インダス文明は本当に突然現れたのか
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ムガル帝国編の第2回は、インド周辺で暮らし始めた人々の狩猟採集の時代から話が始まります。深井さんは、石器時代の話だとして駆け足で流れを追っていきます。
インドの人々はやがて穀物を栽培し、磨製石器や土器を作り、家畜を育てて家を建てて定住するようになります。この生活が始まったのは紀元前7000年から紀元前6000年頃、今から9000年ほど前とされています。
その後、金属と石を併用する青銅器の時代が来て、人々は土偶やハンコを作っていました。これらの遺跡は紀元前2000年頃に放棄され、別の場所で高度なインダス文明が起こったように見えるといいます。
(インダス文明は)なんでかよくわかってない。新石器時代みたいな暮らしをしてたところから、急にインダス文明っていう高度な文明がボンって出てくる、ちょっと別の場所で、みたいな。
インダス文明は紀元前2600年から紀元前2500年の間に成立し、700年ほど続いたとされます。遺跡は東京から岡山ぐらいの距離の間に点在し、共通する信仰があることから1つの文明圏と考えられていますが、必ずしもはっきりしないそうです。
当時はインダス川とガッガル・ハークラー川 ── インド北西部からパキスタンにかけて流れる川。現在は季節河川で、古代の大河だったとする説がありますが並行して流れ、その間で文明が発展しました。現在のガッガル・ハークラー川は、モンスーンの雨季にだけ復活するといいます。
インダス文明の突然の出現について、深井さんは実際には突然ではなかった可能性を紹介します。文明成立以前から麦作農耕社会が少しずつ育ち、6000年ほど前の段階ですでにメソポタミアと交易していたと考えられています。
楊さんによれば、メソポタミア初期のシュメール文明と交渉があったらしいものの、そのくらいの大まかなことしかわかっていないそうです。頭から角や植物を生やした人物の線刻画も文明以前から見られ、共通の信仰がインダス文明に引き継がれたとされます。
計画都市モヘンジョダロと、水を溜める人々
インダス文明で最も有名な遺跡がモヘンジョダロです。広さは80ヘクタール、東京ドームに換算して17個分ほどあり、樋口さんは当時作ったと考えると相当大きいと驚きます。
モヘンジョダロで重要なのは、最初から設計図があった計画都市だという点です。城塞部には大沐浴場、学問所、会議用広間、大型の建物があり、行政センターのような役割があったらしいといいます。
モヘンジョダロの市街地には幅9メートルの大通りがあり、中小の通りで碁盤の目状に区画され、通りには排水溝が配されていました。推定人口は最大で3万から4万人で、数十室の大家屋から数室の長屋まであったことから、貧富の差もうかがえます。
大沐浴場について、深井さんは今もインドの人々がガンジス川で沐浴することと結びつけます。楊さんも宗教行為だろうと添えています。
風呂というかさ、今でもガンジス川で沐浴するじゃん、インドの方って。(沐浴は)この時からしてるってことです、本当に。
大沐浴場はレンガ張りで、長さ12メートル、幅7メートル、深さ2.4メートルです。ほかにもドーラビーラには巨大な貯水槽、ロータルにはドックと呼ばれるプール状の施設があり、深井さんは「水溜めがち」と表現しています。
一方で楊さんは、これだけの計画都市なら強い中央集権があったと思われるのに、神殿や宮殿のような痕跡は見つかっていないと指摘します。用途のはっきりしない大きな建物はあるものの、何に使ったのかはわかっていません。
インダス文字も象形文字であることはわかっていますが、解読されていません。最近はコンピューター解析で、南インドの人々の言葉であるドラビダ系 ── 南インドを中心に話される語族。タミル語やテルグ語などが含まれ、インド・ヨーロッパ語族とは系統が異なりますの言語だとわかったらしいと紹介されます。
番組では、魚の線画が入ったインダス文明の器や、頭に器を載せた牛のような置物の写真を見ながら、3人で可愛いと盛り上がります。楊さんは、福岡市美術館で似たデザインのグッズが売られているのを見たことがあるそうです。
インダス文明はなぜ滅びたのか
