西郷隆盛、2度目の島流しから軍司令官へ──激動の幕末を薩摩視点で追う
歴史を面白く学ぶコテンラジオ (COTEN RADIO)の西郷隆盛編第5回では、深井龍之介さんと樋口聖典さんが、西郷が沖永良部島に流されている間に起きた生麦事件・薩英戦争から、朝廷と幕府の権力交代劇、そして西郷の劇的な復帰と禁門の変までを薩摩藩の視点で解説しています。その内容をまとめます。
生麦事件から薩英戦争へ──戦って仲良くなる薩摩とイギリス
西郷が沖永良部島鹿児島県に属する奄美群島の島。薩摩藩の流刑地として使われた。西郷は2度目の島流しでここに送られた。で過ごしている間、故郷の薩摩では大事件が立て続けに起こっていました。まず生麦事件1862年、現在の横浜市鶴見区生麦付近で、薩摩藩・島津久光の行列を横切ったイギリス人商人が薩摩藩士に斬りつけられた事件。1名が死亡、2名が負傷した。です。江戸から帰る途中の島津久光薩摩藩の前藩主・島津斉彬の異母弟。藩主ではないが国父として藩の実権を握り、幕末政治に大きな影響を与えた。の大名行列を、イギリス人商人4名が馬で横切りました。これは当時の日本では致命的な無礼にあたり、薩摩藩士がイギリス人を斬りつけて殺害してしまいます。
イギリスは犯人の逮捕・処刑と巨額の賠償金を要求しますが、薩摩藩はこれを拒否。結果、薩英戦争1863年、生麦事件の報復としてイギリス艦隊が鹿児島湾に来襲し、薩摩藩と交戦した戦争。鹿児島市街は大きな被害を受けたが、イギリス艦隊も相当の損害を受けた。へと発展します。イギリス艦隊の砲撃で鹿児島市街は焼け野原になり、民家約350軒、藩士屋敷約160軒が失われました。しかし薩摩藩も砲台から反撃し、イギリス艦隊は大破1隻・中破2隻、死傷者63名という大きな損害を受けています。
市街が焼け野原に(約500軒焼失)
負傷6名・死亡4名
大破1隻・中破2隻
死傷者63名
驚くべきことに、この戦争の後、薩摩藩とイギリスは仲良くなります。イギリスは薩摩藩の急速な近代化と戦う覚悟を評価し、薩摩藩はイギリスの圧倒的な軍事力を目の当たりにして「この人たちから学ばないと死ぬ」と痛感しました。薩摩藩は幕府の鎖国政策に反して独自にイギリスへ留学生を派遣するようになり、両者の関係は急速に深まっていきます。
戦争になるんですよね、薩摩藩とイギリスが。今考えたらすごいですよね。日英戦争じゃなくて薩英戦争ですからね
一方、島にいた西郷は故郷が戦場になったことを知り、そこに参加できなかった悔しさを強く感じていたといいます。
将軍の席次が物語る幕府の凋落
話は幕府側に移ります。14代将軍・徳川家茂江戸幕府第14代将軍。紀州藩出身で、将軍継嗣問題を経て13歳で将軍に就任。孝明天皇の妹・和宮と婚姻し公武合体の象徴となった。が上洛しました。背景には、和宮孝明天皇の異母妹。公武合体策の一環として将軍家茂に降嫁した。その条件として幕府は攘夷の実行を約束させられていた。降嫁の際に約束した攘夷を、朝廷から「いつやるんだ」と迫られたためです。
この上洛時のエピソードが、幕府の権威低下を象徴的に示しています。二条城での席次で、将軍家茂は関白天皇を補佐する朝廷の最高官職。摂政とともに摂関と総称される。藤原氏(五摂家)が独占的に就任した。・左大臣・右大臣に次ぐ4番目に座らされました。3代将軍・徳川家光江戸幕府第3代将軍。幕府の権威が最も強かった時代の将軍で、参勤交代の制度化など幕藩体制を確立した。の時代には関白より上の席次だったことを考えると、4ランクも下がったことになります。
3代将軍・家光の時代:関白より上(天皇に次ぐ実質トップ)
14代将軍・家茂の上洛時:関白・左大臣・右大臣の下の4番目
朝廷の圧力に屈した幕府は、ついに攘夷決行の期日を約束してしまいます。上洛が3月、約束したのが4月20日で、期限は5月10日。わずか20日で攘夷を実行せよという、ほぼ不可能な約束でした。
長州だけが攘夷を決行した日
