生贄を捧げて壊す、ヴェーダの祭祀とは?
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深井さんはまず、アーリア人が信奉したヴェーダ ── 古代インドのアーリア人が伝えた宗教文献の総称。最古の『リグ・ヴェーダ』は神々への賛歌を集めたものですの宗教から話を始めます。ヴェーダという言葉は「知ること」を意味し、宗教の基本も「知ろうとすること」にあったといいます。
ヴェーダの宗教で重視された祭祀は、基本的に生贄を捧げる犠牲祭です。祭祀は前祭・本祭・後祭の3つのフェーズに分かれていました。
本祭で生贄を火にくべる儀式はホーマ ── ヴェーダの祭祀で供物を火に投じる儀式。漢訳されて「護摩」となり、密教の護摩焚きに受け継がれましたと呼ばれ、密教の護摩の語源になっています。祭火そのものは火の神アグニで、アグニが供物をくわえて上空の神に届け、その見返りに主催者の願いが叶うと考えられていました。
深井さんによれば、アグニはラテン語のイグニスにあたり、エンジンの点火を意味するイグニッションの語源でもあります。サンスクリット語の元になった言葉を話す人々がラテン語にも影響を与えたため、こうした共通点が見られるのだといいます。
おもろ。あれ(エンジン)神様でかけてたんや。
祭祀の最後に祭壇を壊す理由について、深井さんは遊牧民だった頃の名残だと説明します。アーリア人はすでに定住していたのに、恒久的な祭場を作らなかったそうです。
祭壇って作ったら壊すよねって思ってるからでしょうね。
樋口さんは、自身が読んだ本の説明として、祭祀の目的は死後に天界へ再生し、神々と同じ世界で暮らすことだったと補足します。祭祀を行えるのはバラモンだけという構造もここにありました。
深井さんは、この時点ではまだ輪廻転生の概念がなく、天界に生まれた人はこの世に戻ってこないと考えられていたと付け加えます。後に輪廻の考えが入ると「天界に行っても戻ってくるのは嫌だ」となり、解脱や瞑想、さらには祭祀不要論へつながっていくと二人は見通しを語ります。
祭祀を実践すれば死後に天界へ生まれ、この世には戻らない
輪廻によって天界からも戻ってくるため、輪廻から抜ける解脱が求められる
デーヴァとアスラ、神々はどう分かれていた?
ヴェーダの神々は、大きくデーヴァ(天)とアスラ(非天)の2種類に分かれます。アスラは後の阿修羅にあたり、深井さんはデーヴァを良い神、アスラを悪さをする神と捉えてよいと話します。
ちなみに、イランへ向かったアーリア人のゾロアスター教 ── 古代イランで成立した宗教。善と悪の対立を軸にした世界観を持ち、アフラ・マズダーを最高神としますでは、この関係が逆転し、アスラが善い神、デーヴァが悪魔の側になっています。
主に自然現象を神格化。雷神インドラ(のちの帝釈天)、太陽神スーリヤ、暁の女神ウシャスなど
自然神もいるが文明的要素の神格化が多い。律法神ヴァルナ(水天)、契約の神ミトラ、ダムの神ヴリトラなど
ヴァルナが司る律法は、スポーツのルールのような軽いものではありません。宇宙のあらゆるものが厳守すべき法則で、天則 ── 古代インドで宇宙や自然、祭祀の秩序を貫くと考えられた法則。サンスクリット語でリタと呼ばれますリタと呼ばれ、それを発動させるのが祭祀だと考えられていました。
深井さんは、ガンディーのサティヤーグラハ ── ガンディーが掲げた非暴力抵抗運動の理念。「真理の把握」を意味し、インド独立運動の柱になりましたにも、正しく言い、正しく行えば世界がそうなるという感覚が表れていると指摘します。
樋口さんは、神々が多いのは当時のアーリア人の部族がそれぞれ自分の神を持ち、それが集まっていったからだとする説も紹介します。デーヴァが明るくアスラが暗いという印象は、インドラがアスラを退治する神話から来ているそうです。
神がキャラ付けされ、祭祀の傀儡になるまで
自然現象そのものだった神々は、信仰されるうちに擬人化され、性格やよくやりがちなことが付け加えられていきます。深井さんは、このキャラに人々が自分たちの社会や理想を投影し始めたと説明します。