文字も解明されていないインダス文明ですが、ある時期に都市が完全に活動を停止したことはわかっています。かつてはアーリア人の来襲で滅ぼされたという説がありましたが、最近の研究では、アーリア人が来たのは滅びた後だとわかってきたといいます。
インダス文明の衰退がわかる手がかりは、遺跡の使われ方の変化です。モヘンジョダロでは城壁の内部に粗末な家が建てられ、城が城として使われていなかったことがわかります。
(城壁の内部に家を建てたのは)廃墟に建てたみたいな感じ。
ロータルのドックは洪水で埋まったまま放棄され、門も入り口の機能を失っていました。深井さんは、こうした状態から、この時期にはもう使われていなかったことが考古学でわかったのだろうと話します。
衰退の理由として考えられているのは川の変化です。インダス川で洪水が頻発して本流の経路が変わり、ガッガル・ハークラー川も干上がったため、大規模な農業も川を使った交易もできなくなりました。
洪水の頻発
インダス川で洪水が相次ぐ
川の変化
本流の経路が変わり、ガッガル・ハークラー川が干上がる
生活基盤の喪失
大規模な農業と川を使った交易ができなくなる
移動
人々が都市を離れて移動したと考えられる
樋口さんは仮説として納得感があると認めつつ、「宇宙人じゃない?」と冗談を飛ばし、深井さんに根拠がないと突っ込まれます。わからないことが多いからこそロマンがある、というのがこのパートの空気です。
アーリア人はどこから来て何を残したのか
インド史で非常に重要なのが、インダス文明が滅びた後のアーリア人の来訪です。この後、ヴェーダの時代と呼ばれるアーリア人の時代が長く続きます。
アーリア人は元々、黒海とカスピ海の間、現在のジョージアやアゼルバイジャンのあたりのポントス・カスピ海草原 ── 黒海北岸からカスピ海にかけて広がる草原地帯。古くから遊牧民が行き交い、インド・ヨーロッパ語族の故地とする説が有力ですにいた遊牧民族でした。彼らが馬に二輪馬車、つまりチャリオット ── 馬に引かせる二輪の戦車。古代の各地で戦争や移動に使われ、機動力で大きな優位をもたらしましたを引かせるようになると、行動範囲が一気に広がります。
アーリア人は西のヨーロッパ方面にも、東のイランやインド方面にも伸びていきました。紀元前2000年頃に活動を始めた時点ではインダス文明はまだ残っていましたが、部族ごとに段階的にインドへ入ってきた頃には、文明はもう滅びていたことになります。
インドは山脈で囲まれ、陸路で入れるのは北西のパンジャーブ地方あたりだけです。アーリア人はそこから波状的に何度かに分けて入り、まずパンジャーブ地方に定住しました。
アーリア人は背が高く色が白く、鼻がまっすぐ長かったといわれます。イランに行ってペルシア人の祖先になった人々と、インドに入ってインド人の祖先になった人々に分かれ、現在の北部インドの人々にもアーリア人の血が混じっているそうです。
アーリアの語源は「部族に属する人の土地」という意味で、これがイランの語源にもなっています。ただしどちらの地域でも血が混じりまくったため、同一の祖先という意味はほとんどなくなっていると深井さんは話します。
楊さんは、アーリア人が歴史で大きな役割を果たした点を強調します。ペルシア文化とインド文化という2つの重要な文化を築いたのが、アーリア人と呼ばれる人々だったからです。
リグ・ヴェーダを生んだアーリア人の社会
アーリア人が作ったのが、教科書にも出てくるリグ・ヴェーダ ── 古代インド最古の聖典で、神々への賛歌を集めたもの。長く口頭で伝えられ、バラモン教の根本聖典となりましたです。今から3500年前から3000年前の間に成立したとされ、神々への賛歌を集めたものだといいます。
リグ・ヴェーダを持つ社会には、ラージャンと呼ばれる首長がいました。深井さんは、インドのラジャスタン地域やマハラジャの「ラジャ」もここから来ているのではないかと話しています。
| 呼び名 | 役割 | ラージャンとの関係 |
|---|---|---|
| ラージャン | 首長 | 社会を率いる |
| ビシュ | 農耕や牧畜を担う生産者 | 生産物を貢納する |
| ラージャニャ | 戦士 | ビシュを守り、他部族の家畜を略奪する |
| プローヒタ | 司祭 | ラージャンと戦勝祈願などを行う |
ラージャンは戦士を率いて他部族から略奪し、祭祀も行っていました。その祭祀で神々を讃える言葉が、リグ・ヴェーダです。
