ザンギーはなぜ十字軍国家を切り崩せたのか
第1回十字軍は、西ヨーロッパ側から見れば大成功でした。聖地エルサレムを奪われたイスラーム側にとっては衝撃で、もともと分裂していたイスラーム世界にも、1130年代ごろから十字軍を共通の敵とみなす意識が少しずつ生まれたと深井さんは説明します。
イスラーム側でも、古くからあったジハード ── アラビア語で「努力・奮闘」を意味する語。文脈によって信仰のための内面的努力から、共同体を守る戦いまで幅広い意味で使われます、つまり聖戦の思想を思想家たちが掘り起こし始めます。ただし深井さんは、みんなが一斉に盛り上がったわけではなく、そうした言説が出てきた段階だったと補足しています。
その中で頭角を現したのが、ザンギー朝を開いたザンギーです。ザンギーは第1回十字軍で奪われた土地を少しずつ取り返していきますが、その動機は宗教的な使命感よりも、自分の力を示したいという栄達欲だったといいます。
戦国武将みたいな。
(ザンギーは)ほんとシンプル戦国武将ムーブしてて。
ザンギー朝の立ち位置は少し入り組んでいます。アッバース朝の配下にセルジューク朝があり、さらにその配下にザンギー朝があるという入れ子構造です。ザンギーはこの中でアレッポへ勢力を広げ、ダマスカスを目指して進んでいきます。
同じころ、十字軍国家の側にも変化がありました。十字軍の人々はビザンツ帝国に土地を返す約束を破って自分たちの国を作っていましたが、現地で独立した国家を運営するのは非常に難しく、次第にビザンツ帝国の援助に頼るようになります。アンティオキアなどは、こうしてビザンツ帝国の配下に入っていきました。
決定的だったのは、十字軍国家の中で最初に作られたエデッサ伯国 ── 第1回十字軍の過程で1098年ごろに成立した十字軍国家。現在のトルコ南東部を中心とし、十字軍国家の中で最も内陸に位置していましたをザンギーが落としたことです。これを知った西ヨーロッパの人々は慌て、もう一度十字軍を起こさなければという流れになります。
エルサレム喪失
第1回十字軍でイスラーム側に十字軍を敵とみなす意識が生まれる
ザンギーの台頭
奪われた土地を少しずつ取り返し、アレッポからダマスカスへ迫る
エデッサ陥落
最初の十字軍国家がザンギーに落とされる
第2回十字軍
西ヨーロッパが危機感を抱き、再び軍を送る
余談として深井さんは、エデッサ征服後のザンギーのふるまいにも触れています。ザンギーは始まってしまった略奪や殺人を止め、住民に財産を返し、教会の扱いは同じキリスト教徒のビザンツ帝国に任せたそうです。
ザンギーは別にこう、宗教戦争やってる感覚ではなくて、もう浄化しなくても別にいいんだよね。
ザンギー、ヌール・アッディーン、サラディンは信長・秀吉・家康?
エデッサ陥落からわずか2年後、ザンギーは暗殺されます。後を継いだのは息子のヌール・アッディーンでした。
深井さんは、ザンギー、ヌール・アッディーン、サラフ・アッ・ディーン(サラディン)の3人は覚えておくとよいと勧め、語弊を恐れずに例えるなら信長・秀吉・家康のような関係だと説明します。
家康がサラディンで、信長に当たる人がこのザンギーみたいな。切り開きますみたいな。
性格も少し似ているそうです。ザンギーは戦士タイプで、教養よりも戦争の強さが際立つ人物でした。一方のヌール・アッディーンはイスラームやイスラーム法への理解が深く、人徳のあるタイプだったといいます。
| 人物 | 日本の例え | 特徴 |
|---|---|---|
| ザンギー | 織田信長 | 戦士タイプで道を切り開く第1世代 |
| ヌール・アッディーン | 豊臣秀吉 | イスラーム法に通じ人徳がある第2世代 |
| サラディン | 徳川家康 | エルサレムを奪還する第3世代 |
代替わりには反乱がつきものですが、ヌール・アッディーンはそれらを次々と鎮め、シリアを統一します。深井さんはこれを、日本の戦国時代でいえば伊達政宗が東北をまとめたくらいの感覚だと例えました。
ただ楊さんは、コテンラジオでは伊達政宗を扱っていないのでピンとこないと返し、スタジオには笑いが起きています。ヌール・アッディーンの見た目については、背が高く日に焼けていて、額が広く、目が爛々と輝いていたと伝わっているそうです。
第2回十字軍は道中でほぼ終わっていた
エデッサ陥落の知らせを受けた西ヨーロッパでは、修道士の聖ベルナール ── クレルヴォーのベルナルドゥス。12世紀フランスの修道士で、シトー会の発展に大きく寄与し、第2回十字軍の勧説で知られますが十字軍を提唱します。フランス国王ルイ7世と、神聖ローマ皇帝のコンラート3世が軍を組織し、1147年に第2回十字軍が出発しました。