たとえば雷神インドラは「強い」という感覚から、戦士階級の理想像として大きく勇敢な姿になっていきます。西北インドのサラスヴァティー川も擬人化されて女神となり、弁舌巧みでお金持ちの神という性格を帯び、仏教では七福神の弁財天になりました。
ここで祭祀の意味も変わっていきます。深井さんによれば、もともとは神々に奉仕する敬虔な司祭者だったものが、天則リタに基づいて発した言葉には神々も従わざるをえない、という感覚になっていきました。
自然が運行されているのは、我々が正しく祭祀をやっているからなんだっていう感覚になっていくわけですよ。
畏敬
自然が運行されているから神々を敬う
祭祀の精緻化
言葉を正確に唱える正しい祭祀が重視される
逆転
正しい祭祀のおかげで春や秋が来ると考える
威信の低下
神々は祭祀に強制されて動く傀儡とみなされる
この逆転が、後にインドで哲学が生まれる土台になります。
ブラフマン・マントラ・サティヤ、「言葉が世界を創る」感覚
次に深井さんは、ヴェーダ聖典の文言を表す3つの呼び名を紹介します。どれも「言葉が世界を創る」という古代インド人の感覚から派生した概念だといいます。
1つ目のブラフマンは、「膨張する」という意味の動詞から派生した言葉で、膨張して森羅万象を創る力を持つ言葉を指します。深井さんは、ブラフマンは物質ではなく言葉だと説明する学者の見方を紹介し、発せられればそのとおりに世界が創られる言葉だと整理します。
これが古代のインド人が持ってる感覚です。この感覚を今伝えてるんで、まず感覚をインストールしてください。
2つ目のマントラは「考えるよりどころ」「根拠」という意味で、漢訳では真言宗の「真言」です。世界がヴェーダ聖典から創られているなら、世界を歩き回って五感で調べなくても、聖典を熟知すればすべてを理解できることになります。
3つ目のサティヤ(サッティヤ)は「あること」を特質とする言葉で、決して違うことのない強い実現力を持つ言葉を意味します。深井さんは、自らが立てた約束に違わず生きることで世界がそのようになる、という概念につながると説明します。
| 呼び名 | 原義 | 含まれる感覚 |
|---|---|---|
| ブラフマン | 膨張する | 森羅万象を創る力を持つ言葉 |
| マントラ | 考えるよりどころ | 聖典を熟知すれば世界を理解できる(漢訳は真言) |
| サティヤ | あること | 決して違うことのない実現力を持つ言葉 |
樋口さんは、体を使って世界を知る努力が、肉体の限界があるためにむしろネガティブに扱われている点を、現代人の感覚との大きなずれとして挙げます。深井さんは、だからこそ聖典の熟知や瞑想・苦行が真理への道とされ、ブッダも苦行や瞑想をしたのだと応じます。
文法学者パーニニが整理したサンスクリット語
アーリア人が使っていたヴェーダ語は自然言語なので、意味や語彙が時代とともに揺れ動きます。言葉で世界ができていると考える人々にとって、聖典の言葉の意味が変わることは世界が変わってしまうことを意味しました。
そこで紀元前4世紀ごろ、文法学者パーニニ ── 古代インドの文法学者。サンスクリット語の文法を約4000の規則にまとめた文法書を著したとされますが登場し、文法体系を整理し尽くします。深井さんによれば、このためサンスクリット語はその後2500年間ほとんど変わらなかったといいます。
つまりサンスクリット語とは、徹底的に整理されたヴェーダ語のことです。今でも使う人がいて、インドの公用語にも含まれていると深井さんは話します。
なんかもう改ざんしにくいブロックチェーンみたいなやつです。
幻覚キノコの代わりに苦行?ソーマ仮説
神々の権威の低下、サンスクリット語に続く3つ目の要素が、瞑想と苦行です。瞑想はインダス文明まで遡る古い修行法で、印章に描かれた角のある人物もすでに瞑想しているといいます。
一方の苦行については、深井さんは宮本宮本恵一先生の説として、アーリア人が開発した修行法だという見方を紹介します。他の学者も同じ考えかはわからず、自分の解釈が間違っている可能性もあると断ったうえでの紹介です。
その説によると、アーリア人はもともと霊薬ソーマで酩酊し、幻覚や幻聴の中で神の声を聞き、それを賛歌として書き記していました。ソーマの正体はベニテングダケではないかとされますが、インド亜大陸に移ると原料が手に入らなくなったといいます。