アーリア人がやって来た土地には、インダス文明の末裔とみられる人々がいました。リグ・ヴェーダには色が黒く鼻が低い人々として登場し、ダーサやダスユと呼ばれています。楊さんによれば、アーリア人の神々を崇拝しない人々です。
ダーサやダスユは、プルと呼ばれる柵を作って戦っていました。深井さんは、アーリア人が馬車で突っ込んでくるのを柵で防いでいたのだろうと推測しています。
ダーサやダスユは次第に征服され、従属的な生産者として取り込まれていきます。ヴェーダの宗教を取り入れて首長になる人もいましたが、アーリア人は基本的に彼らをかなり差別していたといい、これが後のカーストにつながっていきます。
アーリア人の部族が次々と土着すると、今度はアーリア人同士が争い始めます。その中から、中国でいう皇帝のような「ラージャンの中のラージャン」が出てきます。
部族同士の争い
土着したアーリア人の部族が争い、王の王が現れる
権威の必要
特別な王であることを示すため、祭祀が精緻化する
司祭の組織化
複雑な儀式に対応するため、プローヒタが組織化される
バラモン教の成立
即位式ラージャスーヤなどの王権儀礼から、バラモン教が生まれる
これ面白いな。(祭祀は)権威を示すためにやったんや。
ブッダが生きた社会の宗教であるバラモン教は、この流れの中から生まれ、後にヒンドゥー教へつながっていきます。深井さんは、ヴェーダの宗教を理解するうえで重要なのは、宗教儀礼を非常にきちんと行っていた点だと強調します。
発した言葉は実現するという「サティヤ」の感覚
深井さんが最も重要なポイントとして挙げるのが、アーリア人が当然の前提として持っていた生活感覚です。それは、発せられた言葉が実現する力を持つという感覚でした。
アーリア人は宗教儀礼の中でもこの感覚を重視し、間違えずに唱えれば言葉が実現すると考えていました。樋口さんは日本の言霊にたとえ、深井さんは受験生に「落ちる」と言ってはいけない感覚を例に挙げます。
滑るとか落ちるとか言うと実現しちゃったら嫌だから怖いみたいなやつ(感覚)がめっちゃ濃厚に持ってる人たちみたいな。
語法、文体、意味などが正しく発せられると、その内容は実現する力を持つ。この感覚をサティヤ ── サンスクリット語で「真実」を意味する言葉。ガンディーの非暴力運動を表すサティヤーグラハ(真理の把握)にも含まれていますと呼びます。
樋口さんがガンディーのサティヤーグラハに気づくと、深井さんは、ガンディーが言ったことを徹底して守ろうとしたのも、この時のアーリア人の感覚がインドにずっと続いているからだと話します。
深井さんによれば、ジャイナ教や仏教の戒律を非常に厳しく守る姿勢にもつながっているのではないか、と指摘する学者もいるそうです。この感覚はアーリア人に共通するもので、インダス文明の末裔であるダーサはおそらく持っていなかったといいます。
カーストの原型はどう形づくられたのか
王権が大きくなり祭祀が重要になると、司祭の組織の地位が上がり、それにつられて戦士階級ラージャニャの地位も上がっていきます。こうして支配階層ができあがり、生産階層ビシュとの間に隔たりが生まれました。
ビシュは後にカーストでいうバイシャになり、そのさらに下にシュードラ ── カースト制度の4つのヴァルナのうち最下層。古代ではヴェーダを学ぶことが許されない隷属階層とされましたが現れます。シュードラは、征服されたダーサやダスユ、つまりヴェーダの宗教を信奉していない人々でした。
アーリア人にとってヴェーダの宗教は極めて大事で、それを学ぶ機会があるのはバイシャ以上の人々でした。学ぶことさえできないシュードラとの間には、決定的な違いがあると考えられていたといいます。
ただし深井さんは、こうした区別はこの段階ではバラモンがそう考えていただけだと付け加えます。楊さんも、今の人権感覚に結びつけて批判したいのではなく、当時の社会構造をフラットに理解したいのだと断っています。
四大ヴェーダと、文字より正確な口伝
祭りで決まった神に決まった言葉を唱えることが大事な社会では、その言葉を集めたリグ・ヴェーダに続いて、ほかのヴェーダも生まれました。
| 名前 | 内容 | 番組での説明 |
|---|---|---|
| リグ・ヴェーダ | 神々への賛歌集 | 祭祀で唱える言葉を集めたもの |
| サーマ・ヴェーダ | リグ・ヴェーダに節をつけたもの | 天台声明にとても似ているらしい |
