生麦事件から薩英戦争へ、なぜ薩摩とイギリスは仲良くなったのか
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前回、西郷隆盛は良かれと思ってした行動で島津久光の怒りを買い、沖永良部島 ── 奄美群島に属する島。西郷は2度目の島流しでこの島に送られ、厳しい環境の中で過ごしましたに流されました。西郷が島にいる間にも、時代は大きく動いていきます。
最初の大事件が生麦事件です。江戸から戻る久光の行列を、イギリス人商人3人が馬で横切りました。当時の日本では殺されてもおかしくない非礼で、薩摩藩士が斬りかかり、死者が出ます。
イギリスは犯人の逮捕と処刑、巨額の賠償金を求めましたが、薩摩は拒否します。深井さんは、薩摩はイギリスの強さを他藩より知っていたはずなのに、それでも引かなかったと驚きを語っています。
すごいっすよね。なんか今考えたら。日英戦争じゃなくてね、薩英戦争ですからね。
樋口さんは、藩士の側にも引けない事情があったと指摘します。主君の行列を守れなければ、藩士自身が責任を取って切腹しなければならない立場だったからです。
こうして起きた薩英戦争で、イギリス艦隊は鹿児島の市街を焼け野原にしました。一方で薩摩が築いていた砲台も反撃し、イギリス側にも大きな損害が出ます。
薩摩側の死傷者は、守備兵の負傷6人、死亡4人ほどでした。死者の数はイギリス側のほうが多く、樋口さんは陸と海の戦いの違いもあるかもしれないと話しています。
深井さんが「意味不明」と言うのはこの後です。戦争のあと、薩摩とイギリスはむしろ仲良くなります。イギリスは覚悟と意思のある薩摩を信頼できる相手と見て、薩摩はイギリスから学ばなければ生き残れないと考えました。
薩摩は幕府が海外渡航を禁じる中で留学生をロンドンなどに送ります。イギリスにとっても、頼りない幕府より薩摩とのつながりを持つほうが市場開拓に役立つと考えたのかもしれない、と深井さんは読んでいます。故郷の戦争に参加できなかった西郷は、島で強く悔しがったといいます。
朝廷の「約束したろ」、将軍家茂が上洛させられた理由とは
話は幕府側に移ります。14代将軍・徳川家茂が京都へ上洛しました。きっかけは、孝明天皇の妹・和宮が家茂に嫁ぐ代わりに、幕府が攘夷を約束していたことです。
幕府はとりあえず「はい」と言い、うやむやにするつもりでした。しかし朝廷から「約束したろ」と呼び出されます。家茂は3000人の兵を率いて二条城に入りました。
このときの席次で、将軍は関白、左大臣、右大臣に次ぐ4番目でした。3代将軍・家光の時代には関白より上だったため、深井さんは「4つ下がっている」と説明しています。幕府の権威の低下を、形で見せつける扱いでした。
幕府が呼び出しを断れなかったのは、尊王攘夷運動が高まり、治安も悪化していたからです。幕府はガス抜きをしたく、朝廷は攘夷の期日を決めさせたいという狙いがありました。
約束した時点で、期日まで残りは20日ほどしかありませんでした。幕臣の中には列強との条約を優先したい人もいましたが、主流は朝廷と妥協する方向に流れたといいます。
5月10日、なぜ長州だけが攘夷を決行したのか
期日の5月10日、攘夷を実行したのは長州藩だけでした。長州は下関でアメリカ商船を砲撃し、フランスやオランダの船にも通告なしで砲撃を加えます。
幕府はやる気がなく、薩摩を含む他の藩も、今やれば大ごとになると現実的に判断していました。長州だけが「約束したんだから、やるんでしょ」と動いたわけです。
めっちゃローコンテクストやん。
その後、講和の使節に抜擢されたのが、脱藩の罪で牢にいた高杉晋作です。高杉は列強に対し、幕府が5月10日に攘夷すると言ったからやっただけだと主張した、と以前の高杉晋作編でも語られていました。
深井さんは長州を、ぶれなさという意味で圧倒的に信頼できる藩だと表現し、楊さんも「嫌いになれん」と笑っています。
孝明天皇の「朕やだ」、長州はなぜ京都を追われたのか
攘夷を実行した長州と急進派の公家は、なぜ他の藩は動かないのかと不満を募らせます。そこで三条実美 ── 幕末の公家で、尊王攘夷派の中心人物。朝廷の会議を主導していましたが、後に京都を追われますらは、孝明天皇に神武天皇陵を参拝し攘夷を祈願してもらう計画を提案しました。
孝明天皇の反応は、心底嫌がるものでした。攘夷はしたいが、それは将軍に命じていることで、自分が軍と一緒に出るのは違う、という立場だったといいます。
孝明天皇は、急進派の公家と長州藩士を京都から追放します。天皇のためにと思って動いた長州が、その天皇に切り捨てられる形になりました。番組では、長州は天皇との距離の詰め方を誤った、と語られています。