ソーマでトリップ
ベニテングダケとされる霊薬で神の声を聞く
原料の喪失
インドに移って原料が手に入らなくなる
代替方法の模索
長距離走や飢餓など、苦しい状態の先の幸福感に気づく
苦行の開始
ソーマの代わりに苦行をするようになる
これでアーリア人はちょっともうソーマないから苦行しようつって苦行し始めた。
聞き手からは「ラリる方法を探していたら苦行だった」とまとめる声が上がり、樋口さんも、極限の飢餓や睡眠不足で人は幻覚を見ると応じます。
神々を抜いて世界の原理を考え始める
祭祀が優位になると、神々のキャラはあまり重要でなくなっていきます。そこで、いろいろな神がいるように見えて、実は1つの神を別の名前で呼んでいるだけではないか、という考えが生まれます。
この宇宙をこのようにあらしめている神々を超越した、より根源的な、唯一絶対の根本原理って何なんだ?みたいな、ここにその思考の舵が切られていく。
深井さんは、根本原理は人格神ではなく原理なのではないかと突き詰めるうちに、神を抜いて世界を考えるようになったと説明します。祭祀の奥義を知っているかどうかが重要だという知識重視の考え方も、この流れを後押ししました。
やがて、祭祀を間違えても春は来るし、神やバラモンは要らないのではないか、と考える人も現れます。こうして神を抜きに世界原理を説明し始めたのが、ウパニシャッド哲学 ── ヴェーダの最後に位置するウパニシャッド文献で展開された哲学。宇宙の原理ブラフマンと自己アートマンの関係を探究しますです。
樋口さんは背景として都市化を挙げます。都市化によって人は圧倒的な自然の力から解放され、思考の矢印を自分自身に向ける余裕が生まれたといいます。深井さんも、知識重視が進むと物理的な祭りより心の中の祭りが大事になり、最後は考えることだけが大事になっていったと付け加えます。
神様祀ってた。あれ、神様俺らの言うこと聞くじゃん。そもそも神様いなくねとか、この段階みたいなのをすごい早い段階で古代インドはたどってるわけですね。
「俺と宇宙は一緒じゃない?」梵我一如の誕生
宇宙の根本原理への入り方として、深井さんはアーデーシャ(神秘的同置)という概念を紹介します。アーデーシャとは、まったく別のものを同じものとみなす素朴な感覚です。
日本の丑の刻参りで藁人形に釘を打つと本人が死ぬ、という考えがわかりやすい例です。古代インドでも、牛の足跡を傷つけると牛が傷つく、目と太陽は同じ、犠牲獣をつなぐ柱は太陽だ、といった見立てがありました。
瞑想や苦行の中で頭の中のアーデーシャを重ねていくうちに、ある人が突然、自分と宇宙は同じではないかと感じます。自我であるアートマンと宇宙の原理ブラフマンは同一だ、という直観です。
これは瞑想中なんで説明できてないんです。ただ、もうその人の中の核心として同一だってなったんです。
この直観を得たのはシャーンディリヤという人物だとされます。その弟子が理由を論理的に説明し始めたのがウパニシャッド哲学であり、ブラフマン(梵)とアートマン(我)が一つであることを梵我一如と呼びます。
深井さんは、ソーマでのトリップから苦行でのトリップへ移り、その中で感覚だけで気づいたことを後から論理化した、という流れを強調します。
最初の哲学者ウッダーラカ・アールニの「有から有」
シャーンディリヤの弟子ウッダーラカ・アールニ ── 古代インドの思想家で、初期ウパニシャッドの代表的人物。インド最初の哲学者とも呼ばれますは、インド最初の哲学者と呼ばれます。深井さんは、本を読み込んで理解し、学者1人に確認を取ったうえでの紹介だと前置きします。
ウッダーラカ・アールニは、梵我一如を前提に世界の成り立ちを説明しました。出発点は、サティヤと同じ「ある」を意味するサット、つまり「有」は有からしか生じず、無からは生じない、という主張です。
世界の原因を遡ると、ただ「ある」としか言えず、ほかに何の属性も持たない最初の有に行き着きます。その有の中に潜在的にすべての世界があり、有があるとき「増殖しよう」と思ったことで、世界が流出したといいます。