深井さんが注目するのは、第1回のころは教皇とバチバチにやり合っていたドイツ皇帝が、今回は十字軍に参加している点です。旗色が変わってきていることがうかがえます。
しかし第2回十字軍は散々な結果になります。神聖ローマ皇帝の軍は小アジアを通る途中でほぼ全滅し、フランス軍も度重なる攻撃を受けました。
ムスリム側も、進軍の途中で攻撃するという戦略をとっていたと考えられます。長い距離を鎧を携えて歩き続ける中で襲われれば、ひとたまりもありません。第2回十字軍は何もできずに大失敗に終わりました。
もう道中でサクッと終わっちゃうんですね。
この後、ヌール・アッディーンとサラディンが巻き返し、サラディンの代でエルサレムを奪還したことで第3回十字軍が起こります。深井さんは、そのサラディンと第3回十字軍の激突こそが本当に話したかった内容だと明かし、その前にサラディンの時代のイスラーム社会を説明すると宣言します。
イスラーム世界はなぜ分裂し続けたのか
ここからは、サラディンが生きたイスラーム世界の背景説明に入ります。サラディンは対十字軍の組織的抵抗の第3世代にあたり、第1世代がザンギー、第2世代がヌール・アッディーンという位置づけです。
イスラーム世界は、7世紀にアラビアでムハンマドがイスラーム教を開いて以来広がり続けましたが、ムハンマドから100年ほど経ったころから分裂し、内戦や分派が起きていきます。スンニ派とシーア派の分裂もその一つです。
分裂の原因として最も重要なのは後継者問題でした。ムハンマドは後継者を決めるロジックを作らないまま亡くなったため、誰がどういう理屈で共同体を継ぐのかが争いの発端になります。
もう一つの原因は富の分配です。征服地から莫大な戦利品や税収が入るようになり、宗教的な努力が現金に転換されることをムスリム自身が発見したと語られます。
国家が富の集積マシンになってしまったっていうことを、彼らもびっくりしたと思うんですよね。
富が集まると、誰が分配権を握るのかという問題が生じます。共同体への貢献、古参か新参か、ムハンマドとの血縁の近さ、アラブ人か非アラブ人かといった基準が持ち込まれ、特権階級とそうでない階級が生まれていきました。
征服の拡大
戦利品や税収が大量に流れ込む
分配の必要
誰が分配権を持つかが論点になる
基準の導入
貢献・古参新参・血縁・民族で差がつく
対立の発生
特権階級が生まれ、反体制運動が起きる
深井さんは、ムハンマドが神の前での平等を説き、本人も質素に暮らしていたことを指摘します。国家が大きくなるほど上層部が富み、民衆からは教えと違うと見られて求心力を失う。強くなったのに自壊していくという現象がイスラーム帝国ではたびたび起きたといいます。
さらに、イスラーム教がトルコ人などさまざまな民族に広がると、各民族が自らイスラーム王朝を建てるようになります。セルジューク朝はその例です。
文化の中心にいる民族みたいなのが、優秀な異民族を雇っていって乗っ取られるっていうやつですよね。
深井さんは、ローマ帝国とゲルマン人、アラブ人とトルコ人、そして中国にも同じ構図があると話します。大企業がベンチャー出身の優秀な人材を雇い、やがて乗っ取られる可能性にも例え、樋口さんが「聞いてますか?大企業のみなさん」と応じています。
カリフが3人いた時代、権威はどう使われたのか
イスラーム共同体の象徴であるカリフは、本来1人でなければなりません。ところが一時期、カリフが3人並び立つ事態が起きます。樋口さんは、誤解を恐れずに言えば天皇が3人出てくるような異常事態だと例えました。サラディンはまさに、そのカリフが3人いる時代に生まれています。
ここで押さえるべき点は、カリフは実際の権力を失っても、権威は保っていたことです。各地に政権を樹立した勢力は、まずカリフから支配の正当性を承認してもらうのが慣例でした。日本で武士が天皇の権威を利用したのと似た構図だと説明されます。
地方の君主たちがアッバース朝のカリフがいるバグダッドを目指したのも、そのためでした。日本でいう「京に上る」に近い表現が、イスラームの世界にもあるそうです。
カリフの承認は、地元のムスリムを納得させるためにも欠かせませんでした。新しい権力者が来ると、住民は何の正当性で治めるのかと問います。そこで権力者は、自分の名を刻んだ貨幣を鋳造する権利や、礼拝の説教で自分の名を唱えさせる権利をカリフから委任してもらったのです。