追放された三条たちは、太宰府に身を寄せます。深井さんは、番外編に出演した西田勝治さんの太宰府天満宮内の家を訪ね、「この部屋にいらっしゃいました」と案内されて言葉を失ったそうです。
長州の追放で、京都では薩摩と会津の力が強まりました。ただ孝明天皇はその後、以前の命令は本意ではなく、追放以降の命令が自分の意思だという趣旨の命令を出し直します。
深井さんは、天皇が感情で動いているように見え、諸藩がどこまで従えばよいか迷うようになったと話します。天皇が政治のプレイヤーになった分、天皇自身も諸藩から評価される側に回った、という構図です。
尽くしても無駄になると思ったら尽くしたくないわってなるもんな。
参預会議は公武合体の完成だったのか、それともその先か
1863年10月上旬ごろ、将軍後見職として実質的な決定を担っていた一橋慶喜と家茂、そして久光や山内容堂、伊達宗城、松平春嶽ら有力者に上京が命じられます。攘夷問題と長州処分の方針を決めるためでした。
朝廷が旗振り役になっており、深井さんは、日本の権力移行は戦争で一気に変わるのではなく、グラデーションで少しずつ進んだと指摘します。
ここで久光が提案したのが参預会議 ── 一橋慶喜や有力大名らで構成された合議体。重要問題を話し合い、朝廷の承認を得る仕組みでしたです。慶喜、松平春嶽、会津藩主の松平容保、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城、そして久光の6人で重要問題を決め、天皇の承認を得る体制でした。
深井さんによれば、この座組は本来の公武合体論より一歩進んだものです。外様の大名まで加わって政治を決める形は、公議政体論に近いといいます。
将軍・幕府が主導権を持ち、朝廷と連携して政治を進める
諸藩の有力者も加わり、皆で話し合って決める
樋口さんは、久光にとって自分の藩の発言力が上がるこの形は思惑どおりだったと見ます。深井さんは、藩の実権を握ってからの久光は斉彬以上かもしれない活躍をしていると評価しています。その間も、西郷は島にいました。
慶喜の反撃、数ヶ月で崩れた会議と一会桑の台頭
久光の誤算は、一橋慶喜が政治に長けていたことでした。慶喜から見れば、諸藩が調子に乗り、幕府の権威が落ちすぎていました。そこで久光と朝廷を引き剥がそうとします。
深井さんは、全員が公武合体という総論では一致しながら、内部で主導権を争っていたと説明します。同じ会社の中の派閥争いのような状態です。
参預会議は数ヶ月で解散します。学者の本ではない資料によると、と前置きしたうえで、酒に酔った慶喜が議場で久光らを「奸物」と罵り、会議が空中分解したと紹介されています。
その後、朝廷と結びついたのが慶喜、会津藩主・松平容保、京都所司代で容保の弟の桑名藩主・松平定敬の3人でした。頭文字を取って一会桑 ── 一橋・会津・桑名の頭文字を取った政治勢力の呼び名。幕末の京都政治で大きな影響力を持ちましたと呼ばれます。
深井さんは、ペリー来航以降、幕府の権威は基本的に下がり続けており、一会桑の台頭は一時的な盛り返しだとまとめています。
嫌いな西郷をなぜ呼び戻したのか、久光を動かした一言
一会桑の盛り返しは、西郷の運命を変えました。久光は京都での地位が危うくなり、追放された長州も京都で動き始めていました。この状況を覆せる人材が、薩摩藩内に見当たらなかったのです。
白羽の矢が立ったのが西郷でした。西郷は斉彬の時代から京都で人脈を築き、信頼されていました。さらに会津藩には、朝廷や老中との交渉、浪士の動向調査を担う公用方 ── 会津藩が京都に置いた参謀・実務チーム。情報収集や交渉を行い、藩主の松平容保に戦略を進言しましたという優秀なチームがあり、薩摩は強い危機感を抱いていました。
しかし久光は西郷を心底嫌っていました。大久保利通も説得を試みたものの、久光が怖くてできなかったといいます。説得したのは側近の高崎正風でした。
高崎は、西郷が賢いかどうか自分たちにはわからないが、先代の斉彬公が選んで使った人物が不忠不義の者とは思えない、それとも先代の目が曇っていたのでしょうか、と迫ったと伝わります。尊敬する兄・斉彬を持ち出され、久光は承知します。
久光は、周りが皆賢いと言うのに自分1人が遮る理屈はない、と孟子 ── 古代中国の儒学者、またその言行をまとめた書物。江戸時代の武士の基本的な教養でしたを引いて受け入れました。ただし内心では、西郷には忠義心がなく、いつか必ず裏切ると言っていたそうです。
深井さんは、納得していなくても、藩の分裂を避けるために感情に流されきらない判断をした点に、久光のリアリストぶりを見ています。