5月10日を迎えたとき、実際に攘夷を決行したのは長州藩現在の山口県にあたる外様大名・毛利氏の藩。尊王攘夷の急先鋒として幕末政治を大きく動かした。だけでした。久坂玄瑞長州藩士。吉田松陰の門下生で、高杉晋作と並ぶ松下村塾の双璧と称された。禁門の変で自害。らが下関でアメリカ商船を通告なしで砲撃したのです。幕府はやる気がなく、薩摩をはじめ他の藩も「今じゃない」と判断していました。
長州ってさ、絶対に攘夷をしそうな信頼感があるよね。ブレなさすぎてダメなんだけど
その後の講和交渉では、高杉晋作長州藩士。奇兵隊を創設し、幕末の長州藩を軍事的に変革した。当時は脱藩の罪で投獄されていたが、講和使節として抜擢された。が牢から引っ張り出されて使節に抜擢されます。晋作は列強に対して「攘夷をやれと言ったのは幕府だから、向こうに文句を言え」と主張しました。筋は通っているものの、あまりに直球すぎる対応です。
天皇に嫌われた長州──八月十八日の政変
攘夷を実行し、自ら戦争もしている長州藩と攘夷急進派の公家たちは、「なぜみんなやらないのか」と憤ります。そこで彼らが提案したのが、孝明天皇幕末の天皇。強い攘夷思想を持つ一方、あくまで幕府を通じた攘夷を望み、過激な行動には反対した。自ら神武天皇陵初代天皇とされる神武天皇の陵墓。奈良県橿原市にある。天皇の親征の象徴として参拝が計画された。を参拝し、軍隊とともに攘夷の気運を盛り上げるという計画でした。
ところが、孝明天皇はこれを猛烈に嫌がりました。天皇の立場は「攘夷は将軍に命じている」というもので、自分が出陣するのは筋が違うと考えていたのです。三条実美幕末の公家。攘夷急進派の中心人物として朝廷の会議を牛耳り、天皇の親征を提案したが、八月十八日の政変で京都から追放された。ら急進派の公家がこの計画を推し進めたことで、孝明天皇は彼らと長州藩を京都から追放することを決断します。
長州は天皇のこと大好きなのに、天皇のためにいい提案だと思ってやったら、すごいハブられるっていう
番組では、この追放された三条実美らが流れ着いた先が、番外編に出演した西田勝治さんの家(太宰府天満宮福岡県太宰府市にある神社。菅原道真を祀る。幕末には七卿落ちの公家たちの滞在地となった。内)だったという縁も紹介されています。
この政変によって、京都では薩摩藩と会津藩現在の福島県西部にあった親藩大名・松平氏の藩。藩主・松平容保が京都守護職を務め、新選組を傘下に置いて治安維持にあたった。の支配力が一気に高まりました。一方で、孝明天皇の判断がころころ変わるように見えたことで、諸藩には「どこまでこの人の言うことを聞いていいのか」という不信感も広がっていきます。
久光の構想「参預会議」と慶喜の反撃
長州の追放後、久光は以前から構想していた公武合体朝廷(公)と幕府(武)が協力して政治を行う体制。幕府のイニシアチブを維持しつつ朝廷と連携するのが本来の意味。体制をさらに進めた会議体を提案します。メンバーは一橋慶喜のちの15代将軍・徳川慶喜。この時点では将軍後見職として実質的な意思決定者。水戸藩出身で一橋家を継いだ。、松平春嶽越前藩(福井藩)藩主。幕末の四賢侯の一人。政事総裁職を務め、公武合体を推進した。、松平容保会津藩藩主。京都守護職を務め、新選組を傘下に置いて京都の治安維持にあたった。、山内容堂土佐藩藩主。四賢侯の一人。酔って政論を語ることが多く「鯨海酔侯」の異名を持つ。、伊達宗城宇和島藩(愛媛県)藩主。四賢侯の一人。開明的な藩政改革で知られた。、そして久光自身の6名です。
これは本来の公武合体論を超えた公議政体論有力諸藩の代表者が合議で国政を決める政治体制の構想。幕府の独裁を否定し、各藩の発言力を高める方向性を持つ。に近い構想でした。外様大名である久光や山内容堂が将軍と同格で会議に参加するという、幕府の権威がさらに低下した状態を意味しています。久光にとっては、斉彬の時代から目指してきた構想がついに実現しかけた瞬間でした。