じゃないと、現地のムスリムからしたら、あんた誰?みたいな。
この関係はカリフにとっても悪くありませんでした。権力が落ちていく中で、地方勢力の支配を承認することで、かろうじて自分の存在意義を保てたからです。
カリフの承認を得て、貨幣鋳造や説教での名前の読み上げで住民に正当性を示す
地方の支配を承認することで、失われゆく存在意義をかろうじて維持する
この話をした理由は、のちに登場するサラディンもカリフに非常に気を使い、承認を得て権力基盤を固めようとするからだと説明されます。
深井さんは、権威と権力が分離したときの構図は人類共通だと語ります。幕府と朝廷の関係や、周王の権威だけが残り群雄が割拠した中国の春秋戦国時代にも近く、セルジューク朝は戦国七雄の一つのような立場だったといいます。
なんかだから誰が誰を統治するかみたいなのに、全部理由が必要なんですね、人間って。
権力者がいなくても社会が回る?イスラームの統治観
樋口さんは、ムスリム社会が新しい権力者を迎えるとき、へりくだる感じではないことに注目します。イスラームは理念だけでなく、生活や社会の仕組みのフォーマットまで一式そろった宗教だからです。
極端にいえば、ムスリムがコーラン ── イスラーム教の聖典。神がムハンマドに下した啓示をまとめたものとされますやハディース ── 預言者ムハンマドの言行を伝える伝承の記録。コーランに次ぐ重要な規範の源とされますに従って暮らせば、社会は自律的に回ります。権力者が必要になるのは、ルールを破る人への治安維持と、共同体を守る安全保障の場面だといいます。
あ、来たね、権力者。で、どうだ、うち(我々)に対して安全を保証してくれるの?信仰を保証してくれるの?
深井さんが非中央集権的な組織のようだと驚くと、樋口さんは、特にアッバース朝の初期はルールとしては中央集権的だったと応じます。そのうえで、イスラーム法を守らせる環境を整えることが為政者の徳目であり、私物化すると統治の理由を説明できなくなると語られました。地域や時代による違いはあるものの、通底する考え方だとされています。
黄金時代のアッバース朝は何を築き、なぜ崩れたか
ここからはサラディンの説明に関わる3つの王朝の紹介です。最初はアッバース朝で、イスラーム世界をほぼ統一するほどの広大な領域を持ち、イスラームの黄金時代と呼ばれた王朝です。
アッバース朝は官僚制で地方まで統治し、哲学、医学、数学、芸術、建築学などの知識が集まる場所でした。深井さんは、ディズニーの『アラジン』や千夜一夜物語 ── 中東各地の説話を集めた物語集。アラビアンナイトとも呼ばれ、アッバース朝期のバグダッドを舞台にした話も多く含まれますのイメージもこの時代と重なると添えています。
アッバース朝の首都はバグダッドで、ここではカリフの権威が大きく高められました。多民族国家を統治する象徴として、カリフを強調したのです。
具体的には、カリフの住む区域だけを城壁で囲んで俗世と切り離し、中央官庁や官僚を置いて特別な場所として演出しました。官僚たちが共同体ではなく、カリフ個人に忠誠を誓う個人崇拝も生まれていきます。
しかしアッバース朝も9世紀半ばから分裂時代に入ります。領土が広すぎて地方の支配が弱まり、後継者争いで追われた者や、地方を任された総督が独立政権を建てるようになりました。樋口さんは唐と同じような統治の限界だと例えています。
官僚制で地方まで統治し、カリフの権威を高めた黄金時代
各地で税・軍隊・交易路を握る独立王朝が現れ、カリフは傀儡化される
深井さんは、軍隊を独自に動かし世襲で引き継げる統治者が各地に現れた状態を分裂と整理します。カリフの権限が下がった結果、自らカリフを名乗る者も抑えられず、3人のカリフが並ぶ事態になったのです。
セルジューク朝はなぜ実力主義で割れたのか
アッバース朝に代わってイスラーム世界の中心になったのがセルジューク朝です。イスラーム教を受け入れたトルコ系の人々が建てた最初の本格的なイスラーム王朝で、ルーツは騎馬遊牧民にあります。樋口さんは、現代のトルコ人とは概念が大きく違う点に注意を促しています。
セルジューク朝はアッバース朝のカリフを傀儡化し、カリフからスルタン ── 王や支配者を意味する称号。セルジューク朝以降、スンニ派の王朝で世俗的・軍事的な権力者の称号として定着しましたの称号を授けられます。さらに、カリフの血筋と政略結婚で親戚関係を結ぶという前例のない手も使いました。