久光さんってあんまり評価されてなくて、斉彬ばっかり評価されてんですけど、多分同じぐらいすごい人なんじゃないかなっていう気がしますね。
歩けないほど弱った罪人が、いきなり軍司令官に
約2年ぶりに戻ることになった西郷は、部屋に閉じ込められていたためほとんど歩けず、肩を借りてようやく船に乗りました。島で家族となった愛加那と子どもたちと、4日間だけ過ごしてから島を離れます。
子どもたちは後に鹿児島に引き取られ、愛加那は島に残りました。当時、奄美や琉球に赴いた侍の間ではよくある形だったといいます。帰国した西郷が最初にしたのは、這ってでも斉彬の墓に参ることでした。
そして西郷は、京都で軍賦役兼諸藩応接係に任じられます。軍賦役は薩摩の軍司令官です。深井さんは、中途半端な役職では効果が出ないから、嫌いな相手にもしっかり権限を渡した点に、久光のすごさを見ています。
全然任せないからね、今の日本は若者に。
長州も長州で、跳ね返りの高杉晋作を牢の中から引っ張り出して表舞台に立たせたっていう。
深井さんは、この時代は牢屋に入るほどの跳ね返りでなければどうにもならないほど難しかったと語ります。平時なら欠点とされる性質が、激動期には武器になるという話です。
2度の島流しで死にかけた西郷は、人格が変わっていました。久光との再会では絶対的な忠誠を示し、議論もおとなしく、大久保が安心したと書き残しています。深井さんは、本質は変わらずとも見せ方を変えられるようになったと見ています。
京都に着いた西郷は、長州が攻めてくるという噂を受けて密偵を放ちます。その密偵に与えた21か条の指示書は非常に細かいものでした。
- 長州の密偵がいる宿屋を探す
- 長州が上京した際の兵糧の置き場所を探る
- 長州藩内の対立や結託の構図を把握する
深井さんは、これはチンギス・カンのモンゴル軍にも通じる諜報力で、一般的な「ドンと構える西郷」のイメージとは違い、むしろ狡猾だと語ります。斉彬の側近として庭方役を務めた経験で養われた能力だと考えられます。
池田屋事件から蛤御門へ、西郷が長州と戦った日
長州は近隣の藩に使者を送り、すぐにでも攘夷をと訴え続けていました。そんな中、会津配下の新選組が、京都の池田屋に集まっていた長州などの藩士や浪士を襲撃します。池田屋事件です。
桂小五郎は近くにいて逃げ延びましたが、多くの者が殺されました。深井さんは、長州から見れば許せない事件でも、新選組から見れば治安を乱しているのは長州であり、双方に正義があると話しています。
西郷は大久保宛ての手紙で、長州はこのまま大破するか、兵を率いて決起するかのどちらかだと予測していました。実際に長州は、家老3人が1000人の兵を率いて上京してきます。
長州の名目は、攘夷の国是化の嘆願、三条実美らの冤罪の訴え、池田屋事件の下手人の処罰、そして会津の松平容保の追放でした。天皇に背くのではなく、長州と会津の喧嘩だという言い分です。
池田屋事件
新選組が長州の藩士らを襲撃する
長州の上京
家老3人が1000人の兵を率いて京都へ
蛤御門の戦い
会津が守る門を攻撃し、薩摩が応援に入る
朝敵
御所への発砲で、長州は孝明天皇から朝敵とされる
会津藩兵が守る蛤御門は、天皇のいる御所の門でした。長州がここを攻撃したため、近くの乾門を守っていた薩摩が応援に駆けつけます。その軍の司令官が西郷でした。西郷は足に流れ弾を受けて落馬しながらも生き延びます。
長州側では久坂玄瑞や来島又兵衛らが戦死しました。深井さんは、薩英戦争に加われず悔しがった西郷と、牢にいて仲間の死に立ち会えなかった高杉晋作が、似た経験をしていると指摘します。
戦闘は1日で終わり、長州は朝敵とされました。長州は薩摩と会津に激怒し、生き残った桂小五郎も西郷を許せない相手と見るようになります。次回は、薩摩の視点から長州征伐が語られます。
全然違うな、どっちから見るかによって印象が。
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まとめ
西郷が島にいる間に、生麦事件、薩英戦争、長州の追放、参預会議の崩壊と、情勢はわずか数ヶ月単位で動きました。行き詰まった久光は嫌いな西郷を呼び戻し、いきなり軍司令官に据えます。その西郷が諜報を駆使し、禁門の変で長州と戦うまでが今回の流れです。
- 薩英戦争は双方に損害を出し、その後に薩摩とイギリスが接近するきっかけになった
- 攘夷を約束どおり実行した長州は、孝明天皇の意に反して京都を追放された
- 久光が構想した参預会議は、慶喜との主導権争いで数ヶ月で崩れた
- 久光は感情を抑えて西郷を呼び戻し、大きな権限を任せた
- 丸くなった西郷は諜報力を発揮し、蛤御門の戦いで長州と対峙した