| ヤジュル・ヴェーダ | 祭詞集 | 祭りを執行するときのシナリオ |
| アタルヴァ・ヴェーダ | 呪文集 | 何を発するとよいかをまとめたもの |
深井さんはYouTubeで天台声明を見て、お経というより合唱のようだと感じたそうです。ヤジュル・ヴェーダについては、正しい順番で正しく発すれば実現すると考えていたからこそシナリオが大事だったと話し、楊さんはプログラミング言語のようだとたとえます。
四大ヴェーダを補うものとして、ブラーフマナ文献、アーラニヤカ文献、そして後のインド哲学につながるウパニシャッド文献があります。驚くことに、これらはごく最近までずっと口伝で伝えられていました。
あのね、文字あるんですよ。口伝の方が正確なんだって。
深井さんが紹介したのは、20年ほど前の調査です。地域ごとに伝わる膨大な聖典を比べたところ、口伝ではほぼ違いがなく、文献で残ったもののほうがずっと揺れていたといいます。
地域ごとの違いがほぼゼロ。音で記憶するのが一番揺れないらしい
表記揺れが多く、解釈の多様性を許してしまう
楊さんは、文字で残すとかえって解釈の多様性を許してしまうのだろうと受け止めます。コーランの暗唱も同じだと話が広がり、深井さんは、インドでは今も初等教育で教科書を丸暗記する人がいるほど暗唱を重視していると紹介します。
暗記と想像力が、やがてインド哲学を生む
樋口さんは、九九の話を思い出します。日本人の多くは9×9まで暗記している一方、アメリカのように暗記しない国もあり、インドでは2桁同士まで覚えるといわれます。
やっぱりその身体的なところで世界を解釈する構造がインストールされてるから、多分見えてる世界が九九しかできない人と二桁三桁ぐらいできる人とで、多分世界の見え方が解像度がなんか違うんじゃないかな。
深井さんが本で読んで面白かったのは、古代インドの時点で10の何乗という大きな数まで言葉で数えられたことです。ローマでは1万程度までしかなかったといい、5万人の軍隊はあり得ても、10の10何乗を数える場面は生活の中にないと話します。
インドの想像力の大きさは神話にも表れます。日本のヤマタノオロチの頭は8つですが、インド神話には1000の頭と1000の腕を持つ存在が出てきます。
八個(の頭)だったらさ、イメージできるじゃん、絵にも描けるし。でも千はさ、絵に描けないじゃん、もう。でもそれを想像してんだよね。
楊さんは、想像力を限界まで突き詰めた結果かもしれないし、数を積み上げられることは当時の社会の多様性の反映かもしれないと話します。深井さんは、インドのITの強さにもつながっているのではないかと考えています。
次回の予告として、深井さんはアーリア人が人造言語としてサンスクリット語を作ったことに触れます。ある学者は、サンスクリット語が2500年間ほとんど変わっていないと言っているそうです。
サンスクリット語が変わらない理由も、正しく発すれば世界がそうなると信じていたからです。言葉に異常なほど厳密な人々がサンスクリット語で哲学をした結果、ブッダへつながるインド哲学が生まれていきます。
楊さんは、仏教、ジャイナ教、シク教、ヒンドゥー教がすべてここから出ていると補足します。樋口さんは、人間の知能は語彙力に大きく左右されるという話を聞いたことがあると振り返り、言葉の重要性に納得した様子で次回への期待を語りました。
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まとめ
今回のエピソードは、謎の多いインダス文明から始まり、アーリア人がもたらした「言葉が実現する」という感覚が、ヴェーダ、バラモン教、カーストの原型、そして次回のインド哲学へとつながる流れを描いています。
- インダス文明は、以前からの麦作農耕社会を土台に成立した計画都市の文明で、川の変化によって衰退したと考えられている
- アーリア人はインダス文明が滅びた後に北西から段階的に入り、ペルシア文化とインド文化の担い手になった
- 王の権威を示す祭祀の精緻化からバラモン教が生まれ、ヴェーダを学べるかどうかがカーストの原型につながった
- 正しく唱えた言葉は実現するというサティヤの感覚が、口伝の正確さやサンスクリット語の厳密さを支えた
- 暗記の文化と巨大な数への想像力が、インド哲学を生む土壌として語られている