藤原氏とかと一緒だよね。でもカリフがやっぱりムハンマドの血族しかなれないんだよね。
深井さんは、トルコ人はカリフになれないからこそスルタンとして近づきたかったのだろうと推し量ります。アッバース朝もセルジューク朝もスンニ派で、ムハンマドの血筋よりも、残した行動や規律を重んじる宗派だと補足されました。
そのセルジューク朝も、スルタンや名宰相ニザーム・アル・ムルク ── セルジューク朝の宰相。行政制度を整え、学院を各地に設立したことで知られ、1092年に暗殺されましたの死をきっかけに権力闘争が起こり、分裂していきます。
樋口さんが挙げる面白い理由は、遊牧民ゆずりの実力主義です。後継者を決めるロジックが原則なく、強い者が勝つため、争いが絶えなかったのです。深井さんも「どっちが強い?よっしゃ、相撲取ろうみたいな」と笑います。
このセルジューク朝で武将を務め、そこから独立して王朝を開いたのがザンギーでした。
カリフを公然と名乗ったファーティマ朝
3つ目はファーティマ朝です。エジプトを押さえたシーア派の王朝で、アッバース朝のカリフに対抗して自らカリフを名乗り、公然とその権威に挑戦しました。
ほかの王朝は、実質的に独立していても、建前上はアッバース朝カリフの宗主権を認めていました。ファーティマ朝はその建前すら取らなかった点が異質です。
急にそれ(カリフ)言えるのなんなんやろな。軽々にね。
ファーティマ朝の繁栄を支えたのはエジプトの豊かさです。水も食料も人口もあり、大きな税収が得られました。ファーティマ朝はセルジューク朝と対立し、その中でビザンツ帝国と同盟を結び、その流れで十字軍が招かれることになります。
| 王朝 | 特徴 | その後 |
|---|---|---|
| アッバース朝 | アラブ人の王朝でカリフがバグダッドにいる黄金時代 | 分裂し、カリフは傀儡化される |
| セルジューク朝 | トルコ系遊牧民の王朝でスルタンを名乗る | 実力主義の権力闘争で分裂する |
| ファーティマ朝 | エジプトを押さえたシーア派で自らカリフを名乗る | 衰退し、のちにサラディンに滅ぼされる |
樋口さんは、サラディンがこのファーティマ朝を滅ぼし、エジプトの財力を足がかりに対十字軍の抵抗を展開していくと予告しています。
戦国時代のイスラームと3つの文化圏
深井さんは、この時代のイスラーム世界を日本の戦国時代に重ねます。カリフが天皇、スルタンが将軍にあたり、どちらにも権威しか残っていないため、有力者たちが言うことを聞かずに割拠している状態です。
城や都市を押さえる有力者のアミール ── アラビア語で「指揮官」「総督」を意味する称号。地方の軍事・行政を担う有力者を指して使われましたは、守護や地頭のような存在だといいます。そしてザンギー、ヌール・アッディーン、サラディンは、織田信長、毛利元就、伊達政宗のような立場で登場してきたのです。
カリフはアッバース朝とファーティマ朝に加え、北アフリカやスペインに逃れたウマイヤ朝も名乗っていたため、3人並ぶ状態でした。それぞれが実力社会で争っている最中に十字軍が来たため、イスラーム側は迎撃態勢を取れず、最初の一撃を受けてしまったと説明されます。
視点を世界史全体に広げると、十字軍の時代にはイスラーム世界、ビザンツ帝国の東ローマ世界、そしてカール大帝のころから再び形になった西ヨーロッパ世界という3つの文化圏がそろっていました。
(イスラームは)一番強いけど一番まとまりがないみたいな感じなんですよ。
深井さんと樋口さんは、日本史で例えるのは本来よくない手法だと断りつつ、セルジューク朝は鎌倉幕府、スルタンは征夷大将軍のようなものだと導入の手がかりを示しました。こうして時代背景の説明が終わり、いよいよ次回からサラディンが登場します。
まとめ
今回は、ザンギー親子の反撃と第2回十字軍の失敗を経て、サラディン登場前のイスラーム世界がどれほど分裂していたかが整理された回でした。権威を持つカリフと実力で割拠する地方勢力が支え合う構図が、次回以降のサラディンの行動を読み解く鍵になります。
- ザンギーはエデッサ伯国を落とし、第2回十字軍の引き金となった
- 第2回十字軍は道中で大損害を受け、何もできずに失敗した
- 後継者問題と富の分配がイスラーム世界の分裂を生み、カリフは3人並び立った
- 権力を失ったカリフと地方権力者は、承認を通じて相互に依存していた
- アッバース朝・セルジューク朝・ファーティマ朝の3王朝がサラディンの時代背景になる