なぜ「思った」なのかについて、深井さんは、有しか存在しないので、対象を必要とせず単独でできる動詞は「思う」しかないからだと説明します。ほかの動詞だと、有以外の2つ目の存在があったことになってしまうためです。
ちなみに俺15冊ぐらい読んだんだけど、全部でこんな感じだった。これ以上の説明別にしてくれてないんで。
ウッダーラカ・アールニはさらに、多様に見えるものは人間が言葉で名前をつけているだけで、実際にはすべて熱・水・食物の3要素の混ざり具合でできていると考えました。
混ざり具合の違いで万物ができ、人間が言葉で名前をつけて多様に見えていると考えました。
最初の有は「思った」以上、思考主体であり、アートマンとも言えます。人間も同じ有から流出してできているので、人間のアートマンと世界の根本存在は同一だ、と梵我一如を証明したことになります。
深井さんは、熱・水・食物の部分は現代の知識で否定できるものの、それ以外を論理的に否定するのは難しいと話します。
真四角の円形ドームも「実在する」?ヴァイシェーシカ学派
ウッダーラカ・アールニの考えと対をなすのが、後に登場するヴァイシェーシカ学派 ── 古代インドの六派哲学の1つ。世界を実体や属性などのカテゴリーで分析し、徹底した実在論を唱えましたです。
多様なものは、人間が言葉で呼び分けているだけ
言語表現されたものは、すべて実在する
ヴァイシェーシカ学派にとっては、真四角の円形ドームもユニコーンもグリフォンも、言語で表現できる以上「絶対にありえないものとして実在する」といいます。
例えば床に水瓶がないが実在するっていう考え方なんですね。
ここでいう「ない」は抽象的な無ではなく、「この床に水瓶の無が存在する」という具体的なものです。深井さんは、これを記号で表そうとするとゼロのようなものが出てくると説明します。
ただし、ヒアリングした学者はここからゼロが生まれたわけではないという見方で、深井さんが読んだ本にはここからゼロや無理数が生じたと書かれていたそうです。学者の間でも見解は分かれますが、インドで早くからゼロやマイナスの概念があったのは、存在についての哲学が発展していたからだろうと深井さんは話します。
王様の問いから広まった輪廻とカルマ
ウッダーラカ・アールニにはもう1つ重要な功績があります。それまでなかった輪廻説を、バラモン階級に広めたことです。なお、閻魔大王の元になったヤマは、アーリアの宗教で最初に死んだ人間だといいます。
きっかけは、ウッダーラカ・アールニの息子がある王様を訪ねたときのことです。父から教わって全部わかったつもりでいた息子は、王様から「死んだ人が神々の国に行くなら、そこがいっぱいになるのでは」と問われ、答えられませんでした。
息子に責められたウッダーラカ・アールニも答えがわからず、王様に教えを請いに行きます。当時クシャトリヤ階級の中にあった輪廻説を聞き、バラモンの彼が採用したことで、輪廻が広まったといいます。
樋口さんは、生前の行いの善悪で生まれ変わる先が変わるカルマの概念もここで生まれたと補足します。天に生まれても地上に戻ってくる不安が残るため、輪廻そのものが苦とされ、そこから抜け出す「上がり」が解脱だといいます。
しかも下手するとバラモンじゃないのに生まれ変わる、みたいになるとリスクしかないじゃん。
輪廻説の採用
クシャトリヤの輪廻説がバラモンに広まる
カルマ
行いの善悪で生まれ変わる先が決まる
解脱
輪廻から抜け出すことが目標になる
出家
弟子のヤージュニャヴァルキヤが解脱のために出家する
一方で、祭式を司る伝統的なバラモンは天界に生まれると信じているため、解脱を望みません。価値観はここで分岐しました。
深井さんは、出家・輪廻・解脱・カルマが、インド哲学の確立と同じ時期に確立されたとまとめます。輪廻する主体は何かという問いも生まれ、後にブッダが無我や非我を説くことになります。
ヤージュニャヴァルキヤの「認識主体は認識できない」
ウッダーラカ・アールニの弟子ヤージュニャヴァルキヤ ── 古代インドの思想家で、初期ウパニシャッドの代表的人物。自己アートマンを「〜ではない」としか言えないものと説いたとされますは、ブッダに近い考えを示します。