しかし、ここで誤算が生じます。一橋慶喜が非常に政治巧者だったのです。慶喜から見れば、諸藩が調子に乗りすぎて幕府の権威が落ちすぎている状態。朝廷と久光の接近を引き剥がそうと動きます。
結果、たった数ヶ月でこの会議体は空中分解しました。意見がまったく合わなかったうえ、酔って議場に現れた慶喜が久光らを「奸物」と罵ったとも伝えられています。慶喜・春嶽・容保らが揃って辞表を提出し、せっかくの合議体制は崩壊してしまいます。
その後、朝廷との関係をグリップしたのは慶喜でした。慶喜、会津藩主・松平容保、桑名藩現在の三重県桑名市にあった藩。藩主の松平定敬は松平容保の弟で、京都所司代を務めた。主・松平定敬桑名藩藩主。松平容保の弟。京都所司代として兄とともに京都の治安を担った。の3者が「一会桑一橋慶喜の「一」、会津藩の「会」、桑名藩の「桑」の頭文字を取った政治勢力の呼称。京都で朝廷に取り入り、政治の主導権を握った。」という政治勢力を結成し、京都の主導権を握っていきます。
「おめえの出番だぞ西郷」──復帰と軍司令官就任
一会桑の台頭で久光の京都での地位が危うくなり、追放されたはずの長州も京都で暴れ始めている。この状況をひっくり返せる人材が薩摩藩にいない──そこで白羽の矢が立ったのが、島流し中の西郷隆盛でした。
しかし久光は西郷のことが大嫌いです。大久保利通薩摩藩士。西郷の幼馴染で、のちに明治政府の中心人物となる。この時期は久光の側近として活動していた。も説得を試みましたが、久光が怖くてできませんでした。最終的に側近の高崎正風薩摩藩士。久光の側近として仕え、西郷の呼び戻しを久光に進言した人物。が巧みな論法で久光を説得します。
斉彬が選んだ人物を嫌うということは、尊敬する兄・斉彬の目が間違っていたと言うのと同じ──この論法に久光は折れます。ただし納得はしておらず、孟子中国戦国時代の儒学者。孔子の思想を発展させ、性善説を唱えた。その言行録『孟子』は四書の一つとして広く読まれた。の「左右皆賢なりと曰う」を引いて「みんなが賢いと言うのに私一人が反対するわけにはいかない」と述べ、最後には「あいつには忠義心なんかない、いつか必ず裏切るだろう」とも言い放ったそうです。
強い感情があるものの、その感情に流されきらない久光像がここから見えてくる。リアリストですよ
こうして西郷は約2年ぶりに島から戻ります。長く閉じ込められていたため足腰が立たず、肩を借りてようやく船に乗れるほどでした。島の家族──妻のアイカナ西郷が奄美大島で暮らしていた際の現地妻。息子・菊次郎と娘をもうけた。子供たちは鹿児島に引き取られ、アイカナは島に残った。と息子の菊次郎、生まれたばかりの長女──と過ごせたのはたった4日間。子供たちだけが鹿児島に引き取られ、アイカナは島に残されました。
帰国した西郷が最初にしたことは、這いつくばってでも島津斉彬薩摩藩第11代藩主。開明的な思想で藩政改革を推進し、西郷を見出して重用した。安政5年(1858年)に急死。の墓を参拝することでした。そしてすぐに京都へ向かい、「軍賦役兼諸藩応接役」──つまり薩摩藩の軍司令官に任命されます。罪人として足腰が立たないほど弱っていた人間が、復帰していきなりトップの権限を与えられたのです。
番組では、長州藩も同様に牢に繋がれていた高杉晋作を引っ張り出して成功している点に触れ、「平和な時代なら悪い特徴とされるものが、激動の時代では最大の強みになる」という適材適所の面白さが語られています。薩摩も長州も、はみ出し者を起用して明治維新の勝者になったわけです。
2度の島流しで人格が変わった西郷は、久光との再会でも低姿勢に徹しました。大久保利通が「議論もおとなしく、少しも懸念なく」と安堵の手紙を残しているほどです。意思の強さはそのままに、見せ方を変えられるようになった──大人になったとも言えるでしょう。
禁門の変──薩摩と長州の決定的な亀裂
