自分の権力基盤を固めようとしているように映ったからです。
まさか俺が十何年間手をかけてきたサラディンが、なんでエジプトで勝手に役職をもらって独立しようとしてんだっていう風にめちゃくちゃ困惑するんですよ。
楊さんによると、こうした動き自体はイスラムの戦国時代には特別おかしなことではありませんでした。ただ、サラディンは独立した政治勢力を築きたかったのではないかと言われています。
内紛
ファーティマ朝の宰相シャワールが追われ、ザンギー朝に救援を求める
介入
シールクーフ率いるザンギー軍がエジプトに入り、シャワールを排除する
おじの宰相就任
シールクーフがファーティマ朝の宰相に任じられる
急死と推挙
シールクーフが急死し、ザンギー軍がサラディンを推す
宰相サラディン
30代前半でファーティマ朝の宰相になる
実権掌握と、主君の目を気にする建前
サラディンは形式上ファーティマ朝の宰相でしたが、容赦なく実権を掌握していきます。直属の軍団を編成し、ファーティマ朝の残存勢力を徹底的に粛清しました。
反乱や陰謀を仕掛けたファーティマ朝の官僚や軍は摘発され、関係者は処刑され、遺体が広場に晒されることもあったといいます。さらにサラディンは配下の軍の指揮官を行政のポストにつけ、宮廷を掌握していきました。
深井さんが、この時期のサラディンはヌールアッディンにどう接していたのかと尋ねると、楊さんは詳しくは次回としたうえで概要を話します。サラディンは、建前上はあくまでヌールアッディンの配下だというポーズを取り続けたといいます。
彼としては、これ(エジプトでの政権固め)は主君に対する反逆と見なされかねないっていうリスクをものすごく認識してるんですよね。
楊さんによると、サラディンは、このタイミングでヌールアッディンに本気で攻めかかっても無理だろうと認識していたのではないかと言われています。
深井さんは、エジプトは自分が治めるのでヌールアッディンさんのところに反撃がいかないようにする、という理屈も通るように感じると話し、物は言いようだと付け加えます。ファーティマ朝がアッバース朝とは別のカリフを戴く王朝だったことも、状況をややこしくしていました。
深井さんは、力を失ったファーティマ朝も状況を治めてくれる実力者を欲していたのだろうと見ます。楊さんも、状況をコントロールできる実力を持った人たちを求めていたと応じます。
野心か、棚ぼたか。30代前半の大出世
深井さんは、宰相就任までのサラディンの動きをやや受動的だと見ています。おじのシールクーフが引き受け、すぐに亡くなり、部下たちに推されて引き受けたという流れだからです。
一方で楊さんは、エジプトの豊かさにも触れます。土地面積あたりの税収がザンギー朝の押さえていた領域の1.5倍ぐらいあったとされ、サラディンがその勝算を把握していた可能性もあると話します。
深井さんは、サラディンが究極的にはザンギー朝を倒せるかもしれないと考えていた可能性もあると推測します。ただし2人とも、そこはわからないとしています。
深井さんの見立てでは、サラディンの宰相就任は棚ぼた感があり、活躍で勝ち取った地位ではないものの人徳はあったということになります。ザンギー朝の一武将からいきなりファーティマ朝宰相へという、30代前半での大出世でした。今後サラディンがどうなっていくのかは、次回に続きます。
まとめ
今回のエピソードでは、英雄視されすぎたサラディンの実像と、生まれた日の一族追放からファーティマ朝宰相に至るまでの紆余曲折が語られました。忍耐強く寛容な人柄と、父アイユーブの判断や周囲の偶然が重なった出世の流れが見えてきます。
- サラディンは華奢で物憂げ、忍耐強く寛容な人物として伝えられ、家康にも重ねられる我慢強い英雄像が語られた
- 生まれた日におじシールクーフの事件で一族が追放されたが、父アイユーブが6年前にザンギーを助けた恩で救われた
- 30歳まで無名だったが、人望が厚く、民族で差別せず交渉を優先するリーダーだったとされる
- おじの急死を受けてザンギー軍に推され、30代前半でファーティマ朝の宰相になった
- 実権を徹底的に掌握しつつ、主君ヌールアッディンには建前上の臣従を続けた