ヤージュニャヴァルキヤは、識別する・感じる・思いつく・判断するといった心身の働きの中に自己はあるように感じるけれど、自己はそれらと同一ではないと言いました。深井さんは、どれかの感覚がなくなってもあなたはあなただ、と例を挙げます。
ガンダムの操縦席とかを想像してみてほしいんだけど、ガンダムっていうあなたというものが心身があるとしますね。
このガンダムを操縦している意識としての操縦者としてのあなたがいるとしましょう。
深井さんは続けて、その操縦者を操縦している操縦者は誰か、という問いが無限に後退していくと説明します。意識の主体を捉えるには、それを背後から見る別の主体が必要になるからです。
深井さんは、この考えが仏教の唯識とも似た感覚を持つと話します。心身を自己とみなすことが不幸の出発点だというブッダの考えも、ヤージュニャヴァルキヤと重なるといいます。
樋口さんは、ブッダが車輪などの部品が集まって初めて「車」という呼び名が生まれる、という車の例えを使っていたと紹介します。人も要素が集まって「人」と呼ばれているだけで、人を人たらしめる自己原理はない、という無我の考え方です。
深井さんは、空・非我・無我はそれぞれ少しずつ違い、音声だけで説明しきれないと断ります。そのうえで、ウパニシャッド哲学は「自己と心身は異なる」「認識主体は認識できない」と大まかに捉えられるとまとめます。
バラモンの危機が生んだヒンドゥー教
樋口さんは、カルマの主体が自分なら、神やバラモンに頼らず修行や自己抑制で自分を救える余地が生まれると指摘します。深井さんは、そうした思想家が次々と現れた時代の一人がゴータマ・シッダールタ、つまりブッダだったと続けます。
祭祀を否定する思想は、祭祀の執行を収入源にしていたバラモンにとって商売敵でした。バラモンはブラーフマナとも呼ばれ、ブラフマンを執行する人という意味から来ているといいます。
特に仏教やジャイナ教は、バラモンの一番のスポンサーだったクシャトリヤの間で流行します。困ったバラモンは、それまでヴェーダの宗教の外にいたシュードラの人々へと布教の対象を移し、その過程で民間信仰と混ざり合っていきました。
今までヴェーダの宗教してなかった非征服民とされてた人たちに、バラモンの宗教を広げていく過程で、民間宗教をですよ、彼らが信仰してた民間宗教と混ざっていくんだよね。これがヒンドゥー教。
混ざり方の1つが神々の同一視です。ヒマラヤの女神パールヴァティー、武勇の女神ドゥルガー、殺戮の女神カーリーは、すべてシヴァ神の妻、またはその諸相の現れとされます。深井さんは、各地の神を吸収して1つにまとめていったためだと説明します。
ヒンドゥー教には創始者も組織も教団もなく、少しずつ混ざっていったものです。樋口さんは、辞書でも「信仰形態の総体」と書かれ、1人の教祖が始めたキリスト教や仏教とは形が違うと補足します。
深井さんは、西洋でいう宗教は一神教のことで、その感覚で見るとたいてい間違うと話します。日本人の宗教を「神道」と言われたときの違和感も、同じ構造だといいます。
最後に深井さんは、古代アーリア人の言葉の感覚と仏教などがすべてこの時代をルーツにつながっていると振り返り、次回はカースト制を扱うと予告しました。
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まとめ
今回のエピソードでは、ヴェーダの祭祀と「言葉が世界を創る」という感覚が因果の逆転を生み、神々の権威が下がったことで、神を抜きに世界を考えるウパニシャッド哲学が生まれた流れが語られました。梵我一如や輪廻・解脱の確立、ブッダの登場、バラモンの布教先の変化を経て、ヒンドゥー教が形づくられていきます。
- 正しい祭祀が自然を動かすという逆転の発想が、神々の権威を下げ、哲学の土台になった
- ソーマの代わりに苦行が生まれたという仮説が紹介され、瞑想や苦行の中で梵我一如の直観が得られたとされる
- ウッダーラカ・アールニは「有は有からしか生じない」と論じ、王様の問いをきっかけに輪廻説をバラモンに広めた
- ヤージュニャヴァルキヤの「認識主体は認識できない」という考えは、ブッダの思想とも重なる
- 仏教の流行で支援を失ったバラモンが民間信仰を取り込み、教祖を持たないヒンドゥー教が生まれた