京都に戻った西郷は、長州藩が出兵してくるとの噂を受けて密偵を放ちます。残された21か条の指示書は非常に細かく、長州の密偵がいる宿屋の場所、兵糧の保管場所、藩内の意見対立の構図まで探索するよう命じていました。「まっすぐぶつかる」イメージとは異なる、狡猾な諜報能力の持ち主だったのです。
池田屋事件の後、激怒した長州藩は三家老が千人の兵を率いて上京してきます。名目は攘夷の確立を嘆願すること、追放された三条実美らの冤罪を訴えること、そして池田屋の狼藉者を探し出して討つことでした。さらに会津藩主・松平容保の追放を求めます。
しかし、天皇の御所の門である蛤御門京都御所の門の一つ。正式名称は新在家御門。禁門の変の主戦場となったことから「蛤御門の変」とも呼ばれる。を会津藩兵が守っているところへ攻撃を仕掛けたことで、事態は取り返しがつかなくなります。薩摩藩は乾門を警備しており、会津の応援に駆けつけました。このとき薩摩の軍司令官として戦闘に参加したのが西郷隆盛です。流れ弾が足に当たって落馬しましたが、命に別状はありませんでした。
戦闘はわずか1日で終結。長州側は久坂玄瑞らが戦死し、御所に発砲した証拠も見つかったことで、孝明天皇から「朝敵天皇・朝廷に敵対する者。朝敵と認定されると、諸藩から討伐の対象となり、政治的・軍事的に致命的な立場に追い込まれる。」の烙印を押されます。
薩摩も攘夷をやるはずだったのに裏切った
池田屋で仲間を殺された報復は当然
天皇に盾ついたのではなく会津との私闘
下準備もなく御所の門を攻めてくるのが悪い
京都守護を命じられている以上、防衛は当然
会津と共に天皇を守っただけ
この戦いで長州の仲間を殺した薩摩の軍司令官が西郷隆盛であるという事実は、後の薩長同盟1866年、坂本龍馬の仲介で薩摩藩と長州藩が結んだ軍事同盟。禁門の変で犬猿の仲となった両藩が手を結んだことで、倒幕への流れが決定的となった。を考えると、いかに大きな禍根であったかがわかります。生き残った桂小五郎長州藩士。のちの木戸孝允。禁門の変では池田屋近くにいたが逃れ、その後は長州藩の政治指導者として薩長同盟の締結に尽力した。が西郷を許せないと感じていたのも無理はありません。
まとめ
今回のエピソードでは、西郷が沖永良部島にいた約2年間に幕末の情勢がいかに激変したかが、薩摩藩の視点から語られました。生麦事件と薩英戦争でイギリスと戦い、むしろ仲良くなるという離れ業。朝廷の攘夷要求に翻弄される幕府と、愚直に攘夷を決行する長州。天皇の感情に振り回される政局。久光が構想した合議体制の実現と、慶喜によるあっけない崩壊。
そして、すべてが行き詰まったところで呼び戻される西郷隆盛。「超嫌いだけど権限を全部渡す」久光の判断は、感情に流されないリアリストとしての資質を示しています。長州もまた、牢に繋がれていた高杉晋作を起用して危機を乗り越えた。普通の時代なら問題児とされるような人材が、激動の時代にこそ力を発揮する──そんな「適材適所」の妙が、幕末という時代の面白さなのかもしれません。
次回はいよいよ長州征伐が薩摩目線で語られます。禁門の変で決定的に対立した薩摩と長州が、どのようにして手を結んでいくのか。その展開が楽しみです。
- 生麦事件をきっかけに薩英戦争が勃発。互いに大きな損害を出した後、薩摩とイギリスはむしろ接近し、留学生派遣につながった
- 将軍家茂の上洛時の席次低下や攘夷期日の約束など、幕府の権威は目に見えて衰退していった
- 5月10日に攘夷を決行したのは長州だけ。天皇の親征を提案して逆に嫌われ、京都から追放される
- 久光は公議政体論に近い会議体を実現させたが、慶喜の反撃でわずか数ヶ月で崩壊した
- 久光は西郷を「死ぬほど嫌い」ながらも、情勢打開のために呼び戻し、いきなり軍司令官の全権を委譲した
- 禁門の変で薩摩と長州は武力衝突。西郷が軍司令官として戦い、後の薩長同盟への大きな禍根を残した
- 薩摩も長州も「はみ出し者」を起用して危機を乗り越えた。激動期には既存の枠に収まらない人材こそ力を発揮する

